ときめけばときめくほど霊力が強くなる聖女と、その聖女をときめかせるために聖女専用恋愛小説を書いている侍従の話
「聖女様! 聖女リプリー様!」
「こっちを向いて! どうぞひと目だけでもお顔を!」
「万歳! 聖女様万歳!」
バルコニーの下には、広場を埋め尽くす数千の観衆が。
そこに向かって手を振る可憐な乙女こそが、私、アルフレッド・ヴァロンのお仕えするリプリー・ロルカーン様です。
彼女――リプリー様の肩書は聖女です。
その溢れ出る霊力を用いて、この王国を魔物だの瘴気だの、そういった一切合切から護ることがその使命です。
七歳で教会に召し出されてから十三年、彼女は王都にある大聖堂の中におわし、人々のために日夜国のために祈りを捧げておられます。
ひとしきり群衆に手を振った彼女は、頃合いを見て奥へと引っ込みました。
私が窓を閉めカーテンを締めたところで、早速、という感じで彼女は訊いてきました。
「それでアルフレッド――頼んでおいた例のものは?」
彼女の声には、先程人々に向けていた柔和な表情とは一転、そわそわしていて、何か切迫したものを感じる厳しい色が滲んでいました。
「は。確かにこちらに用意してございます」
そう言って私が恭しく差し出したのは一冊の本。
フッ、と、ご機嫌が不明な鼻息と共にそれを受け取ったリプリー様は、パラパラと流し読みしました。
ごくり、と私の喉が鳴ります。
三十秒、一分、三分……いや、それ以上の時間が経過したと思います。
ふと――リプリー様の手が止まり。
そのページに顔を寄せ、じっくりと熟読し始めました。
三十秒、一分、三分……再びそれぐらいの時間が経ちました。
その時です。
ぶわぁっ、と、突如リプリー様の身体が強く発光し、私はウッと顔を背けました。
「ぶっひいいいいいいいいいいいいい!!」
まるで聖女のものとは思えない絶叫がリプリー様の口から迸りました。
来た! 不可視の波動が部屋の中を揺らす中、私は叫びました。
リプリー様の中に眠る聖なる霊力があらゆる物質を揺るがし、振動させ、その圧倒的恩寵をあまねく世に広める兆候――それを見た私は興奮と共に拳を握りしめました。
「はァァァァァァンやっぱり神! この方は神! 尊い! 尊すぎてもう語彙力が追いつかなああああああああ!! ぶっひいいいいいいいいいいい!!」
きちんと防音をされた部屋であっても、外に漏れ聞こえるのではないか――。
そんな懸念を持たざるを得ない程の金切り声が耳を聾し、私は思わず耳を両手で塞ぎます。
不可視の聖なる波動は今頃、このちっぽけな大聖堂を飛び越し、魔物は滅び、瘴気は掻き消され、「リプリー様だ!」「リプリー様がまたやってくれた!」と人々を歓喜させていることでしょう。
光の奔流は、たっぷり三十秒ほども続いたと思います。
やがて、リプリー様の興奮が落ち着くのとともに光はゆっくりと収まり――やがて消えていきました。
ハァハァ……と口の端からよだれを垂らしながら荒い息を吐くリプリー様に、私はわかっているのに訊ねてみました。
「……どうでしたか、あの方の新刊は」
まぁ、一目瞭然なのですけれど、一応訊かねばなりません。
私が首尾を訊ねると、リプリー様はソファに顔を埋めて、足をバタバタさせながら言いました。
「……どうしてこの方は人の内部心理を描写するのがお上手なのでしょう……! それが恋だと自覚したくがないためのすれ違いと苛立ち……正直前巻の時点でもうこれ以上のすれ違いは見てて酷だった! でも今回は完ッ全なるヘイト解消回でしたわ……!」
リプリー様は立て板に水の如き流暢な口調で言いました。
「もう神。女神様より神。もう生きてるのが辛い。こんな急接近でらぶらぶな感じ出されても胸キュンに対する抵抗が赤ちゃんの肌。もうこいつら結婚したらいいのに。もう色々孕めばいいのに。なんでそうならんの。リプリー落ち込む。愛が深すぎて落ち込む」
よかった。私が持ってきた『あの方』の新刊本は間違いなく聖女リプリーの心を鷲掴みにしたようです。
これで彼女の侍従である私も、やっと安堵の溜息をつくことが出来ました。
この世を創造した女神の代理人たる聖女。
その聖女はこの国を守護するのがその任なのですが、その圧倒的恩寵をどうやって引き出すか――。
それを見極め、よりよく引き出せるか、それが聖女の侍従を務める人間の腕の見せ所です。
なおかつ、この聖女リプリー様の聖なる霊力の発動条件は『ときめき』――。
リプリー様の心がときめけばときめくほど、その聖なる力は強くなるのでした。
