1560年 6月12日 15:10 尾張国/桶狭間山周辺
1560年 6月12日 15:10 尾張国/桶狭間山周辺
織田方 3200人 織田信長・川尻秀隆・佐々成政・金森長近・木下藤吉郎・林秀貞・池田恒興・森可成・菅笠を被った男・柴田勝家
今川方 今川本隊
義元本陣 2000人 総大将・今川義元/先陣長・葛山氏元/次陣長・関口氏広/後陣長・岡部正綱/右陣長・三浦義就/左陣長・朝比奈元長
中備え 1000人 主将・由比正信/副将・荻清誉/先鋒隊長・勝間田政行/次鋒隊長・佐竹高貞/後方隊長・沢田忠頼
後備え 1000人 主将・富士信忠/副将・興津清房/先鋒隊長・井上継隆/次鋒隊長・大村家重/後方隊長・飯尾乗連
松平方 100人 松平元康・酒井忠次・本多忠勝
桶狭間山北
松平元康
(後少し・・・)
私は其処から一歩も下がらぬ悲壮な決意で踏ん張っていた。
漸く、漸くであるが、今川本隊の3隊(今川本隊中備え・今川本隊後備え・大将ケ根守備隊)が転回し、此処に近づくのが見えた。松平の者は死者は少ないが、殆どの者が全身傷だらけか致命傷を負って、気力だけで戦っていた。私もさっきから意識が混濁している。連戦の疲れと言うものか。
(それも味方が駆けつければ終わる)
その時、私の心に緩みが出ていたのであろう。知らぬうちにじりじりと下がり始めていた。その時、聞いた事もないような轟音が鳴り響いた。織田方・今川方とも戦の手を止めてしまう程の音だった。
(何だ?)
私の背筋を冷たいが流れ、嫌な予感が走った。こういう時の予感は大抵が外れぬ。
「(松平)元康様っ!敵の伏兵が」
私はその言葉を聞いた途端、膝ががくりとした。相当へばっていたようだ。それでも精神力で膝を着くのを堪える。見れば、織田方に背後から向かっていた今川の1隊(大将ケ根守備隊)が織田方の別動隊(柴田勝家隊)に背後から攻撃を受け、瞬く間に崩れるのが見えた。
(馬鹿な・・・敵の前で、然もこの狭い山道で兵を転回しようとは。それに、脆すぎる)
主将(松井宗信)が討たれたか?嫌な想像ばかりが頭に浮かぶ。それ位の兵の崩れようだった。その1隊(今川本隊中備え次鋒隊)は、あろう事から御屋形(今川義元)様が向かわれている近崎道に敗走を始めたのだ。
「戯けがっ!」
私は思わず口に出していた。滅多に感情を表に出さない私の言葉に、配下の一人が驚いていた。
「拙いっ!鶴翼の一角が崩れ申したあっ」
組頭の一人が叫ぶ。見れば、薄く長く広がった我が隊(松平元信隊)の一部が、別動隊(柴田勝家隊)の活躍に触発されたのか織田方に食い破られた。一度綻びを見せれば、寡兵である我が隊(松平元信隊)は脆い。綻びは隊全体に広がり、織田方に包囲殲滅されるであろう。然らば、突破されれば織田方は御屋形(今川義元)様の本陣に殺到する。
私は一瞬天を仰いだ。
(最早これまでか)
私は刀の血糊を振り払い、気合いを入れ直す。先程からの戦いで腕も足も限界が来ている。だが、そう簡単には御屋形(今川義元)様の本陣にはやらせぬ。
「三河国、松平元康ここにありっ!この首欲しければ勝負仕る!!」
大音声で辺りに触れ回る。途端に目の色を変えた織田方の兵が群がって来る。
(いいぞ)
織田方の兵を躱すように木々の間を走り抜け、坂を下る。此方に向かって来ると思い込んでいた織田方の兵が踏鞴を踏む。上手く織田兵を避け、織田の本陣に向かう。その時、予期せぬ方向から槍が突き出され、足に引っ掛かる。
(あっ)
バランスを崩した私は片足で態勢を戻そうとする。それがいけなかった。
「槍衾あっ!」
前方から視界を外した瞬間、前から数十本の槍が一斉に突き出された。前のめりになっていたため、躱す事が出来ず、槍が甲冑を貫く。
「かはっ!」
余りの痛みに口から鮮血が吹き出す。
「今じゃあ」
三方から太刀を持った兵が飛び出して来る。幾つもの太刀が身体を貫く。最早、痛みも感じなかった。織田兵が引いた。その場でバランスを崩したまま、ヨレヨレと足が縺れる。手から太刀が落ち、視界が掠れていく。
次の瞬間、脳裏に幾つもの光景がよぎる。
(な、何だこれは?)
