第一章 幼稚園編
*妹が生まれる!話
ぼくは3歳の時、山口県下松市にあるおじいちゃんとおばあちゃんの家に居候していた。それはぼくに妹が生まれるからだ。ヤンチャだったぼくはだいぶ手がかかるから、父と母の居る広島の家に居たら二人が大変だったからである。
最初は寂しかったけど、いつも優しいおじいちゃんとおばあちゃんが遊んでくれるから次第に大丈夫だと思えるようになった。無事に妹が生まれ、広島に帰ることになった時には、帰りたくないとゴネてしまい、おじいちゃんとおばあちゃんは喜んでくれたが、父と母を困らせてしまったほどだ。
*ぼくとおじいちゃんの話
下松の家に住んでいた時、ぼくはよくおじいちゃんに連れられて、消防署まで行ってカッコイイ車をたくさん見せてもらっていた。遠くの公園や釣りにも、どこへだって自転車であっという間だった。
ぼくが覚えている一番古い記憶は、2歳の時に近所にある交通公園でおじいちゃんと手をつないでいた場面で、この初夏の記憶が幼少期の楽しかった思い出の出発点になっている。
おばあちゃんから聞いた話だが、おじいちゃんは子供の頃はいわゆるガキ大将で、船に乗る時にいつも自分が一番に乗らないと気が済まなかったらしい。昔は船乗りをやっていて、戦争があった時には船で必要な物を仲間の所まで運んでいたらしい。
その当時、喫煙所でみんなでタバコを吸っている時に、自分だけ吸わないのもなんだからとタバコを吸うようになり、なかなか止められなくなってしまって、今でもタバコを吸っている。
おじいちゃんはタバコを吸う時にはいつもぼくらに吸わせないようにと、応接間に行って吸うようにしていた。わりと多くの本数を吸っていたようで、おじいちゃんの匂いだと思っていた匂いが、大人になってタバコの匂いだと気付いたくらいだった。
おじいちゃんは頭がきれいにハゲていて、でもとても似合っていて、いつも笑顔でみんなの中心で、トランプと囲碁と将棋が得意で、ぼくはそんなおじいちゃんと遊ぶのが大好きだった。
*ぼくとおばあちゃんの話
ぼくのおばあちゃんはとても優しくて、働き者で、よく笑う人だった。ぼくは折り紙が好きだったのだが、まだ折れる種類が多くなくて困っていた時があった。でもそんな時だって、おばあちゃんに聞けば鶴や飛行機、手裏剣だってなんだって折れるようになった。
おばあちゃんは名家の子で、子供の頃は満州に住んでいて、高校を卒業してからはタイピストとして働いていた。おじいちゃんの上司だった、おばあちゃんのお父さんに言われて結婚することになり、結婚してからは日本に帰っておじいちゃんと暮らしていた。
下松に泊まりに行った時には、よくお昼にカレーを作ってくれて、ぼくのために具を大きめに作ってくれていた。二人で出掛けた時に書店に行き、子供向けの雑誌を買ってもらい、ゴジラのお面を小学校低学年くらいまで田舎に帰る度に付けていた。
おばあちゃんはお上品で、トイレに行く時は、
「どっかしらん行って来るね」
とぼかし言い方をしていたので、最初はどこに行くのか分からなかったのだが、母に聞いてトイレに行くという意味であると分かったのであった。優しくて、面白くて、ぼくをとっても甘やかしてくれるおばあちゃんのことも、ぼくは大好きだった。
*広島の幼稚園の話
妹が生まれて両親の元に返されてからは、広島県呉市の幼稚園に通っていた。そこは少し変わっていて、それはお寺と併設されているところだった。自分たちの居る教室から廊下を3回曲がると本堂へと通じていて、そこにお釈迦様がおられて(大きな仏さまの像がある)一日一回お祈りする時間があった。
だが、その幼稚園の管理にはちょっと問題があって、未だになぜそんなことになっていたのか疑問なのだが、その廊下にいくつもの『画鋲』が落ちていたのであった。ぼくらは上履きを履いていたので直接踏むことはなかったのだが、本堂へ行く度に靴の裏に画鋲が1つか2つ刺さっているのが普通だった。
そんな困難にも負けず、ぼくらは熱心に祈りを捧げ、4月8日のお釈迦様の誕生日などは、みんなで集まって盛大にお祝いしたりしていた。