そういうわけで、侍従になった私は日毎リプリー様をときめかせようと、ああでもないこうでもないと試行錯誤を重ねていたのですが、最もよくリプリー様をときめかせる「正解」は意外なものでした。
胸がキュンキュンする恋愛小説――。
それがリプリー様のツボだったのです。
そんなわけで、私はこうして定期的にリプリー様の下に様々な類の恋愛小説を献上することにしております。
聖都の本屋をうろつき、図書館に出入りし、国外で評価の高い恋愛小説の情報をもらったり――。
私が聖女リプリー様の侍従になって五年。毎日せっせと恋愛系の小説を集めているうちに――リプリー様は遂に『あの方』に出会うことになりました。
謎の仮面作家、ミス・フォークス――。
約二年前、この聖なる都に彗星の如く現れた、学園恋愛小説のホープであります。
そのファンは、目の前ではぁはぁと息を乱れさせ、服の袖で丁寧にヨダレを拭っているリプリー様だけにとどまりません。
ミス・フォークスが描く恋愛大河小説『琥珀のエルミタージュ』は、王侯貴族、裕福な商家の令嬢、市井の町娘にまで熱心なファンを自称する人が多い、大人気作品なのです。
ですがその高まる人気とは裏腹に、彼女――ミス・フォークスはその名の通り「正体不明」、つまり、顔どころか氏素性もわからない、謎多き作家なのでありました。
そんな謎の作家の新刊本が、どうして私のような一介の聖職者が易々と手に入れられるかと言うと――。
うふふ。
私は表情を変えないまま、心の中でほくそ笑みました。
リプリー様は立ち上がると、机から一枚の封筒を差し出してきました。
「アルフレッド。いつも通りこれを」
「はい。あの方――ミス・フォークス様へのファンレターですね」
そう、リプリー様はミス・フォークスの新刊を読んで聖女の力を振り絞る以外にも、こんな形で『あの方』――つまりミス・フォークスへ、その溢れ出る愛を伝えようとなさっているのです。
リプリー様は、本当に勤勉、そして心遣いの細かい方なのです。
「ありったけの愛を込めましたわ。どうぞこの思いが届くよう祈っております」
「確かに承りました。このアルフレッド、きっとあの方の下にお届け致します」
「本当は恥ずかしいのですけれど――あなた以外に渡す方はいませんものね。まかり間違っても他人には読ませたり、見せないでくださいね、アルフレッド?」
リプリー様は愛らしい、白いお顔を紅色に染めて言いました。
熱心な信者がこの表情を見たら、それだけではらはらと涙を流すに違いない尊い表情――。私も思わず心が揺れました。
私は「確かにお預かり致します」と手紙をうやうやしく捧げ持ち、その場を後にしました。
◆
勤務を終え、教会の私室へ戻った私――アルフレッドは、ドアを閉め、後ろ手で鍵をかけました。
安堵のため息をつきながら――私は思わず言いました。
「ふう――よかった。喜んでくれたみたいだな」
左右に身体を揺すり、身体のあちこちを伸ばしながら、私は独り言を漏らしました。
執務机に座り込むや否や、私はリプリー様から預かった手紙の封を遠慮なく切りました。
非公式的にとは言え、聖女様から預かった直筆の手紙を盗み読む侍従――。
事情を知っている人間にこの現場を見られたら、おそらく私はクビ――否、それどころか、聖女を侮辱した罪で投獄さえされるかもしれません。
ですが――この手紙は私が読む権利があり、また、それ以外の誰も読むべき内容ではないのです。
「どれどれ……」
リプリー様は文字が綺麗な方です。
文面から、これを書いた人の、几帳面で天真爛漫な性格、そして作品への愛と理解の深さまでもが伝わってくるような内容でした。
普通、ある作品の熱心なファンを自称する方は、この展開が気に入らなかった、今後はこうであってほしい――などと、色々注文をつけてきがちです。
ですが、この手紙からはそんなネガティヴな感情など一切読み取れず、代わりに、ただただ、私がどれだけあなたを愛しているか知ってほしい――とにかくそういう言葉ばかりがせっせと書き連ねられていました。
ふふっ、と、私は身体に甘く走る痒さを堪えながら、ゆっくり十五分ほどかけて、その手紙をすっかり読んでしまいました。
『どうぞお体にお気をつけて。あなた様のご健康と、ますますのご清栄を、遠く聖都よりお祈りしております――』
リーシャ・ロナガン――いつも通りの偽名のサインとともに、手紙はそう締めくくられていました。
「はぁ……今回は完全なるヘイト解消回にしておいてよかったなぁ。リプリー様、凄く喜んでくれたもんなぁ」
ニヤ、と私の唇が持ち上がりました。
その時の私の中には、どうやら聖女リプリー様が今回の展開を大変お気に召してくれたらしいことへの、確かな満足感がありました。
