表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/7

第二章 一年生編

*入学式の話

 入学式前日、ぼくは近所の公園で小学校に入るために修行を行った。と言ってもそんな大層(たいそう)なものではなく、ブランコを()ってはね返って来ると、それを()けたり、また蹴り返したりするというものだった。

別に小学校に(たたか)いに行くわけではないのだが、当時は戦隊もののヒーローとか、ジャンプで連載されていたものがアニメ化されていたりとかで、強い男へのあこがれみたいなものがあった。

「おれも一緒にやっていい?」

 見ると少し暗そうな男の子が(となり)でぼくの修行を見ていたようだ。

「いいよ。じゃあそっちのブランコ使ってよ」

「サンキュー」

 その公園には隣り合わせで二基(にき)ブランコがあり、ぼくはもう一方を指差した。

それから二人で『修業』を行っていたのだが、6時くらいになると辺りが暗くなってきて家に帰ることになった。

「ぼく、明日入学式なんだ」

「そうなの?おれもだよ」

 よくよく話してみると二人は同い年で、明日から同じ大葉小学校に通うことになっているようだった。

「おれん家ここなんだ」見ると彼はぼくの家の2件隣の家の前で立ち止まっている。

「ええ~そうなんだ!全然知らなかった。こんな近くに同い年の子がいたなんて」

 その男の子も嬉しそうに笑いながらぼくに質問して来た。

「お前、なまえ何て言うの?」

「ぼく?おかもと けんたろうだよ。きみは?」

「おれは、はたの こうじだよ。明日からよろしくな」

「うん、よろしくね」

ぼくは新しい生活に少し不安があったのだが、小学校に入る前に友達ができたので“これから安心して学校に通えるな”と思った。

そして迎えた入学式当日、学校に着いて両親に見守られながら入学式を終えるとクラス分けが行われた。ぼくは2組で、2年生になってもクラス替えはなく、2年間このメンバーで過ごすことになるという。

「けんたろう!」

 見ると秦野(はたの)も同じクラスになったようで、ぼくに向かって手を振ってくれていた。ぼくらは偶然同じクラスになって凄く喜んでいたのだが、今思えば家が近いということで先生たちが気を利かせて同じクラスにしてくれたのだろう。

それから、クラスごとにぼくらを整列させ、教室まで誘導してくれたのは40代くらいの女の先生であった。教室に入るとオリエンテーションが始まり、

「今日からみんなの担任になる高田です。上から読んでも下から読んでも、たかたです。よろしくね」

そう言うとたかた先生は優しく笑って黒板に『たかた』と名前を書いて見せた。

その後、一人ずつ自己紹介をして行くのだが、大葉小学校は出席番号の決め方が少し変わっていて『誕生日順』であった。4月11日生まれのぼくは出席番号が2番になった。

「おかもと けんたろうです!好きな食べ物は肉と魚です。よろしくお願いします」

 そう言って自己紹介を終えた後、少ししてから、とても元気な男の子が自己紹介を始めた。

「ながみね しょうたろうです。な、が、み、ね、し、よ、う、た、ろ、うで名前が10文字あるのが自慢です。よろしくお願いします」

“ほんとだ!ぼくより一文字多い。いいなぁ”そんなことを思いながらも全員が自己紹介を終え、これから新しい生活が始まると思うとなんだかとってもワクワクした。



*たかた先生の話

 大葉小に入学してから担任になってくれた、たかた先生からは、あいさつや友達との接し方、色を塗る時はフチを塗ってから中を塗るといいことなど、いろいろなことを教えてもらった。その中でも特に印象に残っているのが、一番初めの授業で教えてもらった『一度間違って覚えたことを覚え直すには、その3倍の労力が掛かるから、最初に間違って覚えないようにしないといけない』ということだった。

これは、大人になった今でも確実に役立っていて、勉強する時に“これは間違っているのでは?“と感じた場合には、ちゃんと検索して裏を取ってから覚えるようにしている。

また、学校では忘れ持ち物チェックをやってくれていて、ハンカチとティッシュを持って来ているかだとか、爪を短く切っているかを見てくれていた。特にペナルティがあったわけではないのだが、毎日チェックしてくれていたお陰で、日を追うごとに忘れ物をする回数は減って行った。

 たかた先生はいつでも優しくて、誰かと誰かが喧嘩(けんか)しても必ず両方の話をきっちり聞いてくれていた。それから悪い所をちゃんと教えてくれて、お互いに謝るべきところを言って仲直りさせてくれていた。決してぼくたちを責めたりせず、(さと)すような話し方で教えてくれた。

 ぼくたちはそんなたかた先生が大好きで、何か困ったことがあったらいつでも先生に相談できていた。その『安心感』があったからこそ学校生活が楽しかったし、今でもいい思い出として記憶できている。



*大葉小についての話

 ぼくが通い始めた大葉小学校は普通の小学校とはちょっと違っていて、中庭があってそこで遊べたり、将来的に老人ホームになるからと教室と廊下の間に壁がない作りになっていたりと、最初はちょっと不思議な感じがしたんだけど、教室が広く感じてぼくは好きだった。

 また、クラスには『日直』と呼ばれる仕事があって、クラスで当番制で回して行き、男女一人ずつのペアで毎日担当が代わって行った。クラスの男の子と女の子の人数が違うので、毎回違う子とペアになっていたのだが、ぼくはこの頃から人見知りしない質だったので誰とでも普通に話せていた。

 大葉小にはたくさんの遊具があって、日本の小学生は授業と授業の間に10分間の休み時間があるので、その時によく遊んでいた。その中でも特にぼくが好きだったのが、どこの小学校にもわりとあると思う『のぼり(ぼう)』だ。

大葉小ののぼり棒は普通の学校のものより大きく8本の列が二つあって16本、高さは7、8メートルくらいはあった。そしてそこで、のぼり棒のテッペンまで登って手を放す『のぼり棒ジャンプ』という遊びを友達とよくやっていた。

