さようなら、相変わらずで退屈な日常
これからも不定期で更新します。
ソレは、困惑していた。
と言うのも、味わったことのない感覚が突如として全身に巡ったためだ。
驚いたソレが自身の足元を見ると、己の四肢が地面から離れているのが目に入る。
自分が空を飛べていたのだと気がついた頃には、頭上にて飛行していたはずの生物が眼下を飛び回っていた。
そうして、ソレにとって見慣れていたはずの景色は、見たこともないような鮮やかな物へと姿を変えた。
初めて空を飛んでから幾年も経った頃、ソレは陸よりも空にいる時間の方が長くなっていた。
上空から広範囲を俯瞰するという行為が、今まで見ることのできなかったものを観測するにあたってとても有効な手段であると理解したソレは、好き好んで空を飛びまわるようになったのである。
己が地を歩いていた頃では見ることのできなかった、多くの景色や生物たちの活動を眺めるという行為。
見慣れたものを別の目線から観察する事は、新たな発見を生むという実感をソレに与えた。
空を飛ぶという手段は、ソレの退屈を完全に吹き飛ばしていたのだ。
しかし一方で、ソレは今までの興味や退屈とは大きく異なる新たな感情を持つようになっていた。
それは、人で言うところの憧れや羨望とも言えるモノ。
見慣れていた筈の物から新たな発見をするという経験が、己の住まう地を囲うように聳え立っている山々の先に新たな発見があるという確信をソレに抱かせるに至ったのである。
未知なる土地で、その景色や生物を見て、触れて、実感したい。
そんな憧れや探究欲が、いつしかソレの思考の大部分を占めるようにまでなっていた。
そうして、ソレは己の故郷から旅立つことを決心したのである。
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ソレは、ただひたすらに感動に打ち震えていた。
己の心の底で思い描いていたような。
いや、思いもしなかったというべきだろうか。
見たこともない植物や生物が住まう未知の世界が己の眼下に広がっているという事実が。
そして、さらに多くの未知を知る事ができるという確信とも言える期待が。
ソレの感情を更に昂らせていく。
自分の故郷を覆っていた山脈の周辺を何度も何度も旋回しながら、ソレは幸せの絶頂を感じていた。
景観、住まう生物や植物、空気の匂い、温度や湿度に至るまでが自分の知らない未知で溢れている。
暗雲が立ち込め、暗く澱んでいる景観も、ソレの目にはとても明るく輝く素晴らしい楽園に映っていた。
これが、自分が追い求めていた物。
未知なる世界なのだ。
今しがた己を取り巻いている風が、景色が、そしてこの身に直接触れている空気さえも、大きな感動と共に望みが叶ったと言う実感を促してくれる。
ソレはただひたすらに近辺の景観を眺め、俯瞰し、観察し、見渡して、傍観する。
そして思う。
地上に降りたって、あれらの未知を間近で見てみたい、と。
考えるや否や、ソレは即座に行動に移した。
ソレは、木々をなぎ倒しながら悠々と移動していた生物の前に降り立つ。
その生物の見た目は全身が毛むくじゃらの四足獣で、人が熊と呼ぶ獣にどことなく姿が似ている。
しかしながら、その体躯は遠目では動く小屋に見紛うほど大きく、身体の所々から巨大な棘のようなものが突き出るようにして不規則に生えていた。
頭部は毛の生えていない骨のような質感をした殻に覆われており、まるで頭蓋骨がそのまま露出しているのではないかと錯覚してしまうほど不自然な外観をしている。
歪を体現するような、それでいて身の毛もよだつような不気味な見た目の怪物。
そんな不気味で巨大な獣の眼前に、ソレは立ち塞がるように鎮座していた。
突如として頭上から飛来し、こちらを凝視し始めた得体の知れないソレを、獣が快く思うはずもない。
獣は威嚇の為に前脚を広げて立ち上がるようにしてから低い唸り声をあげる。
ゴルルとも、グロロとも聞こえるその重々しい唸り声は、ビリビリと周辺の大気を絶え間なく震わせる。
しかし、いくら獣がそんな事をしたところで、ソレが怯む事はなかった。
めいいっぱい背伸びをし、声を上げて威嚇をしたところで、小動物を相手に怪物が怯むはずがなかったのだ。
目の前で前脚を広げて唸る獣をじっと見つめていたソレは、ぐいっと顔を低く下げる。
まるで、一生懸命に背伸びをしている健気な子供と話す為に、大柄の大人がわざわざしゃがみこんで目線を合わせるかのように…
