第七章 六年生編
*6年生のクラス替えの話
小学校最後の学年である6年生のクラス替えでは、面白そうな子が多いクラスになった。4組だったので、学校で一番端っこに並ぶクラスで、なんだかラスボスみたいな気がして嬉しかった。4年生と5年生の時に同じクラスだった子や、クラスが違うけど知っていた子もいたので、完全に知らない子は半分くらいだった。
担任の先生は50代くらいの女の先生で、5年4組の担任だった先生なので知っている先生だった。4年と5年のクラスは実は雰囲気があまり好きではなかったのだが、この6年4組は、みんなが仲良くなれそうな感じがして、期待に胸を膨らませていた。
そんな6年生の担任の先生はながとん(長友先生)と呼ばれていて、50代の魔女と呼ばれている女性の先生で、面白い人だったのでみんなから人気があった。
この面白いかどうか、というのは関西だけあって他の地域より重視されていて、話が面白くないと生徒が言うことを聞きにくいような風潮もあった。この先生は理科の先生だったので、実験の日にはわりと気合を入れて授業をやっていた。
「せんせー。単位がやこしくて分かりにくいんやけどなんとかならん?」
「それやったら、シーシー、ミリリ、グラ、リッセで覚えると覚えやすいで!」
これはccmlgcm3(立法センチメートル)は同じ値なのでそのまま変換できるという話で、このように為になることを教えてくれたりしていた。
また、タバコをつぶしたニコチンのかたまりをシャーレの中にひたして、その中にミミズを入れてタバコの危険性を知るという授業や、死んでしまったカエルの解剖の実験をしたりもした。当時はまだこういうグロテスクなものに対して規制がかかる前であり、これは残酷な感じもするのだが、子供に分かりやすく命の大切さを示すためには致し方無いものであったと言える。
中学に入学すると先生に敬語を使うようになるだろうが、ぼくらが子供の時には小学生の間だけは先生に対しても敬語を使わずに普通に『タメ口』で話していた。このタメ口というのは、ゾロ目を意味するタメ、同い年で敬語を使わない口調という所から来ていて、昭和の終わりのツッパリブームの際に定着した言葉である。
*さくまとの話
6年生の1学期には休み時間にバスケをやることがほとんどで、ここで1番上手いと思ったのが佐久間だった。さくまは自黒で、サッカーも上手くてスポーツ万能だった。身長もぼくと同じくらいで高く、顔がいいので女の子から人気があった。
けど、それを鼻にかけることもなく、気さくでいいヤツだったので、男の友達も多いというまさに『男の手本』のような子だった。よくさくまが中心になって他のクラスの子も混じって『中之町公園』でサッカーをやったりとか、家に遊びに行かせてもらって、64の『スマッシュブラザーズ』をやったりしていた。
小学生の頃は、友達の兄弟と一緒に遊んだりすることも多く、さくまの家に遊びに行った時に弟と遊ぶことがあった。ある日、さくまの家に遊びに行かせてもらった時にたかひろが面白いものを見せてくれた。
「これできる?」そう言ってたかひろは、器用に両耳を動かして見せた。
「何ソレ?凄いやん!」
「やろ?けんたろうはできるん?」
ぼくは懸命に両耳を動かそうとしてみたが思うように上手くできない。
「なかなかできんなコレ」
「もうちょい練習した方がええんちゃう?俺はもう完璧やけどな」
そういうとさくまは得意げに耳を動かして見せた。
「そうやな、今度家で練習するわ」
その後、時間がある時に家で1日じっくり練習したところ、自分の意思で自由自在に動かせるようになった。この時に練習していたお陰で、ぼくは今でも自分の両耳を動かすことができる。
小学生の時というのはまだ能力が固まっておらず、身体能力については、特にこの時期に練習しておいたことが、後になってもできているということは多い。
また、人によっては自分だけかな?と思うような特徴を兼ね備えていたりもする。ぼくの場合は『鮫肌』という普段から鳥肌が立っているように見える肌だったり、屈伸運動をすると『左ひざの関節だけがポキポキ音を立てる』というものだった。
*みやもとの話
6年生が始まってしばらくして公園でみんなで遊ぶようになると、宮本くんという子と仲良くなった。小学生のあだ名というのは安易なもので、宮本だからみやもと呼ばれていた。
みやもは4人兄弟の2番目の子で、兄と妹と弟がいて、男兄弟はみんな野球をやっていた。指が太くて大きくて、グローブみたいな手をしていて、土日には社会人に交じって野球をやっていた。
それと、一時期へんなあだ名を付けていた頃があり、『けんたろおーがい』『すけおーがい』など『おーがい』という、たぶん特に意味のない言葉を名前の後に付けていた。
運動が得意だったし、関西では面白いヤツが偉いという風潮があったこともあって、ぼくはみやものことは、かなり認めていた。と同時に、何かあったらみやもに勝ちたいと思っていて、事ある毎に競い合っていた。ある日、放課後の公園で遊んでいた時、当時爆発的に流行っていた『ポケモンカード』で対戦することになった。
「けんたろおーがい、勝負しようや」
「ええで。いつもデッキは持ち歩いとんねん」
ぼくはその頃、遊びに行く時には『自然学校』で使った『ナップサック』にデッキケースに入れた『ポケモンカード』を入れていた。
「ここでええやんな?」
「おう、ええよ。ほんなら始めよか」
ぼくらはそう言うと、公園にあった木のベンチに、プレーマットなどをひかずに直置きして対戦を始めた。この頃はまだ、カードを守る『スリーブ』に入れたりするようなことは考えていなかったので、カードを裸のまま使っていた。
「おっしゃ、行くで!」そう言うとみやもは『雷タイプ』のエレブーを出して来た。
「おう、俺もや」対するぼくは『闘タイプ』のエビワラーを出して応戦した。
ポケモンカードをやったことがある人はピンと来たかもしれないが、この組み合わせは実は『かなり』ぼくに分があって、『闘タイプ』のポケモンは、『雷タイプ』のポケモンに対して『2倍のダメージを与える』ことができるのだ。
そのお陰もあって、途中みやもの『ベロリンガ』の相手をマヒさせて1ターン行動不能にするという攻撃に苦戦したものの、終始試合を有利に進めることができた。
「おっしゃ、これで攻撃や」
ぼくはそう言うと、エースモンスターだった『ダグトリオ』のきりさくを選択した。
「アカン負けてもた。相性悪いわ、弱点ばっかやったし」
みやもは悔しそうにしていて、あまり納得が行かないようでもあった。
「まあ、勝ちは勝ちやで。ふふっ」
ぼくはこの時、明確にライバル視していた子に勝てたとあって凄く嬉しかった。この日のことで、ぼくは少なからず自分に自信が持てたような気がした。大人になると仕事と女の話しかしなくなってしまうが、幼少期のこういった出来事は綺麗な思い出として貴重なものであると言える。
*すけとの話
バスケ組の中でもう一人上手かったのが、さくまと凄く仲が良かったすけだった。この二人はわりと似ていて、色が黒く、運動全般が得意だった。ただ、一つ違ったのは、すけは地元の体操スクールに通っていて、『バク転』ができたことだった。
小学生の頃は、テレビでアイドルなどがこのバク転をやっているのを見て憧れたりするものだが、実際に友達がやっているのを見ると凄く羨ましく感じていた。
日本の学校ではこういう体操の専門的な指導ができる先生がほとんどおらず、また、危険だからと授業で教えることもない。ぼくは素質的にはできてもおかしくなかったと今でも思っているのだが、結局このバク転には挑戦できず仕舞いだった。
また、さくまはちょっとクールめだったのに対し、すけはお笑い的な要素もあったので、よく面白いことを言ってみんなを笑わせていた。自分のことを欲のかたまりと言っていたりもして(だが、はたから見て決してがめつくはなかった)親からもらった1円玉を財布にためていたりもした。
口ぐせだった「ちょビックリ(ちょっとビックリ)というのがおもしろかったり、今はなき名ハード『セガサターン』のCMのキャラクターである、せがた 三四郎が好きでよく真似したりしていた。
すけとは凄く印象に残っている話があって、それは、一駅隣の甲南山手駅の近くにあるサティという名前のスーパーの、中型ビルの中にある『マクドナルド』での出来事だった。放課後に予定が合ったので、二人で自転車でサティまで行き、そこでちょっと腹が減ったなという話になった。
「けんたろう、マクド行かん?」
関東ではマック、関西ではマクドというのが日本での不文律だが、ぼくらもご多分に漏れずマクドと呼んでいた。
「ええよ。あっ、じゃあアレやってみたいな」
「アレって?」
「前にはまから教えてもらったやつがあんねん。ちょっとやってみたいから一緒にやろうや」
そう言ってぼくらは、当時65円だったハンバーガーと、『あるもの』を注文することにした。店の前まで行って、ちょっとドキドキしながら注文し始める。
「ハンバーガー1個と水と――」緊張で喉がかわきそうになる。
「あと、スマイル下さい!」
高校生か大学生くらいのアルバイトの女の子だったのだが、変な注文には慣れているのか、微笑ましいと思ってくれたのか、小学生にからかわれても全く悪意を見せず、笑顔で返してくれた。
そんなに大したことではないのだが、小学生から見たその人は、なんだか凄く大人びて見えて、笑いかけてくれたことが嬉しくて二人ではしゃいでいた。それから、一通りサティの中を物色し、飽きたところで自転車に乗って帰路についた。
*オヤツを買いに行った時の話
日本の小学校では、校区によってそれぞれの活動範囲が決められていて、そこから出てはいけないという決まりがあった。だが、ぼくらはそんなに聞き分けのいいグループではなかったので、たびたび内緒で校区外に遊びに行っていた。
6年生の『修学旅行』があった5月、それに持って行くために隣町の御影まで4組の何人かで行ったことがあった。メンツはさくま、みやも、すけ、たのちん、と5人だったと思う。すけが駄菓子屋までの道を知っていたので自転車で行くことになった。
ぼくは当時はクソ真面目だったので、自分から校区外に行くことはなかったのだが、こうした友達の影響で、いつしか特に抵抗なく遠出できるようになっていた。
本当はあまりいい事ではないのだろうが、所詮は子供を親や教師の管理下に置いておきたいと考えるところでの規則なので、ちょっとした思い出づくりだったり、自分で確実に帰れる範囲なら、遊びにいってもいいと言えるだろう。
また、甲南山手駅の近くにある『サティ』によくみんなで遊びに行っていて、メダルを入れると動く競馬のゲームをやっていた。ただ、それは小遣いが多く2000円貰っていた子がメダルを使ってくれていて、ぼくは小遣いが500円だったので、100円出してメダルを買うのはかなり気が引けていた。なんにせよ規則を守るようなお利口な連中ではなかったので、いつも内緒で遠出するのが楽しかった。
*修学旅行の話
6年生の5月に学年行事として『修学旅行』に行くことになった。学年が上がってすぐで、まだ話したことがない子が多かったので、仲良くなるには最適な行事だった。近畿地方の東側で行ったことがないようなところへバスで行き、2泊3日で主に観光するというような内容だった。
まずは皆で滋賀に行って国宝である『彦根城』を見ることになった。城が大きくてきれいだなと思っていたのだが、ぼくらの関心事はまた別にあった。それは白のマスコットキャラクターとして存在していた『彦にゃん』であり、これは殿様のかっこうをした猫といったキャラだった。
テンションが上がっていたぼくらは、その彦にゃんに何度か蹴りを入れていって、それがだんだんエスカレートして、麻木がドロップキックしたことで彦にゃんが池に落ちてしまった。ひろさき先生が飛んできて、彦にゃんに謝り倒し、ぼくらに向かって大きい声でお叱りをくれた。
子供ながらに大人が『マジで』怒っているのはかなり迫力があり、何人かはだいぶ引いてしまっていた。それでも完全にぼくらが悪いので、先生の行動は正しかったと言える。そしてまたバスで移動して宿まで行き、そこで二部屋に分かれて荷物を置いた。
それから風呂に入ったのだが、ぼくは4月生まれだったこともあり、5年生になると『チン毛』が生えていて、なんだかそれが恥ずかしかったのだが、この頃になると生えているかどうかは半々くらいだったので別にバカにされたりもせず、なんだか少し安心していた。夜にはみんなでトランプをしたり、やってみたかった『枕投げ』をしたりして時間を潰した。
そして、夜が明けて二日目は、三重県にある『伊勢の忍者屋敷』に行って、日本の忍者文化に触れて周った。それから移動してその日泊る宿へ行き、時間があったので自由行動になった。海辺があってそこでは少し小雨が降っていて、石段でみんなで話をしていた。
そして風呂に入って床に就き、旅行では定番だと思うのだが、普段しないような話だとか誰が好きかとか、そんなたわいもない話をして親睦を深めていった。
時々先生が起きて悪さをしていないか見回りに来ていて、それをかい潜ってずっと起きていようとしたのだが、みんないつしかみんな眠りについていた。楽しかった旅行はあっという間に終わり、帰る頃になるとクラスの絆はかなり深まっていた。
*鉄棒の授業の話
高学年生ともなると、身長が伸びて体つきも大人に近くなってくる。そうするとできることも増えてくるわけで、特に『鉄棒の授業』ではそれが顕著であった。学校側もしっかりと安全に配慮してくれていて、『サポ―ター』と呼ばれる鉄棒に巻いて腹や足が痛くならないようにする、青色で中にスチールが入っているものがあり、授業の時はそれを使っていた。
授業についてはマニュアルがあるのか専門が体育でないはずの担任の先生からも、『猿持ち』という親指を鉄棒に掛けずに手をCの形にして持って、手がすっぽ抜けて落下してしまう危険行為は危ないからやっちゃダメだとか、補助をつけながら二人で進めて行ったりとか、わりと丁寧に教えてもらっていた。
6年生にもなると授業でやる技は習ったらすぐにできるくらいで、『空中逆上がり』や『空中前回り』、『片足を鉄棒に掛けて登る技』をやったり、前後に回ったりといろいろできるようになっていた。基本的には男子の方ができていたのだが、高坂と紺野だけは女子の中でもかなり運動神経がよくで男子とも張り合えるくらいできていた。
そんな中でも楽しかったのは、大きな鉄棒を使って行い、逆さまにブラ下がってから反動を使って前に飛び降りる『こうもり振り降り』だった。これは両足を鉄棒に掛けて勢いよく体を揺らし、その反動を利用して足を離して前方に着地するという技である。
顔を打たないように気を付けないといけないので、反動が足りずに落下しそうな時は必ず手をつくことは忘れないようにしないといけない。授業中、ぼくは一回失敗した後は問題なくできていたので、他の子に教えたりできている子らと遊んだりしていて鉄棒の授業では自由にやれていて楽しかった。
*絵の授業の話
6年生の1学期に、風間と世良という女の子たちと同じ班だったのだが、そこで少し面白い話があった。学校の風景を木炭を使って書くという授業だったのだが、木炭を消すのに食パンを持ってくるように言われていた。
だが、せらはそのことがあまりよく分かっていなかったようで「焼いてきちゃった」と言ってご丁寧にバターまでつけて来ていた。
ぼくは内心“なぜ焼いた?”と思っていたのだが、それをみやもが、
「お前消すのに使うのに焼く訳ないやん。アホちゃうか」と行ったので、かざまが
「うるさいな。いつきちゃん(せらの名前)は、一生懸命考えたんやから、そんなこと言わんとってよね」と言って怒っていた。
小学生の頃は、中学高校ほど男女で分かれにくいものだが、男子は男同士でもそいつが悪かったら責め立てるのに対し、女子はかばいあうような風潮があって、結束が強いような傾向があった。
*64の思い出の話
ぼくらが小学生の時、『ニンテンドウ64』というハードが全国的に大流行した。だが、ぼくが持っているのは『スーパーファミコン』だけだったので、友達の家に遊びに行って一緒にプレーするのが楽しみだった。
さくまの家では『スマブラ(大乱闘スマッシュブラザーズ)』と『マリオカート64』をやることが多く、彼は友達が多かったので、いつも6人くらいで負けた人が待っている人と交代するというルールでやっていた。
『スマブラ』は2D(Dimention次元)空間で行われる格闘ゲームで、4人のプレーヤーが同時にプレーできる当時としてはかなり画期的なゲームだった。
マリオがピカチュウを殴るという、開発者としてはヒヤヒヤもののゲームで、当時の担当はクレームが殺到するかもしれないと危惧しつつも、勇気を持ってこれをリリースしたのであった。
