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眠れる塔の魔法使い  作者: いろは
第六章
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第53話 主役は遅れてやってくる

 手をあげたのは同時だったが、術の速さは老人がまさっていた。


 大地がたわんだ。次の瞬間、見えない手が地を割って飛びだし、シグルトの両足をつかんで引き倒した。


「──!」


 したたかに地に打ちつけた鼻の奥から、どろりとしたものが溢れてくる。それをぬぐおうにも、手足は固く縛められ、指一本動かすことができなかった。


「なつかしいお姿ですなあ」


 頭の上から、ゆったりした声がふってくる。


「あの日も、あなた方はそうやって戸口で倒れていらっしゃった。おふたりともひどく酔いつぶれて」

「……誰が」


 シグルトはかろうじて頭を起こし、土と血の混じった唾を吐いた。


「つぶれるかよ。あれは酔いを醒ましてたんだ」

「さようで」


 老人がうなずくと同時に、背中に重い衝撃が落ちてきた。背骨を砕かんばかりの圧に息が止まり、次いで激しく咳きこむ。


「……解け、いますぐ。したら、楽に死なせてやる」

「できもしないことを。その身、もうからにございましょう? あなたがお悪いのですよ。()()もせずに、むやみに炎をお使いになって」


 ひときわ強く四肢を締めあげられ、シグルトは奥歯を噛みしめた。体中の骨がきしむ音が聴こえるようだ。額から流れた脂汗が、地面に黒い染みをつくる。


「なぜ、とお聞きになりましたな」


 淡々と、老人は語る。


「なぜ、あなたに打ち明けなかったか。なぜ、あなたがひとたびふさいだ口を開いたのか。なぜ、この身を黒に染めるに至ったか。簡単です。すべてはあなたのため……あなたのせいにございますよ」


 ひび割れた声に、どす黒いものがにじむ。


「あなたのせいだ」


 この響きには覚えがある。凍りついた絶望と、その奥で沸騰する憎悪。


「わたしの……われらの力、知識、歳月……生涯すべてをあなたに捧げました。あなたの呪いを解くために。あの方との約束を果たすために……」


 恩着せがましい、と言ってやりたかったが、できなかった。いま口を開けば、きっと声を発する前に悲鳴があふれる。それだけはごめんだった。


「ですが、われらの前にそびえる壁はあまりに高うございました。あらゆる手段を試み、そのことごとくが失敗に終わったとき、わたしに残された道はただここだけ……」


 老人は口を閉ざし、暗い眼でじっとシグルトを見つめた。


「──あなたのせいだ」


 三たび、老人は口にした。


「あなたがいなければ、わたしが道を誤ることもなかった。この黒に身を堕とすこともなく、かくも苦しむこともなく、平穏に暮らしていくことができたでしょうに……」


 ああまたこれか、とシグルトの胸を冷えた思いが浸していく。

 おまえのせいで、おまえさえいなければと黒い指を突きつけられるのは初めてではなかった。


 百年前、あの男も似たような呪詛の言葉を吐いていた。かつて短くない時をともに過ごした兄弟子の身を焼いたのは、己が放った炎だったが、その心はおとうと弟子への嫉妬と憎悪でとうに焼き尽くされていた。


