1560年 6月12日 12:45 尾張国/鳴海道/曽根田
1560年 6月12日 12:45 尾張国/鳴海道/曽根田
今川方 中嶋砦攻撃隊
中備え 3000人 主将・井伊直盛/副将・久野元宗/先鋒隊長・天野景貫/次鋒隊長・堀越氏延/三隊長・小笠原氏清/後方隊長・天方通興
織田方 2900人 織田信長・川尻秀隆・佐々成政・金森長近・木下藤吉郎・伴長信・林秀貞・池田恒興・森可成・菅笠を被った男
曽根田
織田信長
鳴海道・曽根田を行軍している時だった。斥候の一人が信長の元に駆け付ける。
「前方に今川方!」
(またか!)
儂は天を見上げる。
「止まれっ!」
(信長)本隊の行軍を停止を命ずる。またぞろ重臣達が集まって来る。
「状況は?」
斥候に問う。
「手越川とその支流の結節点の川向こうに今川方を確認。既に態勢を整えております」
川向こうと聞いて、重臣達から安堵の声が漏れる。いきなりの遭遇戦は回避出来そうとの思いであろう。
「先鋒にはいつでも対応出来るよう伝えよ」
そう命じ、慎重に使い番を走らせる。
「数は?」
「およそ3000」
斥候が答える。
「・・・・・」
表情は変えなかったが、内心うんざりしていた。今川方はどれだけ兵が余っておるのかと。今更ながら、織田と今川の彼我の差をまざまざと見せつけられているようであった。
(総勢19000か。やはり侮れぬ)
最初から判っていた事ではあった。だからこそ、考え得る限りの謀を巡らし、今川方の兵の分散を図った。それでも今川本隊は遠い。一方で此方は先程の大水で2700に減じたが、生き残った兵や織田方の戦い振りを見て馳せ参じる傭兵が加わり2900にまで戻っていた。ほぼ同数の兵が、手越川と支流の結節点を挟んで対峙していた。
(突っ掛けるか?)
一瞬そんな思いが過ったが直ぐに自制する。こういう時、先に動いた方が負けると兵法でも謳われていたため、直ぐには動けぬ。
「敵は誰か?」
「旗指物から・・・遠江勢の井伊直盛麾下かと」
斥候の一人が答える。
まだ、辺りは暴風雨で視界が悪い。報せがなければ川の対岸の今川方に気づかぬ程だ。音も暴風に掻き消され、人の気配や武具の軋る音、馬の嘶きも聞こえぬ。
(彼奴等は先鋒隊[中嶋砦攻撃隊前備え]が壊滅したのを知っているのか)
儂はふと思った。そうであれば、心穏やかではいられまい。一瞬にして前を守っている味方が消えたのだからな。
儂は雨に煙る今川方(中嶋砦攻撃隊中備え)を観察する。
「右に寄っているな」
小さく呟いていた。恐らく、先程の大水で中嶋砦攻撃隊前備えが全滅した事を知っているようだ。手越川の大水を恐れるかのように川から距離を取っていた。
(だが、確か・・・)
儂が(池田)恒興との話を思い出し掛けた時、
「信長様っ!また、大水じゃあ!!」
見ると、いつの間にか菅笠を被った男の横に来ていた。儂は前方に振り返り目を凝らす。
「見えぬっ!」
雨に煙った手越川は先まで見渡せぬ。
「違う、右!」
菅笠を被った男が指差す。
(支流か!)
一瞬、儂と菅笠を被った男の視線がぶつかる。
「大水じゃ!平子ケ丘へ退避だ。左へ、左の山際だ!!」
叫ぶなり、我先に走り出す。重臣達も後に続く。大水がまた来たと叫びながら、我に続けと大きな怒鳴り声が方々から響き渡った・・・
(刻がない!)
前の大水より足が速い!儂は全速力で走る。
(間に合うか?)
儂は雑念を振り払い、一心不乱に最寄りの丘に取りつき登り始めた。
鳴海道/手越川/手越川支流結節点
井伊直盛
暴風雨の中でも、織田方が退却していくのが見える。一戦も交えぬうちに敵を前に撤退するとは・・・それもあれでは敗走ではないか!
(おかしい)
俺は訝しんだ。川を隔てて対峙していたはずの織田方が算を乱したように退却を始めたのだ。俺は思わず床几から立ち上がり、川に近づきかけた。
「井伊(直盛)殿」
(中嶋砦攻撃隊中備え)先鋒隊・次鋒隊からの使い番がやって来て、俺に判断を促す。どれも攻撃の伺いだ。当然であろう。敵に背を向けた時こそ最大の攻撃の機会なのだから。しかし、一方で俺の心の中で、別の警鐘が鳴り響いていた。罠かも知れぬと。だが・・・
(追わねばならぬか)
今川に属する前、遠江国の国人としての俺ならば一旦引くか、様子見をするであろう。だが、今は今川の傘下。昔とは立場が変わっていた。そして大高城で三河勢の松平(元康)殿、遠江勢の朝比奈(泰朝)殿が手柄を立てている。此度の戦は、勝てば尾張の東部が手に入る可能性が高い。つまり、恩賞も期待出来るのだ。ならばやらねばなるまい。
「出る!」
俺は立ち上がる。
「はっ!」
使い番達は心得たように自隊に戻って行く。(中嶋砦攻撃隊中備え)先鋒隊・天野(景貫)殿と(中嶋砦攻撃隊中備え)次鋒隊・堀越(氏延)殿は旧知の間柄。こちらの意図を容易く察してくれる。有難い事だ。
中嶋砦攻撃隊中備えは、天野隊(先鋒隊)を先鋒に進軍を開始した。
先程の大水で松平政忠隊(中嶋砦攻撃隊前備え)が消えた。完全に背後から持って行かれた。あっと言う間だった。援ける間もなかった。寧ろ、大水を避ける事で手一杯で援ける暇などなかった。幸い中嶋砦攻撃隊中備えは殆ど被害を出す事なく済んだ。だが、危なかった。風雨は弱まり、漸く大水も収まりかけていた。しかし、手越川の水位は通常より高いとの事だ。慎重に進まねばな。万が一のため、手越川の上流には斥候を放っている。まさか、敵ではなく大水を警戒するために斥候を出す羽目になろうとはな。念のため、(中嶋砦攻撃隊中備え)後方隊長・天方(通興)殿には後方の警戒を依頼している。
織田方を追い、ちょうど川を渡っている最中であった。我が隊の後方が騒ぎ始めた。
「何だ?」
まさか織田方の奇襲か?俺は緊張を走らせる。
「大水だあ!!」
兵の誰かが叫ぶ。瞬く間に川の水位が上がる。
「馬鹿な!」
水が押し寄せているのは後方ではない、背面からだ。俺は自分のミスに気づいた。川は・・・背後だけでなく側面にはあった!
