1560年 6月12日 12:05 尾張国/中嶋砦・鳴海道
1560年 6月12日 12:05 尾張国/中嶋砦・鳴海道
今川方 中嶋砦攻撃隊
前備え 2500人 主将・松平政忠/副将・菅沼定村/先鋒隊長・戸田重貞/次鋒隊長・奥平 貞能/三隊長・牧野貞成/後方隊長・粟生永信
織田方 織田信長・川尻秀隆・佐々成政・金森長近・木下藤吉郎・伴長信・林秀貞・池田恒興・森可成・菅笠を被った男
鳴海道/下中
織田信長 3000人
(ちっ、酷い雨じゃ)
中嶋砦を出撃した我が隊は鳴海道(鎌研で桶狭間道と合流する道)を手越川沿いに西に向かっていた。既に雨脚は強まり、風も出て来た。追い風だったため、それ程の障りはなかったが、足元は泥濘み、行軍に支障が出始めていた。それでも、儂は歩みを止める気はなかった。
中嶋砦から西に数分の下中を通っている時だった。放っていた斥候の一人が駆け戻って来る。
「前方に敵兵!」
儂は直ぐ様歩みを止める。
「全軍停止っ!」
儂のが辺りに響き渡ると、使い番が前方に走って行く。既に先鋒は敵を察知し、その場に留まっているようだ。それにつられ、次鋒以降の隊も次々と足を止め始めていた。
「敵兵は誰ぞ?」
「て、敵は旗指物から松平勢かと」
「松平元康か?」
(松平)元康は確か大高城に引き上げていたはず。
(もう此処まで来ているのか?)
「否。あれは恐らく・・・松平政忠隊ではないかと」
菅笠を被った男が進言する。この大雨の中、彼奴は目を眇めている。
(松平政忠は長沢松平家・・・分家か)
儂は鼻を鳴らす。一方で安堵もしていた。一時期、松平元康は織田家の人質になっていた事がある。儂も(松平)元康とは面識がある。幼少の折りではあるが。
(得体の知れぬ奴)
それが儂の松平元康に対する評価であった。人質であった事もあろうが、どこか本心を見せぬ、底知れぬ雰囲気を醸し出していた。
「敵兵が曽根田に折り敷いております」
斥候が続けざまに伝える。
「数は?」
「2000から3000かと」
その言葉に儂は思わず唇を噛み締めた。
(こちらとほぼ同数ではないか)
敵は既に戦闘態勢となっている。つまり、此方を既に捕捉していたと言う事か。厄介な。態勢の整っている隊は容易に崩れない。増してや敵は精強を唄われる三河勢だ。儂が尾張国北東部に位置する品野城の戦いで、同じ一族の桜井松平家である松平家次と戦い、大敗を喫している。
(どうする?)
流石に策もなく遮二無二攻めるのは愚策だ。奮戦すれば勝てるかも知れない。しかし、敵は目指している今川本隊ではない。ここで兵を失いのは何としても避けねばなるまい。その時、儂の背筋が粟立った。
(何だ?)
判らぬ。だが、儂の直感が訴えていた。
「殿っ!大水じゃあ!!」
誰かが叫ぶ。その声に儂はかっと目を前に見据える。大雨の中、風に音を遮られ、仔細は判らぬ。しかし、儂の本能が好機だと訴えている。
「中島砦に撤退じゃあ!大水が来るぞ!!」
儂は我一番に逃げ出す。それに釣られて、訳が分かぬままに諸将が後に続く。次は近くの兵が我先にと逃げ出す。それはやがて奔流となって兵全体に伝播していく。
鳴海道・曽根田
松平政忠
我が隊(中嶋砦攻撃隊前備え)は中島砦に向けて進軍中だった。御屋形(今川義元)様より中嶋砦攻撃隊の前備えを仰せつかった時は名誉だと思った。だが、他の三河勢からは先鋒で使い潰されるだけだと嘆かれた。ならば、犠牲を減らすためにも奮戦せねばなるまい。
鳴海道の曽根田に差し掛かる頃だった。
「前方に敵あり。織田軍です」
斥候の報せに軍全体に緊張が走る。旗指物はなく軽装だと言う。だが、西から来る隊は織田軍しか有り得なかった。
(早すぎる)
中島砦まではまだ少し距離がある。曽根田は狭隘な道が終わり、濃尾平野のに続く拓けた土地だ。軍議では中島砦の兵を抑えよとしか命が下っていない。ならば、狭隘な地に誘き寄せ迎え撃つのもありか。
「止まれっ!」
出過ぎていた前衛を戻すために本隊を一度下がらせ、順次、平子ケ丘の狭隘な土地に陣を敷いた。敵が此方より多ければこの地で守りに徹するればいい。同数なら同じ事。寡兵であれば思い切って打って出てもよい。その間にも織田方の情報が次々と入ってきた。
