第18話 皇帝の愛娘
トラヴェニア帝国皇帝ユリウス三世は、大国の統治者たるにふさわしい威風にあふれた外見の持ち主だった。だが、その黒い瞳に隠しきれない懊悩が沈んでいることを、アレンは礼をとりつつすばやく見てとった。
「待ちかねたぞ、アレン王子」
愛娘が得体の知れない呪いに囚われていることがよほど堪えていたのだろう。皇帝は自らエリノアール姫の寝室へ案内してくれた。
「……話の早いひとだな」
歩きながらアレンは隣のオルランドにささやいた。小姓をしたがえた皇帝にアイーダが続き、数名の衛兵をはさんでシグルト、アレンとオルランドの順である。
「陛下は歴代皇帝の中でも名君の誉れ高いお方ですから」
小声で返しつつ、オルランドはつと目線を上げる。その視線の先、廊下の両側の壁には、歴代の皇帝および貴人たちの肖像画がところせましと飾られていた。いずれも見事な筆致と豊かな色彩で描かれた、素人目にも一級品とわかる作品ばかりで、アレンは感嘆のため息をついた。
「すごいな、これ。みんな宮廷画家が描いたものなのか?」
「だいたいは。その当時の名のある画家に描かせたものもありますが。貴国では違うのですか?」
「ああ、うちは画家を雇う金なんてないから。そのかわり、毎年の収穫祭で絵画大会ひらいてさ、お題を王族の肖像画にして一般投票で優勝したやつを王宮に飾ってるんだ」
「……楽しそうですね」
「うん、去年なんてとんでもない天才児があらわれてさあ……」
話に夢中になっていたアレンは、前を歩くシグルトが足を止めたことに気づかず、勢いよくその背中に衝突してしまった。
「ってえな、おっさん。急に止まるんじゃねえよ」
「……ああ、悪い」
素直な謝罪が返ってきたことにアレンはぎょっとしたが、すぐにいつもの悪態がふってきた。
「目線の低いガキにはそれなりの配慮が必要だったな」
「いや、おれのほうこそ悪かったよ。足腰の弱ってるジジイを責めるなんざ、思いやりに欠けてたわ」
「おふたりとも」
野良猫の喧嘩でも見るような目をしたオルランドが割って入った。ここが皇城ではなく街中だったら、桶に汲んだ水をぶっかけられていたかもしれない。
やがて一行はエリノアール姫の寝室にたどりついた。衛兵を廊下にのこし、アレンたちは静かに入室した。
姫君の寝室は、白とピンクを基調とした可愛らしくも豪奢な内装だった。この一室だけでアルスダイン王宮全体より金がかかってるな、とアレンが埒もないことを考えている間に、侍女たちがうやうやしく寝台の帳を開いた。
「ほら、行ってこい」
シグルトにうながされて寝台に歩みよったアレンは、思わず呼吸を止めた。
寝台に横たわっていたのは、正真正銘、掛け値なしの美少女だった。目鼻立ちの端正さは言うに及ばず、薔薇色に透ける頰は極上の陶器のようになめらかさ。それを縁どる真っ直ぐな金髪は、さながら陽の光をつむいだがごとき煌めきを放っている。
こりゃフラン兄に張るな、とアレンは心の中でうなった。あの神の使いもかくやという美貌がこの世に二つも存在するとは思ってもみなかった。世界は広い。
「しかし、本当にあの王子の、その……口づけで呪いが解けるのだろうな」
「安心しろよ」
アレンの背中でユリウス帝とシグルトが言い合っているのが聞こえる。
「姫にもっとも深い愛をささげる王子の口づけで呪いは解ける」
「しかし交際期間もなしに愛など……」
「つきあいの長さなんか関係ないだろ」
「わしはそうは思わん。現にわしと亡き皇妃の出会いは……」
「語らんでいい」
気の毒だからあとで話を聞いてあげようと思いながら、アレンはあらためてエリノアール姫の顔をのぞきこんだ。
見れば見るほど愛らしい姫君だ。こんな美少女に口づけできるのだから、まったく悪い話ではない。かるくキスして、すぐにオルランドに交代だ。
そう、悪い話ではない。姫君が目覚めれば皇帝もアイーダも大喜びだし、オルランドは出世の足がかりを得られるし、自分は金貨一千枚を持って故郷に帰れるし、魔術師は──どうでもいいか。
そっとエリノアール姫に顔をよせると、うっとりするような甘い香りが鼻をくすぐった。すみません、ちょっとだけ失礼します──
「──やっぱだめだ」
アレンはため息をついて立ち上がった。
「ああ?」
シグルトが顔をしかめた。その横で、皇帝とアイーダがあっけにとられた面持ちでアレンを見つめている。オルランドの顔は……怖くて直視できない。
「どういうつもりだ、クソガキ」
「悪い。無理だわ」
「きっさまあああ!」
いち早く我に返った皇帝がアレンにつめよった。
「無理とはなんだ! うちの娘のどこが不満だ!」
「あ、いやお父さん、そういうことじゃなくてですね!」
「貴様にお父さんと呼ばれる筋合いはない!」
すごい、この台詞本当に言う人いるんだ! と、思わず感動したアレンの胸倉を、シグルトが乱暴につかんで引きよせる。
「おまえな、話をややこしくしてんじゃねえよ。さっさと済ませやがれ」
「だから無理だって! よくないだろ、皆をだま……」
だます、と言いかけたところで襟を締め上げられる。
「皆を、なんだって?」
青灰の瞳におどる冷たい炎に一瞬ひるんだアレンだったが、すぐにきっとシグルトをにらみ返した。
「これはだめだろ」
道中ずっと考えてきたことだ。自分の倫理観と故国の財政とを秤にかけて、いくつもの言い訳もこしらえて。けれどやっぱり、最終的にアレンの心はこう結論づけた。これはよくないことだと。
「だいたい、この子の気持ち考えてみろって。寝てる間に知らない男にキスなんかされて傷つかないわけないだろ。下手すりゃ一生ひきずるぞ。そんなこと、おれはできない。やらない」
「青くさいこと言ってんじゃねえよ」
シグルトが舌打ちしたところで、ユリウス帝が「何をごちゃごちゃやっとるんだ!」とつかみかかってきた。はずみでアレンは寝台の上に倒れこみ──
──あ。
唇を、やわらかいものがかすった。
「うわっ!」
のけぞったアレンの真下にあるのはエリノアール姫の寝顔。と、いうことはつまり──
「なんだ、やったか」
シグルトが無神経な問いを発する。
「やってない! ぎりぎりやってない! いや、ちょっとかすったけど、ほっぺだった、うん!」
「とことん意気地ないな、おまえ」
「うるさい!!」
絶叫が重なった。ひとつはアレンの、そしてもうひとつは甲高い少女の──
「……え」
「うるさいわね! さっきからなんなのよ、もう!」
金切り声にふりむいたアレンの視界に、冴えた青い瞳が飛びこんできた。最高級の陶器人形に命が吹きこまれた瞬間に居合わせたような感動を覚えたアレンの前で、その瞳がまん丸に見開かれ、
「きゃあああああああー!!」
耳をつんざくような悲鳴が室内に響きわたり、投げつけられた枕を顔面で受けとめたアレンは寝台からころげ落ちたのだった。