1560年 6月12日 12:30 尾張国/桶狭間山南/田楽坪
1560年 6月12日 12:30 尾張国/桶狭間山南/田楽坪
今川方 義元本陣先発隊 1000人 瀬名氏俊
瀬名氏俊
本陣構築を終え、桶狭間山から南に下った田楽坪と言う台地で休息を取っていた。早朝からの作業であり、我が隊の兵卒は一様に疲れの色を見せていた。
(しかし、これで兵役は逃れたのであるから良しとすべきか)
戦に駆り出されれば、一定の割合で死傷者が出る。その補填は当然の事ながら自前で行われなければならない。兵と言うものはそう簡単に補填出来るものでもないし、農民が兵の主体であれば、農作業にも影響が出、延いては翌年の収益も減り、領主にとっては死活本題になる。私の領地は河東一乱に端を発した騒動により没収されて、御屋形(今川義元)様預かりとなり、駿河国の瀬名館に逼塞している。とは言え、一門衆の扱いとなっており、待遇は悪くない。弟である親永は関口家の養子となり、御屋形(今川義元)様の妹御を正妻に迎え、駿河国用宗城主となっている。弟・関口親永の娘は三河国の宗主と目される松平元康殿の正妻となっている。その様な事もあり、瀬名家・関口家とも今川家や松平家の繋がりが深い。元々瀬名家は今川宗家から分派した一族であり、格式は高いのだ。今川宗家が武勲により、室町幕府から宗家以外の「今川家」の名乗りを禁じたため、我が一族は「今川」の名乗りを返上し、「瀬名」に改名した経緯がある。
正午前から降り始めた雨は次第に勢いを増し、風も強くなってきた。初めは仮小屋の軒先で凌いでいた。
「瀬名様」
斥候の一人が駆け込む。
「何か?」
雨で煙る周囲を見ながら訪ねる。
「田楽坪の南のある大池が決壊しそうです」
「何!?」
私は直ぐに周辺の絵図を頭に思い浮かべる。
「大池が決壊したらどうなる?」
斥候に問い質す。
「さすれば・・・高低差からして、大池の東に水が流れ出し、田楽坪と大高道の通行が出来なくなる可能性が・・・」
私は立ち上がる。田楽坪が孤立してしまうではないか!
「急ぎ兵を纏めよ!時間がない。兵糧や武具は打ち捨てよ。南にある長福寺に避難する!!」
私は歩きながら指示する。
「今居る田楽坪が水没するかも知れぬ!命が惜しいのなら命令に従う事だ!!」
周りに居る兵卒達に聞こえる様に大声で言う。ちょうど中食時であり、食事をしてる者もあったが、暴風雨のせいで中断する者が相次いでいた。私の言う事を理解した兵卒が一人また一人と南へ向かって逃げ出す。それはやがて奔流となり、先を争う様にして長福寺を目指し始める。
(はてさて・・・水没するは言い過ぎたか)
大池の東が水没し大高道との交通が遮断される可能性は高い。それだけでは兵は動かぬかも知れぬと思い、大言壮語したのだ。中食時とあって動かぬ兵がいるかも知れぬと懸念したのだ。
(まっ、結果よしとするか)
私は心の中で呟きながら先を急ぐ。斥候の申した通り、大池は決壊し始め、池の水が東側に流れ出していたのだ。水が濁流になる前に大池と長福寺の山麓を抜け、大高道に入り、走り込むように長福寺を目指す。風雨は更に強まり、目も開けていられなくなっていた。先触れを出し、長福寺に駆け込んだ時には暴風雨が桶狭間一帯を暴れ回っていた。
「兵は?」
家臣に問い質す。
「漏れなく境内に入りましてございます」
長福寺は既に御屋形(今川義元)様の名で、制札(神社や寺院その他の一定地域内での乱暴停止などの禁制)を立てる事を許されていたためか、好意的に我々を受け入れてくれた。流石に1000の兵は収容出来ず、兵卒の大半は寺内の建造物の軒先や拝殿の廊下に屯し、雨風を凌いでいた。幸い暴風雨の犠牲を出さず、長福寺まで退避出来た。
(酷く泥濘んでいる事だろうよ)
一歩間違えれば、あの中に取り残されていたやも知れぬ。
「瀬名(氏俊)様、陣替えを御屋形(今川義元)様の許可なく行って、後でお叱りを受けまいか?」
家老が心配そうに近寄って来る。
「見よ」
儂は田楽坪の方を顎で示す。家老が驚愕する。
「何と!」
先程までいた仮小屋が大池から流れ出した泥流によって押し流されていた。
「瀬名(氏俊)様の慧眼、恐れ入ります」
家老は詫びて来た。私は面映ゆい気持ちになる。仮小屋の話は近習の受け売りだったからだ。
「と、とにかく、雨が収まり次第、御屋形(今川義元)様に報せよ」
「判り申した」
家老は叩頭する。
(やれやれ。あと数分遅れていたら、洒落にならんかったわ)
田楽坪に雨は降り続いていた。