*ぼくについての話
ぼくは幼稚園入学前と幼稚園児の頃、ミッキーのぬいぐるみをとても大切に持っていたらしい。ぼくはそのことをあまり詳しく覚えていないのだが、母から聞いたところどうやら一緒にお風呂に入ったり、スパゲッティを口に押し当てて食べさせようとしたりしていたらしい。
そして寝る時はいつも一緒で、家にいる時には大事に抱えて離さなかったそうだ。
夏は半袖のポロシャツ、冬は長袖のトレーナーをよく着ていて、長ズボンだけは意地でもはかないというような元気な子だった。
*幼稚園の友達の話
広島で幼稚園に通っていた時に、一番仲が良かったのが、偶然誕生日が同じだったますみくんだ。この幼稚園には園児が80人ほどしかいなかったため、確率的にはかなりレアな存在で、背の順で順番が近かったこともあって入園後、わりとすぐに仲良くなった。
遊具で遊んだり園内を移動したりお弁当を食べたりとわりといつも一緒に居ることが多かった。その後、千葉に引っ越してから、ますみくんとは会っていなかったのだが、山口の田舎に帰った時に乗った船で、偶然彼の家族と出くわす機会があった。
約1年ぶりにあった彼はかなり背が伸びており、顔つきも少し変わったように見えた。偶然の再会に心躍った二人だったが、残念ながらそれ以来彼とは会っていない。
*脳の話
ぼくたちには秘密の話題がある。それは『博士』というあだ名の子がしてくれる脳の話だ。毎日、物置の裏に隠れて、先生たちに内緒でいろいろな脳の仕組みを教えてもらう。
けど、博士はタダでは秘密を教えてくれない。最近あった面白い話とか、誰かの秘密とか、情報を渡さないと脳の話をしてくれない。どことなく話が間違っていそうだったりとか、超能力ってホントにあるのかな?とか、ホントはちょっと引っかかるんだけど、『博士』の話は面白いからそんなことは気にしないようにしていた。
*サンタさんが来てくれた話
ぼくが幼稚園年中の時、サンタさんがうちにプレゼントを持って来てくれたことがあった。それが嬉しすぎて玄関までの間にあった扉に突っ込んで、左手首の内側にガラスが刺さってしまったほどであった。その時の傷が血管がYの字になっているのと逆の形で今も残っていて、それを見ると今でもその日のことを思い出す。
いざサンタさんと対面してみると、ぼくはその顔を見てハッとなったのだが、父と母が「よかったね~サンタさんが来てくれて~」
と言って喜ばそうとしてくれていたので黙っておくことにした。プレゼントは大きめの箱に入っていて、中身はグニャグニャよく曲がるパーツと、それを差し込むブロックだった。
サンタさんにお礼を言って、ひとしきり話をした後、彼は颯爽と帰って行った。サンタさんが出て行ったあと、少し離れた所でまたドアの音がしたのだが、ぼくは気づかないフリをしていた。
*初めての入院の話
4歳になってからのある日ぼくは高熱が出たため、母に連れられて近所にある共済病院に診察に行った。すると、なんと髄膜炎という病気にかかっており、それからしばらく入院することになってしまった。
両親は妹が生まれてせっかく家族4人で暮らせるようになったのにと嘆いていたのだが、ぼくはなんだか遠足に来ているみたいで、そこまで悲観的にはなっていなかった。
だが、ぼくには一つ嫌なことがあって、それは毎日行われる手の甲に刺す点滴であった。交互に左右の手に刺していたのだが、これが結構痛く、看護婦さんから泣かないことを褒められて嬉しかったのをよく覚えている。
ぼくはこの頃ちょっと舌足らずだったのか発音が悪かったのか、看護婦さんが上手く言えず『監獄さん』と言ってしまっており、それを初めて聞いた人に笑われたりもしていた。
幸いぼくは良性で2週間ほど入院すれば退院できるということだったのだが、中には悪性の子もいて病状が悪化して歩けなくなったり、時には亡くなってしまったりしていた。ぼくはたまたま治る方の側になれただけで、立場が違えば自分もそうなってしまっていたということを幼いながらに強く噛み締めていた。
*幻の入学の話