それと『マリオカート64』はスーパーファミコンであったソフトをパワーアップさせたもので、こちらは3Dで描かれたコースを、マリオやヨッシー、ピーチ姫やクッパ、ドンキーコングまでもが所狭しと走り回るのだった。
こちらも4人プレーで対戦相手を妨害するアイテムが多く存在し、亀の甲羅をぶつけたり、バナナの皮で滑ったり、落雷が落ちて一時的に体が小さくなったりと子供が楽しいと思える要素が満載のゲームだった。
対戦をやっているとみんな自分の家にもそのゲームがあるらしく、ぼくはなかなか勝てなくて、いつも交代要員に甘んじていた。卒業後にみやもが、
「そういえば俺らって6年4組やったからゲームクラスやってんな」
と言っていたのが印象深かったのだが、『NINTENDO64』はぼくらにとって間違いなく神ハードだった。
*テレビの思い出の話
給食の時間にはテレビは基本的に見ないことになっているのだが、それは多分みんなが話してコミュニケーションをとれるようにということであった。だが、たまに先生の気が向いた時にテレビを見るタイミングがあり、これは先生が見たいからではなく生徒のためであり、昼の12時台にやっていた『笑っていいとも!』という番組を見る機会が何度かあった。
ここでは1990年代に国民的な人気を博し、当時のアイドルの概念をも変えた『SMAP』のうち中居さん、草彅さん、香取さんが出演しており、当人たちがブレイクするきっかけになった番組の一つであるとも語っている番組であった。
いろいろなランキングのベスト10を当ててフリップがめくられて行くゲームや、芸能人のそっくりさんが出演するコーナーなどがあった。一番人気があったのは、ゲストが15分ほどトークした後、次の日の友達を紹介して行くという『テレフォンショッキング』だった。
また、そのあとにやっていた30分番組の『ごきげんよう』も好きで、学校でたまにテレビを見せてもらえた時や、学校を休んで家にいる日などに楽しく見ていた。ライブ感のある番組で、カメラアングルがコロコロ変わり、生放送のように時間がなさそうに進行するので、このごきげんようが『録画』だと知った時には驚いた。
平成中期には、その後にはとても放送できないようなむちゃくちゃな番組も数多く存在していて、うんていに油を塗って下にワニをしきつめて渡ったりとか、亀に乗って本当に竜宮城に行けるかを検証したりとか、面白い番組が数多くあった。
YouTubeにシェアを取られつつあるが、クレームに怯えて規制ばかりせず、こういう狂った番組をぜひ放送してほしいものである。
*ポケモンカードの話
6年生(1999年)になってもポケモンは相変わらず人気で、11月になると第二世代の金銀が発売された。そんな中でもぼくが大好きだったのは日本初のトレーディングカードゲームである『ポケモンカード』だった。
クラスの子はだいたいやっていて、みやもとか、さくまとかながほりとか、しらはまとかの家に遊びに行ってたびたび対戦していた。
1学期の終わり頃にはまから、カードを規定枚数、ポケカの場合は60枚を持っているカードの中から選んで組むのを『デッキ』、手持ちのカードの能力を組み合わせて力を発揮させることを『コンボ』ということを教えてもらい、更にのめり込んで行った。
夜中にカードを見ながらデッキを創るのは本当に楽しく、相手の出方を考えたりとか、新しい戦略を思いついたりした時は本当に嬉しかった。今にして思えば、こうやってストーリーを考えて本を書こうと思ったり、いろいろ構成を練ったりしているのは、このデッキを創っていたのが基礎になっていると思う。
どうやったら早くポケモンを出せるかとか、自分の持ってるカードの中で最大限の強さを発揮させるということを真剣に考えていた。闇雲にやるよりも、相性やどのカードを使うかなどの戦略を『考えながら』プレーするこの遊びが大好きで、特に『お金があまりない子でも工夫すれば金持ちに勝てる』というところが好きだった。
ぼくは当時、タケシの構築済みデッキを持っていたことで『闘タイプ』のデッキを愛用していて、『ダグトリオ』とか『カイリキー』が主力だった。本当はいろんなタイプのカードを組み合わせたデッキが使いたかったのだが、あまり強いカードを持っていなかったので断念していた。
だが、悪いことばかりではなく、さくまとやった時は相手が抵抗力を持っていたのでダメージが削られて負けてしまったものの、単一のタイプなので事故らずに勝負できていた。
そんな中、その頃2号線沿いにあったゲームショップにはまと立ち寄った時に、拡張パックを買ってみたら、なんとずっとほしいと思っていた『リザードン』が入っていて、感嘆の声を上げてしまったほどであった。
今にして思えば、『ばら売りで買っておけばよかった』と強く思うのだが、この時は『リザードン』を自引できたことが嬉し過ぎて、家に帰ってから、いつもフィールドにしていた机の引き出しに置いて眺めていた。
結局はリザードン、ラフレシア、ギャラドス、マルマイン、ダグトリオ、バリヤード、わるいカイリューと、当時まだ鋼・悪・フェアリーがなかったので、7つのタイプ全てを入れることができるようになった。全ての色を完全に網羅できたことが嬉しくて、このカードたちは当時のぼくにとって宝物だったと言える。
*あの時の行方の話
1学期の終わり頃のある日、何気なく机の引き出しをあさっていると、なんだか見覚えのあるものがあった。それは、下松から持って帰ったメロンカップで、もしやと思って開けてみると、いつかなくしたピカチュウを初めとするフリカケのオマケが入っているではないか。ぼくは思わず、近所にこだまするくらいの声で、
「あった~!!」と叫んでしまったほどだった。
なくしものは忘れた頃に出てくるとよく言うが、ぼくにとってもこれは、そのいい例だったと思われる。
*夏なのに寒い話
1学期の終わり頃、凄く寒い日に思えて震えが止まらなくなったことがある。3時間目になってもずっと寒くて、なんだかおかしな日だなと思って、同じ班だったたかやんに
「今日ほんま寒いな。夏やってのにおかしな天気や」と言ったら、
「えっ!?全然寒ないで。普通に暑いやろ」と言われて困惑してしまった。
「先生に言うた方がええんちゃう?」とたかやんに言われ、
ながとんに言ったら母に連絡してくれてその日は早退することになった。病院に行って検査したところ、季節外れの『インフルエンザ』であり、ぼくはこのあと一週間学校を休むことになった。
*小体連(水泳)の代表の話
小学校6年生の時に今でも忘れられないような大きな出来事があった。それは水泳の授業の時に、夏休み中に行われる小体連の代表を決めるというものだった。そこでは二人だけ立候補して50m自由形の選手を決めることになり、同じクラスのたかやん(高山くん)と勝負して、勝った方が代表に選ばれるというものであった。
「めっちゃ速いから。見といてな」
ぼくはそう言ってみんなの前でいいところを見せたいとはりきっていた。たかやんと並んでスタート台に上り、ひろさき先生がピストルを鳴らして泳ぎ始めた。その日は体調が良く、全力で泳いだのだが、5mくらい差を空けられてたかやんに負けてしまった。
「なんや、全然速ないやん」
仲の良かったみやもにそう言われ、ぼくは立つ瀬がなくなってしまった。
「いや、その――おかしいな?」
これは水泳で一度も負けたことがなかったぼくにとって初めての『挫折』と言える経験だった。“同じクラスの『ただの同級生』に負けるなんて、ぼくって全然たいしたことないんだな”
そう思うと今まで水泳を習って来たこともなんだか急に虚しく思えて来た。
たかやんがどんな子なのか、この地域が凄くスポーツが盛んなことを知っていたら、この時の出来事の受け取り方もまた違っていたのかもしれない。
*中日ファンになった理由の話
ぼくの住んでいた神戸市東灘区は、二つ隣の西宮市に本拠地の甲子園球場がある『阪神タイガース』のファンの子が圧倒的に多く、ファンクラブに入っている子まで居たほどだった。この阪神タイガースは『読売ジャイアンツ』通称『巨人』とライバル関係にあり、阪神が負けた日に巨人のはっぴを着て阪神電車に乗るとファン同士で喧嘩になっていたりした。
転校してきてから、どこのファンか聞かれることが多かったのだが、ぼくはまず、この事実を踏まえたところで巨人だけはないなと考えていた。けど、別に阪神が特別好きだったわけでもないので、応援するチームを決めかねていた。
そんな6年生のある日、何気なくテレビで野球を見ていると、凄く強くてかっこいいチームが映っていた。それが名古屋に本拠地の名古屋ドームを置く『中日ドラゴンズ』だった。
まず、ぼくが注目した点は打線であり、1、2、3番に足が速いスピード型の選手を置き、4、5番にホームランが打てるパワー型の選手を置いて、6、7、8番に左右に打ち分けたり、長打が打てたりするテクニック型の選手を配置し、9番にエース川上憲伸氏率いる投手陣を配置するという『洗練されたラインナップ』だった。
この川上選手は球威があって変化球が鋭く、いつもバシっとストライクを決めるので好きだった。監督は闘将、星野仙一監督で、選手がミスをすると激しく怒鳴ったり、選手の座っている椅子を蹴ったりと、とにかく厳しい人だった。
そして、その年(1999年)に優勝したことでずっと贔屓にしていて、今日まで応援し続けている。応援するチームというのは、結局は感覚で決めるべきであり、自分が好きだとか気に入ったと感じたチームを応援すべきであると言える。
*テレビ番組についての話
ぼくらゆとり世代はテレビっ子の割合がわりと高い世代で、もしかしたら全世代で一位二位を争うほどのテレビ好きの世代かもしれない。
千葉に居た頃から、ドラゴンボールや超魔神英雄伝ワタル、ヤマトタケルなど、子供向けの番組を楽しんでいたのだが、見たい番組の時間にテレビを点けてもやっておらず、関西ではやっていないと思ったら、実は別のチャンネルでやっていたということが何度かあった。
そんな風に好きな番組を見つけてはテレビにかじりついていたのだが、チャンネル権は父にあったので、夜は必然的に父の見たい番組を見ていた。
昔は給料袋いっぱいに札束を持って帰り、家族に見せびらかして父の威厳を示すということがあったようだが、ぼくらが子供の頃には銀行振り込みが主流であり、家長としての威厳も徐々に弱まりつつある時代であった。
関西に来てからも、面白い番組は続々と見つかり、家に帰ってからはいつもテレビにかじりついていた。中でも好きだったのが『スーパーマリオスタジアム』であり、小学生の時にはポケモンがめちゃくちゃ流行っていて、テレビで関連番組が多く放送されていたうちの一つであった。ポケモンの全国大会では、小学4年生の男の子と、高校3年生の『大きなお友達』が地方大会の決勝戦で激突し、高校生が勝ってしまって小学生が大泣きするというようなカオスな状況があったりもした。
平成初期の頃はよくも悪くもまだ世間が洗練されておらず、今では当たり前になっているようなことが行われずに、パンツいっちょで出歩いているおっさんだとか、犬が校庭に入ってきたりだとか、変な状況がまかり通っていた。
ただ、2000年の全国大会決勝で、『ヘラクロス』というポケモンが、『きあいのハチマキ』というアイテムの効果でヒットポイント1だけ残し、そこから『きしかいせい』という技を使って『相手のポケモン3体を全滅させる』といういわゆる『3縦』といった神展開が繰り広げられたりもしていた。
ぼくは朝に毎日やっていた、おはスタよりもこっち派で、いつも楽しみに見ていた。
大人になると『サザエさん症候群』という夕方6時半から始まるサザエさんを見ると、月曜日から始まる憂鬱な社会人生活を考えて気持ちがドーンと沈むという現代病になったりもするのだが、子供のころの僕には無縁の話であった。
ぼくの家では『雨が降っても槍が降っても9時には寝ないといけない』というルールがあったため、夜中のおもしろい番組はもう少し大人にならないと見られなかったのだが、これらの番組を見て楽しい気持ちで眠りにつけていた。
*しらはまとの話
1学期の終わり頃になって白浜くんという子と仲良くなった。
たまに一緒に遊んでいて、ぼくが3枚持っていたメタモンのカードをサンダーと交換したり、この子はいつもちょっと暗めのなかじと、ビン底のメガネをかけていたみかわと居ることが多くて、変わってるけど面白いといった感じの子だった。
この子の家は結構な金持ちで一軒家に住んでいたり、当時流行っていたビーダマンの強化パーツを持っていたり、大体のものは手に入れているような感じがした。
『ハイパーヨーヨー』が得意で、ループ・ザ・ループという下から上に円形にヨーヨーをループさせる技を両手でやる『ダブル・ループ』が得意だった。
また、『シーズー』という犬を飼っていて、この犬がかなり可愛かった。犬にエサをあげる時には、4種類くらいのいろいろなドッグフードを混ぜてあげると長生きするというが、このワンちゃんも結構な歳まで生きたようだった。
『ファービー』というペットロボも持っていて、これは目が大きいフクロウが友達として話し相手になってくれるというものだ。ちょっと奇声を上げたり、暗くすると眠ったりと可愛らしいおもちゃであった。
自分の部屋にクーラーがあって、友達の家に行ってもそういうところは全然なかったので、なんだか住んでいる世界が違うようにも思えた。凄く気前が良くて面白い反面、いろんなことを我慢しないような子だなと感じていた。
*ジャグリングの話
6年生の時に田舎に帰った際、テレビゲームがなく、トランプをやるには人が少ないし、すごく時間を持て余してしまったことがあった。そんな時、ぼくらが泊めてもらっている2階のおもちゃ箱の中に、鈴が入った玉が3つあるのを見つけた。
わりと重くて扱いにくいその玉を持って、これで『お手玉』できないかな?と考え、実際に試みてみた。
だが、玉を投げ慣れていないので不安定でコントロールしにくく、3回もするとキャッチし損なってしまって上手く行かない。これは練習しなきゃなと思い立ち、それからというもの田舎に居る間中、暇さえあればお手玉をやっていた。帰るころになっても、十数回ほどしか記録は伸びず、未完のまま神戸に帰ることになった。
玉を田舎に置いてきたので、もう練習するのはやめようかと思ったのだが、ちょうど『明治十勝ヨーグルト』のカップが3つ空いていたので、夏休みの間中ずっとそれを使って練習していた。結局、夏休みが終わる1週間前くらいには100回を突破していて、自信を持ってお手玉ができると言える域に達していた。
今にして思えば、もっとまともなボールで練習していれば早く楽にできるようになったのかもしれないが、扱いにくい道具で練習したお陰で、どんなものでもお手玉ができるようになっていた。
夏休みが終わり2学期が始まって学校に行くと、消しゴムを使ってみんなに成果を見せびらかしていた。すると、同じ班だったしらはまから「ジャグリング」上手いなと言われた。その言葉を知らなかったぼくはその時そういう言い回しがあることを知って、そのお陰で少し助かった話がある。
その頃、ちょうど『テレビチャンピオン』で『ジャグリング』をやっていて、テレビ欄を見た時にお手玉のことだと理解できて録画して何度も見ていた。
このジャグリングを練習したことで、多少不利な状況でも直向きに練習しさえすれば上手くなれるし(例えば貧しい子たちが一つのサッカーボールで上手くなっていくような)状況が悪いからと諦めてしまうよりは、できることからコツコツと練習してみることが大切だと感じた。
*ノストラダムスの大予言の話
1990年代の日本はわりと裕福で、平均年収が600万ほどあるような国であった。ぼくの家族もその恩恵にあずかっており、毎年『北海道に旅行』に行けていた。富良野というところに毎回いっていて、そこはラベンダー畑がきれいで、トンボがいて目の前で指をグルグル回してつかまえていた。
トンボは複眼と呼ばれる、両側の目の中に目が複数ある生き物で、ものをより立体的にとらえることができるようになっている。そして、この年はあの『ノストラダムスの大予言』の1999年であった。
これは1999年7月に恐怖の大王が降ってきて、人類が滅亡するというもので、日本では当時かなりの話題を呼んでいたのだが、結局8月になっても、ついにノストラ兄さんは地球にやってくることはなかった。
だが、それは人間には見えない狂気のようなものだったのかもしれない。この時、北海道に旅行に来ていたぼくたち家族は車で移動していたのだが、途中で母があまりにも父の運転にケチをつけるので、父がかなり怒ってしまい母と運転を代われと言い出してしまった。