 自分がいなければ、世界のありようは違っていた。

 ねじれた使命感にかられたこの老人が百年前の愚行をなぞることもなく、少なくない人間が命を落とすこともなかった。

 百年前、自分が判断を誤らなければ。かつてのこの弟子を、この地へ送り出しなどしなければ。


 深淵に手を浸したのはこの老人だが、その淵まで導いたのは他でもない、自分自身だ。

 否定する気はない。それは正しく事実であるから。だからといって、詫びる気もなかったが。


「それで?」


 かわりにシグルトは笑った。血と泥に汚れた顔をゆがませて。


「どうする。おれを殺すか」


 老人は黙ってシグルトの顔を見下ろしていたが、ややあって小さく息を吐き、杖をふるった。


 とたんに、シグルトの身体が宙に浮く。見えない手で身をわしづかみにされ、巨木のほうへと引きずられていく。ねじれた幹に穿うがたれた、暗いうろへ向かって。


「──っの!」


 シグルトの全身が総毛立った。それは生まれて初めて感じる、底なしの恐怖だった。


「けっこう」


 老人の顔に暗い笑みがひろがった。


「あなたのその顔が見たかったのですよ。ようやく、わたしの復讐も果たせるというものです」


 暗い穴から風が吹く。嫌な風だ。この匂いは、身のうちを奇妙に騒がせる。湿った風に、胸のうちの《《それ》》がうごめいた。

 呼んでいる。応えている。根を同じくするもの同士が、声なき声で。


「では」


 別れを告げるように、老人が片手をあげる。どす黒いあざの浮いた、まだらの腕を。


「──サリム」


 ため息まじりの呼びかけに、老人はつと目を見開いた。


「手、汚れてんぞ」


 唐突に、シグルトの身の縛めが解けた。

 狼狽もあらわに老人はふたたび杖をふりあげ、そこでぎくりと動きを止めた。


 高くかかげられた腕の、黒いまだら模様のただなかに、ぽつりと小さな白点が生じていた。小指の爪ほどの大きさの白は、またたく間に広がり、周囲の黒を食い尽くしていく。


「……ひ」


 老人は震える腕を顔の前にかざす。その白く染まった指先が、ぼろりと崩れた。


「……いつから」

「気づかなかったとは、おまえもまだまだ修行が足りねえな」


 よろめきながら立ち上がったシグルトは、乱暴に顔をぬぐった。

 最後の火種は、地面を蹴りつけたときに地中に忍ばせていた。相手が放つであろう地の術を逆にたどり、襲いかかるように。


「……はは」


 術が足にまでまわったのだろう。老人が地面に両ひざをつく。襟元からじわりと白がいのぼり、しわだらけの顔をおかしていく。

 身の内側から焼かれながら、その表情は奇妙なほど平板だった。苦痛を感じる器官が最初に焼き切られたかのように。


「……師匠」


 生ける石膏像と化した頬に、一筋の涙が伝う。


「……信じて、おりましたよ……あなたならきっと、救ってくださると……」


 百年、と老人はつぶやいた。


「楽しゅうございましたなあ……どうやって、あなたに……仕返しを……みなで、そればかり……」


 かわいた落ち葉がこすれるような声が、老人の口からもれる。


「……あの王子……傑作にございましたなあ……楽しゅうて……なつかしゅうて……少し……あと少し……見ていたいと……」

「おまえ」


 シグルトの眉が急角度に跳ね上がる。


「吐きやがれ。あのガキ、おれに何しやがった」

「さあて……」


 あますことなく白に染まった顔の中で、水色の瞳が笑む。それを最後に、灰の山がさらりと崩れた。


「この」


 シグルトは片手で顔を覆った。


「馬鹿弟子が」





 風が吹いた。


 灰の山が風にさらわれる。その最後のひとひらが舞い上がると同時に、()()がシグルトのうちに飛びこんできた。


 衝撃を受けとめきれず、シグルトは地にひざをついた。荒い呼吸をなだめ、巨木に背を預ける。震える手で懐からパイプを取りだし、火をつけようとしたが、何度やってもうまくいかなかった。あきらめてパイプをしまい、目を閉じる。


 少し眠ろう。今度は、そう待たされることはないはずだ。


 まどろみの中で夢を見た。昔の夢だ。小うるさい弟子たちがいて、黒い瞳の男がいた。蒼穹を舞うドラゴンと、黄金きん色の麦畑──


 次に目を開けたとき、あたりの闇はだいぶ薄らいでいた。夜明けが近い。懐をさぐってパイプをつかんだとき、強風が巻き起こった。


 藍色の空から巨大な影が舞い降りる。草地に着地したドラゴンの背から、深緑の外套をまとった青年が飛び降りた。


「遅えよ」


 シグルトは舌打ちをもらし、こちらへ駆けてくる青年の腰に下げられた剣を指さした。


「──そいつで、おれを殺せ」



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