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ベッド横に位置するサイドテーブルに朝食の乗ったトレイを起く。ここ一週間のミトのルーティンである。
少年は背を向け、微動だにしない。
入園した当初からどこか元気のない様子ではあったが、ここ一週間それは顕著に現れており、食事も最小限取るのみで日に日にやつれていく一方であった。
「今日はすごくいい天気よ。中庭にも春の草花がいっぱい咲いていて風に揺られるの。」
少女は背中に語りかける。目に見える反応はないが、寝ているわけではないようで微かに息遣いが変わる。5分だったり、1時間だったりと日によってまばらではあったが、この時間は二人の日常になりつつあった。
「そういえばこの時期に咲く綺麗な花があってね。今夜辺りがちょうど満開じゃないかな。去年は何人かで抜け出して町外れの森まで見に行ったの。」
ミトは視線を落とし自身の指をじっと見つめる。
「今回も見にいこうって話なんだけど、よかったら気分転換にどうかなって。」
ぴたりと少年の呼吸が止まる。レースのカーテンが風に煽られる音が静かに部屋に流れる。
数秒、間が空いて。
「やめとく。」
蚊の鳴くような声がジュードから発せられる。返事は残念であったが、久方ぶりの声に顔が綻ぶ。
「体調も万全じゃないもんね。じゃあまた今度お話聞かせてあげるわね。」
跳ねるような足音が小さくなる。扉の閉まる音が背中を叩いたのを感じて、ようやく重い上半身を起こした。
やれやれと頬を掻く。
ああいうふうに言われるとたまったものではないな、と口元が緩む。胸中まんざらでもなかったが、それでも自責の念で胸は重く、このように口元が緩むのすら悪いことをしているような気持ちになった。
仕方のないことであった。力のない自分が出来たことなどない。それは誰の目から見ても紛れもない事実であり、どうしようもない現実であった。しかし、自身の行動は許されることではなく、今もこうして心にモヤがかかって晴れることはなかった。
許される---自分で言っておいて誰が何をどう許すというのであろうか。その答えは塞ぎ込んでいても見つからず、ちっぽけな頭で思考を巡らせても見つからず、八方塞がりでまさにお手上げであった。
食欲はないが、朝食へと手を伸ばす。そこでトレイに下敷きにされている一冊の本に気づく。
ミトが気を利かせて置いていったのだろうか。手に取ってみる。それは小説や伝記の類ではなく、植物の図鑑のようだ。何気なくパラパラとめくると付箋の貼ってあるページに目が止まる。植物に特段詳しくないジュードにはそれが何かはわからなかった。
「そういえばもう満月草が咲く時期ですね。」
「どぅわっ!?」
突然の介入者に思わず声が出る。
「あら、よかった。いっぱい寝て元気になったみたいですね。」
人形のように整った目鼻立ち。ベールから溢れる前髪は絹のようで、その向こうに空色の瞳が宝石のように輝いている。シスタークレアは驚くジュードを他所に図鑑を覗き込み、続ける。
「毎年この時期の十六夜に咲くお花ですよ。」
満月なのに十六夜で草なのに花が咲くんです、と笑う。
「郊外に森があるでしょう。あそこにスポットがあって毎年ツアーも組まれるくらいに有名で綺麗なの。」
言われて思い出す。父様が母様にプロポーズしたとか何とか言っていた気がする。今となっては詳しい話を聞くこともできないが。
「でも残念ながら今年はしばらくツアーはやらないみたいね。なんでも危ない魔物が森に住み着いてしまって一般人は近づけないみたい。」
「そうなんですね。」
思わず空返事が出る。
その後も何か言っていたようだが、全てモヤがかかったかのようにくぐもってよく聞こえなかった。
魔物----読んで字の如く魔の物。今や生活に欠かせない魔法や魔道具を動かす力の源である魔素を元に発生する人間に害をなす異形の総称である。発生の起源は詳しく解明されていないが古くは三千年より前の文献にその存在を記されている。
ジュードの村を一夜にして壊滅させた群れの一派が住み着いたのであろう。
またお昼に来るわね、と部屋を出ていくシスタークレアの背中を見送り、枕に顔を埋める。陽の光を浴びて仄かに暖かい。肺いっぱいに空気を吸い込むと母様の匂いがしたように感じた。手のひらを見ると、爪が食い込み跡ができていた。こんなもの何の罰にもならない。
優しく微笑む母様と父様の顔を思い浮かべ、ただ虚しく渦巻く感情を胸に少年は目を閉じた。