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アクアラインから一本に伸びた道の先にその森はあった。
森の先には王都が位置しており、普段は街の自警団により管理され、多くの商人が行き交う活気に溢れた様子が見慣れた光景となっている。
しかし、現在は人っ子1人おらず、木々は何人も拒むかのように鬱蒼と生い茂り、生暖かい風が入り口から吹いている。ぽっかりと闇を孕む森はまるで御伽話に出てくる旅人を待ち構えて食べてしまう魔物の口のように見えた。
普段は小隊で巡回をしている自警団も今はいない。森で警報が発令されると小隊でも危険なので一度召集がかけられるのである。その後、綿密な作戦が立てられ複数小隊を編成し、作戦に取り掛かる。
しかし、それでは遅すぎる。もし、何か怪我などのトラブルがあってミトが森の中から出られないとしたならば一刻も早く森の外へと連れ出さなければならない。魔物のうろつく場所で負傷した場合、時間が経てば経つほど生存率は低くなる。この世界での常識である。
ジュードは湿った風を浴びながら歩を進める。
入り口から十メートルほど進むと、木々のざわめきさえ消え、軟い土を踏む音しか聞こえなくなる。ぬかるみに足を取られながらも必死に足を動かす。目指すは満月草が生息するであろう森の中心部。テミスから聞いた話が本当であればモタモタしている時間はない。
森の入り口が見えなくなってどれほど経ったであろうか。足の疲れも溜まってきた頃、薄暗い道の向こうに仄かな光を捉える。
木々の屋根から解放されたそこはぽっかりと直径20メートルほどの円を描いて木々が途切れており、すっかり暗くなった空から漏れる月明かりにより照らされていた。
息を吐くと体が一気に重くなる。張り詰めていた糸が緩んだ証拠であろうか。額の汗を拭い、近くの岩に座る。空を見上げると爛々と輝く月がくっきりと空の闇に浮かんでいる。このような状況でなければお弁当でも持ってきて月見でも始めているところである。
何分も休まないうちにハッと現実に戻される。ジュードの立つ場所からちょうど反対方面の森から何やら音がする。それは枝葉を掻き分けるような音でゆっくりと近づいてきていた。一瞬、身構えるが、よく聞くと、人間のような息遣いが聞こえてきた。
「なんだミトか…。」
思わず口に出た言葉をため息に変えて自らも足を踏み出す。怪我を心配していたが、しっかりした歩調からその心配はなさそうだ。
まったくこの心労をどうわからせてやろうか。
----と、ジュードの頭がようやく違和感を覚える。
ほぐれた緊張から安楽的な思考をしていたが、明らかにおかしい。音のする方向は切り開かれてすらいない木々の密集する場所である。そのすぐ横に獣道が存在するのにわざわざそんな場所を選んで歩くだろうか。
嫌な予感に急いで近場の茂みに飛び込む。
『くぅーん。』
何とも間の抜けた声であった。初めてこの声を聞く者は仔犬か何かだと勘違いして気を許したであろう。しかし、この声に聞き覚えのあるジュードの頬には冷たい汗が伝う。
近づくにつれわかる。その足音は明らかに人間の子供のサイズが発する音ではない。
そして、それはゆっくりと月明かりの元で歩みを止める。
身の丈は2メートルほど、眉間から鼻先までが長く、頭には可愛らしい三角の耳がちょこんと乗っている。そのすぐ下にはガラス玉のような無機質な目がはめられており、鏡のように光を反射している。二足歩行で、地面に着くほど異様に長い両の腕を引きずるように歩く姿はまるで子供が創作したように不恰好で、首を傾げる姿は可愛げすら感じる。
しかし、その実、人里に降りてくる魔物の中でトップクラスで人間を殺している危険な魔物の一種である。
恐怖を知らず、空腹であれ満腹であれ縄張りに入ってきた人間、動物、同種の魔物でさえ見境なく襲いかかる凶暴性を持っている。何の力も持たなければ一体討伐するのに数人の連携は必要となる。
