第42話 魔術師の弟子
酒場の扉をくぐると、卓をふいていた女給がふりかえった。
「ごめんなさい、まだお店あけてない……あら!」
ぱっと顔を輝かせたのは、いつかの赤毛の女給だった。
「あのときのお兄さんじゃない!」
つくりものではない笑みに応えてシグルトも頬をゆるめたが、つづけて投げかけられた問いにたちまち顔をしかめる。
「あの可愛いお兄さんは? 一緒じゃないの?」
「誰のことだ」
シグルトは手近な椅子をひきよせて腰をおろし、「酒」とぶっきらぼうに注文した。
「いやねえ、まだ日が高いうちからお酒?」
「べつにいいだろ。それと、なにか適当に食わせてくれ」
「まだやってないんだけどねえ……まあいいわ。蜂蜜酒でいいのよね」
シグルトの肩をかるくなでて女給は奥へひっこんだ。そこまではよかったのだが、すぐに「別れたらしいわよ」とか「うっそお、どっちがふったの?」などという興奮にはちきれそうな女たちの声が耳にとどき、シグルトは飲む前から悪酔いしたような心持ちにさせられた。
「お待ちどうさま」
ほどなく湯気のたつ皿と蜂蜜酒の杯が目の前におかれ、シグルトはしばらく食事に専念した。
「ちょっといいかしら」と、赤毛の女給が向かいに座ったのは、シグルトが皿を空にして二杯目の酒をすすっているときだった。
「ギルロイ様には会えたの?」
「……ああ」
今日のことを尋ねられたわけではないと理解して、シグルトはかるくうなずいた。
「あのときは世話になったな」
「お礼なんていいわよ。たいしたことじゃないし。でも、そう……会えたならよかったわ」
どことなく上の空といった様子で、女給は卓を指でたたく。話したいことはあるが、口に出していいものか決めかねている。そんな風情の女給に、シグルトはさりげない口調で話しかけた。
「じつは今朝も野暮用があって寄ってきたんだがな、留守だった。ここには来てないのか?」
女給の顔がたちまちくもり、シグルトは胸のうちで小さく笑った。男にくらべて嘘をつくのが上手い女の中でも、この女給はかなりの手練れかと思いきや、相手への同情心から簡単にぼろをだしてしまうところが好ましい。
「ちょっと、いろいろあってねえ……」
口ごもる女給に、シグルトは顔を近づけて意味ありげにささやいた。
「ここじゃ言いづらいことだったら、場所を変えてもいいぜ。もっと静かなところとかな」
「馬鹿」
あきれ声が返ってきた。
「あたしいま忙しいのよ」
「そうは見えないがな」
「これからもっと忙しくなるの……あら」
笑顔をつくった女給の視線の先を追って、シグルトもふりむいた。
「蜂蜜酒をくれんかのお」
そう言いながら店に入ってきたのは、一人の小柄な老人だった。うす暗い店の中で、そのしわだらけの顔は笑っているように見えた。
「おじいさんもお酒なの? 今日はいったいどうなってるのかしらね」
首をふりつつ赤毛の女給が席を立つと、かわりに老人がシグルトの向かいに腰をおろした。ほかにいくらでも席は空いていたが、シグルトは老人の行動を不可解だとは思わなかった。
「お久しぶりにございます」
先に声を発したのは老人のほうだった。しゃがれた声に馴染みはなかったが、その落ち着いた抑揚はシグルトの記憶をかすかに刺激した。かつては常に身近にあった響きだ。
「そう久しくもねえだろ。つい半月前にも会ったはずだ」
そうでしたなあ、と老人はしわに埋れた目をいっそう細めた。
もともと目の細い男だった。いつも笑っているような顔のせいで、ほかの弟子たちからは温和で頼もしい兄弟子と慕われていたようだ。
だけどきっと、彼は泣くときもああいう顔をするんだろう。そう看破した男が一人だけいた。ああいうのは何かと溜めこみやすいから、むしろ気を配ってやったほうがいい、とも。
だから連れてきたのか、おまえ腐っても師だな、などとわかったふうなことを言われてむかっ腹がたったことをよく覚えている。
「あのときは気づいていただけませんでしたが」
「気づくかよ」
シグルトは老人の枯木のような手に目をやった。
あのとき、薬酒と蜂蜜酒をとりかえていた王子は、たしか袖をまくりあげていた。自分に殴りかかろうとしたときのまま。
あらわになっていた左腕に、この老人が手を触れるのは、ひどく容易いことだったろう。
「ギイ坊もそうだが、おまえもずいぶん変わったな」
魔術師はかつての弟子の名を呼んだ。
「──サリム」