今思えばかなり危ない話なのだが、当時のぼくは着地の時に足がしびれる感覚が好きで、休み時間になると友達と一緒にこの、のぼり棒ジャンプをやっていた。

 それと、学校には横並びに6つの鉄棒があって、そこで逆上がりの練習を頑張ったのもよく覚えている。ぼくは運動が得意だったけれど、逆上がりは小学校2年生の時にかなり練習した。

学校には逆上がりを補助する『反り返った器具』があり、それを駆け上がって成功する感覚をつかんで行った。放課後に友達と2ヶ月くらい練習してやっとできた時はかなり嬉しくて、学校が終わる度に何度も繰り返し逆上がりをやっていた。

 それと、これは少人数でしかできないのだが、ジャングルジムから降りてはいけないというルールで鬼ごっこをやっていたこともある。

これはかなり盛り上がって、追いかけられて思わず飛び降りてしまったりとか、中に入って行った子をなかなか追えなかったりして楽しかった。いずれにしても、仲良くなった友達と遊ぶのは嬉しいものであり、いい思い出になっている。



*しょうちゃんとの話

 ぼくらが子供の頃には、いわゆる『超合金(ちょうごうきん)』と呼ばれるロボットが流行っていて、近所の子はだいたいの子が持っていた。5歳の時に『大獣神(だいじゅうじん)』というのがどうしてもほしくて、視聴者プレゼントの応募に4枚ハガキを書いて出してみたことがあった。

数か月間、期待して待っていたのだが結局当たらず、誕生日まで待って買ってもらった時には凄く嬉しくて、一日中それで遊んでいた。

 また、それと似たようなヤツでショベルカーとブルドーザーとダンプカーが合体して一体のロボットになるというのも持っていた。ただ、これはあまりいい話とは思えないのだが、後からもう一体出てきてドリル車を加えて4体合体になってしまった。

当時ぼくは何とも言えない心持ちだったのだが、これには母がご立腹で「後から付け足すなんて卑怯(ひきょう)だ」と怒っていた。しょうちゃんの家に行った時に、「近くの(がけ)に恐竜の骨が()まっているんじゃないか」とか言いながら遊んでいると、例のドリル車があって、そのことを何気なく母に話すと「買ってあげようか」と言われたのだが、

なんだか悪い気がして、「別のがほしいからいい」とごまかして断っていた。

他にも、学校が恐竜になって合体するヤツとか(これも最終回に一体増えた)パトカーと護送車(ごそうしゃ)が合体するヤツ、救急車と消防車が合体するヤツもあって、さらにその2体が合体したりと、やりたい放題だった。

あとは、戦隊もののヒーローとかも人気で、『ジュウレンジャー』とか『カクレンジャー』とか、そこにもとにかくロボットが出てきて、今にして思えば、たぶん商品が(もう)かるからなのだろうが、なんでそんなにロボット押しなんだと思うくらいだった。



*かわのくんとの話

 1年生の2学期頃になって、河野くんという子と遊ぶようになった。この子は身長は普通くらいで口数が少ないが、凄く力が強い子だった。それに(ともな)ってケンカが強く、殴り合いになった時には絶対に負けないという意思がある勝気な子だった。だが、ガキ大将のように横暴(おうぼう)な態度を取ることはなく、みんなの一員という感じだった。

ぼくらが小学生の時にはとにかく異常なくらいドラゴンボールが流行っていて、子供にも大人にも大人気だった。そこで、放課後に河野くんの家に集まって『天下一武道会』をやったことがあった。

かわのくん家には10m四方くらいの芝生が生えた庭があり、そこで参加する8人がそれぞれがクジを引いて、トーナメント形式で闘うことになり、危ないので顔への攻撃はなしというルールで行われることになった。

1回戦はしょうちゃんと闘うことになったのだが、別に怒ってもないし、もちろんしょうちゃんには何の恨みもないので、殴り掛かるのはなんだか気が引ける話だった。どちらかが負けを認めるか、地面に倒されるまでやるという感じだったので、柔道のように足を掛けると、しょうちゃんはすぐに倒れてぼくの勝ちとなった。

2回戦(準決勝)は同じクラスのもっちゃんで、この子は殴り合いのケンカをするようなタイプではなかったのでちょっと闘った後、ギブアップすると言った。そして決勝戦に駒を進めた訳だが、対戦相手の河野くんは俄然やる気で、ドラゴンボールのキャラみたいに腕をグルグル回してアップし始めていた。

ぼくは怒っていれば殴り合いになるようなタイプなのだが、その時はそんな感じでもなかったので、どうしたもんかと悩んでいた。そうこうしているうちに河野くんとの試合が始まってしまい、殴られるのが結構痛いので応戦していると河野くんの『鼻』にぼくのグーパンチが当たってしまって、河野くんが泣いてしまった。

もちろんその時点でぼくの反則負けなのだが、わざとではないにせよ、顔面に拳を当ててしまったことに対して申し訳なく思う反面、本気で怒っている河野くんを誰も止められず、結局その日は謝って帰宅することにした。

翌日学校に行くと河野くんはもうそれほど怒ってはおらず、普通に目を合わせてくれたので、勇気を出して話し掛けることにした。

「昨日はごめん」

「いいよ。けど、結構痛かったな」

「本当ごめん。次から気を付けるよ」

「うん、大丈夫」

という感じで仲直りできたのだが、わりと仲良くしていた河野くんと、あの日からもう話せなくなるんじゃないかと思って学校に行くのがかなり不安だったので、許してくれたことに対して安堵の気持ちが強かった。

人間関係は『ありがとう』と『ごめんね』と『挨拶(あいさつ)』が言えればそれなりに上手く行くと言うが、この時素直に謝ったお陰で関係がこじれずに済んで良かったと今になっても思う。