「さて、続きを書こうかな」
私はいつも使っている机に向かうと、抽斗を開け、二重底に手紙を置き、代わりに書きかけの原稿用紙の束を取り出しました。
「さぁーて、第二章開始だな……晴れて誤解が解けて和解した二人は何をするのか……」
私はそう言いながら、次々と浮かんでくる『琥珀のエルミタージュ』の今後の展開を文章に変換し、文字にして原稿用紙にしたためていったのです――。
聖女リプリーの侍従アルフレッド・ヴァロン。
またの名を、謎の覆面作家ミス・フォークス。
そう、何を隠そう、リプリー様が愛してやまない恋愛小説『琥珀のエルミタージュ』の作者こそ――この私だったのです。
◆
きっかけは、聖女リプリー様をときめかせるための恋愛小説探しでした。
聖女様からどんな本がほしいかをヒアリングし、その類の小説を集めて二年ほど経つと、リプリー様の「ツボ」というべきものが私にもおぼろげにわかるようになってきました。
なるべく健康的で愛憎や流血の少ない、じれじれ系すれ違い系の爽やかで青臭い逆ハーレム学園恋愛小説――。
ですが、折悪しく世の文学界は空前の婚約破棄モノ、追放・断罪モノ、復讐モノの全盛期。
リプリー様が欲する小説とは真逆の流行が巷を席巻する中、リプリー様の望むものを手に入れるのは至難の業となり、ときめくことの少なくなったリプリー様からは霊力が枯れてゆきました。
国を護るためにはもう一刻の猶予もない。
焦る私は決断しました。
望むものがないのなら、己が書くしかないと。
これでも、昔は文学少年として鳴らした私、書くことが苦痛でない私でしたから、半年ほど試行錯誤すると、なんとかそれなりのものが書けるようになってきました。
そしてあれは二年前、私は『琥珀のエルミタージュ』なる恋愛小説を書き始め、ある程度書き溜めができた時点で聖女教会の経費をつまみ食いし、今までの本屋行脚でツテの出来たとある版元に「ミス・フォークス」名義での出版を依頼しました。
リプリー様は当然、激しく喜んでくださいました。
霊力は戻るどころか以前に増して溢れ出るようになり、国は安定を取り戻しました。
そりゃ当然です。私だけが知る、リプリー様の心のツボをこれでもかクソと詰め込んだ小説なのですから。
ですが予想外だったのは、私が原稿を持ち込んだ版元がその出来を気に入り、『琥珀のエルミタージュ』が本格的に出版される運びとなったことでした。
おかげで、私は聖女の侍従、ベストセラー作家という二足の草鞋を履くことになったのです。
当然、昼間は聖女様のお世話や、行幸先への随行があって、執筆の時間は取れません。
執筆の時間は畢竟、執務終了後の深夜ということになります。
物理的にも、睡眠時間や休憩時間も削ることになります。
でも――私は満足でした。だってリプリー様が喜んでくれるから。
そして今やリプリー様だけではなく、多くの読者が私の小説を楽しみに待っていてくれるから。
だから私は今日も小説を書き続けるのです。
着々と黒くなっていく白い原稿用紙の向こうに、リプリー様の喜ぶ顔が目に浮かぶようでした。
◆
「一年後、聖女リプリー様の引退の日程が決まった」
大神官様からそう告げられた時、私の頭は真っ白になりました。
聖女が教会の女王であるなら、大神官様は教会の政を司る存在――いわば首相であります。
そんな大人物から告げられた突然の聖女引退――私には何もかもが理解できませんでした。
「な、何故――!?」
「何故――とはなんだ。聖女は二十歳を数えたら引退するのが慣例だ。今回もそれに則るだけだ。まさかそなた、そのことを忘れておったのか?」
なんでそんな事を訊くのだろう、というように大神官様が口にしたのを聞いて、私は愕然としました。
そうか――私が忘れていただけで、リプリー様は現在十九歳。もう聖女としての任期はあと一年しかないのです。
「もう後任の聖女様も内定しておる。引退した聖女はこの国のいずれかの貴族に嫁がされるのが古くからの慣習――既に続々と有力貴族からの縁談が届いておる。そのうちそなたを通してリプリー様のお耳にも入れねばならん。今回はその連絡だ」
引退、降嫁、縁談――その全ての単語が、私を見えない拳で叩きのめしました。
今まで五年もの間お使えしてきたリプリー様が、顔も知らぬ誰かの伴侶になってしまう。
それは私には五肢をバラバラに引き裂かれるような、耐え難いことのように思われました。
だからといって――私にはどうすることも出来ません。
それは慣習であり、国事行為であり、一介の侍従には抗弁すら許されないのです。