「敵は信長本隊と思われます」
「数は3000前後」
「敵の斥候が多く放たれています」
「本隊以外の部隊はありません」
何、本隊だけで前備えも居らぬだと?不思議な編成だな。それに軍としては統制が取れているようだが、配置がてんでんばらばらだ。信長本隊と見て間違いないのだろうが、前備え・中備えがなく、本隊だけ?どういう部隊構成なのだ。
その時使い番が走り込んで来る。
「(中嶋砦攻撃隊前備え)先鋒隊長・戸田重貞の使いです」
「申せ」
「(中嶋砦攻撃隊前備え)先鋒隊、既に織田軍を捕捉せり。ご命令を」
戸田(重貞)殿か、血気に逸っておるな。
「待てと申せ」
「しかし!」
逸っているのは戸田(重貞)殿だけではないか。
「もう一度言う。待てじゃ。・・・これは御屋形(今川義元)様からの主命である。厳命であると心得よと戸田(重貞)殿に伝えよ」
「は、はっ!」
流石に御屋形(今川義元)様の名を出されては、使い番も従うしかないだろう。
「早く去ねい!」
我が怒鳴ると、使い番は慌てて立ち上がり、前方に向かって走り去る。
その時、急報が入った。
「申し上げます。対峙している織田軍が急遽撤退を始めました」
我は考え始める。既に辺り一面暴風雨となっていたからだ。本来であれば、この様な悪天候である場合は雨の当たらぬ場所に避難するか、このままの態勢を維持するのが常道だ。これは敵にも当て嵌まる。敵に策がない限り、敵前逃亡は相手に付け入られる危険な行為だ。我の部隊も中嶋砦を囲めば、野営を張る予定であったのだ。
(後続[中嶋砦攻撃隊中備え]を待つか?)
報告を聞きながら逡巡する。敵に策があれば、恐らく平野部に出た途端、伏兵に襲撃される可能性もある。しかし、報告を聞く限り、その様な備えは見受けられぬ。さて・・・
「敵は我らに恐れをなして逃げ始めたか」
副将・菅沼定村が嘲るように言う。まるで逡巡する我を嘲笑しているかのようだ。
(ここで手柄の一つでも立てて置かねば、本家[松平元康]に差を付けられてしまう)
既に本家[松平元康]は大高城の兵糧入れ・丸根砦の奪取で勲功を挙げている。座したままでは何も変わらぬ。
「出るぞ!信長本隊を追う」
我は立ち上がる。
「お待ちくだされ。この暴風雨では敵を見失いかねませぬ。それに敵に備えがあれば奇襲されますぞ」
「そうでございます。ここは慎重を期すべきです」
重臣共が我を諫める。尤もな諫言だ。だが、我ら(三河勢)の立場からすれば、多少の無理をしてでも手柄は必要なのだ。
「・・・三河勢の戦なればそれもよかろう。じゃが、今我らは今川方の属国の将として出陣しておる。御屋形(今川義元)様は猜疑心の強いお方だ。信長本隊が背を向けて逃げておるのに追わねば、どの様な疑いが掛けられるか判ったものではない。ここは打って出るべきなのだ」
我が懇々と説得すると、重臣達は押し黙った。三河国の全土で起こった三河忿劇を今川方に鎮圧されてしまった。今の今川は三河国も併呑し、三河勢にとっても、尾張勢にとっても最大の脅威だ。三河忿劇に参戦して敗れた重臣達も痛いほど思い知らされている事であろう。
「・・・そうですな。心得違いをしておりました。殿(松平政忠)に従いましょう」
重臣共は揃って我に叩頭した。
鳴海道/下中
松平政忠
決断してからの動きは早い。既に戦闘態勢が整っていた我が隊は前備えから順次進軍を再開する。
「敵と接触した時はどうすればよいか?」
(中嶋砦攻撃隊)先鋒隊の使い番が再び確認に来る。先程とは違い生き生きとしておるわ。
「織田方から攻撃を受けぬ限りこちらから手を出してはならぬ。織田方が砦なり陣地に入ろうとするならば、付け入れ!橋頭保を築くのだ」
我は馬を操りながら命じる。我が隊(中嶋砦攻撃隊前備え)の先鋒隊の最前線は織田方の殿を捕捉し織田方の殿に肉薄していた。頼もしい限りよ。相変わらず風雨は強く、道が川沿いのせいか足を取られる。川の水位がそれ程高くないため脅威にはなるまい。
その時、背後に圧迫を感じた。何と言うか雰囲気・・・空気か?
