1560年 6月12日 1:30 尾張国/氷上砦・向山砦・正光寺砦
1560年 6月12日 1:30 尾張国/氷上砦・向山砦・正光寺砦
織田方 千秋季忠 150人・佐々政次 150人・水野家使者
正光寺砦
それは突然の事だった。今川方大高城を包囲する砦群の一つ、向山砦から松明を灯した兵の一団と思われる者達が立ち去っていくのを連携する正光寺砦・佐々政次は確認した。
「どういう事だ?」
佐々政次は砦の櫓に登り、思案顔になる。
「佐々(政次)様!」
櫓の登り口に近習の一人が見えた。
「何だ?」
「向山砦の水野(信元)様から使者が」
「今行く」
佐々政次は櫓を降りた。
手紙には松平氏との深い繋がり、その御曹司から砦の撤退を進言された事、織田信長への謝罪、そして連携していた佐々政次と千秋季忠の詫びが丁寧し記されていた。読み終えた後、佐々政次は手紙を破り捨てた。
「使者殿に聞く」
手紙を破り捨てられても、使者の男は動揺していなかった。
(死を覚悟しているのか)
佐々政次は察した。
「この大高城の砦群包囲網は、今川方を破る上での織田方の生命線である。その事について、(水野)信元殿は何と申しておったか」
「我が主(水野信元)もその事は重々承知しておりました。しかし、こうも申しておりました」
「何と?」
「大高城に配された砦は、今川方の撒き餌と」
佐々政次は一瞬、使者が何を言っているのか判からなかった。暫く両者の間に沈黙があった。
「つまり、使い捨てられるのかも知れんと言う事であろう」
背後から声がし、佐々政次は振り返った。
「||千秋(季忠)《せんしゅう(すえただ)》《せんしゅう(すえただ)》殿!」
向山砦の西、氷上砦を守る千秋季忠の姿があった。
「どうして・・・」
「氷上砦にも同様の使者が来たのだ」
千秋季忠は佐々政次に説明する。佐々政次はその場に控えた。佐々政次は千秋季忠より2歳上だが、千秋季忠は熱田神宮の大宮司も勤めており、格上であった。
千秋季忠は使者を睨み据える。
「そちは撒き餌と言った。それは正しいかも知れん。だが、我々は(織田)信長様から砦を死守せよと命じられた。君命である」
「我らは織田家の家臣ではござらん。飽くまで同盟者として・・・」
千秋季忠は腰に差した長柄を一閃した。袈裟斬りだった。使者は絶命した。
「|千秋(季忠)《せんしゅう(すえただ)》殿・・・」
佐々政次は突然の事に足を震わせて、その場に倒れ込んだ。しかし、千秋季忠はどこまでも冷静だった。
「敵前逃亡は例え同盟者であっても許されん。ましてや、言い訳のための使者を送るなど言語道断」
千秋季忠は毅然と言った。そして、佐々政次に手を差し伸べた。
「佐々(政次)殿。向山砦に向かいましょう」
向山砦
向山砦はもぬけの殻であった。だが、松明で使われた薪以外は全ての物資が残されていた。恐らく、この場に残る千秋季忠と佐々政次のために水野信元が置いていった物と解釈した。
「せめてもの償いと言う事か」
「いや」
千秋季忠は政次の言葉を打ち消した。
「これは松平のための物資よ」
「松平?」
「左様。三河国の御曹司(松平元康)が大高城に来るのであろう」
「三河国?・・・松平元康か。何故、その様な事、(水野)信元が知っておる」
千秋季忠はちらりと佐々政次を見た。佐々政次は水野信元に今川義元や松代元康の陰を感じ取った。
(今川方に通じていたか!)
「おのれ、(水野)信元め!!」
怒りのあまり、佐々政次は積み上げられた薪を蹴り飛ばした。薪の一つが砦奥の森の闇に吸い込まれていった。
千秋季忠もこの物資は我々のために残された物であると考えていた。しかし、これでチャラだと思われては堪らぬ。こちらの命と同じ重みがこれだけでは到底納得いかぬ。佐々政次にもその事を理解してほしかったのだ。
「これでは折角苦労して築き上げた(織田)信長様のお考えが水泡に期してしまう」
佐々政次は落胆したようにその場に座り込んでしまう。
「大高城砦群包囲網は此度の戦の要諦であり、生命線であった。今川方の後詰-前備え・中備え-を引き付けた上で、5つの砦が兵の繰り入れ・繰り出しする事により時を稼ぎ、今川義元を誘き出すのが目的であった」
佐々政次は独り言のように呟く。
「したが、まだ4つの砦が残っており申す」
千秋季忠は静かに言った。しかし、佐々政次はすぐ様首を横に振る。
「鷲津砦・丸根砦はいいでしょう。北から攻められぬ限り、連携が取れればある程度は持ち堪えられる。しかし、氷上砦・正光寺砦の兵は合わせても300。そして、両砦は離れすぎている。両砦の間にある向山砦が無ければ、分断され各個撃破されるのは必定。向山砦の水野兵1000が要だった」
「・・・・・」
佐々政次の言葉は正鵠を得ていたため、千秋季忠は何も答えられなかった。
「・・・したが、君命には従わねばならぬ」
佐々政次はぼそりと呟いた。悲壮な覚悟であった。
千秋季忠は肩を竦めた。
「いや、砦を退去しましょう」
「何と!」
佐々政次は驚いて千秋季忠を見た。
「確かに佐々(政次)殿の申す通り玉砕覚悟もよいでしょう。しかし、それでは犬死も同然。ならば、鷲津砦・丸根砦に合力し、少しでも時を稼ぐ方が(織田)信長様のためになる」
「敵前逃亡になりますぞ」
「君命なく、砦を放棄すると言う点ではそう罵られても仕方ない。だが、我々と水野(信元)では一つ違う事がある」
「違う事?」
「如何にも。幾ら君命とは言え、それが遂行困難であれば、別の方策を模索せねばなりません。しかし、今から善照寺砦に使者を遣わしていては間に合わない。水野(信元)が撤退したという事は、近くまで今川方の後詰が来ている事の証左」
「!」
「我々に時がありませぬ。撤退するのであれば、すぐにでも砦の兵を纏め、時を見極めなければならない」
「しかし撤退は・・・」
「その時は水野(信元)のせいにすればよい。事実ですからな。ま、最悪、大高城の後詰に攻められて撤退したと申し開きしましょうか?」
千秋季忠はケロリと言った。これには流石に佐々政次は苦笑した。
「|千秋(季忠)《せんしゅう(すえただ)》殿に掛かっては敵いませぬな」
「ああ、こういうのは・・・戦略的撤退。(織田)信長様が如何にも好んで使いそうな言葉ですな」
二人は絶望的な局面にも関わらず破顔一笑した。