「これから執務や行幸は控え、じっくりと聖女様に嫁ぎ先を選んでもらうことになる。アルフレッド、くれぐれも聖女様にご負担をかけぬようにな」
大神官様にそう言われましたが――私はもう半分聞いてはいませんでした。
私はまるで亡霊のように私室に戻り――椅子に座ってぼんやり天井を見上げました。
何時間、そうしていたでしょう。
ふと――私は机の抽斗を開け、書きかけの『琥珀のエルミタージュ』の原稿を取り出しました。
第三章に入ってから、もう五十枚ほども書いていたでしょうか。
私はその時点で――主人公である白の治癒魔法を持った平民の女の子が、遂に結ばれる展開を予定していました。
私は――その五十枚分の原稿用紙の中から一枚破り、ぐちゃぐちゃに丸めて――くずかごに捨てました。
二枚目も破き、三枚目も四枚目も破いてから――五枚目の原稿用紙に、ぽたぽたと涙が落ちました。
「こんなもの、こんなもの――!」
私は大声を上げながらその原稿用紙を破り捨てました。
こんなものはみんなみんなぐちゃぐちゃにちぎれてなくなってしまえと思いました。
今まで私の希望そのものであった原稿が――急に、とても気持ち悪くて、ありえてはならないものに思えてきたのです。
こんなことがあるわけないのに。
たかが平民の女の子が、住む世界が違う貴族の子弟と結ばれることなんてありえないのに。
私は――この原稿用紙に、この夢に、自分の境遇に、一体何を夢見ていたんだろう。
これは夢だ。しかも穢れた夢だ。
なくなってしまえ、消えてしまえ、ミス・フォークスなんて死んでしまえ――!
消えてしまえ、消えてしまえと呪いの言葉を吐きながら。
私は希望に満ち溢れる予定だった第三章分の原稿を、全て破り捨てました。
◆
「……リプリー様、あの方の第四巻はいかがでしたか?」
私が紅茶を淹れながら尋ねると、ハァ、とリプリー様は大きくため息をつきました。
「ええ、面白かったですわ。とても――」
リプリー様は言葉少なにそう言いました。
「そうですか」と私も言葉少なに肯定し、それ以上の追求は避けました。
面白いわけがありませんでした。
一週間前、満を持して発行された『琥珀のエルミタージュ』第四巻は、作者である私の絶望と悪意がこれでもかと詰まった内容だったからです。
意中の相手と結ばれる寸前だった主人公の少女の恋は、実らぬものになりました。
四巻から突如登場した『鴉の女王』と呼ばれる悪役令嬢――彼女こそが、私の絶望と悪意そのものでした。
嫉妬深く、最も有力な貴族の子女である漆黒の公爵令嬢――。
彼女はその才覚と圧倒的な美貌をもって主人公の意中の相手をたぶらかし、無理やり奪い取ってしまう。
絶望する彼女に追い打ちをかけるかのように、悪役令嬢は彼女にでっちあげの罪を着せ、学園から追放してしまう。
恋人、そして治癒師になる未来の両方を奪われた主人公は絶望し、独り寂しく辺境の村に移住する決意を固める――四巻はそんな筋書きでした。
古くからのファンであればファンであるほど、面白いわけがありませんでした。
それは読者の誰も望んでいなかった展開――いや、それはもはや小説ですらなかった。
それは一人勝手に失恋し、絶望から立ち直れないでいる私の恨みつらみ。
あと半年後にはリプリー様を独占することになるだろう貴族の誰かへの、醜い嫉妬を描いただけの内容でした。
そんなものを、何の罪もない読者になすりつけるなんて、本当に私はどうかしています。
でも――書けども書けども、そういう展開しか今の私には書けませんでした。
当然、読者は困惑したでしょう。
月に三通ほどだったファンレターの数は週に十通を超えるようになりました。
殆どの内容は四巻の内容への抗議と、今後の展開を心配する内容だったでしょう。
ですが私は、版元から続々届けられるそれを、全て読まずに捨てました。
どうせ、こんな物語は麻薬でしかなかった。
叶わぬ恋を抱いた人間にいっときの幻覚を見せるだけの小説だった。
麻薬なら、その幻覚が終わった後に残るのは耐え難い苦痛だけ――。
ならば、溺れる前に幻覚は醒めたほうがいい。
滅茶苦茶だけど、私はそう思っていたのです。
「そういえばリプリー様。明日はいよいよ伯爵とのお目通りの日ですね」
私が水を向けると、リプリー様は「そうですわね……」と言葉少なに肯定しました。
無理矢理の笑顔を浮かべて、私はリプリー様に紅茶を勧めました。
「伯爵と言えば、国内有数の財力を誇る有力貴族の筆頭格――きっとリプリー様に素晴らしい未来を約束してくれるでしょう」