「まずい!」
俺は乗っていた馬を急かせる。馬を川砂に足を取られ思うように進めない。水位がどんどん上昇していく。俺は馬を捨て、走り出そうとした。その瞬間何かに横腹を衝かれた。濁流だったかも知れないし、流された兵の一人だったのかも知れない。足を掬われ、仰け反った。口から大量の水が流れ込み、息を出来ぬまま、意識を奪われていった・・・
鳴海道/平子ケ丘
織田信長
(間に合うか)
走りながら、振り返る。先程より水の勢いが弱い気がした。織田方は儂を筆頭に、桶狭間丘陵の端に位置する平子ケ丘と呼ばれる小高い丘をひたすら目指した。
とにかく登れるだけ登ろうとした。しかし途中で腕を掴まれる。儂は怒りに任せて振り解こうする。
「(織田)信長殿、間に合わぬ。何かに摑まれ!」
件の菅笠を被った男だった。まだ、平子ケ丘の中腹にも届いていない場所だ。しかし、背後からの圧迫を感じ、近くで一番太そうな木の幹にしっかと抱き着いた途端、衝撃が襲った。儂の背を水流が直撃したのだ。一瞬息が詰まった。
(!)
最初の衝撃で腕が木の幹から離れ掛けた。しかし、第一波の衝撃が弱まった瞬間、木の幹のもっと細い部分を探り当て、幹を腕で囲み込み、両手の指をしっかりと握り合わせた。水の衝撃は止まらず、儂の背後から襲い続けている。
「くっ!」
思わず口から苦悶の声が漏れる。濁流に飲まれまいと木の幹に必死にしがみついた。他の者の安否を気遣っている間などなかった。とにかく自分の身を守るだけで精一杯だった。水が何度も身体に打ち付け、その度に飛沫を跳ね上げて行く。息をするのも難しい時もあった。目を瞑りひたすら耐え続けた。
・・・どれくらいの時間が経ったのだろう。長い長い時のように感じられたが、実際は十数分くらいしか経っていなかったのかも知れぬ。。気がつけば背を圧迫していた水流はなくなっていた。儂は木の幹を離さず、ゆっくりと背後を見る。最初に目に入ったのは夥しいばかりの人の死体であった。最初の大水ほど勢いがなかったのか、死体は下流に流されず、そこかしこに点在していた。中には息のある者もあった。
(たす・・・かったのか?)
命がある事が不思議な位じゃ。漸く木の幹から片手を外し、麓に降りようとする。大水は平子ケ丘の中腹まで達したらしく、山肌が大きく抉れていた。麓までの地盤は不安定で水を大量に含み、足を何度か滑らせた。平子が丘の山際には多くの織田方の兵が避難していた。しかし、明らかに数が減っていた。
(先鋒[400人]は間に合わなんだか)
川を挟んで今川方と対峙していた我が隊(信長本隊)の先鋒は、相手を牽制したため逃げ遅れたらしい。麓まで降りると、大水に流されずに残った水死体・旗指物・武具め甲冑がそこかしこに転がっていた。最初の大水のように全滅までとはいっておらぬが、今川方は完全に戦闘不能であろう。
死臭が漂い、思わず顔を顰める。味方と思われる軽装の兵も含まれていた。大水が最初のように手越川本流ではなく、支流から来た事が油断を誘ったのかも知れぬ。
(まだ、ましか)
今川方に比べたら、こちらは2500の兵が残ったのだ。信長は上流から転がって来た巨石に腰掛けた。
「(池田)恒興!」
「はっ!」
「斥候を!」
「判り申した」
(池田)恒興が兵から選抜し、斥候を周辺に放った。暫くすると斥候が戻って来る。
「申し上げます。手越川の対岸に居た今川方、姿が見えませぬ」
「手越川に多く死体。旗指物から今川方の井伊勢かと」
「川を遡りましたが、今のところ今川方の兵の存在はなし」
「大水のせいで道が水没している箇所が数か所あり」
「手越川支流の水源・琵琶ケ池が決壊。大水はそれが原因かと」
(・・・天啓)
報告を聞きながら、儂は再びの言葉を脳裏に刻んでいた。様々な細工を施したのは織田方だが、此処までうまくいくとは想像の埒外だった。尤も此方も被害を被ったが・・・
斥候が戻り、重臣達が兵を纏め始め、全員が揃ったところで宣う。
「皆の者、聞け!不埒にも尾張国に侵入した賊軍・今川方は天の怒りを買い、滅した。天命は我にあり!続け!!」
戦が始まって以来、織田方のボルテージは最高潮に達していた。
我が隊(信長本隊) 2500は、桶狭間山の義元本陣目指して進撃を再開した。