あの日、両親を殺したウェアウルフを前に身を縮めながら震える体を抱くことしかできない自分を戒める余裕すらない。
当のウェアウルフは鼻先をかきながらのんびりとしている。鼻からは鼻水が垂れており、どうやら嗅覚は本来の力を発揮できていないらしい。それでも耳を右に左に器用に動かしながら辺りを散策しているということは呑気に縄張りに侵入したジュードの足音を聞きつけたということである。しかし、潜んでいる場所は検討がつかないようで離れたところを右往左往している。
一挙一動から目を離せないでいたが、茂みで何かを見つけたようで頭を突っ込み弄りだした。このままでは見つかるのも時間の問題なので、この隙に震える膝になんとか力を入れ、立ち上がろうとするが中々言うことを聞かない。
不意に茂みから顔をあげ、振り返る。
ガラス玉のような瞳はジュードの隠れる茂みへ真っ直ぐ向けられている。気配を感じとったのであろうか、品定めするような目でじっと見ている。
数秒ほど停止し、----ジュードの潜む方へゆっくりと歩き始める。
足音が近づいてくる。今にも漏れてしまいそうな声を必死に堪え、ポケットに忍ばせたいざという時のための"奥の手"に手を伸ばす。
あと一歩、踏み込めば覗き込める位置に差し掛かった時であった。後方から小さい何かがジュードの横を通り抜け茂みを飛び出す。ウェアウルフの前に躍り出たそれは小さな一匹のウサギであった。
雄叫びをあげ腕を振り下ろす。長い爪が地面を抉り、土煙が舞った。ウサギは器用にその攻撃を避けて、ジグザグに跳ねながら反対方向へとかけて行ってしまった。先ほどまでの緩慢な動きからは想像できないほどのスピードでウェアウルフは方向転換しウサギを追う。やがて二匹の獣は森の奥へと消えていった。
木々のかき分ける音が聞こえなくなってもジュードは動けなかった。今もまだどこか近くに潜んでいてこちらが動き出すのを待ち構えているのではないかという不安が鉛のように足に纏わりついて中々離れてくれない。
「ちょっと、なんであんたここにいるのよ。」
「!??!!?」
口からこぼれ落ちそうな心臓を必死に手で押さえる。声にならない声を我慢するジュードに申し訳なさそうにミトは頬を掻く。
「あ、ごめん。そんなに驚くと思わなくて…。」
「あ、いや、別に大丈夫だけど…。」
息を整えながらミトへと視線を向ける。
荒れる息を整えながらざっとミトの身なりを確認する。所々に汚れはついてはいるが特に大きな怪我はなさそうだ。
「何安心してるのよ。というかなんで勝手にここにきてるわけ?危ないじゃない。」
ほっと胸を撫で下ろす様子を見てミトは眉を吊り上げる。強い語気に思わず気圧される。
「いや、それは心配で…。」
「余計なお世話よ。あんたがいる方が危ないっての。」
"余計なお世話"という言葉に萎縮していた気持ちは苛立ちへと変わる。
「余計なお世話ってなんだよ。」
「そのままの意味よ。現にさっきも私がなんとかしなかったらあなた死んでたかもしれないのよ。」
ぐうの音も出ない事実ではあるが、それにしてもその言い草はないだろう。険悪な空気の中、ミトの肩がぴくりと跳ねる。
「うさ子がやられたわ。あの狼、想像以上にすばしっこいのね。」
ミトの出す式神は一体一体特性が違い、今回生み出したウサギ型の式神(うさ子)は森の中や、障害物の多い場所では小回りが利き、中々、追いつくことが出来ないはずである。しかし、想定していたより早くやられてしまったようだ。
「とりあえず森を出よう。」
渋い顔で爪を噛んでいるミトは何かを言いたそうであったが、渋々といった様子でそうね、と賛同する。囮が消えてしまった今、いつまたあいつが戻ってくるかもわからない。
二人は重い足を無理やり動かし、出口へ向かうため、暗い森の中へと再び歩みを進めた。