「伯爵だなんて――まだ会ったこともありませんわ。そんな方と夫婦になるなんて、とても私には――」
「何をおっしゃいます。素敵な方に違いありませんよ、きっと」
「でも……」
「リプリー様を思っての言葉でございます」
私が意地になって言い張ると、リプリー様が無言になりました。
おや? と思っていると、リプリー様はそれから長く沈黙し――不意に、ぼんやりとした口調で話し始めました。
「私は――戦乱によって七歳で家族を失いました。聖女としての霊力が覚醒したのはその時――それから私は七年間、この教会の中のことしか知らずに育ちました」
そう、忘れたことなどありません。
まだ一介の修行僧であった私の前に連れてこられた、ボロボロで痩せっぽちの少女のことを。
私はその瞬間、その美しい少女が抱いた深い孤独と絶望とに、何故か魅入られてしまったように感じました。
「あの戦乱で人への信頼を失った私、人間の醜いところを目の当たりにした私は、たぶん人を、世界を憎んでいたんだと思いますわ――」
それも――わかっていました。
この教会に来て一年の間、リプリー様は私が何度話しかけても、まるで人の言葉を知らないというように、頑なに口を利いてはくれませんでしたから。
「それでも、私にとって唯一の楽しみが――あなたの届けてくれる小説でした。人間は、世界はやっぱり素晴らしい、どんなにつらいことがあっても、どんなに人に絶望しても、私はやっぱり未来を、人間を諦められないのだと――そう理解することができましたから」
そう、私だってそれは同じでした。
右も左も分からない新米学僧だった私が出会った、ガリガリで、目だけ悪戯に光っていて、けれども寂しそうで苦しそうな女の子。
なんだかほっとけなくて、根気よく話かけて、数年かけて一言二言会話ができるようになった彼女。
何度失礼をするなと教授たちに頭をどつかれても、私は彼女に関わり合いになることをやめませんでした。
軟禁状態にあった彼女に、私が当時読んでいた一冊の小説をお貸ししてから――それから彼女は少しずつ私と話をしてくれるようになりました。
その執念あってか――私は十四歳で聖女となった彼女の侍従として、リプリー様直々にご指名を受けました。
他に何人もいた、経験あるもの、学のあるもの、権威のあるもの――そういう人々を丸々ぶち抜いての大抜擢でした。
でも――他の誰も、私を羨んだり嫉妬したりしませんでした。まぁ、あれだけ関わっていたら侍従はお前だろうな――それが教授たちや先輩たちが口を揃えて言う事でした。
彼女が笑っていてくれさえすればよかったのに。
彼女が幸せになってくれさえすればよかったのに。
いつの間にか、あさましくもそれ以上を望んでしまった私の心の汚さ――。
それが私には耐え難いほど許せないことでした。
と――リプリー様が突然私を見上げました。
そして、何かを決意した表情になり――私にあるものを差し出しました。
「これは――?」
「おそらく、これが私の書く最後のファンレターになるでしょう」
ミス・フォークス様へ――手紙にはそう宛名書きがありました。
「私が伯爵に嫁ぐことになれば、もうあの小説を読む時間もなくなるでしょう。アルフレッド、この手紙だけは、この手紙だけは決して捨てることなく届けてください。あの方に、私が愛したあの方に――」
リプリー様の声は、震えていました。
流石に、咄嗟には言葉が出てきませんでした。
これが最後の手紙――ミス・フォークスである私と、私の第一の読者である、彼女との最後の繋がり。
私はその手紙を手にとって、「確かに――お届け致します」と声を絞り出しました。
◆
親愛なるミス・フォークス様へ。
初夏の候、ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
あなたが描く『琥珀のエルミタージュ』最新刊、拝読いたしました。
正直に申し上げて――私はその展開に、何度も何度も躓かざるを得ませんでした。
主人公であるアンリエッタを絶望に突き落とす、『鴉の女王』エレーナの登場。
私には彼女の存在が、まるで燦々と輝く太陽を覆い隠す黒雲のように思えました。
ですが私は、このエレーナという悪役令嬢を。
もっと言えば、彼女という存在を描かなければならなかったあなたの心を、やっぱり素敵だと感じました。
あなたはきっと、今まで信じていたのでしょう。
世界は辛くとも、悲しくとも、希望を託すに足りるものだと。
それが壊れてしまったから、あなたは塗り潰そうとしたのでしょう。
それが潰えてしまったから、それが普通だと信じようとしたのでしょう。
塗り潰せるわけがないのに。