*もっちゃんとの話

1年生になって少し経ってから、それまであまり遊んだことがなかった持谷くんという子と仲良くなった。この子はちょっと身長が低く、色が白くてよくしゃべる子だった。

ある時、家に遊びに行ったことがあり、そこでもっちゃんのお姉ちゃんと遊んだことがあって、お姉ちゃんは3つ年上の5年生で2年生のぼく達からするとかなり大人に見えた。そしてこの人が本当によくしゃべる人で、次から次へとどんどん言葉が出てくるのであった。

一般的に姉がいる男は言葉を話すようになるのが早く、口が達者で女の子にモテると言われるが、年上の兄弟が居ないぼくは“上に兄弟が居るというのはこんな感じなんだな”と疑似的(ぎじてき)にではあるが体感することができた。

そして、もっちゃんと遊ぶときはこのお姉ちゃんが家に居ることがほとんどで、お姉ちゃんの友達が来て4人で話すということもわりとあった。そうなると他の3人に会わせるのがわりと大変で、このことで少しばかり話すのが上手くなったような気がした。

友達の家に行くと、だいたい『テレビゲーム』か『ミニ四駆』で遊ぶことが多かったのだが、きっと世の女の子たちは、家でこうやっておしゃべりを楽しんで遊んでいたんだろうなと今になって思う。



*学校からの帰り道の話

 当時ぼくは友達と帰っている時に、たまに靴で『天気占い』をやっていた。やり方は、靴を半分はいた状態にして前に蹴り出し『普通に着地したら晴れ』『裏返ったら雨』というような単純なものだった。

ただ、これは小学生には少々コントロールが難しいもので、勢いよく蹴り過ぎた靴が、塀を超えて知らない人の家まで入ってしまったことがあった。ぼくと河野くんはインターフォンを押して中に入らせてもらおうと試みたが、留守(るす)なのか返事はなかった。

そこで、あまりいいことではないのだが意を決して家に忍び込み、靴を取らせてもらって帰ることにした。別にそんなに悪いことをしている訳ではないのだが、なんだか泥棒(どろぼう)に入っているみたいで緊張した。庭に入り、靴を拾って帰ったあとも。心臓がドキドキしたままだったのを今でも覚えている。

また、ぼくは当時『黄色』が大好きで、それは明るくて綺麗だからというのと、見ていると力がわくからという理由だった。傘や帽子や長靴など、いろいろな『黄色いもの』を持っていて、その中でも特に傘がお気に入りだった。

平成初期に学生時代を過ごした人なら経験があると思うのだが、ぼくらが小学生の頃には、雨が上がった後に傘を持っていると『あること』を練習するのが習慣になっていた。

 それは、『るろうに剣心』という剣客(けんかく)漫画の斎藤 一というキャラクターが繰り出す、『牙突(がとつ)』という技だ。これは刀に、刀を持っていない方の手を添えて肩の上で構え、一気に相手を突くというとても危険な技なのだが、これが当時の小学生を中心に大流行した。

雨が降った日の帰りには必ずと言っていいほどやっていて、他の子もやっていたのだろう、並木道の木や、土手の土にはそこら中にボコボコ穴が開いていた。ヤンチャだったぼくも学校で禁止されるまで、みんなと一緒にこれをやっていた。



*ザリガニ釣りの話

 ぼくらの学校の近くには小さな山があって、そこには大きな自然が広がっていて、ホタルとかカエルとかトンボとか、いろんな生き物が住んでいた。そこにはザリガニがいて、友達のもっちゃんとたまにザリガニ釣りに行っていた。

その頃のぼくらは、ザリガニのエサと言えばイリコと相場が決まっていて、いつもお互いの家から持ち寄ったものを、糸でわりばしにくくりつけて釣りを楽しんでいた。

ある日のこと、30分ほど田んぼとか水たまりに糸をたらしていると、二人で1匹ずつ2匹のザリガニをつかまえることができた。するともっちゃんが、持ってきたリュックの中をゴソゴソかき回して何か探している。

「けんちゃん知ってる?ザリガニってサバを食べさせたら青くなるんだよ」

「そうなの?こんなに赤いザリガニが?」

 もっちゃんは半信半疑のぼくをよそに、リュックからサバを取り出して釣り上げたザリガニに食べさせていた。しばらくすると本当にザリガニの色が変わって青色になり、ぼくはそのことに凄く感心した。

「すごい!ホントに青くなってる!」

「そうでしょ!前に動物図鑑に書いてあるのを読んだんだ」

 もっちゃんは別のザリガニにもサバをあげながら、得意そう話していた。

「他には?他には何か面白い話ないの?」

「う~ん、そうだな~。カエルには骨があって、それで、変なものを飲み込むと、胃を吐き出して自分で洗うんだって」

 そう言うともっちゃんは、近くにいたサッカーボールくらいの大きなウシガエルにちょっと大きめの小石を食べさせて見せた。しばらくすると、ウシガエルは顔を青くし、気持ち悪そうな顔をしながら胃を吐き出して洗い始めた。

「すご~い!カエルってこんなことするんだ!ぼく、初めて見たよ」

「ふふ~ん、凄いでしょ~。ぼくも初めてやったんだけどね」

 ぼくがあまりにも単純に驚いたので、もっちゃんはさっきよりも得意げな感じだった。

「もっともっと!もっと聞きたい!」

「え~っと~、そうだな~。東日本のホタルは1秒に2回光るんだけど、西日本のは4回光るんだって。ホタルも人間も関西の方がせっかちなんだね」

 ぼくが夢中になって次の話を要求すると、もっちゃんは暗くなった中で、一生懸命おしりを光らせているホタルを指差しながらそう言った。

「もっちゃんはなんでも知ってるんだね。ぼくも見習わなくっちゃ」

「それなら、ぼくの図鑑を読んだらいいよ。それで覚えたわけだし」

「そうだね、じゃあ貸してもらって読もうかな」

「今度けんちゃんも何か本、貸してよ」

「わかった。じゃあ約束だね」

「うん、約束だよ」

そう言うと、どちらともなく右手の小指を差し出し、お互いの指をからめた。

「「ゆ~びきりげんま~んうそついたらハリセンボンの~ます」」

そう言って笑い合ったあと、もっちゃんの家に言って図鑑を貸してもらった。そしてぼくの方はというと、何を貸そうか迷った挙句、結局は本棚の隅に眠っていた、海の動物の図鑑を渡すことにした。もっちゃんは凄く喜んでくれたし、このことがキッカケで、海の動物の図鑑の方にも興味を持って読み返したので、貴重な経験になったと思う。



