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短編一覧

夏の終わりの夕涼み、茜に彩られる君と

作者: 椋鳥 未憐




 あれは中学3年生の夏――。


 部活を引退し、受験勉強に追われ、ピリピリとする教室の空気。

 落書きだらけのノートの上に鉛筆を転がし、空っぽなぼくだけがひとり教室に取り残されていく。

 校舎の外。木漏れ日の木に止まり、やたら忙しなく鳴いていた蝉はどこへ行ったのやら。


 ひどく暑い、そう、本当に暑い、蒸しかえるような夏の日差しも遠ざかり、少し肌寒くなった頃。

 あの日は、涼しいというよりかは、少し肌寒い日だった。


「――ねぇ。1週間後、死んじゃうんだ私」


 夏の終わりの夕涼み。

 茜に彩られる君は、震える声でそう言った。







「どっか遠くに、私を連れ去ってよ」


 まるで小説の台詞みたいだと、ぼくはそう思った。

 運命に呪われた悲劇のヒロインが、最後の時間を主人公と一緒に過ごしたい、みたいな。そんなワンシーンをぼくに想起させる。


「―――」

 聞きたいことは、それこそ山のようにあった。

 第一に、情報が乏しすぎる。

 初めはぼくをからかっているんじゃないかと、そう思った。

 女子達で結託して、ぼくの反応を面白がっているんじゃないかと。

 だっていくらなんでも1週間後に死ぬなんて、突拍子がなさすぎる。

 そう結論づけようとした、――けれど。


 けれど君のその今にも泣きだしそうな瞳は、ぼくに嘘をついているようには見えなくて。

 恐怖を誤魔化すようにして笑う、君の下手くそな作り笑いが、あまりにも儚げで。

 だからぼくは、浮かんだ疑問の全てを飲み込んで、静かに頷いた。


「ひとりじゃ寂しいだろうから、ぼくも一緒に死ぬよ」








 街を夕焼けに染める夕日が、頼りないぼくの足取りを照らしている。

 

 世界のどこかでは今も戦争が起きていて、現地の人々は今日明日にでも死ぬかもしれないという漠然とした不安に頭を抱えているのに、ぼくらは愚かにも、未だ見えない不確かな将来に怯えている。


 あの日ニュースを見て感じたかつての感情を、今のぼくは良く思い出せない。


 鉄砲が火を吹いて、人がいっぱい死んでいた。

 空からの爆撃がどうとか、新兵器のミサイルがどうとか、生物兵器の毒ガスがどうのって。思い出せるのは結局、情報として処理されただけの知識でしかない。

 

 両親が亡くなり、身寄りのなくなった幼い子どもが、瓦礫の上で泣いていた。

 勇猛果敢に国を守ろうと奮起した国民が、手に取った鉄砲で敵兵を撃ち殺した。

 

