1560年 6月12日 10:15 尾張国/桶狭間山北/釜ケ谷付近
1560年 6月12日 10:15 尾張国/桶狭間山北/釜ケ谷付近
今川方 今川本隊
義元本陣 2000人 総大将・今川義元/軍師・庵原之政/先陣長・葛山氏元/次陣長・関口氏広/後陣長・岡部正綱/右陣長・三浦義就/左陣長・朝比奈元長
前備え 1000人 主将・松井宗信/副将・蒲原氏徳/先鋒隊長・安倍元真/次鋒隊長・福島助昌/後方隊長・一宮元実
中備え 1000人 主将・由比正信/副将・荻清誉/先鋒隊長・勝間田政行/次鋒隊長・佐竹高貞/後方隊長・沢田忠頼
後備え 1000人 主将・富士信忠/副将・興津清房/先鋒隊長・井上継隆/次鋒隊長・大村家重/後方隊長・飯尾乗連
織田方 100人 千秋季忠
200人 佐々政次
千秋季忠・佐々政次隊が桶狭間道に降りた時、前方に煌びやかな装飾を施した塗輿がはっきりと視界に入った。塗輿は今正に斜面を登ろうとしていた。
(千載一遇の好機!)
桶狭間道は中嶋砦攻撃隊が通り過ぎ、間隔を少し開けた今川本隊が桶狭間山に続く桶狭間丘陵の斜面を登ろうとしていて、一時的にエアーポケット状態になっていた。一瞬の無防備状態であった。
「突っ込めい!」
佐々政次が刀を振り翳し、一直線に今川方に突入した。
今川義元は輿に乗り、斜面を難儀しながら登っていた。既に中嶋砦攻撃隊は釜ケ谷を抜け、中嶋砦に向かうべく手越川沿いを下っていた。背後は今川本隊の後備えが守っている。大高城からの援軍が中嶋砦の横腹に出て来れば、織田方はそれ以上前に進めなくなるはずだ。中嶋砦は南北の手越川と扇川の中州に作られた砦だ。東を中嶋砦攻撃隊に、南を大高城からの援軍に囲まれれば、北は扇川が流れており、退き口は西の善照寺砦だけになる。謂わば半包囲された形になる。今川義元の想いは中嶋砦の攻防に映っていた。
(!)
突然の衝撃だった。その直後に喚声が上がり、一瞬輿の動きが止まる。
「何事かっ?」
今川義元が叫ぶ前に輿の外から庵原之政の怒鳴り声が聞こえる。今川義元は慌てて輿の戸を開く。後方に信じられない光景を目の当たりにしていた。
(どうして此処に織田方が居る?)
輿が斜面を登り始めた矢先の最悪のタイミングだった。
「織田方の奇襲じゃあ!輿を守れい!!」
庵原之政の叱咤する声が響き、近習や馬廻が輿の周りに集まり始める。
最初の千秋季忠・佐々政次隊の奇襲を受けた義元本陣後陣は大混乱に陥る。
「兵を返せい!応戦しろ」
後陣長である岡部正綱が兵を叱咤する。織田方に食いつかれ、突撃を受ける。織田方は遮二無二前進するため、後陣は兵の転回も儘ならずズタズタに切り裂かれる。転回を急ぐ余り前の隊とぶつかり、味方同士で小競り合いを起こす始末だった。
(何故こんな所に織田方が・・・斥候の報告では伏兵は居なかったはず)
後陣長・岡部正綱は混乱していた。大将隊の近習が何とか応戦する状態になっていたが、余りにも数が少なすぎ、織田方の思うが儘にされていた。転回できない兵の乱れに巻き込まれ、まともな応戦が出来ないのだ。
織田方は真っ直ぐに上を目指している。岡部正綱は斜面を見て、ハッとする。
(織田方は御屋形[今川義元]様を狙っている!)