「背後が何ぞ騒がしくないか?」
我は重臣の一人に語り掛ける。
「・・・使いを送りましょうか?」
その直後、悲鳴のような声が聞こえた気がして振り返った。信じられない光景が広がっていた。兵の数人が乗馬の位置から見えるくらい空に舞い上がったのだ。我は手綱を固く握りしめた。
(何だ?何が起こった・・・)
思考を最後まで張り巡らす間もなかった。何かに背後から馬ごと吹き飛ばされたのだ。さっき見た光景と同じだ。辺り一面に大量の水の気配を感じた。地面に叩きつけられた時、我の意識はなくなった・・・
鳴海道/中嶋砦前
戸田重貞
(あと少し)
俺は先鋒を叱咤し、中嶋砦に肉薄する。
織田方の最後の一人が中嶋砦に飛び込むようにして入るのを見て、付け入りが失敗した事を俺は悟った。最先鋒の騎馬武者が織田方の反撃を恐れ、砦から距離を取った。
「ちっ、逃したか」
俺は馬首を翻し、隊の整える。先鋒隊長である俺が前に突出していては隊の再編が出来ぬからな。
(しかし、おかしい)
俺の隊(中嶋砦攻撃隊前備え先鋒隊)の騎馬隊が砦に肉薄しても、織田方から反撃がないのだ。
その時だった。中島砦から叫び声が上がり、我が隊(中嶋砦攻撃隊前備え)の次鋒隊から悲鳴が聞こえたのだ。騎馬隊の武者が振り返る暇もなかった。一瞬にして、辺りは濁流に飲まれた。馬が足を取られその場に横転する。俺は馬から投げ出され、その濁流の中にに落ちる。後から後から水嵩の増した大水が俺を襲った。
(な、何がっ!)
水に飲まれ、息も出来ぬまま、俺は意識を手放していった。
中嶋砦
織田信長
轟音と水の濁流しかなかった。咄嗟に摑まった砦の柱が唯一の命綱だった。砦は大水の影響が酷く揺れ動いた。暴風雨は砦内に侵入し、儂の意識を何度も奪い掛けた。どれくらいの時間が流れたのであろうか。儂は漸く目を開け、自分が未だに柱に縋っているのに気づいた。既に轟音は消え、水が静かに流れる音が聞こえた。周りを見渡せば、床に伏す者、信長と同じように柱や壁に縋り付く者、果ては砦に登り切れず、砦を支える地面に打ち込まれた支柱を片手で握り締め凌いだ者までいた。
(助かったのか?)
儂は漸く柱から手を離す。殆どの者が未だに大水の幻影に怯え、何かを掴んでいた。砦の床から下を見ると、水位は下がったが流れの早い水が溢れていた。床は濡れ、水位が床上まで登っていた事を覗わせた。床の端から下を覗き込むと、水死体が砦を支える支柱に何体も引っ掛かっているのが見え、視線を逸らした。逸らした先に、今川方と思われる累々たる死体が手越川に浮かんでいるのが見え、儂は戦慄した。
「・・・・・!」
眼前には信じられぬ光景が展開していた。
突然の豪雨に儂を始めとした織田方の兵達は視界を奪われた。必死に眼前に目を凝らしていた物見も、豪雨に混じった雹が辺り一面に降り始めると物見櫓の床に伏せて豪雨をやり過ごすしかなかった。豪雨は数時間続き、途中轟音や人の声が聞こえたが、豪雨と強風、雷鳴に掻き消された。豪雨が過ぎ去り、押っ取り刀で顔を上げた中嶋砦の面々が見たのは、恐らく中嶋砦に攻撃を仕掛けようとした今川の前備えが、短時間の豪雨によって発生した大水に巻き込まれ、壊乱した姿だった。山が崩れ川に流れ込んだ大木や土砂が手越川の至る所を塞いでおり、その僅かな隙間を縫って川の水が流れていた。大水によって死んだ今川方の兵士の顔には驚愕と恐怖が綯い交ぜになった表情が張り付いていた。どの水死体も同じ表情で、生き残った織田方の兵達はその異様な光景に戦慄しているのが手を取るように儂にも判った。その一部は中島砦を越え、後方の手越川と扇川の合流地点まで続いていた。
「!」
水死体が中嶋砦の柵に引っ掛かっているのを見て、流石の儂も後退った。
(よく持ったものだ)