 たぶん、悲観したんだと思う。同情したんだと思う。救いを願ったんだと思う。

 自分は薄情な人間だと思いたくはないから。

 自分は人の死を思い悲しめる、尊く清らかな心の持ち主なのだと思いがたいためだけに。


 所詮は他人事でしかない。

 一時の感情のエゴだ。

 でなければ、たった数ヶ月で風化されてしまう程度の感情を、偽善と呼ばずして何と呼べばいいのだろう。


 上っ面だけの感想を我が物顔で口にする教師。

 教育という名の元に、その汚らわしい暴論を、あまつさえぼくらに共有しようとしてくる。

 人の死を悲しめる人間になりなさいと。

 戦争はやっちゃいけないものだと。

 涙を流し、ぼくらに訴えかけてくる。

 次の昼休み。その教師は涼やかな顔で「うまいうまい」と昼食のカレーを貪っていた。


 ぼくにはわからない。

 戦争を終わらせるための代案も出さず、ただただ嘆くことの何が正しいというのだろうか。

 悲劇に感想を綴り、それが美しいものだと勘違いして、自己満足の悦を唱えることの何が正しいものか。


 ぼくたちは戦争を知らない。

 今の大人たちも、戦争を経験した者はいない。

 平和に慣れすぎて、誰も彼もが気づけない。

 気づいても、気づかないふりをする。

 きっと、ぼくらはぬるま湯に浸かりすぎてしまったんだ。

 人類はとうの昔に腐っている。

 戦争に敗北したあの瞬間から、腐り続けている。








 家に帰ると、ポケットから鍵を取り出し、ぼくは玄関のドアを開けた。

 暗い室内。

 家の中には誰もいない。

 両親はここしばらく、帰ってきていない。

 ふたりして出張だと言っていたっけ。

 だから、ぼくがいなくなっても、誰にも気づかれやしない。


 食器棚から皿を一枚取り出し、床に落としてみた。

 皿が粉々に砕け、あたりに飛び散る。これが予想以上に面白くて、手当り次第に皿を割った。


 耳障りで仕方なかったテレビを壊した。

 父さんが一度も触らせてくれなかったゲーム機の上に、母さんが大事にしていた香水をぶちまけた。


 勉強机に飾られた賞状にトロフィー。

 親に強制されて始めたピアノも。

 手当り次第に壊して、壊して、壊し尽くした。

 今じゃ意味のなくなったノートを破り捨て、テーブルの上に放置された進路希望の紙をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ入れた。

 

 この狭い世界で、大切なものなんて、ぼくにはただのひとつも見つけられなかった。

 この腐った世界で、帰りたい場所なんて、初めからぼくには用意されていなかった。


 必要最低限の荷物をリュックに背負い、財布を握り締めてぼくはあの家を後にした。








 待ち合わせ場所の公園に着くと、ブランコに座っている君はすぐに見つけることができた。

 隣のブランコに、ぼくも腰掛ける。

 生憎、ブランコで遊ぶ気にはなれなかったけど。

 君は口を開かず、空を眺めている。君にならって、ぼくも空を見上げる。沈みかけの夕日に彩られた茜の空は、やけに綺麗だった。


 長いことそうやって座っていた気もするし、もしかしたら5分くらいの短い時間だったかもしれない。

 どちらからともなく立ち上がり、


「行こう」


 街灯に照らされた道を、宛もない目的地へ向けてぼくらは進む。


 どこに行こっか。

 どこでもいいよ。目的地なんて。



 大きな中川橋の真ん中で、ぼくらはスマートフォンを川に投げ捨てた。

 今までバカみたいにやり込んでいたゲームデータとか。SDカードに纏めて保存してあった写真や動画なんかも一緒に。暗くて底の見えない川底に沈んでいく。


 現代人にとってスマホは命と同価値だ、なんていう輩がいるが、手放してみると案外呆気無いもので、こんなもんかって思えた。

 今までぼくは、こんなもんに縋って生きてきたのかって。

 そう思うと少し、笑いがこみ上げた。


 世界との繋がりが消える。

 今までスマホに縛られていた視界が開く。

 ぼくの世界にいるのは、君だけだ。

 代わりに空いた右手で、ぼくは君の左手を握った。




 

 



 雲を突き抜け、ぼくらを見下ろす電波塔。

 乾いた風を運ぶ、黄金の砂丘。

 鉄錆だらけの肥えた大仏。

 花が枯れ落ち、申し訳無さそうに頭を垂らすひまわりたち。

 夜は夜行バスに揺られて眠りにつく。


 

 無為に過ぎ去った15年を取り戻すように、ぼくらは色々な場所に行き、様々なものを目にした。

 

 まだ大人になりきっていない、幼いぼくらはどこへでも行ける。

 初めから何も持ちえないぼくらを縛れるものは、何ひとつとして存在しないのだから。


 