内心、“もうええって、旅行にきてまで喧嘩せんとってよ”と思っていたのだが、親に対してそんなことが言えるはずもなく、嵐が過ぎるのを待っていた。親は基本的に何かあっても陰で言い合うのが子供に対する礼儀であるし、そうしている夫婦は長年うまくいって子供も幸せになっていることが多い。
運転中にあれこれ口出ししたり、感情的になって怒鳴ったりするのは精神が未熟だからであり、思いやりを持つということを忘れずに発言すべきである。
*もう一方の親戚の話
ぼくの父は結構な田舎者で、その親戚が人を散々けなすようなタイプだったので、ここの親戚と会う時は常に億劫な心持ちだった。両親は二人とも山口県の人だったので実家が近く、親戚のゆりちゃんの車を借りて海の近くにある『大畠』という寂れた感じの町に帰っていた。
なぜだかこの地域は移動中に『きつねの嫁入り』という晴れているのに雨が降るいわゆる天気雨になることが多く、下松と同じく一軒家の二階に泊めてもらっており、父の弟である叔父さん一家もそこに帰って来ていた。
基本的に正月に帰ることが多かったのだが、テレビでドラえもんとクレヨンしんちゃんのスペシャル番組を見るか、外に行って正月らしい遊びをするくらいしかやることがなく、ボットン便所と水とお湯の蛇口をひねって温度を調節する水道で暮らすこの家がどうしても好きになれなかった。
だが、そんな中で少しだけ楽しみだったのが、父の田舎ではわりと観光名所を巡ることが多く、度々(たびたび)いろいろな所へ連れて行ってもらっていたことだった。
その中でも特に印象に残っているものが3つあって、一つ目は広島にある『厳島』で、ここは京都の天橋立と宮城の松島と共に日本三景に数えられていて、宮島と呼ばれる赤くて大きな鳥居がある島がとても綺麗だった。
そこの近くの山には日本猿がいて、雪が降って寒そうにしているのが、なんだか可愛いらしい感じがしていた。
二つ目は『錦帯橋』と呼ばれるたくさんのアーチが並んでいる橋で、これも長崎の眼鏡橋、東京の日本橋と並んで日本三大奇橋として知られている。
日本人はとにかくこの日本三大なんたらというのと、○○の父(音楽の父はバッハ、経済の父は渋沢栄一など)というのが異様に好きで、全部洗いだしたら軽く100個は超えるのではなかろうかと個人的には考えている。
三つ目は『防府天満宮』でこれもご多分にもれず、京都の北野天満宮、福岡の太宰府天満宮と肩を並べており、日本三大天満宮として知られている。
ここでは学問の神様として知られる菅原道真公が祭られており、彼は生まれた年も亡くなった還暦の年も丑年で、神の使いとされていることにちなんだ『夢叶う牛』という石像が奉られている。そして極めつけに、帰りに山賊という飲食店で食べて帰ることが多かったのだが、ここで食べられる肉がまるで本物の山賊が食べているかのような大きさのやたらデカい肉だったので、これが当時のぼくは大好きだった。
また、夏に訪れた時には、馴染みの寿司屋に行って伊勢海老を食べることがあり、ここの親戚はぼくらが来るとかなり羽振りよくもてなしてくれた。毎年、一週間ほど滞在した後に下松に帰る為に波止場に止めておいた車に乗り込み、両親はガソリンを満タンにしてゆりちゃんにお礼として幾らか包んで渡していた。
*大畠の海の話
大畠に帰った時に車で海水浴に行くことが多々あり、ぼくらの家族4人だけで行くことが殆どだったのだが、ぼくにはこの海水浴場にとても好きなものがあった。
それは、そこの海にあった『イカダ』であり、ブイと呼ばれる浮きで区切られたサメ避けネットと、海岸の間のちょうどいい位置あって、そこで休憩したり仲良くなったどこの子だか分からない同い年くらいの子と一緒に『前方宙返り』をしながら飛び込んだりしていた。
いつの頃からか毎年夏になるとそこへ行くようになり、ブイまで泳いで行ったりスイカを買ってきてスイカ割りをやったり、3つあった浮き輪を大きい方から順に巻いて巻きフンと言って遊んだりするのが楽しみになっていた。水平線の向こうに見える夕日が沈み、太陽が完全に沈む直前に緑色の光が瞬く『グリーンフラッシュ』と呼ばれる現象を見ることができたりと何かと貴重な体験ができていた。
*父の姉弟の話
父の姉であるおばさんは肝っ玉の強い人で、母が結婚する際に父にどんな人なのか尋ねたところ、父は徐に「男みたいな」とだけ答えたらしい。そんなおばさんは学校で給食員をやっているおじさんと結婚して、ぼくのいとこであるひろしくんとまきちゃんは、ぼくら兄妹よりも一回り年上で落ち着いているのに明るい雰囲気だった。
この家には遊びに行くだけで泊まったことはないのだが、まきちゃんがビデオを撮りためていて、大体はラピュタ、ナウシカ、もののけ姫、紅の豚などのジブリ作品を皆で鑑賞するというのが慣例になっていた。年長者ということもあり、だいたいは伯母さんが中心になって話をすることが多かった。
また、父には弟がいて、やす夫おじさんは父より身長が高くて恰幅がよく、小さめの熊のような体型だった。その妻であるおばさんは、色白でパッチリ二重の明るい人で、おじさんが好きそうなタイプの人だった。
子供は二人いて姉のみゆちゃんは、ぼくの妹のくみより一つ年下で、弟のいっせいくんはそれより更に6つ下だった。ぼくら兄妹は他のいとこが成人していたので、この二人は同じ子供として遊べる貴重な存在だった。
正月になると近所の神社に遊びに行って凧揚げをやったり、羽根つきをやって顔に墨を塗りあったりしていた。気兼ねなく話せるため逆におせち料理を取り合って喧嘩になることがあったり、近所のスーパーで暇つぶしに買ってもらった独楽の上手さを競い合ったりしていた。
この独楽遊びでは、最初は紐を使って地面で回していたのだが、慣れてくると紐を引くときに上手く自分の方へ寄せてきて掌の上で回すことができるようになっていた。こういう遊びを習得する時には大人から教わることが多いのだが、父に習うと
「貸してみろ。こういうのはな、こうやってやるんだよ」
と言って見せてくれるのはいいのだが、そのうち自分たちが楽しくなってきて、叔父さんと一緒に子供そっちのけで遊んでしまったりもしていた。
叔父さんは昔はわりと運動ができたようで、勉強のできる父と対照的に見られることが多かったようだ。神社の鉄棒の上に立ってバク宙して飛び降りることができたとか、100mほどある石の階段を同級生の中で一番に駆け上がることができたとか、大人になってからの体型では想像できないようなことだったので、ぼくら子供からは「ウソだ」、「そんなのできっこない」、「太ってるくせに」、「今やってみせてよ」などと言われてしまい、
「昔は痩せててできたんだからそれでいいんだよ、つべこべ言わずに納得しろ」
と反論していたので、強引なところが父と同じで、やっぱり兄弟だなと思っていた。
*2学期の班の話
6年生の時のクラスの班決めは男子同士、女子同士でペアを作って、クジを引いて番号が同じだった男女を組み合わせて班を作るという方式で決めていた。夏休みが終わって2学期に班決めを行った時に、普段から遊んでいたこともあってさくまと組んでクジを引いた。
すると、鉄棒で活躍していた高坂と明るくてよく笑う安住という子と同じ班になった。その日は金曜日だったので、そのままちょっと班のみんなで喋ってから帰った。このまま話が進むと思ったのだが、週が明けて月曜日になると、先週休んでいたしらはまが
「わしもここの班入れて」と言ってきたのでぼくは、
「ええ~、この前も一緒やったやんか。もうええやろ」
はまとは修学旅行で同じ班だったので、もういいんじゃない?と思ったのだが、
「ええやん。けんたろう仲ええから入れてや」と言ってきて班に加わるとになった。
正直ちょっとウザいと感じたのだが、せっかくぼくを慕って来てくれたからそれ以上は何も言わないことにした。
この班は結構仲良くなって行ったので、休み時間に円になって一緒にバレーボールをやったりしていたのだが、はまはあまり運動神経が良くなかったので、レシーブでボールが明後日の方向に飛んで行って反感をかったりしていた。
あと、この班では『交換日記』をやっていて、内容はもう思い出せないようなたわいもないことをそれぞれが順番に書いていた。さくまはそれに加えて他所のクラスの女の子とも交換日記をやっていて、子供ながらに“なんかマセてるな”と思っていた。
そんなこんなで学生生活を楽しんでいたのだが、12月になって、高坂の家で『クリスマス会』をやることになった。高坂の親は医者をやっていて、家にエレベーターがあったり、ウサギを飼っていたりして、初めて見るものが多くて驚いたのを覚えている。
中でもぼくの目を惹いたのは、『ラジカセ』だった。ぼくは中学生以降かなりの音楽好きとなるのだが、この頃は自分で音楽を聴くツールを持っていなかったので、CDを入れると好きな音楽が聴けるこの機械が単純に羨ましかった。
*夏休みの宿題の話
小学校6年生の夏休みの宿題で『生活(技術と家庭科を足した授業)の授業』の宿題でクラス全員が縫い物の作品を提出することになった。ぼくは何を作ろうか迷った挙句、好きだった『セミのぬいぐるみ』を作ることにした。普通に作っても面白くないと思い、『ある仕掛け』をすることにした。
そして、無事に作品が完成し、展示していたのだが、どういうわけか誰も興味を示してくれなかった。だが、授業で作品を発表する機会があり、そこでその仕掛けを披露した。
それは、幼虫の姿をしたセミのぬいぐるみの背中にあるファスナーを開けると、中から成虫のセミが出てくるというものであった。たぶんみんなは“なんか茶色くて変なぬいぐるみ”としか思っていなかったのだろうが、いざそれを見せてみると、
「すっげえ、めっちゃおもろいやん」と称賛してくれた。
それからというもの、ぼくのぬいぐるみは大人気になり、最初は見向きもされなかったのに、休み時間にみんなが脱皮させて遊んでくれたので嬉しかった。
*たのちんとの話
6年生の時に同じクラスになった田上くんはぼくのなかでかなり印象に残っている子だった。髪の毛が多いことをぼくが揶揄うとちょっと怒ったり、でも凄く優しかったりしていて、ぼくらのドッヂボールグループの一員だった。
たのちんは当時から頭が良く、穏やかな感じなのにモテていて、バレンタインにチョコを貰ったりとかしていた。小学生は顔が良い、足が速い、頭が良い、とモテるというが、当時のぼくは足が速かったのにそういうのとは無縁だったので、単純にたのちんが羨ましかった。
たのちんとの話で一番印象に残っているのは、やはり『ピンポンダッシュ』だと思う。これは、知らない家の玄関のインターフォンを押して、その家主が出てくる前に走って逃げるという、はた迷惑な遊びで、基本的にこの地域にはわるガキしかいなかったので、たのちんのような真面目な子とでも、こういうわるさをやっていた。
ぼくらは家が近かったので、一緒に帰る時には分かれ道までひたすらこのピンポンダッシュをやって遊んでおり、今にして思えば、何がそんなに面白いんだという話なのだが、当時はこれにハマっていて成功するたびに喜んでいた。
単純なことなのだが、大人になった今では結構いい思い出になっていたりもする。
*いけもとの話
2学期の中頃、学校の敷地内にある畑で些細なことで池本くんと喧嘩になってしまったことがある。ちょっとしたことで口論になり、ぼくがいけもを挑発してしまっていた。それにいけもは激怒して、スコップを投げてきて、ぼくはかなり驚いたが近くの地面に刺さったので平静を装った。
彼の名誉のために言っておくが、彼は普段こんなことをするような子ではなかったし、この喧嘩は100%ぼくの方が悪く、いけもを挑発するようなことをしてしまったため起こったことであった。ただ、ながとんはわりと昔ながらの考え方で裁定を下す先生だったので、
「二人ともアカンわ。喧嘩両成敗やしゲンコツや」
そう言ってぼくといけもにゲンコツをし、次の授業の間中バケツを持って廊下に立たされることになった。この地域は神戸の東にあってわりと栄えてはいたものの、だんじり祭りが行われているような昔ながらの土地といった感じで、古き良き日本というところだった。
このことは断じて体罰などではなく、ぼくらの将来を案じて行動してくれたものであった。こういう愛のある指導があったからこそ、ぼくらの学校を卒業してグレたり犯罪者になったりした子はおらず、大人になってからも地元の友達と飲みに行ったり、上手く行かない時にも励まし合ったりできているんだと思う。
「さっきは言い過ぎたわ、ごめん」
「ああ、おれもやな。ごめん」
いけもとはこの時まではほとんど話したことがなかったが、互いの家が近かったこともあり、この件をきっかけに良い友達になれた。それからは、わりと一緒に帰るようになり、嫌なことがあった時のいけもの口ぐせだった「うーわー」というのをちょっと真似してみたり、違うクラスのかさいとひろたと登校している時に5千円を見つけて交番に届けて持ち主が見つかっておらず、もらえるのが楽しみだということや、身長が思うように伸びず、悩んでいるということを聞いたりした。
いけもは1月生まれらしくこの時、身長140cmくらい、ぼくは4月生まれで160cmくらいだったので、同級生だが結構な身長差があった。ぼくは当時はかなり脳天気な性格だったので、人と自分を比べるということが全然なかったのだが、そういえば周りのみんなは足の速さとか学力、容姿なんかもわりと気にして高めようとしているなと思い、初めて『競争』について意識した瞬間でもあった。
*二つのボールの話
6年生になると1学期の間バスケに凄く嵌っていた。休み時間の10分間だけだったけど、ミニバスをやっていた頃を思い出して楽しくプレーできていた。さくま、すけ、たかさか、かさぬまとかがよく参加していて、他のクラスと混ざって遊ぶことも多かった。
だけど2学期になると、ずっとバスケばっかりやっていたので少し飽きてしまい、今度はドッヂボールをよくやっていた。
ここでは、ミーミー(ハンドスプリングを教わった子)とながほり(学際で一緒に回った子)とみやも(野球を習っていてポケモンカードで勝負した子)とたのちん(頭が良くてモテる子)といけも(大喧嘩してスコップを投げられた子)と遊ぶことが多く、他の子が入ってやることも多かったが、基本的にはぼくを入れてこの6人で遊ぶことが多かった。
*放課後の公園の話
ぼくらのクラスはみんな仲が良くて、大体はさくまがみんなを誘って遊びに行く流れになっていて、公園に遊びに行ったり、彼の家に遊びに行ったりしていた。JRの線路より南側にはいくつか公園があって、そのうち『五反田公園』と『中之町公園』でよく遊んでいた。
『五反田公園』では缶蹴りをやることが多く、これは一人が鬼になり、逃げる子の中の一人が蹴った缶を探しているうちに鬼以外の子が隠れる。そして鬼は見つけると、
「けんたろう見っけポコペン(謎のかけ声)」と言って缶を踏む。
そうすると見つかった子はアウトになる。対する逃げる子の方は、鬼が缶を踏む前に缶を蹴り飛ばせば、ゲームがリセットされ、捕まっている子も含めて、もう一度逃げることができる。
全員捕まると『最初につかまった子が代わりに鬼になる』というシステムで、だいたいは、飽きるか日が暮れるタイミングまでやっていた。ぼくらはこの、鬼ごっことかくれんぼを足したような遊びが大好きで、『五反田公園』に集まると毎回のようにやっていた。
また、秋ごろになると、普通に鬼ごっこをしてもつまらないからと『町内鬼ごっこ』と呼ばれる大規模な鬼ごっこをしたりしていた。その時に、『中之町公園』に集まることが多かったのだが、みんなで固まって逃げていると、いつしか鬼からかなり離れて、暇になってしまうことがあり、ある時ぼくがガムを噛んでいたらたかやんが、
「けんたろう、今ポテチ食べたらガム溶けんで」
「そうなん?」
「そう。ポテチの油で溶けるみたい」
「ほんならやってみるわ」
そう言ってぼくは、ポテチを口に入れてみた。
「ほんまや、なんかちょっと溶けた」
「体に悪いかもしれんから、あんまやんなよ」
「うん、ありがとう。今回だけにしとくわ」という会話をしたのをなぜか覚えている。
こういう食べ合わせの問題というのは案外面白く、『きゅうり+はちみつ=メロン』で、食べ物に『醬油』を垂らすと『みかんならイクラ』『アボカドならトロ』『プリンならウニ』の味がするようだ。これは本人の主観によるので一概に正しいかは分からないのだが、話のネタとして一回試してみてもいいかもしれない。
*高跳びの話
6年生の体育は、運動好きのぼくにとって楽しい時間だった。自分たちでラインをひいて50m走のタイムを計って競い合い、7.2秒まで縮められたのが嬉しかったり、三角コーンで区切ってのミニサッカーで盛り上がったり、体育館でのバスケは時間を忘れるくらいに熱中したものだ。
