1560年 6月12日 1:00 尾張国/向山砦
1560年 6月12日 1:00 尾張国/向山砦
織田方 1000人 水野信元・中山勝時
「(水野)信元様!」
近習が主君・水野信元が居る仮小屋に近づく。この仮小屋は、此度の戦に備え、急備えで水野方が設えたものだ。
「何事か?」
水野信元は戦を前にして少し高揚していた。
「今川方・松平元康から文が」
「松平家の御曹司から?」
水野信元は暫し考えてから近習から文を受け取る。水野家は織田家・今川家・今川家の配下に入った松平家と境を接している。その様な立場から、敵方の今川家から文が来ても、誰も咎めるような者はいなかった。
水野信元は文を読んでいく。文には松平元康から、これからも松平家と水野家は手を取り合っていかなければならぬとのお決まりの常套句の後、肝心の用向きが認められていた。
然らば、此度は(水野)信元様には両家の約定に従い、向山砦よりお引き願い、我らの大高城への兵糧入れに馳走して頂けまいか?叔父上(水野信元)様、よくよく御勘案されたし
(叔父上と来たか)
この文だけを見れば、血を分けた甥御から叔父に対する厭戦の文と取れる。しかし、実情はそう簡単ではない。名目上、水野家は織田家の同盟者なのだから。
(さてさて困ったものよ)
水野信元は織田信長の要請に従い、居城・緒川城を出て、大高城の南に配された向山砦に1000の兵と共に陣取っている。一方で、今川義元とも文を交わしており、謂わば面従腹背の姿勢を取っていた。此度に戦についても、今川義元より出兵の文が送られており、朝比奈泰朝に馳走するようにとの命令もされていた。織田家も今川家も水野家が微妙な立場に居る事は重々熟知していたし、水野家が両面外交をしているのも薄々察して黙認していた節がある。だだ、織田信長には此度の戦において、大高城の砦群包囲網を築き、今川義元を誘き寄せて倒すという秘策まで披露され、なし崩し的にその包囲網の一角に参加させられていた。
「(水野)信元様、如何なされた?」
見れば水野信元の居所に腹心が伺候していた。水野信元は腹心に文を渡す。腹心は手紙を一読した後、
「使えますな」
と漏らした。
「使えるか?」
「はい」
水野信元は腹心にもっと詳しい説明を求める。
「然れば・・・水野家と松平家が縁戚であるのは周知の事。実際、殿(水野信元)の妹君は(松平)元康殿の母。妹君の子である(松平)元康殿からの懇請-それも甥・叔父の情を絡めて-されて此処(向山砦)を退去したと喧伝すれば、織田方の諸将から織田信長殿の命令違反を問われても少しは和らぐかと」
「少し、か?」
水野信元は物足りない様に聞き返す。
「この文だけで向山砦から撤退したと言うのは流石に厳しいでしょう。ただ・・・」
「ただ?」
「我ら(水野家)が向山砦を退去すれば、織田(信長)殿の勝ち目は殆どないでしょう。万が一、織田(信長)殿が勝ち、命令違反を追及されても、我ら(水野家)は織田家の家臣ではない、水野家の都合により撤退したと突っ撥ねれば、織田(信長)もそれ以上は強くは追及しないでしょう」
「強く追及してきたら?」
水野信元は更に言い募る。
「その時は・・・今川方に鞍替えですな。今川義元殿の文にあったように朝比奈(泰朝)殿の庇護を受けても宜しいし、(松平)元康殿に借りを返してもらってもいいでしょう」
水野信元は腹心の言葉を反芻する。
(水野家と松平家との繋がりで砦を撤退したと言えば、織田方にも今川家にも言い訳が立つ。同情する国人衆もいるやも知れぬ。今川・織田両家の係争地の国人領主として、上手く立ち回らなければ水野家は存続出来ぬのだ)
半分は言い訳じみているが、要は切っ掛けが欲しかっただけなのだ。
「ふむ、悪くはないな」
「では、その様に?」
「そうだな」
腹心の質問に暗に向山砦からの撤退を仄めかす。
「氷上砦と正光寺砦はどうしますか?」
氷上砦と正光寺砦とは、向山砦の西、東に位置する織田方の砦だ。
「文を書く。流石に一言もなく撤退するのではバツが悪い」
「承知。祐筆を呼びます」
動き出した戦況に、水野信元の腹心は慌ただしく水野信元の居所を後にする。