 名前も知らぬ砂浜で、ぼくらは海を見た。

 どこまでも果て無く続く地平線を見て、綺麗だって君は言ったけど、ぼくは君のほうが綺麗だと思った。


「すごいね。どこまで続いてるんだろう」

「どこまでって……アメリカまでとかじゃない?」

「それはそう。まったく、夢がないなぁ、きみは」


 そう言って、君は苦笑した。

 君の笑った顔を見たのは、なんだか久しぶりな気がする。

 海を見て微笑む、そんな君にぼくは訪ねた。


「海を見るのは初めて?」

「ううん。前にもきたことある。でも」


「……でも?」と、ぼくは聞き返した。

 すると君は足元の砂に視線を落としながら、


「誰かとふたりきりでくるのは、今日が初めて」


 このどうしようもないくらい残酷で、救済の余地すらないほど腐りきった世界で笑う君は、呼吸を忘れるほど綺麗だった。





 





 笑わない蕾に花が咲く。

 電車に乗るたび、リュックから観光地図を取り出しては、ふたりして顔を並べて地図を覗き込む。


 次はどこに行こうか。

 どこでもいいよ、君とふたりなら。


 最近、君はよく笑うようになった。

 緊張が解れて来たのだろうか。

 それならいいんだけど。

 君につられてぼくも笑う。

 

 修学旅行みたいだね、なんてぼくが言うと。ふたりきりだし新婚旅行みたいじゃない? なんて君が冗談めかして言う。

 これはぼくらの逃避行。

 誰も知らないぼくらの終末旅行。


 ぼくらの生まれた意味を探す旅路であって、ぼくらの死にゆく意義を探す旅路でもある。

 

 まだ見たことのないものを見に行こう。

 どこまでも遠くへ。ずっと遠くへ。

 君とふたりなら、ぼくはどこへだって行けるから。

 そして、誰も知らない場所で、ふたりで消えてしまおう。




 からっぽになった財布をゴミ箱へ捨てた。

 お金は私がもっているから気にしなくていい。君はそう言ってくれた。

 横から垣間見えた君の白い財布の中には、一万円札が何枚も入っていた。

 そのお金どうしたの? とぼくが聞くと、内緒と君は曖昧に笑って誤魔化した。



 君はことあるごとに、右手につけた腕時計に視線を落とす。

 ローマ数字の文字盤と、銀の指針のついた腕時計。

 癖なのだろうか。

 あまり気にしないことにした。



 君といるのが楽しくて、ぼくは聞けずにいる。

 君の死ぬ理由は何なのか。どうして君は死ななきゃいけないのか。それを聞いてしまったら、この旅が終わってしまう気がして……。

 だから弱虫で意気地のないぼくは、結局最後まで君に問いただすことができなかった。

 










 気づけば君が口にしていた約束の朝が来た。

 あれから7日。

 ずいぶん遠くへ来たみたいだ。

 長かったようで、早かったような。

 君はいつもと変わらず、電車の窓から外の風景を眺めている。


「見てみて、山しかないよ」

「田舎だね」

「ね。私達の住んでたとこと変わんない」


 君の瞳には、哀愁が漂っている。

 

「帰りたいとかって、思う?」


 君はふるふると首を横に振った。


「ううん、ぜんぜん」

「そっか」

「きみは?」

「ぼく?」


 そう、と君は頷く。


「帰りたいって思ってるの?」

「どうだろう。懐かしいとは思うけど、帰りたいとは思わないかな。だって」


 そこでぼくはおもむろに言葉を切る。


「だって?」


 不思議そうに、君が首をひねる。

 窓の外を流れる田舎の景色を見ながら、ぼくは曖昧に笑ってみせた。


「あの町には、ぼくの居場所はないから」


 あの町にぼくの居場所はない。

 あの家にぼくの居場所はない。

 ぼくはずっと、誰かと比べられて生きてきた。


 もっと勉強しなさい。

 もっと努力しなさい。

 全然足りない。

 全く以てなっていない。

 本気でやりなさい。

 あの子はあんなに上手なのに。

 あの子はあんなに頑張っているのに。

 あの子にできて、あなたにできないわけがない。

 何度言ったらわかるの?

 お願いだから、イライラさせないで。

 どうして諦めるの?

 どうしてできないの?

 そんな簡単なことなのに。

 なんでなの?

 ねぇ、なんでなの?