獣の渾身の威嚇はソレを怯えさせるどころか、結果としてより一層ソレの興味を惹き、執着を持たせてしまうに至ったのである。
一連のソレの反応に、獣はひどく困惑した。
自身に合わせられたソレの視線は、捕食者のような明確な敵意や殺意を持った物とはまったくもって異なっていた。
その視線は…
まるで、虫籠の中に捕らわれた無抵抗の虫をじっと見つめる時の子供のような……
庭にひっそりと生えた花を、そのままにするか摘み取って飾るか否かを悩みながら見ているような……
まるで、どうにでもできるものに対して、これからどうしてくれようかと遥か上の方から吟味されているかのような…
そんな、ただただ気味の悪く悍ましい視線であった。
実際のところ、ソレがどの様な感情を懐きながら獣を凝視しているのかを知る事はできない。
ただ、ソレからの視線がひどく不可解で不気味な物であり、向けられていた獣にしてみれば恐怖と疑問で気が狂いそうになる程のものであった事は確かである。
そして暫くの沈黙の後、獣はついに耐え切れなくなった。
獣はプツンと糸が切れたように叫び声とも悲鳴とも取れる甲高い鳴き声を上げる。
そして目の前に突如現れた得体の知れない巨大なナニカに背を向け、脱兎の如く逃走を図ったのである。
これは自分ではまず敵わない相手であると悟ったが故取る自衛の術としては極々普通で、恐怖のあまり気が違ってとった愚行というわけでは決してない。
まず勝てぬ相手に無闇矢鱈に突っ掛かろうものならば返り討ちにあうのは間違いないだろうし、見たこともない異形の怪物を相手に無策でこちらから近づくなど、それこそ愚の骨頂といえよう。
寧ろ一般的な考えで見れば、この時に獣の取った逃走という行為は考えうる策の中でも最善であったと言えるかもしれない。
ただし、今回に限っては、この選択は最も正解から遠い間違いであった。
ソレに背を向けて逃走を図った刹那、獣の横腹を物凄い衝撃が襲う。
そして、放り投げられた石ころのように、大きな獣の身体が宙に吹き飛ばされた。
ついさっき後ろを向いて逃げ出したはずの自分が、何故か空を舞っている。
突如として自分の身に起きた、あまりにも現実味のない出来事を、恐怖と焦燥で混乱していた獣が理解できるわけもなかった。
そのまま重力に従って頭から地面と強く激突した獣は、腹部に受けた衝撃と落下で受けたダメージに耐えきれずに即死した。
然しもの頭骨のような殻あっても、自重より遥かに強い衝撃に耐えられるほど頑強ではなかったのだ。
そうして、獣は最後まで何も理解できないまま、己が身に生じた痛みすらもわからぬままに事切れたのである。
目の前でビクビクと痙攣する獣だったものを暫く眺め続けた後、何かを諦めたようにソレは飛び去っていった。
己の観察対象が呆気なく死んでしまった事を悔やんでいるのか。
はたまた、目の前の獣に対して憐憫の情を覚えたのか。
飛び去る直前のソレの表情は、何処となく悲しげであった。
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ソレは再び、分厚い灰色の雲がかかった荒れた空を旋回する。
己の下に広がる新しい世界に、今なお激る大きな期待と羨望を抱きながら、ただひたすらに飛び回る。
何回、何十回、何百回と…
何日も何十日もの間ずっと、飛び回る。
そしてたびたび地面に降り立っては、未知の生物や植物や環境そのものを見て、感じて、触れ合う。
その度に新たな知恵や経験を得ながら、更なる学習を重ねていった。
例えば、初めて遭遇した獣がとっていた前脚を広げて唸ると言う行為は、相手を威圧して萎縮させ、無益な争いが生じぬようにする事を目的とした一つの自衛手段であった事。
今までは自分に対してあのような行動をとる生物がいなかったため獣の目的がわからなかったのだが、あの獣の同類が己と遭遇した際に、決まって前脚を広げて立ち上がり唸った。
そこから、故に少しでも己の身体を大きく見せて相手に見せつける示威行為であると推測し、理解した。
例えば、初めて遭遇したあの獣の種類は、この辺りに生息している数多くの生物種の中でもかなり上位に位置する生物であると言うこと。
背中から無数に棘の生えたあの獣が近づいたり、威嚇を行えば、大抵の生物はその獣を恐れて逃げていた。
即ち、この辺りに生息している生物はあの獣より弱い物がほとんどであるという事に他ならなかった。