*スーパーファミコンの話

7歳の誕生日に『スーパーファミコン』を買ってもらって、それからは夢中になってゲームで遊んでいた。学校から帰って家で待っていた時に車の音が聞こえて、母が帰って来た時の喜びと興奮は、大人になってからも忘れられないようなものだった。

これは当時としては世界最高水準のゲーム機で、アポロ11号のコンピューターよりも高度であると言われながら、すべての子供に行きわたるよう一番安いエンジ色でカラーリングしたり、ソフトの容量が少なく、ガラケーの画像一枚にも満たない40キロバイトしかなかったため、マリオの向きが分かるようにヒゲをつけたり、同じドット絵を背景として使いまわしたりしていた。

 当時タイミング良く『スーパーマリオコレクション』というソフトが発売されており、その中に入っている『スーパーマリオブラザーズ3』が特に気に入っていて好きだった。初めてプレーした時に、操作していたマリオをジャンプさせようとして、自分も同時に体が動いてしまったことなどは、いい思い出になっている。

 その後も誕生日だとかクリスマスにプレゼントとしてソフトを買ってもらっていたのだが、今にして思えば、画面を横に移動してプレーするゲームが異常に好きで、『がんばれゴエモン』や『ドンキーコング』、『ヨッシーアイランド』など、持っているゲームは全部『アクションゲーム』だった。もともと運動するのが大好きで、5分もじっとしていられないような子だったので、当然と言えば当然なのかもしれない。

そんな感じでゲームを楽しんでいた訳だが、この頃のゲームはまだ今より設定が甘く、いわゆる『バグ技』というものを見つけたりもしていた。

 『がんばれゴエモン2』の6面の町で店から出る時にスタートとセレクトを連打して待機画面に戻ってバグ画面にしたり、しょうちゃんに教えてもらった、『ドンキーコング』でのトロッコに乗っている時にわざと落ちて、中間地点から復活する時にYボタンとBボタンを同時に連打して飛ぶ裏技などをやって楽しんでいた。

 また、当時から人気であるボンバーマンでは、ルーイと呼ばれるカンガルーにのると、ダッシュ、キック、ジャンプ、一列おきのような特殊能力が使えたり、自分でおいた爆弾のせいで出られなくなって、それをみんなで笑ったり、全作で使える5656(おそらくコロコロコミックからきている)のパスワードを教えてもらったりしたのも楽しかった。

そんな時に、仲の良かったもっちゃんの家に何人かで遊びに行ったら、もっちゃんが珍しいコントローラーを使っていた。

それは『ボンバーマンの顔をしたコントローラー』で、スーパーファミコン本体にある2P用の差込口に差すことで使用でき、もともとの1P用の差込口と合わせると最大5人までプレーできるようになるというものだった。

 このことでボンバーマンを始めとするゲームを3人以上でプレーすることができるようになり、初めて5人でボンバーマンをプレーした時にはニンテンドウの技術力の高さに驚かされたものであった。

これは後に販売される『ニンテンドウ64』や『ゲームキューブ』『Wii』などに活かされたノウハウで、まだテレビゲームというものが確立されておらず、開発当初は3人以上でプレーすることを想定していなかったためだと考えられる。

 いずれにしても楽しいゲームばかりで、少年時代に鮮やかな色を添えてくれたことに対して、日本のゲーム業界には大きく感謝している。



*ぼくのお父さんの話

ぼくの父は山口の田舎の育ちで、こち亀の両さんの父親にそっくりな人物であった。口ぐせは『だまされる方が悪い』で、怒りっぽくて荒い人だった。

けど、遊びに関してはいろいろ知っていて、父と二人で風呂に入った時に『タオル気球』という浴槽(よくそう)でタオルに空気を入れながら、水の中に入れて(ふく)らませる遊びを教えてもらったことがあり、その時期は(はま)ってよくやっていた。これは浴槽で時間をつぶすには最適で、よく肩までつかって100数えてなどと言われる時にやっていた。

また、家族でファミレスに寄った時に、『指かくし』という遊びを教えてもらったこともある。これは両手の掌の指を交互に組んで、その内の一本を内側に折り込み、どの指が中に入っているかを当てるゲームである。これは待ち時間にやるのが丁度いいくらいのゲームで、複数人でもできるので、家族4人のうち誰かが出題し、他の3人が当てるという形で遊んでいた。

それと、川に行った時に『水切り』という遊びを習ったこともある。この遊びはまず河原で平らな石を探して来て、次にその石を持って構え、最後に水面と水平に勢い良く投げるというやり方だ。放たれた石は地面にバウンドするのと同じ要領で水面を何度も跳ねて行き、最終的に勢いがなくなった時には水の中に落ちて行くのである。

 距離よりも()ねる回数を競うことが多い遊びで、どれだけ勢いよく水面に対して水平に投げられるかがポイントであった。跳ねる際には最初は間隔が大きいのだが、最後の方になると小刻みに跳ねるようになり、失速して少し右に曲がりながらもちょろちょろと跳ねて行くのがなんとも言えずおもしろかった。

 このようにいろいろな遊びを教えてくれたのだが、『テレビを見ている間は集中するために会話をしてはいけない』という岡本家特有のルールがあったのと、夜9時には床に就くような『かなりの変わり者』だったので、土日以外はほとんど会話をしないような感じだった。

 剣道をやっていたことで足が短くなったと語っており、確かに見た感じ他の子のお父さんと比べて短いような気はしていた。凄く字がきれいで“ぼくは大人になってもこんな字は書けないな”と思っていた。