奇跡的に、自分がいた中嶋砦は柵の一部が大水で傾いた程度だった。兵にも被害はなかったようだ。中嶋砦がある中州の途中で流木が折り重なって自然の堤防を作り、砦の直撃を免れたのだ。大水の被害は川沿いばかりでなく、中嶋砦や手越川に面した山や丘陵にまで及んでいた。中嶋砦に向かう経路が大水によって崩落したり塞がれていた。(中嶋砦攻撃隊)前備えが大水によって一瞬にして消えてしまったのも理解出来てしまう程に・・・
儂が今居る中嶋砦も補強しなければこの先使い物になるまい。しかしタイミングで大水が起こる事など、織田方も含めた桶狭間に点在する兵達は考えてもいなかっただろう。じゃが、今儂には言える事が一つだけある。
「・・・天啓」
思わず口にしていた。
儂は神仏など信用せぬ。せぬが、今目の前の光景は現実じゃ。これを信用せずして何を信用すると言うか。
(さて・・・)
儂は前方を見遣る。夥しい今川方の(中嶋砦攻撃隊)前備えの死体があちらこちらに転がっている。もし、全滅した今川の(中嶋砦攻撃隊)前備えが機能していれば、我らは中嶋砦に押し込められ、後続する大高城方面隊が布陣すれば、半包囲に近い状態になっていただろう。背後の善照寺砦を鳴海城の岡部元信に奪われれば中嶋砦は完全包囲され、進退窮まれば儂は詰みだ。
「・・・・・」
(紙一重、か)
儂の戦はいつもそうじゃ。そして劣勢を跳ねのけ、覆して来た自信はある。
「(織田)信長様、ご無事で?」
聞き慣れた猿(羽柴秀吉)声が背後から聞こえる。
「うむ」
信長は振り向かず答える。
漸く兵達が復活し始めたようだ。
「(池田)恒興!」
「はっ」
「損害は?」
「暫しお待ちを」
(池田)恒興は近習や侍大将に聞き回りに行く。る。その間、儂は流されずに砦の壁際に引っ掛かっていた床几を立て直し座り込んだ。刀を杖替わりにして、一息吐く。ざっと見た限り、いつもの面子は揃っており、幾分兵は少ないように見えた。あの大水だ。砦に逃げ込んだ者以外が生きているとは思わないが、生き残っていれば、砦に戻って来るはずだ。
「申し上げます」
(池田)恒興が伺候する。
「うむ」
「主だった者は全員無事であります。したが兵は2700程かと」
「・・・300か」
今の時点で1割が脱落した。今の儂にとっては数字だ。だが、死ぬよりましであろうと思い直した。敵はこちらの何倍もの兵を失っているのじゃからな。
「敵は?」
「砦から見る限り・・・纏まった部隊は見当たりません。恐らくは・・・」
「・・・・・」
言葉を濁したが、儂にも(池田)恒興の言わんとした事は判った。
(ほぼ、壊滅か)
背後からの大水。逃げる間どころか振り返る間もなかったのだろう。
風雨は相変わらず続いていた。
「出撃じゃ」
信長が叫ぶ。
家老達は恐る恐る砦から下を見る。手越川の水位はかなり下がり、平常と言わないまでも道も見えた。家老達だけでなく、近習や他の兵達んでいる。あれだけの大水が出たのだ。気持ちも判らんでもない。じゃが、今は時が惜しい。時間との戦だ。今は氾濫し手越川も水が治まっているが、また何時決壊するとも知れぬ。暴風雨は視界を遮り、大水の予感をヒシヒシと感じさせている。
信長は家臣を待たずに砦から泥濘んだ道に降り立つ。
(まだかなり緩いか)
足裏の感触を確かめた後、ゆっくりと歩き出した。中嶋砦は扇川と手越川の結節点であり、常より水気が多い。手越川を遡って行けば、少しは歩き易くなるだろう。近習が信長を守ろうと慌てて降り立ち、信長を追い掛ける。更にそれに続くように家老や兵達が恐る恐る地面に降り立つ。その鈍さに儂はこめかみに怒りを寄せる。だが、その様な事に構っている時ではない。
(時がない)
儂は内心の焦りを封じ込めた。
(こうしている間にも、[今川]義元は動いてしまう)
儂は桶狭間山の方角を睨んだ。