その中でも特に印象に残っていて、その後のぼくの人生にかなりの影響を及ぼすものになったのが、『高跳び』の授業だ。その時は授業の都合で、2組の子と2クラス合同で男子だけでやっていたのだが、60センチから5センチずつ上げて跳んで行って、跳べなかったら脱落して行くというスタイルでの授業だった。
運動ができるような子たちも一人、また一人と脱落して行き、ぼくは最終的に95センチまで残ってクラスで一番跳ぶことができた。理由は恐らく4月生まれで身長が高く、いつも走り回っていたので、足の筋力が他の子よりあったからだと思われる。ぼくはこの授業が今までやった体育の授業で一番楽しかった。
“毎日こんな楽しいことができたらいいのにな。この時間がいつまでも終わらないでほしいな”そう思っていた。
また、それまであまりはなしたことがなかった永井に褒められたこと嬉しくて、それがきっかけで、それからわりと話すようになったりもした。そこで、もともと得意なことの方が、伸ばしていくのが楽しくて有利だし、ぼくはこの時、球技は苦手だが身体能力でなら勝負できるということを認識することができた。
学生の頃は、多少しゃべりが下手でも運動ができれば一目置かれることができ、仲間の輪に入ることができた。何か一つでも『人に誇れるものを見つける』ということが、学生生活において大切であると言えるし、それがなければ、自分が一番長くやってきたことは何なのか?ということを考えれば、自ずと道が開けて、進んでいくことができるんだと今になって思う。
*兄弟学級の話
仲山第一小には『兄弟学級』というのがあって、6年生は1年生、5年生は2年生、4年生は3年生の面倒を見るというような取り組みがあった。中でも印象に残っているのは6年生の時にペアなったわにだった。この子は5年生で同じクラスだったいのづめの弟で、顔がかなり似ていたのをよく覚えている。
あと、普通、自分の学年の先生以外はあまり覚えていないことが多いのだが、妹が3年生になった時の担任の先生は、凄く目立つ先生だったのでよく覚えている。この先生は小学生特有の安直なネーミングセンスによって『ゴリラ』というあだ名をつけられており、体が大きくてちょっと怖い雰囲気だった。
話せば優しいと言われてはいたが、普段から怒っている人などそうは居ないと思うので、それに関して半信半疑であった。2学期のある日の放課後、みやもとかたのちんと遊んでいると、はまが向こうで面白いことをやっているとぼくらを呼びに来てくれた。そちらに行ってみると、例のゴリラ先生が朝礼台になわとびを持って立っていた。すると周りの下級生たちが嬉しそうに
「先生もう一回やってよ」と何かをやることを促していた。するとゴリラ先生は
「よっしゃ、わかった」と言って朝礼台から飛び降りた。
それと同時に凄い速さでなわとびが回り、一度も足に引っ掛かることなくゴリラ先生は地面に着地した。幻の『五重跳び』を見たぼくたちは人間の限界を超えたようなその技を見て甚く感動したのをよく覚えている。
そんなゴリラ先生に一回だけわりと本気で怒られたことがあり、それは兄弟学級で一緒だったづめの弟のわにを肩車してあげた時だった。王子動物園に遠足で行った時にやってあげてから喜んでくれるからと会うたびに肩車してあげていたのだが、
「危ないからやめろ」
と言われ、他の先生からは言われたことが無かったので反発したが、結局それ以来肩車はしないようになってしまった。ぼくはこの頃からわりと聞き分けがいいタイプだったのだが、このことはかなり不満に思っていた。
ただ、先生たちには生徒の安全を守る義務があり、ゴリラ先生の言い分は正しかったと言える。いい加減な教師が多く、生徒のためを思わないような先生が多い中、この仲山第一小学校の先生たちは、日々ぼくらのことを考えてくれていたように思う。
*目の中の黒い点の話
6年生の半ばくらいにさくまと同じ班になった時に目の中に黒い点が現れるという話になった。さくまが言うには、寝不足の時や疲れている時に出やすいらしく、ぼくは小学生特有の“もしかして自分だけ”という気持ちでいたので、仲間がいて安心したのを覚えている。
これは正式には『飛蚊症』というもので、意識し出すと気にはなるものの、網膜剥離が原因の場合でなければ基本的には大丈夫なものである。小学生の時は年末年始以外は9時には寝ており、疲れるようなことはなかったのだが、日本の小学生は文章を読むことが多いので、目が疲れやすいということなのだろう。
*給食の時間の話
仲一小は、給食のスタイルが大葉小とは少し違っていて、手で持って運ぶようになっていた。銀色の鍋に入ったおかずを一人、クリーム色のトレーに入っているパン、水色のトレーに入っている米を二人で運んでおり、給食当番に選ばれた子たちが運ぶようになっていた。6年生の時にうっしー(牛久くん)という子が居て、その子はちょっと太っていて自分の分だけ給食を多めによそっていたのが面白かった。
また、5月に、給食で『ちまき』というものが出た。ぼくはこの時までこの食べ物を食べたことがなかったので、とても珍しく感じていた。これは関西だと外側の笹を剥いて中に入っているおもちを食べるというもので、逆に関東ではおこわが入っている。食べてみるとほんのり甘く、一瞬でぼくは忽ちこのちまきのとりこになった。
それから、家に帰って母にそのことを話し、たびたび買ってきてもらって5月になると妹と一緒にたまに食べるのが習慣になっていた。
あと、宇田川さんという子は、食べるのが結構遅かったので、いつも昼食後の掃除が始まっても残って食べていた。日本の学校ではパンを半分残していいという以外は基本的に給食を残すことが許されず、食べきるまで居残りさせられるのだ。
このように誰かが残っているのに掃除が掃除が始まってしまうのは酷いことで、『人を大切にする』という考え方が決定的に欠落しているのである。和を意識するあまり『個』が蔑ろにされていて、日本の子供の自殺率は世界的に見てあまりにも高い。
また、日本の小学校では教室を自分で掃除するという悪習が未だに残っており、『自分の仕事は自分でやる』という当たり前のことさえできていない。全員が同じでなくてはならないというような軍隊的な思想がまかり通っていて、全てのことを自分でやらなくてはいけないというようなことが求められている。
掃除は用務員がやればよく、誰かが食べているなら絶対に食べ終わるまで待つべきだ。そんな当たり前のことさえ分からないような今の社会は完全に狂っており、そういうところが、人を人とも思わないような『ダーク企業』を生み出すのではないだろうか。
*図工の話
6年生の時に、卒業記念の工作として『オルゴール』を作ることになった。ゼンマイを巻いて曲を流すと校歌がながれるというもので、ぼくは当時から納得しないとテコでも動かないような性格だったので、いろいろな参考資料の本を見比べながらオルゴールのデザインを決めていた。
そんな中、みんな続々にデザインを決めて行くのだが、なぜかぼくは全然決めることができなかった。何週も魚の図鑑を見てはオルゴールの絵柄を決めかねていたのだが、6回目の授業の時に、ようやくデザインを決めることができ、紙に下書きを描いていくことができた。
今にして思えば“先生はよく急かさずに待ってくれたものだ”と思うのだが、何をするにも同類というのはいるもので、同じクラスの大垣も、ぼくと同じくらいの時まで迷い続けていた。
この子はちょっと変わっていて、ランドセルの色は当時は男子が黒、女子が赤と相場は決まっていたのだが、珍しく茶色のランドセルを背負っていたり、ドラえもんの影響なのか何かを取り出すときに「テッテレー」と言って効果音を付けるような面白い感じの女の子だった。
そこからはひたすらカーボン用紙を下にひいて書き写したものを彫刻刀で掘り進めて行くだけなのだが、これがかなりやっかいだった。前に向けてやればいいものを、当時のぼくは力が入りやすいからと左手で板を持って彫刻刀を使っていたのだが、それが左手の中指に刺さってしまい、出血するということが何度かあった。
学習しろよ!という感じなのだが、当時は今にもましてアホだったので、バンドエイドを貼ったことで解決したとみなし、そのまま横向きで作業を進めていた。そんなこんなで無事に完成したオルゴールは、漆を塗ってきれいに乾かし、今でも記念にとして部屋の段ボールの中に眠っている。
*初めての読書の話
ぼくはいわゆる『脳筋(脳ミソ筋肉)』と呼ばれる部類の人であり、ほとんどまともに本を読んだことがなかった。図書館で本を借りる時も、図鑑以外は『適当に選んだ本を家に持って帰って読まずに返す』ということを繰り返していた。内容を聞かれることがあっても適当に開いたページの内容を答えていたため、それで特に困らずにいたのだが、そんなぼくにもとうとう年貢の納め時が来た。
それが6年生の夏休みに提出することになった読書感想文だ。これは全編をしっかり読まなくては提出できないようなものだと分かったし、宿題はちゃんとやるようなタイプだったので心機一転読書をしてみることにした。さて何を読もうかと探していると、目の前に有名な人物の伝記が数冊あるのが目に入った。
そしてその中でも一際ぼくの関心を惹いたのが『徳川家康』の伝記だった。この人物は織田信長、豊臣秀吉と共に『三英傑』として知られ、1600年の『関ケ原の戦い』で石田三成を破って『江戸幕府を開いた人物』である。
小学生の読書感想文としてはかなり渋いチョイスであったと思われるが、元来人目を気にしない性格であったため、当時のぼくでも知っていた日本の覇者の生涯とは一体どんなものであったのだろうかと読んでみたくなったのだ。
そして、夏休みに入って家で伝記を読んでいると、興味深いことがたくさん書かれていた。まず、家康公は幼少期に今川義元という武将に『人質』として捕まっており、そこで忍耐力が養われたこと。
こういう幼少期に苦労があった人物は、後に大成することが多く、日本では『若いうちの苦労は買ってでもしろ』ということわざがあるくらいだ。
次に、昔の日本は元服して自分で名前を決めるまでは親の付けた名前を名乗ることになっており、当時は子供に『拾い丸』のような変な名前を付けて鬼が連れて行かない(死んで鬼籍に入らないように)するという習わしが平安時代からあったにも関わらず、『竹千代』という少し洒落た名前であったこと。
三つ目に、戦に負けて逃げ延びた際にうんこを漏らしてしまい、その屈辱を忘れないために『しかみ像』という絵を家来に描かせたこと。これを読んだ時に、どんなに偉大な人物であっても、そこに至る道のりは決して平坦ではなく、数々の苦難を乗り越えた末に、栄光というのは手に入るんだなと感じた。
最後に、大の食通で『健康マニア』であった家康公が『天ぷらを食べたことが原因で胃を悪くして亡くなってしまった』ことなど、今まで知らなかったことを知ることができた。このことで読書にハマるとまでは行かなかったが、自分の知らなかったことが分かるようになり、世界が広がって行くのが楽しかった。
こういうところが多分読書の醍醐味なんだと今になって思う。この頃は知識欲が皆無だったのでそれが勿体なかったようにも思う。夏休みが終わって提出した作文が思いの外ながとんに褒められたこともあり、このことはぼくの中では良い記憶として残っている。
*トイレでの誤解の話
2学期のある日、委員会の話し合いがあったので、学年全体で違う教室に行っていたことがあった。ぼくは『図書委員』だったので図書館に行き、ベルマークを集めたり、本の紹介ポップを作ったりしていたのだが、不意にトイレに行きたくなって一番近かった6年生の教室がある階のトイレに行って用を足した。そこで出ようとしたのだが、そこにみやもと、彼と仲の良かった別のクラスの浅瀬が来て
「けんたろう!うんこ行ってたやろ」と言われてしまった。
「いや、行ってないよ。こっち使ってないし」と弁明してみても、
「行ってたやん、なあ浅瀬」
「そうやな、行ってたような気がするわ」と完全に誤解されてしまった。
当時から日本の小学校では大の方のトイレに行くのはカッコ悪いことというような、大人になってしまえばなんてことのないような謎の風潮があった。本当に行っていたのならまだしも、実際はそうではなかったわけで、ぼくはこのことがあった翌日にみやもとあさせからそのことをからかわれて
「うるさいな、行ってないったら行ってないんや」と釈明するも、
「嘘つくなって、けんたろおーがい」
「そうやって、認めろよな」
と言われてしまうのだった。あさせは美形で凄く顔がよく、6年生最後のアンケートでカッコイイと思う人の欄で一位になるほどの子だった。なので男女ともに信頼も厚く、ぼくは一時期このうウンコマンのレッテルを貼られることとなってしまった。
日本では疑わしきは罰するというような状況があったりもするため、誤解を招かないように紛らわしい行動は慎むべきなんだと思う。このことがあってからぼくは、学校でトイレに行くときには、『大の個室から離れたところで用を足す』ことで、あらぬ疑いをかけられないように注意することとなった。
*邪馬台国はどこにある?の話
たぶんぼくが小学生の時に出された宿題の中で一番難しかったのが『邪馬台国』はどこにあったのかというものだ。1990年代はインターネットもまだ全然普及していなかったので、父と母に手伝ってもらいながら土日の間中凄く頑張ってその宿題を完成させた。九州のどこかにあったということで落ち着いたが、かなり時間がかかって大変だった。
その翌日の月曜日に学校で同じ班だったたかやんにその話をすると、日曜の昼に2時間くらいで簡単に終わらせたと言われ、かなりショックだった。その話を聞いてから“もうちょっと適当にやればよかったなぁ”と思ってはみたものの、結局やり始めたら徹底的にこだわって完成させるのは性分らしく、この歳(30代前半)になっても全く変わっていない。
現在では『奈良県桜井市の纏向遺跡』で桃の種が大量に出土したものを炭素年代測定したことによって『邪馬台国』があった場所として最有力地とされている。話としては、九州にあったものが、外敵からの侵略のために本州へ渡り、ヤタガラスを追いかけるなどしてたどり着いたということなのであろう。古代のロマンも現代の科学技術の前では形無しであった。
*運動会での組体操の話
運動会での演技も佳境を迎え、6年生ともなると大きなことに挑戦するようになる。それが、日本の小学校では定番となっている『組体操』である。
これはみんなが土台になって上の子を支えてピラミッドを完成させるのだが、後に国連から危ないから止めろと言われるほどに危険で、上の子の肘や膝が刺さるので痛く、時間が長いという地獄のような練習だった。
加えて一番下の段だったぼくは、砂が手と膝に食い込んでいて、今思えばかなり不公平なポジションだったと言える。それでも日本のお家芸である、根性論の精神で練習は進められ、日々完成に向けて精進するのであった。
そんな中、ある日の練習中に突然ふるたが声を上げて泣き出してしまい、周りが驚いてしまったことがあった。
「うう~っ。ううう~っ」
うめきにも似たその声を聞いて、みんなどうしたのかと注目していると、
「痛い痛い」と声を上げだした。
ビックリして下ちゃんが近寄ると、ふるたに止まっていたハチが彼の体を離れて飛んで行った。ふるたは安心したのか泣き止んだが、それを見ていたながとんから
「あんた、それくらい自分で払い」と言って怒られてしまっていた。
クラスの子たちはそれを見て笑っていたが、ふるたにとっては災難だったことだろう。そんなこんなで練習を終え、適度な緊張感を保ったまま本番に入ることが出来た。いざ運動会の当日終わってみると、結構な達成感があり、こういうのも悪くはないなと思ったのであった。
また、この運動会には『応援団』というものがあり、6年生の時には、声の大きい子が集められて、さくま、みやも、すけとかと応援団をやったことがある。白いハチマキをして大きな声で応援するのはなんだか凄く楽しかった。
その時に好きだったのが、ペットボトルの中にBB弾を入れてマラカスのようにした楽器で、運動会が終わっても気に入ったからと遊びにいくたびにナップサックに入れて持ち運んでいて、みんなにバカにされながらもそれで遊んでいた。
*小体連の話
日本の小学校には少年団と小体連というものがあり、放課後に毎日練習し、それぞれスポーツの大会に出て試合を行うというわけである。ここでは他のクラスの子たちと合同で他校と戦って行くのだが、スポーツのいいところは、普段あまり関りがなかったような子でも、わりとすぐに仲良くなれるところだと思う。