過去の記憶でない。御屋形様(今川方)が討たれた後、大高城に逼塞し、水野信元殿の手引きで三河国に撤退する。紆余曲折を経て、織田方と和睦し、同盟する。弱体化した今川家を簒奪していく。武田家と境界を接し、圧倒される。武田信玄の死。織田(信長)殿と各地を転戦し、敵を次々と屠っていく。越前国の朝倉家・北近江国の浅井家の滅亡。長篠城で武田軍を完膚なきまでに叩く。一向宗の総本山・石山本願寺の占拠。遠江国から駿河国への侵攻。甲斐国・武田家の滅亡。織田信長の死。決死の伊賀越え。甲斐国・信濃国への侵攻。羽柴秀吉との対峙。相模国・北条家の降伏。関八州への転封。豊臣秀吉の死。関ケ原の戦い。帝に拝謁しているのは征夷大将軍の任命か。大坂の陣にて豊臣家の滅亡。駿河城での余生。穏やかな死・・・
(馬鹿な馬鹿な馬鹿な・・・これが私のこれからの半生ではなかったのか。何処で間違った?嫌じゃ、嫌じゃ、何も成してない!)
様々な思いが高速で頭を駆け巡る。
「松平元康、討ち取ったり!」
その言葉を耳にした時、私の意識は暗転した。
桶狭間山北
酒井忠次
「拙いっ!」
(松平)元康様が織田兵に囲まれている。我は思わず走り出していた。近くにいた配下の兵も追随した。只でさえ薄い鶴翼の陣は見る見るうちに崩壊していった。血を吹き出す(松平)元康様が駒のようにくるくると回りながらその場に倒れ伏すを見、是非もなしと思った。
「ぐわあっ」
悲鳴に振り返ると、配下の兵を屠った織田兵が迫っていた。気が付けば周りを織田兵に囲まれていた。名乗りを上げようとした時、前面から槍が突き出された。とんでもない速さの穂先が迫る。避ける間もなかった。
「(松平)元康様ぁっ!」
槍を腹に受けながら更に先に進もうとするが、追い縋って来た織田兵に足を掬われ、その場に膝を着いた。
(此処までか)
大量の血を口から吐きながらそれでも一歩一歩膝立ちのまま、前へ進んだ。槍を持った織田兵の顔が恐怖に満ちた。頭に背後から激しい衝撃を受けた。首に長槍を受け、振り返る事も出来なんだ。
「化け物め。俺様の槍の穂先の錆になりやがれ」
背後の織田兵に罵られながら、最期まで(松平)元康様を救えなかった事が心残りだった。
「くはっ」
我の意識は其処までだった-
桶狭間山北
本多忠勝
おれっちは縦横無尽に織田の兵の中を泳ぐように走っていた。だが、彼此1時間近くも走っていれば足にもガタも来る。何人倒しただろう。だが、織田方の兵は増える一方だ。
(埒が明かねえ)
いつの間にか、松平(元康)殿や酒井(忠次)殿の姿が見えなくなっていた。既に松平(元康)軍は|彼方此方《あちらこちら》寸断され、織田方の兵の大きな奔流に巻き込まれた。
足がつんのめった。誰かが仕込んだ槍先が足に当たった。
「しくじったあっ!」
おれっちはその場に倒れ伏した。
(小賢しい真似を)
振り返ると、猿みたいな面相の男が笑っていた。
「くそう!」
おれっちは起き上がろうとしたが、前方から次らか次へと湧き出て来る織田兵に何度も蹴られ、当たり処が悪かったのか、俺は意識を手放した-
桶狭間山北
織田信長
松平の3人が儂の視界から消えた。次には松平の薄い鶴翼を食い破る我が隊の兵が突進するのが見えた。
(漸く倒したか)
「道が開けたあ!(今川)義元を追えい!」
儂は大音声で叫ぶ。
「「「応っ!」」」
我が兵は松平兵の頸木を排除し、解き放たれた獣の如く走り出す。始めは近崎道を桶狭間道に向かったが、今川の敗残兵の如き集団に行く手を阻まれる。
(違う。こいつらではない)
俺の直感が囁く。
(まさか、大高道に逃げおうせたか?)
義元本陣を捕捉してから1時間近くが過ぎていた。大高道に逃げおうせても不思議ではない。その時、肩を叩かれる。
「(織田)信長様!」
件の菅笠を被った男が指差す。その向こうには周りを幕で仕切った陣所後が見えた。本陣だ!既に人気はなかったが、焚かれた火に薬缶が置かれ、激しく湯気を立てていた。
儂は陣所に近づく。酷く喉が渇いている事に気づいた。薬缶を掴み、近くに転がっていた茶碗に注ぐ。儂は臆せずぐいぐいと飲み干す。熱さが喉元に心地よかった。それと共に頭が鮮明になって来る。
儂の思わぬ所作に、重臣・近習が息を飲んで見守っていた。
(どうせ、虚けがまたおかしな事を始めたと思うておるのであろう)
儂は自嘲する。
(陣所にもおらず、向かっていたはずの桶狭間道に繋がる近崎道にも居らぬ。だとしたら・・・)
「義元の本陣を探せ!必ずこの近くにおる。探すのじゃあ!!」
儂は甲高い声で咆えた。




