1560年 6月12日 15:05 尾張国/桶狭間山周辺 1
1560年 6月12日 15:05 尾張国/桶狭間山周辺
織田方 3200人 織田信長・川尻秀隆・佐々成政・金森長近・木下藤吉郎・林秀貞・池田恒興・森可成・菅笠を被った男・柴田勝家
今川方 今川本隊
義元本陣 2000人 総大将・今川義元/軍師・庵原之政/先陣長・葛山氏元/次陣長・関口氏広/後陣長・岡部正綱/右陣長・三浦義就/左陣長・朝比奈元長
中備え 1000人 主将・由比正信/副将・荻清誉/先鋒隊長・勝間田政行/次鋒隊長・佐竹高貞/後方隊長・沢田忠頼
後備え 1000人 主将・富士信忠/副将・興津清房/先鋒隊長・井上継隆/次鋒隊長・大村家重/後方隊長・飯尾乗連
松平方 100人 松平元康・酒井忠次・本多忠勝
桶狭間山北
今川義元
予は輿の中でじりじりと時が経つのを漫然と見守るしかなかった。先程から、輿は殆ど進まなくなった。
「(三浦)義就、どうなっておるか?」
輿の戸を開け、傍らに侍る重臣に声を掛ける。
「織田方が近﨑道を塞ぎ、それを松平勢(松平元康隊)が防いでいるため、中々前に進めませぬ」
(三浦)義就が馬上から申し訳なさそうに言う。
「・・・そちのせいではない。気にするな」
(三浦)義就を労い、戸を閉める。
([織田]信長に読まれておったとは・・・)
織田方が近﨑道を押さえたと言う事は、予らが桶狭間道を目指している事が看破されていたのだ。
織田方は約3000程。桶狭間山周辺には今川本隊4000と大将ケ根守備隊(松井宗信隊)1000が展開している。しかし、織田方の攻勢に対し、機能しているのは1000にも満たぬであろう。(松平)元康を呼び戻していなければどうなっていたか。結果論になってしまうが、己が決断に今回ばかりは評価出来た。
桶狭間は死地である
不意に師匠の言葉が繰り返し脳裏に浮かぶ。決して織田を侮っていた訳ではない。しかし現状を鑑みれば、心のどこかで信長を見下し、隙があった事は否めぬ。
その時、聞いた事もない轟音が耳朶を打った。予は雷かと訝しむ。
(雷にしては音の質が違うような・・・)
確信が持てず、首を傾げる。轟音に驚いたのか、輿の動きが止まる。轟音はその後も数度鳴り響き、遠くで馬が驚いて棹立ちになったのか、悲鳴が続く。
「何が出立したか?」
予は傍らの(三浦)義就に問い掛ける。
「暫し、お待ちを」
(三浦)義就が斥候を放つ。数分後、斥候が戻り始める。予は直の報告を許す。
「申し上げます!織田方の伏兵(柴田勝家隊)が現れ、桶狭間道から火縄銃を撃った音と推察されます。伏兵は火縄の弾を撃ち尽くした後、松井宗信隊に背後から強襲を掛けた模様。それと、」
「それと?」
「松井宗信隊の一部が近﨑道周辺に殺到しております」
「何!!」
予は立ち上がりかけ、輿の中であると気づき、思い留まった。
「退路が塞がれましたな」
輿を隔てて(三浦)義就の向かいの馬上にあった(朝比奈)元長が厳しい顔で呻く。
(してやられたわ)
ここまで謀られると、怒りを通り越して、いっそ清々しくさえ思えるわ。
そして、この火縄銃の轟音が桶狭間を響き渡った直後、我が方(今川方)の兵は委縮し、受け身になったのに比べ、織田方の兵は平然としている様子が覗えた。明らかに織田兵は火縄銃の音に慣れておる。即ち、日常から火縄銃を使った戦を行っているという事だ。
(今川からして見れば、異次元の所業じゃな)
今川にも火縄銃はある。しかし、実戦で使用する事は殆どない。火縄銃自体が高価である事、火縄銃に使う弾の材料を日ノ本の外に依存している事、連射が利かず大量に使用しなければ実戦の使用に耐えないとされていたからだ。