ぼくは運動が好きなので、いろんな競技をやってみたくて、結果的に期間が違う、全ての競技に参加することにした。中でも一番印象に残っているのは、サッカーをやった時だ。ぼくはこの時期は主にバスケをやっていたので、サッカーでのパス回しが分からずに苦労した。
ある時、ぼくが何気なくパスを回すと、先生と同級生たちに、そのパスは違うと指摘されたことがあった。理由は、バックパスをしていたからで、キーパーに、直接ボールを返してしまうと、そこでパスカットをされてしまったら、一気にシュートまで持って行かれるので危ないというものだった。
また、指導してくれていた、1組のひろさき先生から、つま先で蹴る『トーキック(トーは、つま先という意味)』は足を痛めるから、足の内側で蹴る『インサイドキック』で蹴るようにと教えてもらった。
あと、ここで上手かったのは、鎗本と嵩井と嶋と江田だったと思う。この4人は後で参加したバレーボールも上手くて、スポーツが上手い人は『だいたい他のスポーツもある程度はできるものだ』ということを知ることができた。
小体連では男子であるため男の先生から習うことが多く、2組のひろさき先生と、3組の新谷先生に教えてもらうことが多かった。新谷先生は野球の松坂大輔選手に似ていて、えりあしをカリアゲにしていて爽やかな印象だった。5年生の時に受け持っていたこともあってすけと仲がよく、兄貴的存在であった。
すけと話していると必然的ににいたに先生とも話す機会が増えて、少しずつ打ち解けていった。6年生の2学期にサッカーの練習が終わって帰ろうとしていたところ、校舎の窓ガラスに夕日が反射していて、
「フラッシュが眩しい」と閃光を英語で言ったところ、
「フラッシュとはやるなあ、岡本」と言ってくれたのが、認められた気がして嬉しかった。担任として受け持ったことがなく、そこまで知っている訳ではない生徒であっても、先生たちは分け隔てなく接してくれていた。
あと、この頃すけは郷ひろみさんの『ゴールドフィンガー』という曲の振り付けに嵌っていて掌をクルクル翻しながら「ア~チ~チ~ア~チ~」と歌いながら手を動かしていた。それが無性にやってみたくて、すけに聞いて教えてもらったりしていた。
*あせらずゆっくりの話
小学生の時というのは何かと『加減』というものが分からない時がある。6年生の2学期に紙に必要事項を書くタイミングがあったのだが、その時に安川さんという子がもたもたしていたので、
「はやくしろよ」と言って鉛筆の裏で額をこずいたら、
「うるさいな」と言われ、鉛筆の芯がある方で額を刺されてしまった。
「いてっ。やめろや、そっち芯がある方やろ」それを聞いてかなり動揺したようで、「えっ、あっ」と言って、それから何も言わなくなってしまった。
休み時間が終わって、ながとんが教室に入って来て訳を聞かれ、やすかわだけ廊下に連れて行かれて、怒られたみたいだった。それで泣いて謝られたので悪い気がしたのだが、傷口がめちゃめちゃ痛かったので気にする余裕がなかった。
次の日に再度謝罪され、大丈夫かと聞かれた際、
「おう、大丈夫。寝たら全く、痛くなくなったわ」と言っておいた。
泣いていたのを思い出して見栄を張ってみたものの、本当は傷口がまだズキズキ痛んでいた。それから一週間くらい痛みが続いて、額に芯が残っているんじゃないかと心配していた。母に話すと
「もう切ってみて、確かめるしかないんじゃない?」
と言われたが、メスで額を切るのは怖かったので、
「いい、そのうち治るから大丈夫」と答えておいた。
結局、鉛筆の芯は額には入ってはおらず、2週間した頃にやっと痛みがひいていた。傷が治った時、“あの時、急かさずに待っておけばよかったな”と思ったのであった。
*不幸の手紙の話
小学生の時というのは大人になった今から考えると、誰にでも繊細で傷付きやすい部分があったように思う。その一つの例が『不幸の手紙』だ。ぼくは元来ガサツな質であったため、こういう話にはめっぽう疎かったのだが、ある時ながとんが、
「最近、不幸の手紙ってのが出回ってるみたいやけど、そんなもんは全然気にせんでもええからな。あんなもんで人が死んだりせえへんし、誰か4人に出さないと呪われるとか訳のわからんことが書いてあるらしいけど、なんなら不安やったら6年の先生らちょうど4人おるから先生らに出してくれて構わんからね。先生がおらん時に机の上に置いとってもええし、出されたからってその子を嫌いになったりせえへんから、遠慮せずに出しや」
と言っていた。ぼくはそもそももらったことがなかったので、存在に気付いていなかったのだが、宇田川に聞いてみたところ、
「女子の間では何人かもらってる子がおるよ」という返答だった。
ぼくら男子は基本的に腹が立ったら面と向かって言い合い、殴り合うのが常だったのだが、そう言えば女の子たちはそういう蛮行に打って出ることはなく、“陰でこういう陰湿なやり取りが繰り広げられていたりするもんなんだな“と思った。
けど、それは女の子たちの性格が悪いのではなく、華奢で力に頼ることができない女の子にできる苦肉の策なのだろう。男子は女子に比べて圧倒的に人間関係の悩みが少ないと言われるが、それはこういう所に起因すると考えられる。
現代社会も古来から受け継がれる競争社会の名残があって機能しているものなのだが、一人でも多くの人が幸せになるためには、互いに認め合い、蹴落とすのではなく、支え合って生きるということを念頭に置くべきであると考えられる。
*クラブ活動についての話
大葉小にいた時にはなかったのだが、仲山第一小では水曜日の午後からその日だけ『クラブ活動』があり、1年ごとに違うクラブに入っていた。
4年生の時に入っていたのが、『ボードゲームクラブ』で、オセロとか将棋とかをやっていたのだが、ぼくはやはりじっとしているのは向いていないと判断し、多分これが、ぼくがこれまでの人生で唯一入った文科系の部活だと思う。
そして、5年生の時に入っていたのが、『ナイスシュートクラブ』で、これは主にバスケとサッカーをやるクラブであった。だが、シュートと言っているのは名目だけで、その実は運動を楽しむといったものであった。
そこでは二つ変わったスポーツを経験して、Tベースをやっていて、これは、ピッチャーが投げる代わりに、プラスチックでできた柔らかめの筒の上に野球のボールを乗せて打つ野球といったスポーツであった。
狙いを定めれば普通に飛ぶので、多分大人がやるには不向きなものなのだが、小学生の腕力でやる分には楽しいものだった。
また、もう一つも似たような競技なのだが、野球ボールの代わりにサッカーボールを転がして蹴るというキックベースボールも経験した。これは単純にキック力が強ければ有利なので、パワーには自信があったぼくはボールの芯を外さない限りは出塁できたのでとても好きだった。
あと、6年生の時に入っていたのが、『ネットスポーツクラブ』である。これは、文字通りいろいろなネットを使ったスポーツをするクラブで、当時は好きだったのかもしれないが、今にして思えばなんで入ったのか不明である。ここで印象に残っている話としては、たのちんが三村の家に行くと言って、
「けんたろうも来る?」と言われて、
『自然学校』で喧嘩して帰った手前ちょっと怖いけど、このまま仲悪くなったら嫌だなと思ってついて行って、三村とは仲直りできていたので『ネットスポーツクラブAとB』があり、ぼくは嶋、鎗本と虎山と同じBの方だったようなのだが(卒アルを見るまで長年忘れていた)三村はAの方で別で、普段は一緒には活動していなかった。
だが、6年生の終わりの方に、ぼくらBの方の顧問だったひろさき先生とAの方の顧問だったほそかわ先生たちが、どうせだから最後は一緒にやろうという風に計らってくれて、2回ほどAとBで混ざって活動したことがあった。
その時は卓球をやっていて、三村と組んでいろんな台を荒らして周って楽しかった。小学生の時は変に肩ひじ張ってトレーニングとか勝ち負けに左右された戦い方をしなくてよかったので、純粋にスポーツを楽しめていた。
*音楽会の練習の話
5年生になると低学年生で使っていた高音の『ソプラノリコーダー』対し、低音が出る『アルトリコーダー』を使うようになり、授業でやる曲もそれなりに高度なものになって行った。前述の通り一生懸命に課題に取り組むのだが、ぼくは楽器に関してはあまり素養がなかったみたいで、悔しい思いをすることが多かった。
作曲をする授業があった時に、創った曲がなんだかしっくりこなくて、そのまま提出すると、先生が曲を少し書き直してくれた。すると、ぼくが頭の中でイメージしようとしていたようなものになり、頭の中でモヤがはれたような感じがした。
そして、自信を持ってみんなと市のコンクールに応募したのだが、結局は落選してしまった。だが、そこで入選した子がいて、それが吉村だった。
この子は、葉山と仲がよくて、背が低めで可愛らしい感じの子だった。日本の小学校では音楽コンクールというのを学年ごとにチームを組んでやるのだが、6年生の時にそこでボンゴとコンゴという打楽器をやることになった。
ぼくは人と同じじゃつまらないと思うタイプの人なので、普通にリコーダーをやるよりも、この、ボンゴかコンゴがやりたいと思った。
そこで、放課後にあったオーディションに参加したのだが、ダメだった。そして、結局は吉村と嶋に決まって、二人が叩いていたのがすごく羨ましかった。
だが、ぼくはみんな順番にとか、手を繋いでゴールとかいうのはクソだと思うし、頑張っていたり、才能があったりする、『実力者』が前に出てやるべきだと思っている。
真の平和は競争の中にこそあり、甘ったれて権利を主張し、与えられないことをただ嘆くよりは、強くなって奪い取るということを考えるべきだと思う。
*妹のケガの話
2学期のある日、ながとんから言われて、妹が指をケガしたということを知った。それはかなり重症なようで、友達と遊んでいる時に誤ってブロックを倒してしまい、左手の小指がその下敷きになって千切れてしまったのだそうだ。そこで、その指をくっつけて神経までつなぐ手術をするという話だった。
それを聞いた時に2年前に妹が盲腸で入院していた時のことを思い出し、“なんで妹ばかりが”という思いと“今日はまたあの寂しい一人暮らしの日になるのか”という思いが同時に押し寄せてきた。
そしていつものように放課後に校庭で遊んで家に帰ってみると、なんと妹がソファーに座っているではないか。普段なら別に驚きもしないような光景なのだが、居ないと思っている人がそこに居るというのは虚を突かれるもので、叫び声こそ上げなかったものの、幽霊でも見たかのように驚いてしまった。
「ケガもういいの?」
「うん。手術、もう終わったから」
「そっか、大事にしとけよ」
「分かった、ありがとう」と、そんなやり取りをしただけで終わった。
だが、いつも妹とゲームをやることはなかったのだが、なんとか元気にしてやろうと思い、後日に指が治る頃を見計らって、『がんばれゴエモンきらきら道中のミニゲーム』を一緒にやろうと誘った。ぼくは昔からどこか一方通行なところがあり、このことで妹が喜んだかどうかは分からないのだが、なんとかぼくが励まそうとしたことだけは伝わったようだった。
妹は傷が治ってからは普通に暮らしていたのだが、下松に帰った時には親戚から指のことを度々(たびたび)聞かれ、その都度見せるようにしていた。
「キレイに治って良かったね」
「痛かったでしょう。傷、目立たなくなるといいね」
などと、ここの親戚には人の悪い人が一人も居なかったため、このように優しい言葉だけを掛けてもらえていたのは、不幸中の幸いであったに違いない。なんにせよ、日本の医療技術の高さと、子供の周りには常に危険が付きまとっているものなので、本人にもその周りにもよく言って聞かせ、限界があるとはいえ、危ないものには注意させることが必要であると感じた出来事だった。
*ボードゲームの話
平成初期の頃には各家庭に『ボードゲーム』というものがあり、夜に時間がある日には家族で遊ぶというのが、日本の家庭の一つの日常であった。父は基本的にそういうのには参加しない人だったので、夜の9時くらいには2階の部屋に行き、さっさと寝てしまっていた。なので、うちの家にも3つほど存在していた『ボードゲーム』を使って、母と妹と3人で遊ぶことが多かった。
1つ目は『人生ゲーム』というもので、これはルーレットを回して1から10までの数字の中から出た目の数だけ進むことができ、最終的に億万長者を目指すゲームである。ゲームの中でまで拝金主義なのかと嫌になりそうではあるが、スポーツ選手やアイドルなど、現実世界ではほとんどの人がなれない職業を選択することができたりするのが、このゲームの魅力だったりもする。
2つ目は『ポケモンのボードゲーム』であり、これはポケモンアニメの主人公となり151匹居るポケモンの中からゲットできたポケモンを使いながらライバルを倒し、最終的にポケモンマスターになることを目指すというゲームである。
1990年代以降に子供だった人にとっては、お馴染みのゲームだと言えるが、それをボードゲームで再現したもので、おそらく家族でプレーすることを想定して作られているので、3人で遊んでいてとても楽しかった。
だいたい1時間前後でゴールできるので、妹と一緒に母にせがんでは、もう1回遊んでもらうのであった。本気を出せば子供のぼくらに勝つことなど容易かったのだろうが、母はルートを迂回したりしてゴールせず、大体はぼくか妹に勝たせてくれていた。当時からぼくらもそのことには感づいていたが、そのことには特に触れず、せっかく勝たせてくれているのだからと、それに甘えさせてもらうことにしていた。
3つ目は『大判小判ゲーム』で、これはそれほど有名ではないと思うので、やったことがある人は少数派であると考えられる。これもまた、資本主義の弊害なのか、億万長者を目指すというゲームで、店の商品を安く仕入れることができる『老舗の証』というアイテムや『瓦版カード』でイベントがあったり、『競市カード』で商品を仕入れたりと、これまた面白い要素がたくさんあった。
現代ではデジタル化されたコンテンツが多くなって来ているが、こういうアナログな遊びというのも良いもので、画面とにらめっこするだけでなく、時にはこのような実物で遊ぶという体験が必要であると思われる。
*2000年問題の話
小学校6年生の冬休みに、ぼくらは西暦2000年を迎え、新たな時代への一歩を踏み出した。だが、そこには課題もあり、まずその代表例として語られているのが『2000年問題』である。
当時日本の会社ではシステムを1998年なら98、1999年なら99のように19の部分を省略して表記しており、それが00なった時に1900年とみなされ、本来2000年であるはずのシステムが正常に作動するかと言った問題であった。
ぼくの父も他のサラリーマンと同様に12月31日には会社に泊まり込んでその対応に追われたが、特に何もなかったようで1日のうちに帰って来た。ぼくらはこの年は父の仕事があるからと田舎には帰っておらず、初めて自分たち親子だけで過ごした。母が作ってくれたおせち料理を食べ、珍しく雪が降ったので(神戸では年に1、2回しか雪が降らず、数年に一度しか積もらない)雪だるまを作って遊んだのであった。
*仲山市場の話
6年生の3学期にはみやも、いけも、たのちん、ミーミー、ながほりと一緒に遊ぶことが多く、公園で遊んだ後に駄菓子屋に行くことが多かった。
日本の小学校はだいたい午後3時までには5時間目の授業が終わるので、放課後は暗くなる7時くらいまでは遊んでいた。学校のすぐ近くに仲山市場というところがあり、そこにおばあさんが一人で営んでいる駄菓子屋があった。
そこには『ビックリマンチョコ』や、10円で買える水色の凄く小さな球体のラムネが入っていて小さなシールがオマケで付いているお菓子、30円の魚雷のようなうすいビニールに入ったジュースなど魅力的なものがたくさん売られていた。
ある日のこと、みんなで仲山市場に行くと、みやもとながほりが何やら話していた。
「みやも、いっつもビックリマンやな」
この『ビックリマンシール』というのは当時爆発的な人気を誇っており、オマケのシールだけ抜き取ってウエハースをすてる子がいるというのが社会問題になったりもした。ぼくらはそんなにお金があった訳ではなかったので、すてたりはしていなかったが、めずらしいシールを持っているのが一種のステータスでもあった。
「お前、買いすぎやろ。どんだけ買っとんねん」みやもにそう言われ、ながほりは
「ええやん。これ美味いから食べたいんや」
見るとながほりは例の小さなシール付きのお菓子を300円分買っており、透明のビニール袋に入れていたためBB弾がたくさん入っているような感じになっていた。その異様な光景がなんだか無性に可笑しくて、長いことみんなで笑い合っていた。