 なんでこんなこともできないの。

 教えてちょうだい。

 なんであなたはこんなにも―――。


 理想の息子像を押し付けられて。

 ぼくは母さんの写し身でしかなかった。


 見てみぬふりをする、父さんは一度だってぼくを助けてくれたことなんてない。

 平日は夜まで仕事。

 休日は部屋に引き篭もってゲームに明け暮れる。

 洗脳するように、麻痺性のある毒を吐き散らす母親と、完結された自己の世界を生きる他人に関心のない父親の元でぼくは育った。

 ぼくの味方は誰もいない。

 悔しくはなかった。

 ずっと苦しかった。

 ずっとずっと悲しかった。


 だから、今でもたまに夢に見る。

 鮮明に覚えている。

 母さんの、あの失望したような声を。落胆に染まる瞳を。

 その低脳な頭がぼくには何もできないと理解した瞬間、母さんの顔から歪んだ笑みが消えた。


『あなたに期待した私が馬鹿だったわ』

 

 それきり、母さんはぼくと口を利かなくなった。


 勝手な理想をぼくに押し付けて。

 頼んでもないのに期待して。

 ぼくは頑張ったのに。

 操り人形みたいに努力したのに。

 それなのにあの人は、最後にぼくを見捨てた。


 当時は色々思うところがあったけど、今となっては別にどうとも思っちゃいない。

 だって、この世界は腐っているんだから。

 理由なんて、それだけで十分だ。

 糞みたいな両親の遺伝子を受け継いだぼくもまた、生まれたその瞬間から腐っているんだから。

 そんなぼくに、この意地汚い世界を生きていていい価値なんてものは最初から与えられていない。

 ぼくはからっぽだ。


「――私も同じ」


 顔を上げると、君は少し悲しそうな顔をして笑っていた。

 ぎこちない、あの笑みだ。

 どういう意味なのだろう。

 君の絶望をぼくにも教えてほしい。


 電車が止まる。

 どこかの駅で。

 漢字が読めない。

 なんて読むんだろう。


「着いたよ」


 君は立ち上がり、静かにそうつぶやいた。


「ここは……?」


 辺りを見渡しながら、ぼくは聞き返す。

 窓の外に広がる、野原の風景。

 電車の中に、ぼくら以外の姿はない。

 君はぼくに手を差し出しながら、告げる。


「私たちの、終着駅――」









  

 息を呑むほど鮮やかで、淡い水色の花。


 思わず見惚れてしまうほどの、幻想風景。


 満面の花畑に、満開の花が咲いている。



「すごい……!」


 まるで青空のように広がる、あまりにも綺麗な花々に目が奪われる。


 あたり一面に咲き誇る、水色の花々。

 ぼくはあまり花には詳しくない。

 水色の花で記憶にあるのは、ネモフィラだけど。ネモフィラが咲くのは春だったはず。今は9月上旬だし、ネモフィラの開花時期とは異なっている。


「これって、何の花かな?」

「わかんない。何だろうね。ハツコイソウの開花時期は10月だし。ルリマツリにしては葉や茎が少なすぎる」


 なんとなく口にしただけなのに、まさかそれらしい返答が返ってくるとは思ってもみなかった。

 思わぬ形で知った君の博識ぶりに、ぼくは目を丸くした。

 

「花、詳しいんだ」

「将来、お花屋さんになるのが夢だったから」


 どこか遠い過去に目を向けるように、君は笑う。

 ごくごく一般の、女の子らしい夢だとぼくは思った。

 そこで、はてと考える。

 ぼくの夢は何だっただろう。


 みんなから好かれる学校の先生?

 大勢を感動させられるようなピアニスト?

 それとも悪人を取り締まる警察官?

