麻衣と調理部
生徒会庶務、山口麻衣の部活動のある一日。
「麻衣様、見学者がいらしてますよ」
先に生徒会室に寄って用事を済ませてから、遅れて部活動に参加すると同級生の部員から囁かれた。
何やら賑やかだ、と思ったのはそのせいか。
生徒会執行部役員、庶務の山口麻衣は調理部所属だ。生徒会役員をしているから、部の活動は出られない日も多い。役職のない平部員だが、できる限り参加するようにはしている。
――何より、料理もお菓子作りも大好きだった。
手を洗い、エプロンをして三角巾をきっちりとつけると、見学者の対応であたふたとしている後輩たちを手伝おうと、近づいた。
「ま、円華様、いけません! 粉ものをそのように豪勢に扱っては……!」
確か、馬術部の一年生ではなかったか。部長の三枝百合恵とよく一緒にいる子だったと思う。見学に来ていたその一年生は、焦ったような声で隣の女子生徒に声をかけている。
案の定、小麦粉が舞い上がり、小麦粉を扱っていた当人と周りの女子生徒はうっすら白くなりながら、咳き込んでいる。
「あらあら……」
麻衣は呆れながらもくすり、と笑ってしまう。
どうやら今回の見学者の中に取り分け不器用な子がいるらしい。
「ま、円華様、いけません! 卵をそのように強く叩きつけては……!」
「直接ではなく、こちらの別の容器に……ああ!」
さらには卵を割る作業で殻ごと握り潰してしまったものを小麦粉に落としてしまったようだ。
麻衣は、はしたない、とは思いながらも咄嗟に吹き出してしまう。
――ドラマや漫画でしか見ないような、絵に描いたような失敗の数々だ。
笑いを収めようとはするが、どうしても肩が震えてしまう。
「今日は何を作っているのでしたっけ?」
「見学者がいますので、クッキーを……」
麻衣が近くにいた部員に尋ねると、なるほど、定番のお菓子の名前が出てくる。
お菓子作りは見学者用としてはわかりやすく、そのなかでもクッキーは初心者にも簡単で達成感がある。焼きあがったものはお土産として持ち帰りも可能だから、見学シーズンにはよく行っている。
材料の分量を間違えたりしなければ滅多に失敗するようなものではない。オーブンでの焼き加減が難しいといえば難しいが、調理部員ならオーブンの癖もわかっているし、毎年作っているものなので、注意点は皆、わかっている。見学者には何分焼けばいいかレシピを渡して設定してもらえばいいだけだ。材料を混ぜる時や生地のまとめ方や伸ばし方、オーブンの取り扱いなどを手伝ってやればいい。――通常の年ならば。
しかし、分量の計測や準備の段階でこれほど失敗している生徒を見るのは珍しい。もはや不思議な生き物を見るような心持ちで麻衣はその女子生徒に注目した。
はらはらして右往左往するほかの三人は内部生だが、一番真剣な面もちなのに一番やらかしているのは、おそらく外部生だった。初めて見る顔だった。
粉塗れで顔は所々白くなり、潰してしまった卵の殻を必死に取り除こうとしている姿がなんだか愛らしい。
四人を担当していた部員が女子生徒から、ボウルをそっと取り上げた。
「あっ……」
思わず声を上げた女子生徒が、縋るような表情でそちらを見る。
「料理は化学の実験と同じです。取り扱いは慎重になさるとよろしくてよ? 殻が入ってしまっては食感が悪くなってしまいます。手順とも違いますしね。最初からやり直してみましょうか」
「は、はい……」
目に見えてしゅん、としてしまい、眉を下げる表情に、麻衣はまた吹き出しそうになる。なんとかそれを抑えて部員からボウルを受け取った。この場にいては笑い出してしまう。
「新しいものを持ってきますよ」
「ありがとうございます、麻衣様。よろしくお願いします」
新たな材料を用意して戻ると、落ち込んだ風の女子生徒を三人組が慰めていた。
「だ、大丈夫ですよ、円華様。計量は私たちがやりますから……!」
「そうですよ、まだクッキーにはいろんな行程がありますからね……!」
「か、型抜きなんて、どうですか……!? きっと、楽しいですわよ……!」
「はい……。すみません、しばらく見学しております……」
その叱られた子犬のようなうなだれ具合に麻衣はまた笑いを噛み殺しながら、椅子を用意した。
「こちらでご覧になりますか?」
「はい……、ありがとうございます!」
麻衣に礼を言ったが、その目は菓子作りの方に夢中で、麻衣のことはどうも目に入っていないようだった。
どうやら手を出すことは諦めたようだ。それでもきらきらした目でクッキーを作る行程を真剣に眺めている。