今ではめっきり少なくなってしまっているが、1990年代にはまだこのような駄菓子屋がたくさんあり、子供たちの遊び場になっていた。
2010年代の日本では、公園で大きな声を出してはいけないとか、球技禁止であったりとか、大人の都合に振り回されて子供たちが自由に遊べなくなって来ている。このような事態を打開するためには、譲り合いう、分け与えるというような考え方を持てるようになるべきである。
現代日本は有名な資本家が何兆円も資産を握りしめて、トランプの七並べで片側を堰き止めているような有体であるが、欧米の思想である社会的地位のある者はその地位に見合った社会的貢献をしなければならないという『ノーブレスオブリージュ』の概念が日本にも早く根付いてほしいものである。
*おこづかいの話
ぼくの小学生の頃のお小遣いは1、2年が300円、3、4年が400円、5、6年が500円という少し変わった金額設定であり、3年生と5年生でお小遣いが増えた時には、会社で昇進したような感動があったものだ。
この頃から母は周りに合わせて金額を決めるといった考えは皆無で、常に自分の判断でこの金額を設定しており、客人であってもセルフサービスと言って応対したりと、まさに典型的な末っ子というような人であった。また、当時はかなりルーズな性格でもあり、ちょうだいと言わない限りは、お小遣いを渡すのをたびたび忘れていた。
この頃はトミカが一台360円、ミニ四駆が600円であり、一旦それを手に入れてしまえば、4年生の時までは、おやつを買った後で特段ほしいものもなかったため、いつの間にか貯金がたまって行った。
5年生になってからは大好きだったポケモンカードの拡張パック(カードが10枚入っている袋)が300円であったため、それを月に3つ買っていたのでどんどん貯えが減って行き、6年生ともなるとお金の管理をしっかりしなくてはいけないということで、クラス全員がノートに家計簿のように収支を記録して先生に提出していた。
このままでも十分な金額なのだが、元来欲深いぼくは、高学年生になるとどうしてもお金がほしい時などは、父に頼んであることをさせてもらっていた。
それは『背中ふみアルバイト』というもので、15分ほど父の背中に乗ってアンマのように足でコリをほぐすと、父から金500円を受け取ることができるというものである。
母は父をケチだと怒り、そんなことしなくても普通にお金をあげればいいのにと言っていたのだが、今にして思えば、これは早くに父親を亡くし、その後に苦労して大企業に勤めた父なりの教育だったのかもしれない。
こんな感じで毎月お小遣いをやり繰りしていたわけだが、当時のぼくにはどうしても手が出せなかったものがあった。
それが当時から大人気だった『コロコロコミック』で、ぼくの本来のお小遣いは500円であったため、当時から500円であったコロコロを買ってしまうと、それだけでその月のお小遣いがふき飛ぶというものだった。
だが、中にはお小遣いを千円とか二千円とかもらっている子もいたりして、そういう子は毎月コロコロを買っていた。
それが羨ましかったりもしたのだが、その子たちが本屋で買ったものを見せてもらったりしていたので特に気にすることもなかった。結局は小学校を卒業するまでコロコロを買ったことはなく、一種の憧れのようなものを抱くようになっていた。
これは別に親が悪いというわけではなく、限りある人生の中では、時に手に入らないままになってしまう忘れ物のようなものが存在するのだ。
これは手に入れようとすることを決して諦めてはいけないもので、生きていく上で、そういった『念願を叶えるために生きる』というのもまた乙なものなのではないだろうか。
*みんな大好きカブトムシの話
6年生の時にみむら、たかむら、しらはまの3人が『カブトムシ』を飼っていて、それを見せてもらったことがある。JR摂津本山駅の南側にあるショップで飼育に必要なエサのゼリーやおがくず、虫かごと幼虫を購入することができ、そのショップの前に集合して虫を見せ合ったりしていた。
ただ、ぼくは当時は自分で育てるのがめんどくさかったので、自分で欲しいとは思わず、みんなが飼っているのを見せてもらっていた。やっぱり『カブトムシ』と言えば全国の小学生の憧れで、見せてもらう度にテンションが上がっていた。公園のベンチの上や切り株の上などで自慢の『カブトムシ』同士を戦わせるのは凄く楽しいように見えた。
1990年代のこの頃は日本では『カブトムシ』人気がとても高く、デパートで売られていたり、成虫の十数センチあるような個体は数万円で取引されていたりもしたようだ。それに準ずるクワガタもそれなりの人気を誇っていて、珍しい物などは特に人気が高かった。
また、親と一緒に森にキャンプに行って腐葉土を掘り起こしていたら幼虫が見つかり、『カブトムシ』が手に入ったと喜んでいたら、いざ成虫になったらカナブンだったので、これ以上育てても仕方ないから泣く泣く逃がしたというような笑い話もあったりする。いずれにしても子供の頃にこういう体験はしておいた方がいいと思うので、一度くらい『カブトムシ』を育てておいてもよかったかなと今になって思う。
*ボールが使えなくなった時の話
日本の小学校には一輪車が置かれていることが多く、6年生の3学期になるとながほりと一緒になって練習していた。ぼくは卒業までになんとか50mくらいは乗れるようになったのだが、ぼくの妹は校庭を一周できるようになっていたようなので、もう少し早く始めればよかったかなとも思った。
一方のながほりは、あまり一輪車が得意ではなかったようで、乗る時に中継地点にしていたウサギ小屋まで行けるように一緒になって練習していた。ながほりがちゃんとウサギ小屋まで行けるようになった時は、他人事だがなんだかとても嬉しい気持ちになった。
*ながほりとの話
ドッヂボールグループには、5年生の時に学祭を一緒に回った、ながほりも居て、性格が似ていたこともあって、よく好きなテレビ番組の話をしたりしていた。
「俺、いいともより、ごきげんようの方が好きやねん」
「あっそれ俺もやわ。なんか話を聞くだけの方が落ち着く」
「昨日の週間ストーリーランド見た?俺、あの話で泣いてもーたわ」
「見た見た!俺もすっごい感動したわ」
あの話とは、おばあちゃんのたまご焼きという話で、上京する時に家にお金がないのに、昔は高価だった、たまご焼きをお弁当に入れてくれた母を想って、電車の中で青年が号泣するという話だ。
当時のぼくは週間ストーリーランドでは、口が上手くなる口紅や、執筆がはかどるペン(めっちゃほしい)などの不思議な商品を売るおばあさんの商人の話(だいたい最後に商品が壊れて教訓をくれる)が一番のお気に入りだった。
他にはいわゆる大岡裁きのような奉行所での、けちんぼでいつもウナギの匂いだけ嗅ぎにきてウナギを食べて帰らない客に、ウナギの匂いの代金はお金の音で支払えというようなやりとりを桜吹雪の入ったお奉行様が行う話や、船と岩をロープで結んで遺体を乗せ、岸から発進させて事故に見せかけるという殺人事件を暴く名推理を展開する女性刑事の話など、どこかで見たような話のパロディが多く放送されていた。
この番組は今でも熱狂的な懐古厨がいて、日本のインターネット上では度々(たびたび)その面白さが話題に上るのであった。
また、ながほりには「インチキや!」という口癖があって、みんなでマネしてからかったり、この時期すごく『泣き虫』で、事あるごとに泣き出してはみんなから「泣くなって」と言われたりしていた。
ある時、授業中に、例の如く、ながほりが泣き出してしまったことがあって、みんなで慰めていたのだが、ながとんが、「あんた、いつまで泣いてんの。もう6年生なんやし、そんな、ウソ泣きばっかしとったらアカンで」と言ったのだ。
するとながほりは何を思ったか泣き止んでしまい、本当に泣いていると思っていたぼくらは、あっけに取られて驚いてしまった。今だったら、もしかしたら問題になるのかもしれないが、やまとんはこの時、確実に『ながほりのためを思って』言ったことであり、怒りに任せて自分の感情をぶつけたわけではなかったと断言できる。
昔の日本の小学校では、こういう生徒のためにあえて身を削ってでも厳しいことを言う『叱る』ことができる先生が数多く居てくれた。それは本当に有難いことであったし、今風の三流教師に多い『感情に任せて怒鳴り散らすだけ』というのは言語道断なのである。このことがあってから、ながほりは泣いてゴネるようなことはしなくなり、みんなと同じように、自分の思いを強く主張できるようになった。
*シャーペンについての話
日本の学校はルールを大切にしていて、ぼくが小学生の頃(1990年代後半)には学校でシャープペンシルを使ってはいけないというルールがあり、全員が鉛筆を使うことを強要されていた。これはシャーペンだと筆圧が弱くなってしまうということらしいのだが、みんな結局は公文とか日能研(両方、塾の名前)ではシャーペンを使っていたので、意味がないと感じていた。
ぼくらより少し若い世代になると、りんご5個とみかん3個で合わせて何個?という時に3+5=8だと順番が違うので、5+3でないと正解でないといった話が物議を醸したりもしているが、どうでもいいことにこだわって大局を見失うのが日本人の悪いところだと思う。
現代日本は不寛容社会と言われて久しいが、他人に厳しい人間は、一見優位に立っているように見えるが、自分もその行動をとれなくなったり、他の行為が妨げられたりと、実は自分の首を絞めることにもなっている。相互監視社会、SNSやtwitterによって2020年代前半の今、日本全体が大きな村のようになっている。
こうした息苦しさを生んでいるのは他ならぬ日本人自身であり、ダーク人間がダーク企業を作り、ダーク企業がダーク国家を形成する。まずは異常に細かすぎる日本人の愚かしい人間性を世界水準に直すところから、令和の文明開化は始まるのではないだろうか。
*ポケモン金銀の話
1999年11月に発売された『ポケットモンスター金銀』はポケモン史上最大のヒット作であり、ゲームボーイカラー対応、時間と日付の概念が加わったり、前作ではポケットが一つしかなく不便だったものが、たいせつ、モンスターボール、技マシンなど専用のものができたりと至れり尽くせりであった。
この頃はインターネットがなかったのに、なぜかどこの学校でも裏技が周知されていて、全国的に知れ渡っていた。それは多分、塾やボーイスカウトなどで他校の子と情報交換をしたり、テレビ番組や雑誌で小さく紹介されていたような事柄でも大いに興味を持って記憶し、みんなで共有していたからであったと考えられる。
正当な裏技としてはポケモンを預ける際に『レポートを書いています電源をきらないで』の部分で電源をきるという暴挙に出ると、ポケモンが手持ちとボックス両方にいるといういわゆる『増殖バグ』や、これを応用して最初の3匹を全てもらえたり、むしとり大会を離脱して造る『色違いバグ』など楽しみ方がたくさんあった。
だが、情報にはやはり『ガセネタ』もあり、スケボーが使えるだとか、サイホーンがドンファンに、ライチュウがデンリュウに進化するだとか、夜の12時にきんのはっぱとぎんのはっぱを持たせてウバメの祠に行くと『セレビィ』が出て来て戦闘になるという、もっともらしいものまであったりした。
この頃にはまだ『5文字ルール(ポケモンの名前の長さが5文字まで)』が機能していたり、ワイヤレスなどあるはずもないので通信ケーブルを持っている子がヒーローになれたりと古き良き時代であった。不便だが、『その不便さを楽しむ』ことができるような時代でもあった。
*当時流行っていたものの話
ぼくら『ゆとり世代』と呼ばれている1987年4月生まれから2004年3月生まれまでの世代は昭和と平成の境目に位置し、様々なオモチャの変遷を知ることができた。
中でも強く印象に残っているのが『ビックリマンシール』と呼ばれる60円の正方形の形をしたウエハースのオマケに付いているシールで、1985年に発売されるや否や爆発的に売り上げを伸ばし、世間の話題をかっさらって行った。
ある時『コサックタンス』というタンスの姿をしたキャラクターのシールを遊びに行った時にポケットに入れたまま帰って、そのまま洗濯かごに入れてしまい、ズボンと一緒に洗われてしまったことがあった。
後日ポケットを探っていると見知らぬものが入っていて、何かと思って驚いたが、幸いシールは無事であった。
だが、大切なシールが台無しになっていたかもしれないというなんとも言えない悲しい気持ちになったのをよく覚えており、このことでズボンを脱ぐ時にポケットの中から物を出すように心掛けるようになった。
洗濯する側の立場としては子供の大切な物が入っていることを想定し、洗濯機に入れる前には時間が許す限りポケットの中だけは見てあげてほしいと思う。
他にも『たまごっち』という育て方によって進化の仕方が変わるオモチャや、『ハイパーヨーヨー』というヨーヨーの軸にベアリングがついていて空回りさせることができ、犬の散歩やループ&ループといった様々な技があるオモチャなど面白いものがたくさんあった。
戦後の何もなかった頃の話をおじいちゃんおばあちゃんから聞かせてもらえることがあったり『ご飯を残すと作ってくれたお百姓さんに失礼だ』というようなことをよく言われていたりもしたため、これらのオモチャを邪険にせず一つ一つ大切に扱うことができていたのは良いことだったと今になっても思う。
*クラスで流行ったモノの話
6年生の時に流行ったモノと言えば、まずは『ペンギン』を思い出す。小学生の時というのは可愛いものに目がなかったりするもので、特にみやもはこの生き物がお気に入りで絵に描いたり、シールを持っていていろんなものに貼ったりもしていた。
次は『いいじゃん』というフレーズで、これはぼくが標準語で言っていたのが珍しかったのか、ぼくのキャラの問題なのか、一時期ちょっとしたブームになっていた。ながとんも「それじゃダメじゃん」とか使ってくれてウケたりしていた。
最後は『ハサミのものまね』でこれはながほりが、ものまねゲームの時に引き当てたもので、これは単に頭に指の先を合わせてmの字にし、足を開いて閉じるという動作をするだけなのだが、なんだかその間の抜けたポーズが面白く、その日一番の笑いをかっさらって行ったのであった。それからは事あるごとからかわれており、この話をすると「やめろや」と言って抵抗したりもしていた。
また、学年全体では『たまごっち』が大流行していて、本当は学校に持って来てはいけないのだが内緒で持って来て、キャラが世話不足で死んでしまった時に流れる音がして笑いが起こり、先生に没収されてしまうということがあったりした。
いずれにしても流行り廃りは早いもので、ほんの数ヶ月もすれば興味を持たれなくなるというクリエーター泣かせの状況であった。
*電車マニアたちの話
6年生の時に同じクラスになった下村と古田は、かなりの電車マニアで、阪急電車の音を聞いて車種が分かるという強者だった。みんなからは『へんこ(変な子の意)』といわれて、からかわれていたが、しもちゃんも、ふるたも、楽しそうにしていた。
休み時間に外で遊ばずに教室の前と後ろの扉に陣取り、ぼくらが出入りしようとすると自動で開閉してくれていた。その時に、
「プルルルルルルル、ドアが閉まります、プシュー」
という感じでアナウンスしていたのだが、一回ふるたにドアをぶつけられて、それに怒ってボコボコにして泣かしてしまったことがあった。ながとんからも授業を一つ潰すくらいの時間怒られてしまって、今にして思えば、少しくらい寛容になるべきであり、短気は損気であったと言える。
*よこおの話
3学期になると、あまり話したことのなかった、横尾という子と仲良くなった。よこおはいわゆる、おたふく顔で、頬がふっくらしていて常に笑っているような顔だった。6年生の時にはだいたい前がさくま、後ろがミーミーだったのだが、3学期の身体測定のあと、ミーミーとよこおが入れ替わったため、よく話すようになった。
特によく話したのが吉本新喜劇の話で、関西では土曜の昼に生放送で半ドン(土曜に午前中半分だけの意)で授業を終えて昼ご飯を食べながら見ることが多かった。
校外学習として、当時の桂三枝さん(後の桂文枝さん)の寄席を見に行った時にもお笑い談議に花が咲き、卒業間際に新しく友達ができたことが嬉しかった。共通の趣味とか、好きなものの話は、初対面の話題としては最適であると言える。
*算数の授業の話