敵の目的に気づき岡部正綱は怒鳴る。
「槍衾を」
「兵が足りませぬ。効果がありませぬぞ」
「構わぬ。少しでも足止めが出来ればよい。織田方の目的は御屋形(今川義元)様じゃ」
重臣の一人があっと声を出し、槍兵を掻き集める。しかし、兵が揃う前に織田方は義元本陣後陣をすり抜けて行く。
「おのれ!」
屈辱を受けた岡部正綱は織田方を追おうとするが、味方の兵に阻まれてしまう。織田方を追尾しようとする今川兵が殺到したのだ。
「くっ!」
追跡を断念した岡部正綱はその場で地団駄を踏んだ。
「輿を陣地に送り込むのじゃ!」
庵原之政が的確に指示を送る。近習・馬廻に分厚く守られた輿が少しずつ斜面を上がって行く。背後に織田方の足音を聞きながら、庵原之政は冷や汗の出る思いだった。
(織田方の詮索はさて置き、今は御屋形[今川義元]様を逃すのが先決)
庵原之政は既に心を切り替えて来た。
輿の戸を開け背後を窺う今川義元は、庵原之政の活躍に目を細めた。
(流石師匠の御係累だけはある。ようやった)
今川義元は頼もしく思った。だが、状況は予断を許さない。織田方はじわじわと輿に近づいているのだ。
「残りの兵は織田方の足止めをせよ。槍先を揃えよ」
庵原之政は次々と指示を出す。だが、木々や叢が鬱蒼とした場所でのその対策は下策だった。周りの障害に槍先を中々揃えられぬ槍兵は次々と織田兵に抜かれて行った。庵原之政が拙いと気づいた時には槍兵はズタズタにされていた。庵原之政の騎馬隊が織田方の先鋒を攪乱しなければ、輿に織田方が殺到していたかも知れない。庵原之政は馬を巧みに操りながら徐々に後退して行く。
(これで少しは刻は稼げる)
最低限の仕事をこなし、庵原之政は安堵する。
「むっ!輿が斜面を登って行く」
千秋季忠・佐々政次隊の奇襲を受けて一時停止していた塗輿が再び斜面を登って行くのが千秋季忠から見えた。佐々政次隊の後方を警戒していた千秋季忠隊から千秋季忠が飛び出す。
「佐々(政次)殿、塗輿が遠ざかっておるぞ」
「何?」
今川本隊後陣との戦いに夢中になっていた佐々政次は慌てる。
「此処は任されよ。早よう、義元を!」
「判り申した。ではっ」
佐々政次は配下を連れて再び輿に突撃を再開する。
今川本隊の後陣を蹴散らしながら、佐々政次隊は更に斜面を駆け上がって来る。輿に佐々政次隊を近寄らせまいと馬廻が阻んで来る。高所からの突撃に、一旦佐々政次隊の勢いが殺がれてしまう。
「おのれ!」
佐々政次は怒りの声を上げる。だが、馬廻も数が少なく、一旦織田方の下に降りてしまえば左程の脅威でない事が知れた。只でさえ木々や叢に囲まれている斜面である。徒歩兵は上手く避ける事が出来るが、騎馬武者は馬の幅もあり通り抜けられない所があり、次第に両者の距離は離れて行く。
「今のうちじゃ。駆け上れっ!」
佐々政次は下知を下す。登りを再開した佐々政次隊は再び総大将隊に肉薄する。
喧騒は聞こえていた。ただ、大方見方が気勢を上げているとしか思っていなかった今川本隊後備えの主将・富士信忠は驚いた。
「斥候の調べでは周辺に織田方はいないと」
近習がしどろもどろに言う。
「よいっ!それより御屋形(今川義元)様の救援じゃ」
富士信忠が近習を遮り命を下す。使い番が今川本隊後備えを駆け巡る。素早く兵を転回し、斜面を駆け上がろうとする。
「富士(信忠)殿、それでは後方の備えが!」
副将・興津清房が注進する。富士信忠は暫し考えた後、
「では後方隊長の飯尾(乗連)に後方隊は背後に敵に備えるように斜面を登るその場に待機せよ」
富士信忠が命ずると、使い番の一人が走り去って行った。兵の転回を終えた今川本隊後備えは、先鋒隊から順次斜面を駆け上がり始める。眼前に織田方の別動隊が待ち構えている情報が入って来る。
「織田方の別動隊は寡兵。構わず押し込めい!」
総大将隊の後ろに控えて背後を警戒していた今川本隊後備えが転回して来るのを千秋季忠は見逃さなかった。
(拙い!これだけの兵とまともにぶつかっては鎧袖一触にされてしまう)
少なくとも、斜面を登って来る今川本隊後備えは800近くだ。幾ら高所の利があるとは言え、8倍の敵を押え切る事は出来ない。
(詮無い事であるが、もう少し兵が居れば・・・)
「山上に行く」
兵を纏め、今川本隊後備えが来襲する前に高所へ逃れる事にした。
「進めい!進めい!!」
佐々政次は兵を叱咤する。しかし中々前には進めない。奇襲を仕掛けた時は、義元本陣の総大将隊と後陣の間隙を突くように輿に肉薄出来たが、今は後陣が背後に迫り、輿の周りには近習と馬廻が犇めき、他の隊も集結し始め、進む隙がないのだ。
「佐々(政次)殿!」
遂に後続していた千秋季忠隊が佐々政次隊に追い付く。
「敵の殿軍(今川本隊後備え)は?」
「既に斜面を登っている」
千秋季忠が背後を見ながら答える。
(ちっ!)