その女子生徒が外れたことで、材料を混ぜ、生地をまとめるところまで、今度は問題なくさくさく進んでいる。生地がまとまったら一時間ほど寝かせないといけないが、今回は見学者の体験である。「はい、寝かせた生地がこちらに!」と料理番組のように昨日用意していた生地を冷蔵庫から出してきて渡した。
部員の指示のもと、三人組がのし棒で生地を伸ばす。
そうして、ようやく件の女子生徒も再度の参戦を許された。
――ものすごく真剣にそっと型を押し付け、そっと離す。
「で、できました……!」
「お上手ですわ、円華様……!」
「さすがですわ……!」
必死に三人が褒めているのがなんだか微笑ましい。
女子生徒はにっこり、と笑って嬉しそうにすると、型を抜いたクッキー生地を天板に慎重に並べた。
麻衣は部員に目配せする。部員は頷いてさり気なくオーブンの時間設定をする。受け取って入れたのも部員だ。
――ここで失敗されては大変だ。
「十分か十五分で焼き上がりますよ。その間に調理部の説明をいたしますね」
四人を別のグループと合流させて、調理部の年間予定や調理室の案内、道具の紹介などをしている間、麻衣がオーブンの様子を見ておく。
焼き上がりそうな時間を見計らって、説明をしている部員に合図した。部員が頷いて、見学者たちを再びオーブンの前に促した。
「そろそろ焼き上がりますよ。見てみましょうか」
戻ってきた見学者たちを前にオーブンを開けてみると、きれいなきつね色に焼き上がったクッキーが登場した。見学者たちから歓声が上がる。
調理室内にはふわりと、バターと砂糖の甘い香りが漂った。
……いつでも、この瞬間が一番幸せだ、と麻衣は思う。
甘いもの、美味しいものは人を幸せにする。
どんなに嫌なことがあっても、忙しくても。
だから、麻衣は少しでも時間を作っては何か手作りをするのが好きだ。
それを、いろいろな人に味わってもらいたいと思う。
この中でどれだけの人が入部してくれるかわからないが。
それでも構わなかった。
作る喜び、それを食べたときの幸せ。
それを一度でも味わってくれて、美味しいと思ってくれたらそれだけでもいい。
見学者たちがおっかなびっくり、自分たちの型抜きしたクッキーを皿に取り出す。
麻衣は用意してあった紅茶を淹れて配った。
「美味しい……!」
食べた見学者たちから口々に感想が漏れる。
皆、幸せそうに頬を緩めている。
その顔を見ると麻衣も幸せな気持ちになる。――それが、調理の醍醐味だと思う。
作る過程ももちろん楽しいし、それこそが好きでもあるのだが、何より嬉しいのは作ったものを食べて幸せそうにする人の顔を見ることだった。
だから調理はやめられない、と思う。
見学者たちが食べている間に、それぞれのクッキーをかわいらしくリボンをつけて包んでいく。帰りがけに受け取った見学者たちは皆、笑顔だった。
特に、あの失敗ばかりの女子生徒は口にしたクッキーに、どこか恍惚とした表情を見せ、些かぼぅっとした眼差しで包みを受け取って微笑んだ。
粉塗れの顔を綺麗に拭い、三角巾を外すとびっくりするくらいの上品な顔立ちの女子生徒だった。
「ありがとうございました。幸せです……」
クッキー程度のものにまるで夢心地、とでもいうように呟いて去っていった。
◇◇◇
――だから、麻衣の方は記憶に強く残っていたのだ。
生徒会室で久遠が連れてきた紫野円華に、少し驚きながら紅茶を配った。
円華の方は麻衣に調理部で出会っていたことに気づいていないようだった。
なるべく前の方には出ないようにしていたし、麻衣は印象に残る容姿でもない。――何より、あの時円華は必死だったし、クッキーに夢中だった。覚えていなくて当然だ。
黒川会長に紹介されると、にこり、と笑って円華に挨拶した。
「どうぞ、よろしく」
はじめまして、という意を込めて。
その後、出されたケーキを口にしてやはり幸せそう、を通り越して恍惚とした表情の円華に黒川会長と久遠が生徒会加入を了承させてしまったことに、少しだけ不憫だ、と思ったが。
――なんにしても、あれだけお菓子を幸せそうに食べる人が悪い人であるはずがない。
と、麻衣は円華に対して勝手にそう好印象を持ったのだった。
蛍にお礼のクッキーを作った円華ですが、おそらく家でも型抜きくらいしか実質やってないと思われます。凌久がほとんどの行程を頑張ったんですね、たぶん。
本編では生徒会でお茶とか配ってる控えめ眼鏡少女、山口麻衣。
意外とお菓子に詳しいぞ、という理由は調理部だったからでした。
彼女のお菓子知識が出てくるのは本編31話「お嬢様、だが断る……か?」↓
https://ncode.syosetu.com/n8676hh/42/
よろしければ、どうぞ。