小学生の時に一番得意だったのが算数だった。テストは大体100点で、授業で聞いたら一発で全部解けていた。宿題で計算ドリルというものがあったのだが、家に帰ってから難なく解けていて楽しかったので、一番好きな科目だったと思う。
ある時、クラスでテストを返却していたのだが、そのテストでぼくだけ100点だったことがあった。この時ながとんに、みんなに問題を解説するように言われ、
「あんた、ちょっと前で解説してみ」
「えっ俺が?」
「100点やったんやからできるやろ?ほら」
そう言われてちょっと恐縮しながら解説してみると、
「やるやん、けんたろう!めっちゃよく分かったわ」
と、みんなに凄いと言ってもらえ、この体験でかなり自信が付き、数学がどんどん好きになって行った。いたずらに子供を怒る大人は多いが、ぼくは基本的に“褒めて伸ばす”ということが大切で、その子の自尊心を保ってあげることが必要であると考えている。
日本が昔から自殺大国であるのも、人をけなして暗い気持ちにし、“モチベーション”というものに対する配慮が全くないからだと思われる。生徒のためを思う教育か、教師の都合のための作業か、学生自身はしっかりと見極め、気が付いているものである。
人を大切にしない国の末路は革命か滅亡しかなく、愛国者の居なくなった国では、もはや体裁など保てようはずもない。海外に金をばらまき、日本の子供から搾取することしか考えないような平成までの教育では、移民に乗っ取られて国定などそのうち崩壊してしまうだろう。
未来を担う若者に希望を持って生きて行ける環境を与えてあげることこそ、“愛国心”であると言えるのではないだろうか。山本五十六の言うように、やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば人は動かないのである。
*社会の授業の話
数学とは逆に、ぼくが小学生の時に一番苦手だったのが社会だ。小学校高学年になって生活の授業が理科と社会に分かれたのだが、ここから全然問題が解けずにいつも苦労していた。
なぜ解けなかったかというと、ぼくはこの頃から『記憶する』ということが大の苦手で、人に何かを頼まれる時に、『覚えて』と言われるのが今でも一番嫌なくらいだ。 かのアインシュタインも、記者から方程式を覚えていないことをとがめられた時に、
「既に書いてあるものをなぜ覚えないといけないんですか?」
と反論したそうだが、当時のぼくも正にそういった心境であった。ある時、テストという名目ではあったが、教科書を見ながら解いてもいいというものが実施され、一生懸命に手を抜かず本気で解いて行った。
だが、時間いっぱい解いたにも関わらず、採点して返って来たテストを見ると40点しかなく、他の子は80点とか90点とか取っていたので凄くショックだった。周りの子らに聞いてみると
「だって答えを覚えてるし、そもそも見ながらできるんやから簡単やん」
と言われ、自分が人より劣っているということに対してとても悲しい気持ちになった。この時から社会が大嫌いになり、ノートは取るが、勉強自体は小学生の間には全然しなくなってしまった。
日本の学校は一方通行の演説での授業がほとんどで、一人一人の理解度を確かめることもせず、ただ丸を付けるだけのテストを行って分からない所を個別に教える気などさらさらない。
北欧で行われているように生徒一人一人の習得状況に合わせた『個別の指導』というものを行わなければ、将来的な日本の子供たちの学力向上は望めないのではないかと思う。
頭ごなしに勉強しろと言うよりも、まずはインプットよりもアウトプットが大切で、エビングハウスの忘却曲線に従って1日目、3日目、7日目に思い出すようにすることや、言葉を覚えてからその意味を理解して行き、実際に使ってみることで定着率を上げるべきであることなど『勉強の仕方』から教えるべきではないだろうか。
プリントにして配らず、いちいち板書を写したり、授業として打ち込んだことが生徒に響いているのか、効果を確認しないことなど、日本の学校で行っていることは『やった気になっている』という日本人の愚かな本質をよく表していると言える。
令和より先の時代では、そろそろ予定を熟すことよりも、体調や壁を超えるためのテクニックを共有することなど、『生徒ファースト』の考え方を持つべきではないだろうか。
*早起きが苦手だった話
6年生の時もそうだったのだが、ぼくは登校時間が遅い方で、朝の準備に1時間もかかっていた。その主な原因としてはテレビを見ていたからであり、この当時は朝のこども劇場というのをやっていて、幽☆遊☆白書やらんま1/2などの面白いアニメが放送されていて、中でも一番熱中して見ていたのがキン肉マンである。
キン肉マンは超人と呼ばれるキン肉ムキムキのヒーロー主人公がプロレスをして悪い超人を仲間と共に倒すというアニメであった。大人にも子供にも大人気で、キン肉バスターやキン肉ドライバーなどのかっこよくて覚えやすいキャッチーな必殺技が多かった。
中でも『マッスルインフェルノ』と呼ばれる人間の体にサーフボードのように乗って頭から壁に叩きつける技は当時かなりの衝撃を覚え、『これぞ正に必殺技だ』と思ったのを記憶している。
だが、この放送には少しだけ問題があって、この番組はなぜか8時から始まるので、2話見ようと思ったら、8時25分から始まる学校に遅れてしまうのだ。ぼくも他の友達と同様この番組を見ていて遅刻しそうになったことが何度もある。
1話目と2話目の間のCMの時に家を出ることが多かったのだが、特にこの番組が好きだったきたは、この時期に何度もギリギリに来ていたと思う。
それに対してみやもはいつも朝が早くて、いつ行っても校庭でドッヂボールをやっていた。多分それは野球をやっていたことで朝早くても起きてその場所に向かうといういい習慣が身についていたためだと思う。
いつも早く登校してぼくも大好きなドッヂボールをやっているのを見て羨ましく思っていたのだが、その面白さのあまりキン肉マンを見るのはどうしてもやめられないのであった。
*朝の会での歌の話
ぼくらのクラスでは朝の会の時に流行りの歌を唄うという一風変わったことが行われており、その月の曲を決めてはラジカセ(ラジオカセット)で流しては唄っていた。
中でも印象的だったのが、サザンオールスターズのTSUNAMIで、1月にリリースされてからというもの爆発的な人気を博したその曲は、瞬く間に国民の心を掴んで離さなかった。
ぼくらも例外ではなく、最終的に約300万枚もの驚異的な売り上げを達成することになる(日本では100万枚売れたら大ヒットと言われる)その曲が、1月の課題曲としてほぼ満場一致で決定した。朝からJーpopを流して唄う小学生というのは平和で言論や文化に寛容になった平成ならではの光景かもしれない。
ただ、平成初期はバブル崩壊後(1989年頃崩壊)ということもあってか、社会全体と同じように暗い雰囲気の曲が多かった。TSUNAMIも例外ではなくそうなのだが、純愛を唄ったその曲に、どこか希望を見出した若者も多かったのではないだろうか。
*4組の女の子の話
6年生の時のクラスはみんな本当に仲がよく、喧嘩することはあったのだが、それが尾を引くようなことは全然なかった。小学生の頃というのは、思春期前で女子でも意識せずに接することができていた。
たかさかは凄く優しくて、ぼくの手が荒れていた時に「ハンドクリームあげよか?」と言って気遣ってくれたり、ぼくの母は基本的にそういうところには無関心だったので、6年生になって髭が伸びて来ても髭剃りを買ってくれていなかったのを心配してくれたりした。
そとやまは家が近所だったので、学校から帰って遊びに行く時にたまにすれ違ったりして、目頭と目尻が横に広いいわゆる猫目と言われる子だった、えのもとはふんわりした雰囲気が男子に人気で、この子のことを好きだという子が何人か居たのを覚えている、かさぬまは明るい子で髪を横にくくっているのが印象的だったし、
うっさん(内川さん)は運動ができて運動ができて明るい感じで、とおやまはクラスで一番身長が高くて、性格もどっしりと構えて肝がすわっていた、うたがわは男子とは喧嘩しがちだったけど女子とは仲が良かったし、
ちょっと変わった感じのおおたとか、暗めだけど実は面白いおはらとか、コメントが鋭いはりがねとか、コメントが柔らかめのこすじとか、みんなキャラが立っていたので、本当におもしろいクラスだったと思う。
卒業してからもう20年くらい経っているのだが、今でも男子17名、女子17名全員を思い出せるのは多分このクラスくらいだろう。読者の方にも、こういう印象に残っているクラスが一つくらいはあるのではないだろうか。
*他のクラスの子たちの話
ぼくらがまだ小学生だった頃には、友達の友達はみな友達といった感じで仲良くなったり、あまり気が合わないと、そのまま疎遠になったりもしていた。子供の頃というのは、変な先入観なく遊べるものなので、大概は次に会う時はもう友達として接していた。
卒業式の練習の時に、当時そこまで話したことがなかった江田から、右手と右足、左手と左足が同時に出ていて、オモチャの兵隊のような凄く硬い動きになってしまっているのを指摘されたこともあった。別に緊張していた訳ではなかったのだが、普段とは違う雰囲気に、体が自然と硬直していたのかもしれない。
僕らの学年は総勢120名ほどだったので、この頃になると違うクラスだけど話しやすかった黒川、縁之下、先原、図書委員で一緒だった縦丸、横出、徳信とか、明るくて目立っていた吉村、小立、松井、福山とか、もう学年の殆どの子は知っていた。
いろんなオモチャで遊んでいて、板に丸い突起が複数ついていたり、人形やドラゴンなどの足に凹みがある『レゴブロック』や、前述の幼稚園児の頃にもらった『くねくね曲がるブロック』など様々なブロックのオモチャが存在した。
その中でも当時わりと流行っていたのが『ゾイド』というオモチャで、これはプラモデルの高度な物といった感じの代物で、だいたいはお金に余裕がある家の子が持っていた。アニメがあってその中でゾイドが戦っていたり、子供向けの番組で新しいのが出ると紹介したりしていたのだが、ぼくは当時これには全くと言っていいほど興味がなかったので一つも持ってはいなかった。
ただ、何人かが公園に持ってきて見せ合っていたり、友達の家に行くと飾ってあったりしたので、存在自体は知っていた。
公園に持って行って遊んだりしていたのだが、おにごっこが始まると、みんなそっちに夢中になって、オモチャそっちのけで遊んでしまっていた。
この頃の日本は『水と安全はタダで手に入る』と言われるほどに治安がよく、たまに盗難が発生したりはするのだが、基本的には安心して暮らせるような社会であった。
なので、それなりに高価であるはずのこのオモチャを、ほとんど何の危機感もなく放置して遊んでおり、今にして思っても“よく盗まれなかったものだな”と思えるような管理体制だった。
*3学期の遊びの話
6年生の3学期になると、みんな受験で忙しくなったので、放課後に中学受験のないみやも、さくま、すけ、たかやんと罰ゲームをかけてゲームをするということが多かった。
ジャン負けした方(じゃんけんをやって負けた方)がやるという感じで、負けると木にチューするとか、学校にあった壁の前に立って的になってボールを受けるというようなことをやっていた。
また、学校の近所にあった五反田公園では、楽しかった思い出がたくさんある。ぼくらが子供の頃はまだ大きな声を出したりしても大丈夫だったので、公園で缶蹴りをやったり、木登りをしたりしていた。ゲームをやる時もあって、ポケモンの通信対戦や、デジモンのシャカシャカ対戦などをしている子もいた。
そんなある日、クラスのみんなで遊んでいたのだが、門限などもあり、結局みやもとながほりと3人で残ることになった。何をしようかという話になったのだが、あまりいいアイデアが浮かばず、近くにある石を放り投げながら話していた。
そして次第に誰かが書いた円の中に石を入れるという風になり、そこから外れたら暴露というゲームになって行った。
最初にながほりが外して語り始めた。そして次にぼくが外して語り、最後にみやもがそれぞれの秘密を語った。人間は秘密を共有すると仲良くなるというが、この時もそういう効果があったのかもしれない。
もともと仲が良かったのだが、大人になった今でも昔のことをいい思い出として思い出せるのは、こういうことがあったお陰だと思う。
*プロフィールカードの話
卒業式を前に、みんなでの思い出づくりにと売られていたプロフィールカードを学校に持っていって書いてもらっていいという話があった。みんな次々に友達の机にカードを置いていって、それぞれ書き込んで返していた。
だが、ぼくは親に物をねだるのがもの凄く苦手で、それはぼくの家がかなり厳しい家だったからなのだが、「プロフィールカードがほしいから買って」という一言がどうしても言い出せなかった。
思えばぼくは、ずっと親の顔色をうかがっていたし、“今度の金曜までに言う”というのを2ヶ月くらい繰り返して、結局は言えずじまいになってしまった。
言いにくいことを言うには流れを無視して切り出すか、関連する情報に話を持っていくことだと思うのだが、それが幼き日のぼくには分からなかった。
今、小さい子供を育てている人は、子供は想像以上に気を遣っており、言いたいことを溜め込んでしまう恐れがあること、自発的に相談を受けるには、親から聞くのでは不十分で、子供を安心させるような環境に身をおいてあげることが大切だと思う。
子供の笑顔は本物ではない場合があるということをよく知っておいてほしい。
日本では学校が軍隊方式の悪教育を施しているような側面もあり、『逃げることは悪』という間違った教えを説いているが、暴力や不当な支配からは一刻も早く逃げるべきであり、ゆでガエルにならないように、まともな環境に移るべきである。
近年は自ら命を絶ってしまう子が増えているが、それは進路が定まっていなかったり、周りの大人に殺されてしまっているということを知っておくべきだ。教師は味方になってくれるとは限らず、その子が不幸になってもなんとも思わないこともある。
また、子供が親にできることとしては、他の大人に頼んで説得するということである。親というのは案外しっかりしていないものなのだが、育てているという自負があるため、盲目的に子に対しては自分が正しいと思いこみやすい。
親も所詮は人間だということを意識すべきで、人間というのは世代を追うごとにかしこくなるので、基本的に子の方が親よりいい意見を持っていることが多い。
親戚や信頼できる先生に、思い切って相談して、さとしてもらって、親の不出来を正してあげてほしい。老いては子に従えとよく言うが、昨今の老人の醜態を目の当たりにしては、日本人には恥も外聞もないと言われても、なんら反論の余地はない。
結局、この話は卒アルにメッセージをいっぱい書いてもらったことで、良しとしているのだが、その時にしか手に入らないものというのはあるので、なるべくなら“できる時にやっておく”ということが大切だ。
*将棋についての話
ぼくが小学生の時には、子供たちはわりと昔の遊びを楽しんでいて、将棋もその一つだった。日本では王将、王位、王座、名人、棋聖、棋王、竜王、叡王(この当時はまだなかった)の8大タイトルがあり、それをプロの棋士が奪い合っている。
ルール自体は5年生くらいで覚えたのだが、田舎に帰った時におじいちゃんと勝負しても全然勝てず、それからずっと歯が立たなかった。1年経った6年生の時に神戸の家でも将棋がやりたくなって週末になると父と勝負していた。
始めた頃は最初に駒を並べる時に飛車と角を使わずに勝負する“飛車角落ち”でも勝てずにいたのだが、経験を積んでいくうちにだんだん良い勝負ができるようになって行った。
そして2つの駒を同時に奪える配置に駒を進めたり、飛車と角が成ってから自陣に戻るなどの戦略を真似て行くうちに、なんとか父に勝つことができた。ぼくとしては何気ない遊びのうちの一つとして取り組んでいたため、その日だけ喜んで寝てしまった。
だが父はプライドが高く、相当悔しかったようで、なんとその局面を残したまま、勝てる手がないか1ヶ月間ずっと考えていた。結局は完全に詰みの状態であったため、盤面を崩すことになったのだが、それからは2度と父と将棋をすることはなかった。単純にお互いこのことについて声が掛け辛くなってしまい、
「けんたろうも大人になったな」と言われたっきりであった。
大きな壁だと思っていた父の背中が少しだけ小さく見え、悲しい感じがしたものの、大人に一歩近づけたことが嬉しくもあった。
*タイムカプセルの話
3学期の終わり頃に、4組のみんなでタイムカプセルを埋めることになった。わりと早くに言ってもらっていたのだが、ぼくは当日になっても入れるものが思いつかず、用意できないでいた。考えた挙句、その日の朝にみんなが入れるものを話し合っている時に考え、直前になって筆箱を入れることにした。