これは、生物の観察を目的としていたソレにとってはとても都合が悪い事であった。
故に、ソレは考える。
自身の身体の大きさや容貌が他の生物にとって脅威と認識されるということは、己と対峙した獣たちが威嚇行動をとる、或いはすぐさま逃走してしまうのを何度も見た経験から理解している。
ならばどうすべきか。
考えたソレは新たな解決策を導き出し、そして試した。
身体を縮ませて小さくし、体色も他の生物から目立たないように周りの景色と同じ様に変化させたのである。
要するに、擬態だ。
木の葉や枝を真似て天敵の目を欺く昆虫や、環境や背景に合わせて体色を変えるイカやタコのように…
いや、ソレの擬態は、最早模倣、あるいは変身とさえ言える程のものだった。
より自身が目立たないように、自身の存在が環境を脅かさないように…
ソレは、己の目的を果たすべくその姿を著しく変容させた。
こうして、現地の生物を知るための試行錯誤の回数を重ねていったソレは……
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森の中を、1匹の獣が歩いていた。
その容貌は狼と殆ど変わらないのだが、先の尖った大きくて立派な角を額から生やしている。
全身を隈なく覆う体毛は針金のように硬く、脚に生えた大きな爪は歩くたびに地面を軽く抉り取る。
鋭い牙が生えそろった口元からは絶えず唾液が垂れ、その獰猛な性格を露わにしていた。
その獣は、『自分よりも弱い生き物を見かけたらじっくりと追いかけて、少しずつ痛ぶってから殺して食ってやろう。大きくて危険な相手ならばすぐに逃げれば追いつけまい。』などと、酷く邪な事を考えながら森を進んでいた。
この残虐で狡猾な性質が、この獣を危険たらしめる最も大きな理由である。
ただ大きくて強いだけの生き物ならもっと沢山いるし、なんならこの狼に似た獣は能力的に見れば弱い部類に入る。
しかしながら、自身よりも弱いと判断した相手への異常なまでの残虐性を有していて、森の外からやってくる自分よりも脆弱な生き物である人間を見つけては襲いかかるのである。
凶暴で、ズル賢くて、好んで人間を襲う。
そんな恐ろしい習性を持つこの獣は、『人を殺すために、悪魔が化けて出た怪物だ』と信じて恐れた人間達から、『一角の悪魔』と呼ばれていた。
さて、そうして痛ぶる対象を求めて森を進んでいた獣だったのだが、突然大きくスンと鼻を鳴らしたかと思うとピタリと歩みを止める。
かと思えば、獣は何かを警戒するようにキョロキョロと見回し、再び大きく鼻をスンスンと鳴らしながら進路を変えて歩き始めた。
この時、獣は今までに嗅いだことの無いような独特な臭いを嗅ぎ取っていた。
と、同時にある事を疑問に思っていた。
森の中は鬱蒼としていて、天候のせいか濃い霧がかかっている。
にも関わらず、これほどまでハッキリと臭いが分かるのは異常だ、と。
それに、少しずつ強くなっていくのであれば納得がいくが、急にこれほどまで強い臭いがし始めるのはおかしいのだ。
まるで何も無いところから突然現れたかのような…
この異常な臭いの正体が何なのか、痛ぶる対象を探していた事などはとうに忘れて探し回る。
と、ふとある事に気がついた獣は、その歩みを止めた。
間違いない。
臭いの元が、自らこちらに近づいてきている。
自分は一切動いていないのにも関わらず、次第に臭いが強くなっていく。
より一層警戒した獣は、動かずにじっと身を潜めて耳を澄ませる。
トス、トス、トス、トス…
足音が一つ、こちらに向かって来ているのが微かに聞こえる。
その足音が段々と大きくなっていくと共に、嗅ぎ取っていた臭いも強くなってゆくのだ。
間違いなく、こちらに向かってきている足音の主は自分が探しているナニカだ。
足音と臭いがすぐ近くに迫り、ついに近くに生えていた茂みがガサガサと揺れる。
臭いの元とのご対面である。
茂みを掻き分けて出てきたそれは…
獣の同族であった。
茂みから出てきた同族は、ブルブルと身震いをしたかと思うと、前脚を伸ばすようにノビをした。
そして、座り込んで首を傾げながら尻尾を振ってこちらを眺めている。
かと思えば、今度は後脚を使って耳を掻き始め、挙げ句の果てに口を大きく開けて欠伸をする。
そんな安心しきっている目の前の同族の一連の動作は、こちらの気分まで落ち着かせてくれる程にゆったりとしていて和やかなものだった。