自分だけは否定することが叶わないものないのに。
でも――それは人生に絶望した人間なら、きっと誰もが試みることなのでしょう。
私にはあなたの心の絶望が手にとるようにわかる気がします。
いや――そういう人だからこそ、私はあなたに魅せられたのかもしれません。
ミス・フォークス様。
私は今まで、この手紙の中で、あなたに一度も催促をしたことはありません。
こういう展開にしてほしい、こういう展開は嫌だ、そういうことだけは言わないように気をつけておりました。
ですが、今回初めて、その禁を破らせていただきます。
ミス・フォークス様。
そして――私の愛しいアルフレッド。
きっと私を迎えに来てください。
私は聖女として召し出されてからというもの、ただの一度も、あなた以外の誰かのもとにいる自分など、望んだことも空想したこともありません。
私はただ、あなたの第一の読者でありたい。
あなたの側で、ずっとあなたの物語を聞いていたい。
今までそれだけを願って生きてきました。
私があなたの正体に気づいたのは、もう覚えていないほど前のことです。
深夜、あなたがうんうんと唸りながら、小説の続きを構想していたことも。
私が苦手な争いや戦という要素を、敢えて物語の中心から遠ざけてくれたことも。
私のために夜を徹して物語を創ってくれていたことも――みんな気づいていました。
今まで知らないふりをしていてごめんなさい。
ですが、私はあなたの世界を邪魔したくありませんでした。
そして、あなたの方も、最後まで気づいてくれなかったようですね。
私がこの手紙にずっと、作品ではなく、あなたを愛していると書いていたことを。
毎度あなたに手紙を渡す時に「あなたにこれを渡す」と言っていたことを。
あなたがどんな風に世界を捉え、私という人間を捉えているのか。
あなたという人間を、あなたという物語を知っていくこと。
それだけが、教会という匣に囚われた私の、唯一の希望でした。
先程言った通り、私があなたに出す手紙は、これが最後になります。
ミス・フォークスであり、アルフレッド・ヴァロンであるあなたに、最後のお願いがあります。
私の物語を、どうか悲しい物語として完結させないでください。
聖女である私が、その退任とともに貴族に嫁がされるのは仕方がないことです。
これは慣習という名の、決まりきった未来なのかもしれません。
でも、あなたなら。
私の憧れであるミス・フォークスであるあなたなら。
私の人生を幸福な物語にすることができると信じています。
あなたにならできる、あなたにしか出来ないことだと信じています。
お願いです。どうか、この願いが聞き届けられますよう。
私は全ての幸いをかけて祈ります。
リーシャ・ロナガン
ならびに、聖女リプリー・ロルカーンより
親愛なるあなたに愛を込めて――
◆
「うわああああああああああッ!!」
追いすがってくる衛兵や教授たちをどうにか跳ね飛ばし、私は泣きながら教会の外に飛び出しました。
運動なんか全く大っ嫌いなのに――一心不乱に聖都の石畳の上を駆けるその時の私は、きっと無様で、醜悪な走り方だったでしょう。
一歩踏み出すごとに涙が溢れ、脚は重くなっていくのに――今の私は手を広げれば空の彼方へ翔んでいけそうな気さえしたのです。
手紙を読んだ後、私は慌てて大聖堂の中にリプリー様を探しました。
聖女様は昨日の夜、侍従である私にさえ黙って、数人の護衛だけを連れて伯爵の下へ向かったと、大神官様に言われました。
私は血相変えて外へ飛び出し、どこへ行くんだと慌てる教会の全ての人を無視して、教会の外に駆け出しました。
リプリー様、リプリー様、リプリー様――。
私が考えるのはそればかりでした。
いつもいつも手渡される手紙。
てっきりファンレターだとばかり思っていた手紙。
それを私に直接手渡していた意味。
全てに意味があったことなのだと、何故自分は気づけなかったのか。
全く――言葉を操っている小説家とは思えません。
聖都を飛び出し、辺境に向かって駆け出して半日――丸々記憶がありません。
気がつくと、私は聖都から遠く離れた伯爵領の、深い森の中に差し掛かっていました。
靴は片方をどこかに忘れてきていて、全身擦り傷切り傷だらけで、眼鏡のレンズにはヒビが入っていました。
我ながら、どこをどう走ればこんなになるのか――呆れ、笑ってしまうほどの有様で、私はリプリー様を追いかけました。
しばらく探すと――森の木立の向こうに、教会の壮麗なお召馬車が見えてきました。
しかし、その馬車は横倒しになり、馬車に繋がれたままの馬は二頭とも腹を食い破られていました。