 

 どれも違うような気がする。

 それもそのはず。その全部が糞みたいな母親がぼくに見た『夢』でしかない。


 ぼくが見た本当の『夢』は何だっただろう。


 大切なものだったような気がする。

 忘れちゃいけないものだったような気がする。


 夢なんて。そんなものはとうの昔に捨ててしまったから、それが何だったのかよく思い出せない。


 ぼくのことだから、きっとくだらないものだったに違いないけれど。


 夢なんて。

 未来のないぼくらには、縁のない話なのに。

 なんでこんなに寂しいんだろう。











 水色の海の中を、君は漕いでいく。

 その小さな背中に、ぼくは必死で付いていく。


「待ってよ。そんなに急いでどうしたのさ」

「―――」


 ぼくが聞いても、君は答えない。

 今日で何度目になるだろう。

 ちらちらと腕時計を見て、時間を気にする君。


「この手を、離さないでいて」


 ただ一言、君はそう言った。

 君の左手が、強くぼくの右手を握りしめる。

 君の手はなぜか震えていた。

 見えない何かに、怯えている。

 

 もしこの手を放してしまったら、この水色の世界のなかで、ぼくと君は永遠に離れ離れになってしまうような、そんな漠然とした不安がこみ上げる。



 西の空に沈む夕日が世界を赤く染める頃、君は歩みを止めた。

 辺りに敷き詰められた水色の花々はどこかに行ってしまった。


「―――」

 君の向こう側。海が見える。夕焼けに染まった海が。

 どうやらぼくらは、海崖に出てしまったようだ。

 高い、高い、崖の上。

 ざばぁん、ざばぁん、と湿った音が響く。

 下は岩場になっているのか、波打ちがひどい。

 潮風に揺られ、君の髪がたなびく。

 腕時計を確認する君が、ふぅと息をつき、肩から力を抜いた。


「ぎりぎりだけど、なんとか間に合ったみたい」

「ぁ」


 ぼくの手の中から、君の手がするりと抜けた。

 あっとなったときにはもう遅い。

 もう一度君の左手を捕まえようとしたけれど、ひらひらと舞う蝶々のように、君の左手には触れられない。

 あれだけ離さないでと言っていたじゃないか。

 それなのに、どうして……。

 さっきまであった確かな感触が。温もりが。繋がりが解けて消える。

 

「間に合ったって、何が……?」


 手の温もりを惜しみながら、ぼくは辿々しく君に問い返した。

 ぼくから距離を取るように。まるで離れるように。一歩、二歩、三歩進んだところで立ち止まる。後ろ手を組み、君はゆっくりぼくに振り向いて。




 瞬間、茜が差した。




 地も海も空も何もかもが、等しく茜に染まる。

 ぼくの視界の全てが、茜に塗り変えられる。

 逆光だ。

 眩しくて仕方ない。

 ぼくの方から、君の顔はよく見えない。

 でも、目が離せない。

 茜に彩られる君は、やっぱり綺麗で、美しい。


「内緒」


 またそうやって、君はぼくの質問をはぐらかす。

 君はいつもそうだ。

 大事なことは、決して教えてくれない。

 君は昔から、なにも変わっていない。

 とても嬉しそうに君は笑っているもんだから、ぼくは勘違いしてしまいそうになる。

 君の頬がほんのり赤いのは、きっと茜のせいだ。


「ありがとう、私のわがままを聞いてくれて」


 憂いのこもった声で、君は言う。

 ぼくは眉を寄せた。

 わがままだなんて、そんなこと……。


「ありがとう、私に色々なものを見せてくれて」


 親しみのこもった声で、君は尚も続ける。

 ぼくは君に手を伸ばす。

 待って、危ないよ。そっちは崖だ。


「ありがとう、私と一緒にいてくれて」


 愛の言葉を紡ぐように、君はそう言って。

 ぼくは首を横に振った。

 ありがとうなんて……それはぼくの台詞だ。ぼくの方こそ、君に――……。

 けれど、ぼくの言葉は届かない。

 ぼくの想いは響かない。


「全部、きみのおかげ。きみのおかげで私はここまでこれた。嬉しかった。だからもう何もいらない。もう何も望まない。最後にきみが、私の世界を茜色に染めてくれたから」


 なんだか嫌な予感がして、ぼくは走った。


 待って、待ってってば。

 何が最後だ。

 約束したじゃないか。

 君をひとりにしないって。

 ぼくも一緒に、連れてってよ。

 お願いだから……ぼくをひとりにしないでくれ。

 