そう、これは紛れもなく自分の同族。
その筈なのだ。
骨格や毛並み、身体の大きさ、額の角といった容姿。
歩き方、ノビ、呼吸、尾の動き、視線の動かし方、安堵した時によく取る行動、と言った細かな仕草や身のこなしまで。
どこからどう見ても、目の前にいるのは己の同族のそのものである。
身体から発する臭いがこれほどまで歪で無ければ、そう勘違いしていた程には。
獣は身体を屈めて唸り声をあげると、牙を剥き出しにして目の前に座り込んでいる同族に吠える。
否、違う。
これは、自分の同族ではない。
同族の皮を被った、自分とは全く異なるナニカなのだ。
それを本能的に理解し、警戒心を露わに吠える獣の姿をジッと見据えていたナニカは、振っていた尻尾をピタリと止める。
そしてスクッと立ち上がったかと思うと、残念そうに軽く項垂れる。
まるで『何故わかったんだ』と溜息をついているかのように…
その直後だった。
何かの身体がボコボコと膨らみ始めたのだ。
毛皮で覆われている全身が、まるでゴム風船のように何十倍にも膨れ上がってゆく。
そして身体には、堅牢な鱗が、重厚な甲殻が、大きくて鋭利な牙が、艶やかで立派な鉤爪が、空を覆い尽してしまいそうなほど巨大な翼が、長くてしなやかな尻尾が、そして幾つもの複雑な形の巨大な角が…
目の前の怪物の身体に生え揃ってゆくのだ。
気づいた時には、その獣の眼前には見た事のない容貌をした大きな大きな化け物が佇んでいた。
あれほど勇ましく吠えたてていた獣も、今はただ震えながら天を仰ぐことしかできない。
威勢よく吠える事も、腹を見せて服従する事も、尻尾を巻いて逃げ出す事すらもできない程に。
その心を、言い表しようもない恐怖によってへし折られていた。
怪物は、ふるふると縮こまって恐怖に震えるだけとなった無様な獣を一瞥すると、背中に生えた大きな翼を羽ばたかせて悠然と飛び去っていった。
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きっかけは、不自然な動きをする一匹の獣だった。
明らかに何かを避けるように移動していた獣の様子をみて、ソレは首を傾げた。
というのも、その獣は自分が見てきた中でも上位に位置する捕食者であり、わざわざ何かを避ける事など一度もなかったためだ。
初めはただの見間違いなのではと考えていたが、幾度と獣たちが避けて移動していく様子を見て確信する。
間違いなく、獣達が恐れて近寄ろうとしない原因となっている何かが近くにいるのだと。
新たな生物の発見の可能性に心を躍らせ、ソレは近辺を隈なく探索する。
そして原因となっていた生物を見つけた時、思わず己の目を疑った。
ソレが見つけたのは、とても大きくて、恐ろしい見た目をした化け物……
では、なかった。
それとは真逆の、小さくて、とても弱そうな一匹の獣だったのである。
その小さな獣は後脚のみを用いて歩いていて、脚は前後ともに細かった。
獲物を捕らえるために用いるとは思えないほど華奢で頼りない四肢を、力なく動かしながら行動している。
頭は体の割に大きく、頭頂部には長い立髪が生えているのだが、顔面には毛がほとんど生えていなかった。
胴体の方は、見慣れない毛並みをした毛皮で覆っているのだが、これがまた妙な見た目をしていた。
というのも、まるで身体の一部ではないような、あとから取ってつけたかのような不自然さと異質さを醸し出していたのである。
驚くべき事に、この小さな獣には角や翼や尻尾と思しきものが一切生えていない。
あまつさえ、身を守る為の爪や牙と言ったものすら持ち合わせていないようである。
これほどまで無害で弱そうな獣が、他の強力な獣達から避けていたという事実は、ソレに大きな衝撃を与えた。
その存在はあまりにも異質で、魅力的で…
そして何より、その小さな体躯と反比例した膨大な未知を孕んでいた。
あの獣から感じ取ることができる、今まで見てきた他の生物とは違う何か。
なんとしても、それが何か知りたい。
心を埋め尽くす願望に、思考を支配されたソレは、ふと思いつく。
そうだ。あえて姿を変えずに、あの小さき獣の目の前に降り立ってみよう。
きっと、今までに体験した事のないような、全くもって新しい反応をしてくれるに違いない。
そんな確信めいた思いを胸に、ソレは小さな獣のもとに……
否。
一人の人間の少女の元へと降り立ったのである。