父親(ぼくの祖父に当たる人)がぼくが生まれる前に早世(そうせい)したことがキッカケで健康マニアになり、青汁や野菜ジュースを山ほど買い込んではせっせと飲んでいたのをよく覚えている。



*ぼくのお母さんの話

 ぼくの母はセルフサービスというわりには死ぬほどおせっかいだったり、30点を100点と思っているような節があり、何かと抜けていて自己肯定感が強い人だった。

基本的に『人の話を聞かずに自分が一方的に話す』というスタイルを貫いており、ぼくがこうやって文章をしたためるようになったのも、幼少期から誰かに話を聞いてほしいという欲求を溜め続けて来たからに他ならない。

学生時代はテニスをやっていたのだが、練習をサボって友達とダベって帰ることが多かったようで、あまり真剣にはやっていなかったらしい。

 唯一頑張ったのは受験勉強らしく、その時期には10円ハゲができるほど勉強し、有名な大学の教育学部に入って勉強に(はげ)んだそうだ。その後、教育実習を経て山口の離島で教師になり、2年務めたあと、見合いで父と結婚したらしい。

 国語教師であったことに強い誇りを持っているようで、『勉強しなさい』と全然言われなかったぼくも、漢字の書き順についてだけは、いつも口うるさく言われていた。とにかく話すのが好きな人で、寝る前に本を読み聞かせてくれたり、妹と3人で自分で創った出鱈目(でたらめ)な話、『でたばな』をしたりして遊んでくれていた。

 因みにぼくはこの『勉強しなさい』を人類最低の発言だと考えていて、これは「今からロケットで月に行きなさい」と言っているようなものだと思う。設計図を渡して現物を見せ、技術者と協力しながら作成しなければ、到底このようなことは無理なのである。

 やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、褒めてやらねば人は動かないのである。



*田舎への里帰りの話

 千葉から母の実家がある下松の家に行くのはいつも大変で、まず東京駅まで在来(ざいらい)線で出てそこから新幹線のぞみに乗って広島まで行き、こだまに乗り換えて山口県の徳山駅まで行って、更に在来線で二駅先の下松駅まで行かないといけなかった。

 1987年、国鉄がJRになった年に生まれたぼくではあったが、(こだま)より(ひかり)が速く、目に見えない(のぞみ)がそれより速いということを、当時のぼくはよくわかっておらず、親に言われるまま着いて行っていた。

道中は約8時間くらい掛かり、ほぼ半日潰れるので、おじいちゃんとおばあちゃんの家に着いた時には一仕事終えたような感覚になっていた。

 東京駅へ向かう方を『上り』東京駅から出て行く方を『下り』と言うが、田舎へ帰るのは長期休暇の時だったので、東京からの下り電車の中はいつも混んでいた。ぼくが子供だった頃の1990年代後半には東海道新幹線のぞみは時速270kmで走行しており、東京―大阪間は約2時間30分で走破できていた。

 だが、それは度重なる技術革新があったためであり、開業年の1964年(東京オリンピックがあった年)まで、ひかりが210kmで4時間かけて走行していた。その翌年に徐行区間(ゆっくり走るところ)がなくなったことで3時間10分で行けるようになったものの、それから約20年ほどはその状態だった。

この頃は九州と東北、北海道にも新幹線がない時代で、1992年にのぞみが開通してからしか乗ったことのないぼくは、かなりラッキーだったのかもしれない。

ほとんど毎回父は後から合流することになっており、母と妹と3人での帰省(きせい)で徳山駅まで親戚のおばさんが迎えに来てくれて、駅舎の中にあるフグのハリボテの前で待ってくれていた。

それから車で昔は光市と呼ばれていた今の周南(しゅうなん)市を通り、母の実家まで連れて行ってもらっていた。ぼくたちの乗った車が家の前に着いてバックで駐車場に入ろうとすると、おじいちゃんとおばあちゃんが待ちきれずに駐車場で出迎えてくれていて、それが凄く嬉しかった。

タクシーで土気(とけ)駅へ向かって在来線で行った東京駅は、小学生の少年にとってはとても大きく見え、ここが日本の首都なんだと思うとなんだか胸が高鳴る気持ちがあった。1995年までは今とは違って明るい雰囲気があり、景気が低迷し続けていても悲壮感(ひそうかん)などは漂っていなかった。



*大好きなセミ取りの話

 1年生の夏休みに下松に帰省して、3週間ほど泊めてもらっていたことがあった。おじいちゃんとおばあちゃんの家の近くにはキリスト教の小さな教会があって、たくさんの木が生えていた。そこでは毎年セミが羽化しており、『アブラゼミ』や『クマゼミ』や『ツクツクホウシ』や『ニーニーゼミ』のような少し(めずら)しいセミまでいた。

夏の時期に田舎に帰ると、毎日のようにおじいちゃんとセミ取りに出掛け、虫かごいっぱいにセミを取って帰り、おじいちゃんとおばあちゃんが寝ている一階の部屋の網戸に止まらせていた。

オスには『(きょう)(めい)(ばん)』と呼ばれる器官があって、それを使ってメスに求愛(きゅうあい)するために鳴くのだが、今思えばセミの鳴き声がうるさかっただろうに、ぼくのために何も言わずに網戸に止まらせたままにしてくれていた。そして、そのまま捕まえていては寿命が残り2週間しかないセミの一生が可哀想だと言うことで、朝になると外へ逃がしてあげていた。

そんな中で少し珍しいものを見ることがあったのだが、それは幼虫(ようちゅう)を捕まえて来て夜に見る『脱皮(だっぴ)』だった。セミの幼虫の背中が割れて中からセミが出て来て、次にその殻にセミがぶら下がり、最後に柔らかかったセミの体が乾いて硬くなるという具合だ。サナギの状態があるものを『完全変態』というらしいが、羽根が生え、新しく生まれ変わるセミの姿は凄く神秘的で、何度見ても飽きないものだった。