その回りを、ゆらゆらと黒い靄のような四本脚が彷徨いていました。
魔物だ――! 私の腹の底が恐怖に冷えました。
「リプリー様! アルフレッドです! リプリー様!」
私が大声を上げると、魔物は一斉にこちらを向きました。
それと同時に、「アルフレッド――!」というリプリー様の声が聞こえました。
「よかった、ご無事で――! 護衛は!? 護衛はどこへ!?」
「魔物に襲われた馬が暴走して、どこをどう走ったものか――! もう四半刻もこのまま――もう馬車が持ちませんわ!」
「くそっ、リプリー様! 絶対に馬車から出ないでください! 今助けます!」
魔物の群れは五、六頭もいたでしょうか。
私は覚悟を決めて腕を振り回し、大声で魔物を威嚇しながら馬車に向かって走り出しました。
魔物が次々と飛びかかってくるのを――私は半狂乱になって殴りつけ、蹴りつけて馬車にとりすがりました。
途中、ばりっ――と音がして、見ると左手に魔物が喰らいついていました。
痛みに呻きながら、私は魔物の喉首を空いた右腕で締め上げ、どうにか引き剥がしながら馬車へよじ登り、扉を開けて中に滑り込みました。
馬車の中に墜落した私に、リプリー様が蒼白の顔で縋ってきました。
「アルフレッド――!」
「リプリー様、どこにもお怪我はありませんね!?」
「私は無事です! それよりもアルフレッド、あなた左腕が――!」
リプリー様に言われて、私は初めて自分の左腕を見ました。
私の左腕は――魔物の牙に噛み砕かれ、あらぬ方向にひん曲がっていました。
これでどうやってこの馬車によじ登れたのか不思議な程の状態の腕に――強い吐き気がこみ上げてきました。
「……私はどうなっても構いません。今ここで聖女様をお護りすることができれば……いや、なんとしてもお護りするのが侍従の務めです――リプリー様、どうか私が魔獣を引きつけている間に――!」
「そんなこと言わないで! 私が許しません!」
リプリー様がボロボロと涙をこぼしながら悲鳴を上げました。
「あなたを残して一人生き延びるぐらいなら、今ここで魔物に喰われて私は死にます! 私はどこにも行きません!」
「リプリー様――!」
「嫌! 嫌! 私は絶対に逃げない! もう独りで生き残るのは嫌よ!」
まるで少女に戻ってしまったかのように、リプリー様は激しくかぶりを振りました。
その間にも、魔物は前足でガリガリと馬車をひっかき、あちこち空いた隙間から生臭い息を吐きかけてきます。
この馬車が食い破られるのも――おそらく時間の問題だったでしょう。
私は覚悟を決めました。
無事な方の右手で、私はリプリー様の手を取りました。
「それではリプリー様――ひとつお尋ねしたいことがあります」
「え?」
私の改まった声に、リプリー様が場にそぐわない、きょとんとした顔になりました。
「さっき読んだ手紙にあったことは――事実でしょうか?」
「へっ?」
「あなたは――私と生きてくださると。私に、迎えに来てほしいと――ありました」
私は湧き上がってくる吐き気を必死になって飲み下しながら訊きました。
「あなた様は――私を愛してくれておりますか?」
――小説家らしくもない、随分品も芸もない言葉でした。
けれど――リプリー様はちょっと驚いたような顔になった後――私の目を見て、はっきりと頷きました。
「そうですか、いえ、そうなのですね――」
ほう、と、私は安堵のため息をつきました。
そして、残っている力を総動員して身体を起こすと、私はリプリー様の肩に手を回しました。
「よかった」
びくっ、と、リプリー様の身体が固くなりました。
私は有無を言わさず――そのままリプリー様の桜色の唇を奪いました。
途端に、リプリー様の目が開かれ――肩に回した手が火傷しそうに感じました。
来た。私が強く目を閉じた途端――閉じた瞼をも透過する、強い強い光が迸りました。
間近で感じる霊力の噴出に――私の魂魄さえも掻き消されてしまうかと思いました。
ビリビリビリビリ――! と肌を焼きつかせ、全てのものを震撼させる聖なる霊力の波動。
まるで津波のような霊力の噴出はたっぷり三十秒以上も続き――私たちの口づけもそれだけ長く続きました。
頃合いを見計らって――私はリプリー様から顔を離しました。
その途端、霊力の爆流は少しずつ治まり――潮が引いていくように消えてゆきました。
私は、馬車の窓から外の様子を窺いました。
聖なる霊力を至近距離から浴びせかけられ、魔物は全て骨だけになっていました。
今のリプリー様の霊力の噴出は侍従の私から見ても過去最大出力規模だったので――おそらく、この森は、否、この大陸全土がまるっと安全になったことでしょう。