(しかし、数百揃えられれば・・・)
(織田)信長にその実用性を実戦で見せつけられるとは!音からも判る。織田方の伏兵(柴田勝家隊)は火縄銃と言う癖のある武器を見事に使いこなしておる。
「斥候、織田方の伏兵(柴田勝家隊)は火縄銃を今も所持しておるか?」
「えっ!?」
思わぬ事を聞かれたようで、直の報告を許した斥候は何かに思いを巡らす。
「あの速度で、火縄を持ったまま桶狭間丘陵の斜面を駆け上がったとは到底・・・あの後、火縄の音を聞いた者はおりませぬ。恐らくは桶狭間道に捨て置いたかと」
予は斥候の言葉を反芻する。確かに斥候の言う事に矛盾はない。|斯様《かよう》な重量のある物を所持したまま、急斜面を駆け上がれるとは思えぬ。今川が火縄を此度の戦で一丁も携行しなかったのもその重さが理由だ。街道や平坦な地を移動するならともかく、此度は陣地を桶狭間山とした。山登り前提で、一兵卒や小荷駄隊に火縄銃を携行するのは策戦に支障を来すと考えたからであった。白兵戦になれば、火縄銃は無用の長物と化す。
「(織田)信長め」
彼奴が何故兵力的に不利な状況にも拘わらず、こちらを挑発して来たか判ったような気がした。
(初めから勝つ気でおったのか!)
その後も凶報は続く。
「大将ケ根守備隊主将・松井宗信様、お討ち死に!」
「大将ケ根守備隊、壊乱し東に遁走中」
斥候や使い番が悲壮な表情で次々と報告を寄越す。中でも大将ケ根守備隊の使い番は背に矢を受け、全身刀傷だらけであった。激戦の中を血路を開いて報告に来たのであろう。
「くっ・・・道は開けぬのか?」
(三浦)義就が苛出し気に近習を叱咤する。
「無理を申されるな。近崎道は織田の本隊・松平(元康)隊・今川本隊中備え隊がひしめき合って、隙間すら探せぬ有り様」
近習は血走った眼で(三浦)義就を見返す。
(確かに・・・桶狭間道に抜けても、其処で織田方に押し込められ殲滅されてしまう)
輿の中で一部始終を聞いていた予は悟った。
「まあまあ、落ち着きなされ三浦(義就)殿。近習を責めても道は開けますまい」
(朝比奈)元長が義就を宥める。
「何を悠長な事を!松平(元康)隊が破られれば、織田の本隊と伏兵がこの本陣に殺到するのじゃぞ!」
(三浦)義就は(朝比奈)元長に怒りを向ける。予は輿の外の遣り取りを他人事のように聞いていた。どうも現実感が伴っていないのだ。仮に桶狭間道に辿り着いたとしても、崩落した道を通れる保証は未だにない。それでも向かわねばならぬとは・・・。
(此処まで追い込まれたのは何時以来であるか。花倉の乱の時か)
父・氏親の跡を継いだ長兄・氏輝と次兄・彦五郎が死に、異母兄であった玄広恵探が武田家(実際は甲斐国に本拠を置く福島氏)の後ろ盾を得て、今川家当主の座を争った時か。北条家の支援を漕ぎ着け、異母兄・玄広恵探を討ち、駿河今川家第11代当主になった。その後、甲斐国主・武田信虎殿と同盟を結んだ事に激怒した相模国・北条氏綱殿が駿河国富士郡(駿河国東部)を占拠してしまう。隣国遠江国では国人勢が叛乱を起こし、挟撃されかけた。
あの時は今川家、存亡の時であった。あの危急を救ったのは、他でもない師匠・太原雪斎でだった。謀を巡らし、北条の動きを止め、その間に遠江国を平定した。その後、駿河国富士郡の返還を含めた有利な条件で北条家と和睦を遂げた。全て師匠なくしては有り得なかった勝利だった。
だが、今この場に師匠はいない。5年前に身罷られた。
桶狭間は死地である
師匠の幻影が目の前に現れる。幻影だと判っていながら、その姿は鮮明だった。まるで私に纏わりつくように離れず、視線から逃れる事が出来ぬ。
何故禁を破ったか。私の教えはもういらぬと申すか?