 君のもとへ――君に向かって手を伸ばす。

 だけどもう遅かった。

 

「ありがとう。君のおかげで、今度こそ私は――」


 崖から飛び降りた君の手を、ぼくは掴めなかった。












 落ちていく、君が。



 真っ逆さまに。



 落ちていく君を、ぼくは抱きしめた。



 閉じられた君のまぶたが、ゆっくりと開く。


「ああ、もう、ばかだなぁ。きみは」


 呆れたように、君は苦笑する。


「ばかなのは、どっちだよ」


 そう言って、ぼくは君の華奢なからだを力いっぱい、抱きしめた。


「約束しただろ、ひとりにしないって。ふたりなら、怖くない」


 君の腕がぼくの背中に周り、ぎゅっとぼくの服を掴む。


「うん」



 落ちていく、ふたりで。



 どこまでも、落ちていく。



 ぼくらはいつまでも一緒だ。



 茜がぼくらを優しく包む。



 ぼくは君のからだを強く抱き寄せ―――。




 時計の針は、17時52分を指していた。











 ……。


 ………、


 …………?


 

 ――ふと、湿った風がぼくの頬を舐めた。


 恐る恐る、ぼくはまぶたを開けた。


 まず、ぼくの視界に入ってきたのは白紙の黒板。

 それから、整列されたたくさんの机とイス。

 ぼくの目の前にある机の上には、見慣れた落書きだらけのノートがある。

 不思議なことにぼくは教室にいた。

 逃げ出したはずの、あの場所にいた。


 死ぬ間際に見る、過去の残影。確かな死を想像した瞬間に、脳が幻視する逃避行。

 これは……走馬灯というやつだろうか?


「にしては、リアルだよな……」


 校庭から聞こえてくる野球部の掛け声。

 教室特有の、色々な物が混ざって薄められたような匂い。

 机の質感も。何もかもが本物じみている。


 これは……夢なのか?


「でも、ぼくはたしかに死んだはずだ」

 

 あの瞬間。

 確かな死を、ぼくは体験した。


 落下する浮遊感と、硬い岩にからだがぶつかる感触。何か大切なものが、潰れる音――。

 

「そうだ、ぼくらは一緒に……!」


 一緒に崖から飛び降りた君のことを思い出し、ぼくは咄嗟にイスから立ち上がろうとして、


「……これは……」


 左腕に、腕時計がついていることに気づいた。

 一度見たら忘れない。ローマ数字の文字盤と、銀の指針のついた腕時計。

 君が頻繁に時間を気にするもんだから、てっきり大事なものかと思っていたけど。


「なんで、ぼくが持ってるんだ……?」


 いつ君から渡されたのか記憶にない。

 いや、そんなことよりもいったい……ここはいったい何なんだ?

 ぼくはいったい、何を見せられているんだ――?



「――あ、起きてるじゃん」



 何もわからず混乱するぼくに、どこからか声がかけられた。

 いつの間にか、教室の入り口に誰かが立っている。

 ぼくはその声を、知っている。

 知っているどころか、この7日間ずっと耳にしてきた声だ。

 いつの間にか、教室には茜が差していて。


「気持ち良さそうに寝てたけど、いい夢でも見てた?」


 そこにいたのは、――君だった。

 はじめまして。

 ちょくちょく作者名が変わる椋鳥未憐です。


 今回の作品、どうだったでしょうか。

 かなりの量、伏線を仕込ませて頂きました。

 主人公とヒロインはこれからどうなって行くんだろう、というところで無事完結です。


 まだ感想をつけてもらったことがないので、感想頂けると嬉しいです!


 去年書いた短編を読み返してみて、いやぁ我ながらだいぶ成長できたんじゃないかなぁと思ってしまいましたが、まだまだ精進せねば……。


 最後はぼくの好きな作家さんの終わり台詞を借りまして。


 それではみなさん、また茜差す空の下で会いましょう!

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