お嬢様とヴィオラ
円華の前世、ヴァイオレットの子どもの頃の思い出。
せっかく大好きなおじ様、お父様の親友であるその方がいらっしゃっているのに、その日の私はどうしても笑顔を作ることができなかった。
つい、頬を膨らませてしまう。
「なんだい、ヴィー。そんなふくれた顔して。せっかくの美人さんが台無しだよ?」
おじ様は、私の頬をつんつんと突いてくる。
私はますます面白くなくなり、つん、とそっぽを向いた。
お父様がくすり、と笑みを零した。
「どうも、ヴィオラが気に入らないらしい」
「ヴィオラ? この間は真面目に練習してたじゃないか」
おじ様にひょいっと抱き上げられる。視線が高くなってちょっと、嬉しい。
その首筋にぎゅっと抱きつくと、おじ様はあはは、と声を上げて笑った。
「どうして、ヴィオラがいやなんだい?」
「だって大きいし重いし、それに何より、とにかくつまらないんですもの……!」
「つまらない?」
おじ様が不思議そうに訊いてくる。私はがばり、と顔を起こすと抗議した。
「そうよ……! 室内楽もオケも、主旋律はヴァイオリンばっかり! 伴奏したり、かと思ったらずいぶんお休みしたり、弾いてもなんだかヴァイオリンのちょっと下を追っかけてばっかりなんですもの。お兄様はあんなに楽しそうに弾いてるのに。それに合わせてばっかり! 独奏曲もほとんどないのよ? つまらない……!」
「そうか、残念だなぁ。僕はヴィオラの音、好きなんだけどなぁ」
「嘘おっしゃらないで! どうせおじ様もお父様に言わされてるだけでしょう?」
「そんなことないよ。ほら、ヴィーのヴィオラ、貸して。一曲弾いてあげるよ」
「……おじ様、ヴィオラなんか弾けますの?」
私を床に降ろすと、オスカーが持ってきた私のヴィオラケースを受け取ってテーブルの上に置き、カチャリ、と留め金を外して深いチョコレート色の楽器を取り出した。
鼻歌を歌いながら、顎に挟んで調弦していく。
「失礼だなあ。これでも国で有数の音楽家だよ? 交響曲も作曲できる僕に弾けない楽器はないよ?」
実際、おじ様の指は魔法のようだった。ただの調弦なのに、零れる音の深さが私とは全然違う。……なんだか、悔しい。
「……ヴィー。僕は本当にヴィオラの音が好きなんだ。――だって、こんなに深くて切ない音、ヴァイオリンには決して出せないよ?」
言いながら、ただの音階が少しずつメロディーになる。歌うように、低い音が響く。
「ヴィオラがヴァイオリンよりも響かない楽器で、どんなに頑張ったって所詮添え物だなんてひどいこと言う人もいるけど……、僕はそうは思わない。ヴィオラはオケになくてはならない存在なんだよ。管と弦をつなぐ重要な使命がある。目立たなくても、必要なんだ。主役を助けて、寄り添い、支える。軽々しくなくて、重い。……ねぇ、僕は君そのものみたいに思えるよ。君の性格によく合ってる」
おじ様のヴィオラは、深く深く私の中に染み込んでいく。
「君は主役になりたいの? 目立ちたいの?」
自分が、決して主役になれないことは知っていた。そんな役割は私には求められていない。羽が生えているみたいに軽やかでふわふわとしたあの人を無理やり地上に縫い止めて、重石となること――それが、あの王子の后になる私の役割。家を継ぐ兄を助けて、美しく微笑んで見せるのが、私の役割。
無邪気さも可愛らしさも求められない。
賢さと理性と厳格さ、人形のような型に嵌まった美しさ、そんなつまらないものしか――。
「たとえ振られた役割が何であれ、君は全うする人でしょう? 全力で。やらなくてはならないなら、好きになりなさい。もう一度、向き合ってごらん。きっと、素敵なところが見えてくるよ。――ヴィオラをつまらない楽器にするかしないかを決めるのは君次第なんだよ」
奏でられていく音は、徐々にひとつの曲になっていく。
「君にプレゼントするよ。天才が好きなものを全力で表現すると、こうなるって、曲。さあ、聴いて。絶対に素敵だから。ヴィオラは要。人を支えることができる人は、ひとりでも輝ける、ということを教えてあげよう」
――そして、一気に弾き始めた。
低く、深く。どこまでも、深く。
切なくて、でもどこか明るく。
広がっていく、音。
暗い闇を切り裂いて、細く儚い、微かな光を探して――そちらへと、向かうような。
「ヴィオラ、って『紫』って意味もあるね。ヴィー……、ヴァイオレット。君のための楽器だよ」
弾き終わったおじ様は、私にヴィオラと弓を渡す。
小さな女の子の手にはずっしりと重い、楽器だった。
けれど、その日からヴィオラという楽器を、私は大好きになった。