ぼくが広島の呉市に住んでいた時には、小学校からかなり近い所に住んでいた。ぼくの家のマンションの前の道を200mほど上がって行くと、もう小学校に着いてしまうくらいで、幼稚園年中の時に一度、校庭に行ってサッカーのドリブルの練習をして帰ったことがある。その頃はまだ足元がおぼつかない頃で、ドリブルをしながらサッカーボールにつまづいて、2回もこけてしまったことがある。
この時、自分は“サッカーに向いていないのかな?”と思い、それから千葉に引っ越したこともあってボールを蹴るのはやめてしまった。“もしあの時からサッカーを続けていたら“とふと思うことはあるが、当時はサッカーがそれほど好きでもなかったので、多分それはなかったのかなと考えたりもする。ぼくのサッカー人生は小学校入学と共に幻となってしまった。
*トラックに撥ねられたらしい話
ぼくは1歳の時に母の運転する自転車が信号待ちしていた時にトラックに当たられて頭を強く地面に打ち付け、頭蓋骨にびっしりヒビが入ったことがあったらしい。
ぼくの記憶は2歳から始まっているのでこの時の痛みや恐怖はないのだが、運ばれた病院の医者にそのままでも骨がくっつくと言われて経過観察と診断されたそうだ。
だが、ぼくは記憶に難があり“この時に左脳を打ったからではないか?“という疑念が大人になった今でも拭えずにいる。
このことを通してぼくが言いたいこととしては、子供を自転車に乗せる際には多少忙しくても、お金がなくても『ヘルメットを着用させる』ようにしてほしいということだ。後悔先に立たず、事故というのは不意に起こり予期できないものなのである。
*千葉の幼稚園の話
幼稚園年長の1年だけ父の仕事の関係で転勤があったことで、千葉市緑区あすみが丘の幼稚園に通っていた。その時には、いつもバスが迎えに来てくれて、家の前でそれに乗って通園していた。その中にめぐみちゃんという子がいて、この子とは二人でやった思い出の遊びがある。
「ねえねえ、『セミの目』やってよ」
「うん、いいよ~やったげる」
「うわ~やっぱりおもしろい!」
「そうなんだ。ぼく、自分じゃ見えないからよく分かんないんだよね」
「そうだよね。けど、すっごくおもしろいんだよ」
「そっかー。じゃあ、また見たくなったら言ってよね」
「ありがとう。そうするね」
という具合で話していた。この『セミの目』とはまぶたを裏返して固定してから閉じる目で、その名の通りセミの目に形がそっくりだそうで、これをやるとめぐみちゃんはすごく喜んでくれた。ただ、めぐみちゃんに頼まれて他の子に見せても、
「う、うん。おもしろいね」といったような微妙な反応が返って来るのであった。
また、バスの中では『肝油』というものが配られていて、みんなで何かいいことをするとご褒美に一人一つもらえるのであった。これはアメのようなグミで、ゼラチンに砂糖をまぶしてある、とてつもなくおいしい食べ物であった。もともとは戦後に食べ物が少なかった頃、子供たちが栄養を補うために作られた商品で、簡素なものながらよくできたものであった。
それと、支度が間に合わずバスに乗れなかった子は車で送ってもらうことが多かったのだが、送り迎えの時に母が車のドアをちゃんと閉めていなかったことで、ドアが開いてしまったことがあった。母はかなり焦って叫んでいたが、後ろに乗っていた僕がドアを閉めると、お礼を言ったあと落ち着きを取り戻して、その異様な光景にかなり笑ってしまったことがあった。
*友達100人できるかな?の話
ぼくの通っていた千葉の幼稚園は家からちょっと離れた所にあったため、小学校に入学すると全く知らない人だけの中に放り込まれることになっていた。ぼくは元来人見知りしない性格であったので、ますみくんを始めとして友達作りには不自由していなかった。
日本では『1年生~になったら♪1年生~になったら♪友達100人できるかな?』という歌がよく知られていて、卒業するまでにそれを実現できたらいいなと考えていた。果たしてぼくは100人以上友達を作ることができるのだろうか?
不安と期待が入り混じった思いを抱きながら、ぼくは4月8日の入学式に備えるのであった。