*ピアノを習っていた話

 1年生から習い始めたピアノには同じクラスのあみちゃんも通っていて、ぼくの授業の前に習っていた。けど、これが当時のぼくにとってはかなり苦痛で、練習嫌いのぼくは家であまり課題をやって行かなかったのだが、あみちゃんは毎回ちゃんと宿題をやってくるので、先生は毎回そのことを引き合いに出してぼくを(しか)るのであった。

我慢して続けていたのだが、あまりにもキツく言われるので泣いてしまったことがあり、「男の子なのに情けない」と言われたりしていた。結局ぼくは、ピアノを習うのがどうしても嫌になり、1年生の終わりにこの習い事を辞めてしまった。ぼくは今でもこの時に『ピアノを辞めなければよかった』と考えており、子育てをしている人は『別の教室を探す』などしてなるべく続けさせてあげるようにしてほしい。

そしてもし、小学生を教えている人がこの本を読んでくれていたら、その子を叱るのではなく、『その習い事の楽しさ』を教えてあげるようにしてほしい。昔の作曲家の曲などよりも、『流行りのアニメの主題歌』や『ジブリのテーマソング』などの方が、小学生は圧倒的に興味を示すものだと思う。

この年頃の子供には根性だとか将来の為とか言っても意味はなく、指導者が『いかにその才能を伸ばすか』ということを念頭に置いて教えてほしい。なので、絶対に頭ごなしに否定して、その子の才能の芽を()むようなことはしないでほしい。

そして、ピアノを辞めて3ヶ月ほど経ったころ、あみちゃんが指に包帯をして来たことがあった。どうしたのか聞いてみると、遊んでいて爪が剥がれてしまい、治るまではピアノが弾けないのだという。何をするにも不自由だし、気の毒だなと考えていたのだが、爪が治った時にピアノの腕が衰えてしまっていたらしく、結局あみちゃんも先生に怒られるのが嫌で、ぼくと同じようピアノ教室を辞めてしまった。



*こくごの授業の話

日本の小学校では国語の授業の時に『音読』というものを行っており、これをやることによって正しい発音を身に付け、かつ語彙(ごい)を増やすことができるようになるのである。

教科書にのっていた話の中でも特に印象に残っているのは『おじさんの傘』という話で、これはあるおじさんがとてもキレイな傘を持っていたのだが、そのあまりのキレイさに使うことをこばみ続け、だれかの傘に入れてもらってばかりいた。

そのおかげで傘はきれいなままだったのだが、ある時出会った女の子から「どうしてその傘を使わないの?」とたずねられ、「もったいないから使えないんだよ」と答えた。すると女の子から「使わなければ、ないのと一緒だよ」と言われてハッとして、それからはそのきれいな傘を使って雨の中を歩くことができたという話だ。

他には、新美(にいみ)南吉(なんきち)さんの『ごんぎつね』という男が母親にあげようとしていたウナギを子ぎつねが食べてしまい、その償いのためにクリを送り続けていたのだが、最後は泥棒と勘違いされて撃たれてしまう話や、同じ作者の『手袋を買いに』という母ぎつねが心配しながらも、子供を信じて手袋を買いに行かせる話など趣深い話が多く掲載されていた。

この音読は宿題としても行われており、家に帰ってから家族の人に聞いてもらって『サイン』をもらうというものであった。後から知った話だが、場合によってはこのサインを偽造して、親の字を真似て書いて宿題をサボろうとする太い輩もいたらしい。

ぼくらの学校ではおそらく、真面目に取り組んでいることがほとんどであったため、そういうことはなかったのではないかと考えられるが、ぼくなんかはそんなまどろっこしいことをするくらいなら宿題自体をやってしまえば堂々と授業に参加できるではないかと思う。だが、中には宿題が出ていたことに学校に行ってから気付いたり、宿題をやることがめんどうだと感じる人も居たのだろう。

なんにしてもこの『音読』というもののお陰で今ではスラスラと詰まることなく日本語が話せているし、こういうところはいい意味での日本の教育レベルの高さを表している話であると思う。



*初めての遠足の話

小学校1年生で行った『初めての遠足』の時に、『今でも忘れられないような一言』を言われたことがあった。それは、芝生の上でみんなでお弁当を食べ終わり、お待ちかねの『おやつタイム』に入ろうとしていた時のことであった。

当時から小学生のオヤツと言えば300円まで買っていいというルールがあったりして、日本では『バナナはおやつに入るのか?』ということを質問する生徒がいたりするのだが、ぼくたちの学校の場合は入らないということになっていて、オヤツとは別に持って行ったりもしていた。

そんな中でぼくがおやつとして選んでいたのは、当時大好きだったアニメのキャラクターである『デッカード』というパトカーが変形するオモチャのプラモデルがついているガムであった。いわゆる『食玩』という食べ物に玩具(がんぐ)が付いてくるものであり、当時一番仲良くしてくれていた女の子である、さくらちゃんから、

「もう、幼稚園児じゃないんだから、そういうのは卒業した方がいいよ」

と言われたことに得も言われぬ衝撃を受け、それ以来そういう食玩を買ってもらう時には、みんなにバレないようにコッソリ買いに行くようにしていた。ここで食玩を買うこと自体を止めない辺りが頑固者のぼくらしいと言えばぼくらしいのだが、これはぼくにとって大切なことであった。

日本内外でたまに言われていることだが、もう大人になったんだからこういうのは止めないといけないだとか、お兄ちゃんなんだからとか、本来はそんなことは関係ないはずなのに、論理が破綻しているような意見を言う人が数多く居たりする。時には周りに合わせることも必要なのだが、自分の感情を優先させることも大切だと思う。