違います。決して師匠の言を疎かになど致しておりませぬ。
随分と偉くなったのう。
その様な事は決して・・・師匠あっての予でした。今も変わっておりません。
今日の師匠はやけに絡む。予の心を揺さぶる。予のこの窮地が気に入らないらしい。舌鋒も鋭い。どんなに取り繕っても看破されてしまう。予は次第に苛立ちを感じ始めていた。
還俗させたのは早まったかのう。坊主のままであれば、このような窮地に追い込まれる事もなかったろうに。青二才じゃな。ほっほっほっ・・・
「無礼な!!」
予の中で何かが弾けた。輿の中で義元十文字を一閃させた。幻影は一瞬にして消え去った。息が乱れている。幻影とは言え、師匠を斬ったと言う後ろめたさより、解放されたと言う気持ちの方が上回っていた。
桶狭間山北
今川義元
「如何なされた?御屋形(今川義元)様」
輿の中の異変に気づき、(三浦)義就がいきなり輿の戸を開け放つ。一瞬動揺したが、片膝立ちのまま剣を鞘に納めると、何事もなかったかのように胡坐を掻く。
「大事ない。気合いを入れたまでの事よ」
「・・・それは重畳」
(三浦)義就は予の動揺にも気づかず、言葉をそのまま受け取ったらしい。この窮地に剛毅な事よとでも思ったのか。
「大高道に進む。兵を転回せよ。馬廻は私を中心に円陣を組ませ、即座に撤退する」
いきなりの退転命令に、(三浦)義就と(朝比奈)元長は目を白黒させる。
「よろしいのか?」
突然の転進命令に(朝比奈)元長が戸惑ったように予を見る。
「桶狭間道の脱出は叶わぬ。あれを見よ」
「!」
二人は予の扇を指した方向を見る。
傷だらけの使い番が予の傍に伺候していた。
「申し上げます」
使い番は頭を下げる。
「我が主(庵原之政)からの報告であります。桶狭間道、未だ修復せず。万が一の場合は大高道を使うべし」
恐らく之政からの途中経過報告なのであろう。使い番の顔には、よもや織田方に遭遇しようとは思いも寄らなかったらしく、驚愕の表情が窺える。
「(庵原)之政は?」
「桶狭間道の復旧に勤しんでおります」
「うむ、判った」
予は使い番を労う。
(庵原)之政も懸命に復旧しているが、仮に復旧したとしても、生き埋めになった小荷駄隊の処置は間に合うまい。
顔を見合わせていた(三浦)義就と(朝比奈)元長が決然とした顔をする。
「当方は後備えの富士殿に道を開けるよう打診する。三浦(義就)殿は本陣を纏めてくれ」
一旦行動指針が決まれば、(朝比奈)元長の行動は早い。父・氏親が「今川仮名目録」に「三浦」と「朝比奈」は別格であると式目に記したのも伊達ではないか。
「任された!」
久々の出番に、(三浦)義就は嬉々として馬を駆る。
「御屋形(今川義元)様、お急ぎを」
近習が輿の周りを固め馬廻が集まり始め、円陣を組み始める。
背後に織田の気配を感じたが、大きく息を吸い、動揺を抑えた。
馬廻が薄いながらも円陣を組むのを見、
「出立する」
と予は号令を掛けた。
「まだ陣が完全では・・・」
近習達が言い募る。
「一刻の猶予もない。時節を違えれば、織田に飲み込まれる」
予は近習達を叱咤した。予の決意が伝わったのか、近習達は馬廻と連携し、馬廻の内側にもう一つ円陣を組んだ。