「よかった――もう安全です、リプリー様」
私はリプリー様に微笑みかけました。
けれど――リプリー様は私の顔を見たまま、ぽーっと焦点の合わない目で私を見ていました。
真実、恋する乙女そのものの表情に――私はちょっと笑ってしまいました。
「あ、今の霊力で私の腕も治ったみたいです。便利だなぁ、聖女の霊力って……。ありがとうございます、リプリー様」
左腕を曲げ伸ばししながらの言葉に、リプリー様が急にお戻りになられました。
カァ――と音が聞こえそうな勢いで顔が紅潮し、リプリー様は両手で顔を覆いました。
「アル、フレッド……!」
「いやぁ、こうするしか方法がありませんでして。本当はもっともっとロマンチックなシチュエーションがよかったのに。描写不足でしたね」
「アルフレッド……! ばか! ばかばかばかばか!」
顔を激しく紅潮させて、リプリー様は平手で私を何度も叩きました。
いてて、とその猛攻から逃げると、リプリー様が涙目で言いました。
「するならするって言ってください! もう、心臓が口から飛び出るかと思いましたよ! 聖女に対して乱暴狼藉にもほどがあります!」
「おや――嫌でしたか? それは残念な」
「嫌、じゃない――!」
リプリー様は律儀に頭を振り、それから私の首に抱きついてきました。
おやおや、読んでる小説は無害なのに随分積極的だなぁ――私はそう考えながらも、リプリー様の頭を治った左手で撫でました。
「……本当に来てくれた」
「来ますとも」
「キスもしてくれました」
「ええ、リプリー様となら喜んで」
私が言うと、リプリー様が私から体を離し、しょんぼりと下を向きました。
「アルフレッド、私は……」
「ええ、わかっておりますとも。貴族には嫁ぎたくないのでしょう? ご本人がそう思われるなら仕方ありません――逃げましょう」
「逃げる?」
リプリー様がはっと顔を上げました。
「そう、逃げるのです。幸い護衛もどこかへ行ったようですし、見てるものは誰もいませんし。あはは……これじゃ第四巻とまるきり同じ展開ですね」
「大丈夫、でしょうか――。私、一応聖女ですし……」
「どこか遠い辺境に逃げ込めば誰も追ってきませんよ。それにあなたはあと三月ほどの任期で、後任も決まっております。教会の方ももはやあなたにそれほど関心もないでしょう」
「だけど――」
「大丈夫ですよ。私は仮面作家のミス・フォークスなのですから」
その言葉に、リプリー様が私の目を真っ直ぐに見ました。
「今からでも遅くはない、誰にも文句を言わせない、至上のハッピーエンドを書いて見せますとも。お約束致します」
リプリー様の目に光が戻った気がしました。
その目は、私の新刊を心待ちにしてくれていた時の、あの希望に満ちた目でした。
私は、リプリー様の手を取りました。
「さぁ、今から一緒にハッピーエンドの構想を練りましょうか。私の――第一の読者様」
うん! とリプリー様が大きく頷き、私の手を握り返してくれました。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
いっぺん、めっちゃ厨くさい恋愛小説を書いてみたいという邪な野望から生まれたのがこれです。
「面白かった!」「ぶっひいいい!」と思っていただけましたら、
どうぞ下の方の★★★★★から評価お願い致します。
よろしくお願い致します。
【VS】
最近何作か現代恋愛ジャンルで書いては爆死したものの残骸をここにおいておきます。
どうぞ何作か読んで供養してやってくださいませ↓
『尻が壁の穴にハマってたクラスのクールビューティな巨尻JKを引っ張って助けたら「自分は決してふしだらな女ではない」と必死に言い張られたけどそこそこ懐かれた話』
https://ncode.syosetu.com/n7974hd/
『この間助けてからそこそこ懐かれたクラスメイトの自称クールビューティな巨尻JK 百百川瓜姫さんに電車内で太ももを押し潰される話』
https://ncode.syosetu.com/n2340he/
『エーリカさんは幼馴染 〜自称幼馴染のハーフ美少女が色々な思い出話を捏造してくる話〜』
https://ncode.syosetu.com/n9916hd/
※作中に登場する『琥珀のエルミタージュ』の元ネタがこちら↓
『悪役令嬢・オブ・ザ・デッド ~転生悪役令嬢エレーナは肉食系腐男子による回避不能の世界破滅フラグに立ち向かいます~』
https://ncode.syosetu.com/n5373gr/