*怖い話の話

 1年生の2学期に、当時仲良くしてくれていたさくらちゃんと、怖い話について話していたことがある。

「ねえけんちゃん、『呪いの田んぼ』って知ってる?」

「何それ!?知らない。どんなとこなの?」

 その言葉を聞いたことがなかったぼくは、怪しげなフレーズに興味(きょうみ)津々(しんしん)だった。

「私の家の近くにあるんだけど、4時44分にその田んぼにいたら死ぬんだって!」

「ええ~ウソだ。そんなわけないよ」

 ぼくが疑ってそう言うと、さくらちゃんはちょっとムキになって話を続けた。

「ウソじゃないよ。ほんとに怖いんだから。りゅうじくんでも逃げて帰ったんだよ」

 りゅうじくんは同じクラスの子でドラえもんの出木杉くんのような、顔がカッコよくてなんでもできるクラスの女の子から人気のある子だった。『運動ができるのび太』という感じのぼくは、正直このりゅうじくんがあまり好きではなかった。

「じゃあ、ぼくが行って確かめてくるから場所を教えてよ。ぼくなら大丈夫だから」

「ええ~。でも、りゅうじくんに危ないから他の子には教えちゃダメって言われたし――」

 教えてもらえなかったことで、疎外感(そがいかん)を感じたぼくは、なんだか面白くないような思いがした。

「なんだよそれ」

「やめたほうがいいよ、死んじゃったら、みんなと遊べなくなっちゃうんだよ」

 さくらちゃんにそう言われると、なんだか妙に納得してしまって、

「う~ん。それもそうだね。じゃあ、やめとく」

「そうだよね、絶対そのほうがいいよ!」

 この頃からぼくは人に何か言われると、わりと素直に意見を変えることが多かった。こうして結局、『呪いの田んぼ』に行くことはなかったのだが、果たして本当にそんなものがあったのだろうか?少し怖くて、不思議な話なのであった。



*初めての運動会の話

 1年生の十月の第二日曜にぼくは生まれて初めての運動会に参加することになった。日本の小学校には『赤白帽』というものがあって、これは赤と白の面がリバーシブルになっていて両面とも使えるという優れもので、細いゴムがついていてそれが口に入ってしまって舐めるとちょっとしょっぱかったりもした。

その赤白帽によって組を分け、楽しい種目に参加して勝敗を競うこととなった。

まず最初にやった『徒競走(ときょうそう)』では無事に1位を取ることができ、親の前で良い所を見せられたのが嬉しかった。

ただ、この頃(1994年)にはもうビデオカメラが普及していて父が撮影してくれていたのだが、運動会あるあるだと思うのだが、人が入り乱れて動く時に、『余所の子』を撮ってしまっていることが多々あった。

『綱引き』ではアンカーの一つ前の位置に陣取って奮闘し、『玉入れ』では一つでも多く入れようと躍起(やっき)になって挑み、『ムカデ競争』では張り切って一番声を出し、『借り物競争』では校長先生を借りて来たりしながら、とにかく自分の『赤組』が勝つようにと尽力していた。

校庭には運動会の定番の曲である『道化師(どうけし)のギャロップ』や『天国と地獄』、『クシコスポスト』が流れ、6年生の応援団長が歌う、当時流行っていたウルフルズの『ガッツだぜ』の替え歌を「ガッツだぜ、赤組勝つぞ!」と大きな声で歌っていた。

 そして、最終種目はメインとなる『リレー』であった。ぼくは運動では抜きん出ていたので、クラスで行われた選抜でリレーの選手に選ばれることができていて、そこからは体育の授業の時に別メニューでやったり、放課後に集まって練習したりしていた。

 1年生は3クラスしかなかったので、2年生の3チームと合わせて勝負し、激闘の末2位になった。それからもリレーの選手に選ばれ続け、熱戦を繰り広げたのだが、この初めての運動会が大葉小で一番記憶に残った運動会であった。 



*オマケの魅力の話

ぼくが子供のころ、小学生向けに『こどもチャレンジ』というものがあった。それは宿題でやるような問題集に遊びをからめてやるというようなものだった。これ自体は通信教育のようなものだったのだが、結構な数のオマケをもらえいて、中でも『カニの形をしたメモをはさむ置物』と『タヌキのお腹に時計が付いている置物』が気に入っていた。他にも、『水中メガネ』や『複雑なパズル』、『赤と青のビニールが()ってある3Dメガネ』など、面白いものがたくさんあった。

当時から小学生にはキャラクターものが人気で、サンリオのハローキティや、リトルツインスターズなどかわいらしいものがたくさんあった。女の子むけのものは持っていなかったのだが『けろけろけろっぴ』という、目が大きくて立って歩くキャラクターが描かれたエンピツけずりだけは持っていて、それが大のお気に入りだった。

また、当時からマクドナルドにはハッピーセットという子供向けのセットメニューがあって、それを頼んでオマケでついてきたオマケでもよく遊んでいた。兄弟あるあるだと思うのだが、ぼくが1番を頼んで妹が2番を頼んで、こういうオマケはくっつけて遊ぶことができたので、一緒に遊んでいた。



*平成の大事件Ⅰ ( 阪神淡路大震災 )

1995年1月17日午前5時46分、兵庫県南部淡路島沖を震源とした、『阪神淡路大震災』が発生した。マグニチュード7.3、最大震度は7であり、当時戦後最大、戦前の関東大震災(1923年発生)を含んでも近代で最大の地震ではないかと言われていた。 

俗に『11の入っている日には大災害が起こりやすい』とされているが、この震災もその例外ではなく11の数字が入っていた。

海の下が揺れる『海溝型(かいこうがた)』の地震とは反対に、陸地の下が揺れる『直下型(ちょっかがた)』の地震であり、縦揺れが多くそのことがより一層被害を拡大させた。災害発生後ぼくもテレビでその様子を見ており、阪神高速道路が横倒しになっている様子や、被災地への救援物資がなかなか届かないことなどを眺めていた。

けど、どこか遠くの『異国の地で起こっている出来事』のような感じがして、全く実感がわくようなものではなかった。この出来事が社会に与えた影響は大きく、これがキッカケで日本の耐震強度が見直されて改革が行われたり、バブル崩壊後の経済がさらに下向いてしまったりと様々な変化が訪れた。