みんなそれぞれ思い思いのものを入れたようなのだが、放課後に公園で聞いてみると、みやもはビックリマンシール、ながほりは駄菓子屋でいつも買っていたお菓子のオマケのシール、いけもは牛乳瓶のフタを入れたようだった。
他の二人は分かるのだが、いけもになんでそれにしたのか聞いてみると、そのフタの裏に自分の秘密をいろいろ書いておいておくことにしたみたいだ。
タイムカプセルには手紙を入れるのが定番だったりするが、このフタを入れるのもそれに近いものがあったんだと思う。
みんな結構オシャレなものを入れていると分かり、何を入れたらよかったか改めて考え直してみたのだが、ゲームソフトやカードなどのこれから使いそうなものは嫌だったので、考えてみても筆箱以外に入れるものが思いつかないのであった。
*中学受験の話
日本の中学は学費が安く済む公立中学とレベルの高い教育が受けられる私立中学に分かれていて、ぼくらの通っていた仲山第一小学校ではお受験が盛んで、学年の約半数が中学受験をして私立中学に入学しようとしていた。ぼくの親は基本的に放任主義だったので、ぼくが言い出さないと何か行動を起こすことは少なく、ぼくは中学受験はせずにそのまま公立中学に進学することになっていた。
クラスのみんなは1月になるとほとんど学校に来なくなり、公立に進学する生徒で授業を受けていた。けど、人数の少ないその授業は時に形だけの場合もあり、先生は気を遣ってぼくらのやりたいことをさせてくれたりもしていた。お受験に挑む子たちは本当に大変そうで、もっと寝たい、早く遊びに行きたいとぼやいていた。
ただぼくはそんなみんなの状況を見て、“そんなに早くから勉強しないとダメなんだろうか?”“今しかできないこと、今しか会えない人もいるんじゃないだろうか?”と子供ながらにそう考えていた。多分それは間違いではなくて、このクラスの友達たちも、親も先生も、政治家も偉い人も、本当はみんな分かっているんだと思う。
けど、偉い人が自分のわがままを通すためにいろんな人を犠牲にして無茶を押し通し、人を人とも思わないような人間が増えて行く。そうならないためには、ぼくたちが『つかみ取る』ことを学ばないといけないと最近よく思う。
欲しかったものや失ってしまったもの。それはもう手に入らないかもしれないけど、今からできることを全力で、人目を気にせずやる『勇気』が今、世界的に求められているんだろう。
*大人になる準備の話
6年生の3学期に今まで経験したことのなかった二つの事柄に挑戦することとなった。一つは、一人で寝るということで、中学生になるのに大の男が親と寝ていたのでは情けないということで、二階の妹と共同で使っていた部屋を自分の部屋として使わせてもらうことになり、その日から一人で寝ることになった。
4年生の時に妹が盲腸になったことで経験があったものの、やっぱり一人で寝るというのは心細いものではあった。その日はプチ一人暮らしを始めたような感じがしてなんだかワクワクし、なかなか寝付けなかったのを覚えている。大人の階段を登ったような、でもまだ子供で居たいような複雑な気持ちだった。
けど、そんな気持ちになったのも初日限りのことで、二日目となる翌日からはもう慣れたもので、別段なんの感慨もなく普段通りに寝ていた。
ぼくらの6年4組はわりと子供っぽくて、他のクラスの子はもうバラエティー番組だとかドラマだとかを見ていたりもしたのだが、相変わらずドラえもんやポケモンのアニメを見たりしていたので、子供から卒業する良い機会になったと思う。
もう一つは、塾に行き始めたことで、これまで7年間続けてきた水泳を辞めて、JRの線路をまたいで南側にある中村塾に通うことになった。母は卒業まで水泳に通わせたいと反対したのだが、父が将来のためと怒って塾の方を優先させたそうだ。
この塾には小坂と黒川も通っていて他校の佐渡や船津など話せる友達が居たので、中学生になってからも通えそうだと思った。
*卒業前のボウリングの話
卒業記念ということで、さくまのお母さんが8人くらいボウリングに連れて行ってくれた。これはたぶんクラス内でのすけのお別れ会のような意味合いも兼ねていたように思う。
ボウリングには何度も連れて行ってもらっていたぼくは150台の記録を叩きだし、見事この大会で優勝することができた。優勝賞品にペットボトルホルダーを用意しておいてくれて、それが良い記念になり、卒業してからも使わせてもらっていた。
昔は連絡網があって電話で必要なことを伝えあったり、近所の人と気軽にあいさつして立ち話したりと、人と人とのつながりが確かにあった。喧嘩してもそのまま疎遠になるなんてことはなく、周りの力をかりて仲直りすることができてた。
現代は文明の利器の力をかりて豊かになることはできた。だが、人を人とも思わないような精神的な豊かさとは縁遠い、そんな『冷たい社会』になり下がってはいないだろうか。
人と人の間で『人間として生きる』という当たり前のこと、子供が笑って暮らせるような社会であり続けることが、これからの世界には重要なのではないだろうか。
*保久良山に登った時の話
6年生の3学期にみんなで計画して学校の近くにある裏山に登った。ここはぼくの家からわりと近くて、みんなでふもとに集まって登り始めた。昼の12時に集合してそれから2時間くらいかけて山頂のさらに奥にある『風吹き岩』まで行くことになっていた。
「あっついな。ちょっと服置いてくるわ」
「ほんなら先行ってるで。けんたろうやったら追いつけるやろ」
山頂まで進んでいたのだが、ぼくは体が熱くなってきて途中で家に引き返して着ていたパーカーを置いてまた保久良神社のあるところまで登ってそれより先にいたみんなと無事に合流することができた。そこからも順調に進んで行くことができ、予定通り風吹き岩のところで午後2時になっていた。
「これ以上行ったら暗なった時に迷ったらアカンからここで引き返そう」
この登山の計画を立てて仕切ってくれていたミーミーがそう言うと、みんな賛同してふもとまで引き返すことにした。そこまでは良かったのだが、途中で分岐路が現れ、どっちに行くかでミーミーとながほりが喧嘩になってしまった。
「絶対右の道から来たって」
ミーミーは当たり前のように右の道へ行こうとしている。
「いや、俺は左から来たと思う」
そう言われても尚もながほりは自分の意見を曲げようとはしない。
「お前が間違っとんねんから言うこと聞けって」
みやもがわりと鋭い口調でそう言って、ながほりを説得しようとした。ながほりは気が弱めな子だったので、みんな彼には少々当たりが強かった。
「そんなことないって。それならみんな自分が来たと思う方に行くことにしようや」
そう言うとながほりは左の道の方に少しだけ歩いた。
「ええねんな?ほんならみんな道決めてくれ」
ミーミーがそう言うと、他の4人は一斉に右の道に移動した。ぼくはこの時、明らかに町が見えており、かつ下りになっているし、そこの景色をなんとなく覚えていたので、迷わず右の道を選んだ。たぶん他の3人も同じ思いだったのだろう。
「そんな――。ひどいよみんな」
後日聞いた話だと、ながほりはたのちんといけもは自分の方に来ると踏んでいたので結構ショックだったらしい。
「あっ、待てよながほり!」
たのちんが後を追おうとしたが、呼び止める間もなく、ながほりはそのまま左の道を走って山の奥へと消えて行ってしまった。
「行ってもたな。呼び戻したった方がええんちゃう?」
いけもはちょっと心配だったのだろうそう言ってみんなに問いかけた。
「まああっちの道もどっかに通じてるから大丈夫やろ」
ぼくがそう言うとみんな「そうやあいつが勝手に行ったんが悪いんや」と言って賛同した。
その後ぼくらは来た道をそのまま帰り、午後4時ごろにはふもとに着いて解散した。ながほりはと言うと、ぼくらの家から少し離れた薬科大があるところに出て間違いに気付き、結局ぼくらが通った右の道から帰ったそうだ。
次の日ながほりが学校を休んだことで、みんなわりと心配したが、その次の日に登校してきて彼がみんなに謝ってきたことで、それからは普段通りに生活していた。この話はそれから語り草になっており、このメンツで小学生の時の話をする時には必ずと言っていいほど話題になる出来事だった。
*雨の日の卒業式の話
2000年3月23日、ぼくたち仲山第一小学校の卒業式があった。だが、ここへ来て一つ問題があり、ぼくの母は昔からかなりズボラで、周りと服装について何も話をしていなかったらしい。
ぼくは私服で学校に行ったのだが、みんなスーツのような黒い正装できていて、最後だというのに、あんまりだと思ってとても悲しい気持ちになった。
本来は学校側も予備の服を用意するとか、このことを周知させておくとかすべきであり、何より親の不手際のせいでこんな仕打ちを受けたことに対して憤っていた。
だが、どんな状況でも仲間というのは探せばいるもので、1組の奥野もぼくと同じく私服できていた。学年でただ一人かと思われたちょっと可哀想なこの状況を共有できる相手がいたことで、お互いに気持ちが楽になったこともあって、卒業式には不満を持つことなく参加することができた。
そして教室に戻ってくると、楽しかった学校生活も今日で終わりかと思うと、とても寂しい気持ちになった。見ると、みやも、すけ、いけも、ながほりとかわりとみんな泣いていた。ながとんも10回目の卒業式だからと言ってはいたのだが、泣いていて、ぼくらは本当に良い先生に恵まれて学校生活が送れたんだなと感じた。
だが、なんだか涙が出そうで出ないような状況で、横にいたさくまが泣いたらもらい泣きしようかと考えていた。
結局さくまは泣くことはなく、卒業後に聞いた話だが、実はこの時、さくまもぼくが泣いたら泣こうと思っていたらしく、偶然にも同じことを考えていたようだ。そして、式の後そのまま校庭に出てインスタントカメラで写真を撮っていった。
サザンオールスターズのTUNAMIの歌詞にある『思い出はいつの日も雨』というフレーズを思い出しながら、ぼくらは通い慣れた母校を後にした。
*卒業式の後の話
卒業式が終わると、6年4組のみんなで喫茶店でお別れ会のようなことをやった。そこで当時流行っていた、しりとり侍(リズムをつけて3文字でしりとりをやって、噛んだり出てこなかったりしたら負けというゲーム)をやって、負けた人がタバスコの入った水を飲むというルールで、テーブルに座っていた6人くらいでやっていた。
これはかなり盛り上がって、さっきまで泣いていた子たちもみんな楽しんで遊べて、いい思い出になった。負けた時に飲んだタバスコ入りの水はみんな調子に乗って10滴くらい入れていたので、本当に辛かった。その後、春休みにみんなで集まって中之町公園で思いっきり遊んで、ずっと最後まで仲の良かった6年4組は解散した。
*友達100人できたかな?の話
ちょっとむずかしい内容なので、分からないところは大人の人に聞いてみてね♪
ぼくはこの小学校6年生までの期間で確実に友達100人できただろうし、今会っていない子もいたりはするが、この友達たちと出会えたことで、成長して行けた日々があったように思う。ぼくは当時から、全然人見知りしない性格で、それは今にして思えば、以下の七つのことを心掛けているからだと思う。
もし、今学生だったり社会人だったり、人生に困窮していたりする人がいたら、つたないかもしれないが、コミュニケーションの参考にしてほしいと思う。
まず一つ目は、『相手の嫌がることをしない』ということ。だいたいの場合、嫌われる原因としてはウザい、不快だ、ムカつくなど負の感情を抱かれた時であり、特に連続で人を否定しない方がいいと考えている。過度にイエスマンになれとまでは言わないが、相手の意見に異を唱える時には最初に一度肯定してからにすべきであり、『相手を立ててあげる』ということを意識すべきである。
二つ目は何か嫌なことがあっても、『可能な限り許してあげる』ということ。人間関係には誤解や衝突がつきものであり、人間は体調や人生の調子が悪いことが多々ある。そんな時にすれ違ってしまったものをそのままにしておくと、いつしか孤独に暮らすはめになってしまう。友達は自分から積極的に誘うようにし、誘われたらなるべく参加する。そういう姿勢が人生を豊かに彩ってくれると思っている。
三つ目は、『頼まれた場合だけその人を助けてあげる』ということ。生きる時間は有限であり、人を助けるということは、自身にとってとても負担になる行為だ。だが、人と人とは支え合って生きており、誰しも自分一人で生きて行くことはできない。
人生は長く、時に険しく苦しい。そんな世界だからこそ、時に温かく寛容に接し、誰かの痛みを和らげてあげることも必要なのではないだろうか。
日本には『情けは人の為ならず』ということわざがあり、これは情けをかけた相手は、いつか自分に恩返しをしてくれるだろうから、なるべく人には親切にしておきなさいという教えだ。ただしこれには注意点があって、恩をあだで返すような不届きな輩もいるにはいるので、そういうやつは今後一切助けなくていいということだ。
三つ子の魂百までというが、人は三歳という若年の頃よりその心根というものは、なかなか変わらず、性根が腐っているやつというのは相手にする価値のない者なのである。映画ペイフォワードのように、一つの親切を受けたら、それを別の3人にしてあげるというようなことが万人にできたらいいのだが、残念ながら、どうしようもないような人間というものは一定数いるようだ。
四つ目は『嫌なことは嫌だと言う』こと。日本を含むアジアの国では特に敬語という年上や立場が上の人間には無条件にこびへつらわないといけないというような間違った考え方が植えつけられているが、人間というのは本来は常に対等であり、他者を隷属化したり、上下関係を強いたりすることがあってはならないはずだ。
違うと思う、信条に反するからやりたくないなど、はっきりとNOを突きつけることで、自分を大切にすることができるはずだ。NOが言いにくいというのはよく分かるが、そういう相手と言うのはもはや仲間でもなんでもなく、思い切って縁を切るということが正解として考えられる場合もある。
人間の時間は本来は一年を通した円環時間であり、現代のような直線的な時間というのは人間の生活に則したものではない。人はその一瞬一瞬をただ一生懸命に生きてきたはずであり、長年一緒にいただとか、家族だからとか、そんなことは本当にどうでもいいことである。
きっかけがあって悪に染まってしまった人などは、もはや自ら立ち直るより他なく、自分の人生を害されないということを念頭において付き合い方を決めるべきである。
五つ目は、『人の話をきちんと聞いてあげる』ということだ。人の心が離れて行く時というのは、もはやこの人とは話し合うことができないと考えた場合であり、それは相手の聞いたことを即座に答えない(結論ファーストができない)ことや、相手の話を遮って最後まで聞かないという時だ。人は誰しも理解され、認められたいと願っているものなのである。
六つ目は、『ありがとうとごめんなさいと、挨拶をしっかり言う』ということだ。
一言の感謝がないから不満を抱き、一言の謝罪がないから怒りを招き、一言の挨拶がないから疎遠になる。人間関係とは常に気遣いの連続であり、相手を蔑ろにしないということは、対人スキルの極意であると言える。
ただ、何でも過剰にやることは、過ぎたるは猶及ばざるが如しということであり、かのプーチン大統領も『謝罪するのは一回で十分だ』と述べているように、しつこいと逆に嫌われるから注意が必要だ。過度に気を遣わず、自然体で自分の心に従い、相手を思いやることが大切である。
七つ目は『決して人をバカにしない』ということ。日本では特にこういう頭の悪い人間が多く、人と自分との境界線を引くことができない恥ずかしい大人が多いため、目も当てられないような惨状がある。だが、これを読んだ青少年少女たちは、決して人をバカにするような『情けない大人』にだけはならないようにしてほしい。
大人になるということは『人の痛みがわかるようになる』ということであり、人は誰でも同じ状況になり得るものなのだ。まかり間違って人をバカにしたことのツケは必ずと言っていいほど自分に返ってくる。宇宙の法則は絶対であり、その因果律から逃れることは誰にもできない。人は裁かれ、罪は罰となり、恨みは呪いとなる。
人のために働き、傍を楽にすることができる人間こそが、これからの道徳の時代に必要となってくる。国際社会で活躍し、泣いている人が居たら寄り添ってあげられるような『立派な大人』が増えることを願ってやまない。