「進めい!」
予が命ずると、二つの円陣が私を中心に器用に動き出す。
桶狭間山北
柴田勝家
儂は敵にのめり込むあまり、本陣の位置を見失っている事に気づき、歩みを緩めていた。後方で(柴田)勝定が怒鳴っているが無視した。
(此方ではない。もっと東のはず・・・)
方向転換しようにも、今川方の兵が其処彼処に溢れ、一度追い縋れば本陣の位置は益々遠のいていた。
([織田]信長様に叱られる)
儂がこの世で一つだけ怖ろしいものがあった。それは(織田)信長様じゃ。うつけと言われ、信秀(織田信長の父)様を継いだ後も内紛が納まらなかった。儂も何度も(織田)信長様と敵対した。じゃが、(織田)信長様の弟君・信行様を担いで織田家当主の座を争った稲生の戦いで儂は完膚なきまでに(織田)信長様に敗れた。後にも先にも寡兵に敗れたのはあの戦だけだった。叛乱して敗れればあるのは死のみのはずだった。じゃが、(織田)信長様は選べと言った。この場で腹を切るか、信行の無念を胸に抱いて、儂の元で扱き使われるか。今から考えてみてもおかしな提案じゃったなあ。儂は後者を選び、今日まで生き延びておる。ほんに扱き使われておるわ。たった500の兵で(今川)義元の本陣を急襲しろとは・・・。
閑話休題-
儂が再び東に向かおうとすると、眼前を見慣れぬ旗指物が翻っていた。
「敵は誰ぞ?」
儂は少々うんざりと重臣の一人に聞く。既に持った刀は血に塗れ、刃毀れが出来ていた。後少しで使い物になるなくなるだろう。
「あれは・・・あの旗は駿河勢の由比正信隊(今川本隊中備え)かと」
副将・(吉田)次兵衛が目を凝らしながら断言する。
(確か、由比隊は今川本隊の中備えに居たはず・・・)
そして、桶狭間山の北西にある生山で兵を転回し、(信長)本隊に迫っていたはず。
(何時の間にか追い抜かれていたか)
儂は(義元)本陣から更に離れてしまった事に気づいた。
「どう致しますか?」
副将・(吉田)次兵衛が訪ねる。
「どうもこうも・・・突破するしかあるまい。駆けて駆け抜けるのじゃ!」
儂は血刀を振り上げて奇声を発す。眼前の敵勢は火縄銃の轟音と霧の影響で隊列を乱しており、突然の大声に怯えていた。
「もらったわっ!」
儂は目の前の敵を切り伏せた。再び眼前の敵にのめりこむところを後ろから押し留められた。
「(柴田)勝家様ぁっ!」
鬼の顔が背後にあり、儂は慄いた。
「わっ!」
驚きの余り飛び退いた。鬼・・・(柴田)勝定は傷ついたように顔を歪める。
「その態度、酷いではないかっ」
「す、済まぬ」
儂は彼奴と目を合わせられなかった。(柴田)勝定は気を取り直して言う。
「(柴田)勝家様、目標から外れておりますぞ。急ぎ転進を」
「おおっ、判っておる」
敵に気を取られたばかりに再び(今川)義元から遠ざかっていたようだ。しかし、眼前は今川方の部隊に遮られている。
「とにもかくにも前面の敵を何とかしなければ」
「お任せあれっ!」
(柴田)勝定が勇躍する。忽ち眼前の今川方の部隊に飛び込む。瞬く間に今川方が前と後ろに分断される。儂は時節到来とばかりに斬り込む。