*平成の大事件Ⅱ ( 地下鉄サリン事件 )

 1995年3月20日東京メトロ千代田線、丸の内線、日比谷線の計5ヶ所でカルト教団である『オウム真理教』によって猛毒(もうどく)のガスである『サリン』がまかれた。死者数13人、約6300人が犠牲となる世界的にも類を見ないほどの大規模なテロで、日本中を震撼(しんかん)させた。

ぼくの父はこの電車の一本前の電車に乗っていたそうだが、お笑い芸人の明石家さんまさんが日航機墜落(ついらく)事故の時に、乗る便を変更したお陰で助かったりと、人生とは常に綱わたりであるということを思い知る出来事は多い。

死刑囚(しけいしゅう)が計13人になる大規模判事であり、逃亡犯がなかなか捕まらなかったり、日本で『宗教』に対して負のイメージがつきまとうことになった。この出来事も社会に与えた影響は大きく、日本の安全神話はもろくも崩れ去って国防を不安視せざるをえなくなった。

また、余談(よだん)だがポケモン赤緑の地下通路で、ロケット弾が毒ガスをまくイベントがカットされたりもしたようだ。ともかく、この二つの出来事があってから、日本の『終末論』が加速するようになり、1999年の世紀末を嫌でも意識するようになった。



*家族での遠出の話

千葉に住んでいた頃、両親によく車で近くの公園に連れて行ってもらっていた。

当時から千葉市緑区には広大な土地が広がっていて、普通の公園の何倍もある自然公園といったようなドデカイ遊び場がいくつかあった。中でもお気に入りのスポットが3つあり、

1つ目は『創造の(もり)』という景色が特徴的な所である。ここでは池に(はす)がたくさん咲いていて、睡蓮(すいれん)の花が綺麗に咲いて、その大きな池の中に岩が何個か置かれていて、その上を渡って遊んだりできた。当時のぼくは冬でも半ズボン、上着にはトレーナーを着ていることが多かったので、靴とか足が濡れるのにもお構いなしで遊びまわっていた。

2つ目は『昭和の森』というところで、ここでは広大な草原が広がっていたので、それを利用して、走り回って遊んでいた。当時ぼくはどこへ遊びに行くのにも『鹿島アントラーズの帽子』をかぶっていて、ここは少し風が強く、飛ばされないようにいつも気を付けていた。その帽子が好きだった理油としては、戦隊もののヒーローのリーダーが毎回赤色の人で、赤という色に(あこが)れがあったからだ。

3つ目は『ふれあいの広場公園』で、ここには(めずら)しく『トーテムポール』というアメリカインディアンが神を祭る際に使用していていた(とう)があったり、ぼくが当時好きだったバスケットボールのゴールがあったりもした。

そんなこんなで遊んでいた訳だが、その帰りにはファミレスに寄ることが多かった。日本にはお子様ランチというものがあるのだが、おもちゃが付いてきていて、それを貰って帰るのが嬉しかったりもした。ある時そこでカッパのおもちゃを貰って持って帰ったのだが、これが背泳ぎするだけなのだが凄く面白く、風呂に入る度に浮かべては遊んでいた。



*秘密基地の話

 1年生の終わり頃になると、ぼく、はたの、しょうちゃん、かわのくん、もっちゃんと近所の空き地でよく遊んでいた。そこは50m四方くらいの、5つの大きな土地が階段状にあって、ススキがいっぱい生えているという所だった。

ぼくらは当時みんなの家から近くて比較的きれいな『下から2番目の所』が好きで、そこでよく学校帰りに屯していた。

「ここはほんとにいいとこだよね。大声で話しても誰も怒らないし、景色もきれいだし。ススキの枝にランドセルが引っかかって、もうこんなに傷だらけになっちゃったよ」

「俺はしゃべってるより、格闘したいかな」

 もっちゃんの問いかけにかわのくんが応じていると、しょうちゃんが突然なにか思い付いたようだ。

「そうだ、ここにみんなの秘密基地を作らない?」

「名案だね!そうしよう」

ぼくはしょうちゃんのその魅力的なアイディアにすぐさま飛びついた。

「じゃあまずは手分けして、材料を集めようよ」

「あとは基地の場所を決めて、地面をきれいにしなくちゃね。せっかく作るんだし」

 かわのくんともっちゃんもわりと乗り気で、しょうちゃんの案に賛同してくれた。そしてぼくらは、なぜかその辺に落ちていた木の板をいっぱい拾ってきて、みんなで協力してせっせと基地を組み立てて行った。

 それから1時間ほど作業をしていると、みんなと少し離れたところにいた、しょうちゃんが、ぼくに向かって手招(てまね)きをしていた。不思議に思って導かれるままに近づいて行くと

「ねえねえ見てよ、けんちゃん」

しょうちゃんにそう言われて見てみると、そこには野球ボール大のまん丸の石がいくつか転がっていた。

「うわ~凄い。ドラゴンボールだあ!」

 もちろんそんなはずはないのだが、当時のぼくは『本気で』これが本物のドラゴンボールだと思い込んでいた。数が8つあるとか、同じところに固まって全部そろっているとか、そんなことはどうでもよかった。ただ、みんなと宝物を見つけたことが嬉しくて、話し合った結果、ぼくが代表して持って帰ることになった。

「1年経ったら復活するから、その時になったらみんなに知らせるね!」

「うん、ぜったいだよ!」

 ぼくの提案に、しょうちゃんはかなり興奮して、声を荒げながら応えていた。

「OK~」 

「ほんとにそうだったら見せてよね」

 かわのくんともっちゃんは、あまり本気にしていなかったのか、しょうちゃんより気のない返事をした。そしてそれからというもの、基地が完成してからは、たまにみんなで集まってはその話をしながら遊んでいた。

家に帰ってからも、ぼくは思い出した時に机の引き出しを開けては、ドラゴンボールが復活していないかを、ワクワクしながら確認するのであった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