佐々政次が歯噛みする。既に奇襲をした初めの勢いは失われていた。
(だが、進むしかあるまい)
「前に出る」
佐々政次が重臣に言い置き、突出する。最先鋒に立つが固まってしまう。今川方の兵は余りにも多かった。静観しているうちにも続々と数を増していた。佐々政次は怒鳴り声とも悲鳴ともつかぬ声を張り上げて突入する。
「織田信長の臣・佐々政次、推参っ!」
今川方の兵にぶつかるように飛び込む。何人かの今川兵が後ろにどっと倒れた。佐々政次はすかさずその空隙に入り込む。一瞬塗輿が目に入り、佐々政次の心は逸った。だが、塗輿までの距離はそれ程ないが、今川兵が塗輿を取り囲む様に幾重にも円陣を組んでいた。
(重厚過ぎる)
突入を試みた佐々政次が呆れる程の厚さだった。
「(佐々)政次様!」
背後から声が掛かる。使い番の一人だった。
「如何した?」
前方の今川兵を牽制しつつ尋ねる。
「我が隊(佐々政次隊)に横撃する今川方の新手が!」
「数は?」
「およそ1000」
(!)
佐々政次は愕然とする。
「千秋季忠隊は?」
「既に今川方の殿(今川本隊後備え)に備え、動けませぬ」
一縷の望みを託した千秋季忠隊は使えぬ聞き、佐々政次は天を仰ぐ。
(これまでか)
佐々政次と使い番が遣り取りしている間にも、狙いを定めた今川本隊の兵が佐々政次隊を取り囲む様に展開していた。
「佐々(政次)殿!」
有り得べからざる声を聞き、佐々政次は振り返っていた。其処には今川本隊後備えに対していたはずの千秋季忠の姿があった。
「殿(今川本隊後備え)の備えは?」
「数十名を残してきた。だが、僅かしか持ち堪えられまい。刻がない、急がれよ。此処は身どもに任せよ」
「しかし-」
「此処で座していても犬死にじゃ。攻めて其処元だけでも・・・せめて塗輿に一太刀を!」
千秋季忠の悲壮な声に後押しを受け、佐々政次は眼前を睨む。
「進めい!」
血刀を振り翳し、佐々政次は一直線に塗輿を目指す。
(千秋[季忠]殿、この御恩は冥府にて!)
取り残された千秋季忠隊は既に横撃して来た今川本隊前備えに押し込まれていた。
(さて、佐々政次は送った。後は身どもが意地を見せるまで)
「下るな!佐々(政次)殿が義元に辿り着くまでの刻を稼ぐのだ」
その時凶報が届く。
「(千秋)季忠様ぁっ!敵の殿(今川本隊後備え)が!!」
見れば、斜面を登って来た今川本隊後備えが、今川本隊前備えに向かいあっていた千秋季忠隊に横撃を食わせた。
(やはり数十名では鎧袖一触だったか)
強烈な打撃音と共に千秋季忠隊が一瞬にして粉砕される。その波は忽ち千秋季忠の元にも波及する。
(脆い、脆すぎる!)
千秋季忠の心の声を発するが、今川兵の中に飲み込まれてしまう。
「佐々(政次)殿っ!」
それが千秋季忠の最期の言葉だった。最期まで佐々政次を案じていた。
千秋季忠隊が作った僅かな時間を使って、佐々政次は更に攻め登っていた。しかし、塗輿との距離は縮められない。
「千秋季忠様、討ち死にぃ!」
背後から声が上がる。
「くそっ!」
千秋季忠の呉れた時間を上手く使えなかった自分に憤慨した。周りには今川兵が幾重にも佐々政次隊を囲むように犇めいている。その囲いに隠れるようにして塗輿が遠ざかっていく。
だが、ちょうどその時、佐々政次隊の前方の今川兵が後退した。
(好機!)
佐々政次隊は誘われるように前進する。
(!)
今川の徒歩兵が後退した後ろには弓を構えた兵が並んでいた。
「拙い!退けいっ!!」
佐々政次が後退を命じようとした瞬間、弓兵から無数の矢が放たれた。それは違いなく佐々政次隊に吸い込まれる。佐々政次は身体のあちこちに衝撃を受ける。見れば、幾つもの矢が身体を刺し貫いていた。
「ぐっ!」
血が身体の内部から喉元に駆け上がってくる。足の力が抜け、どっとその場に後ろに倒れた。目をかっと見開き、絶命していた。
主将が討ち取られた佐々政次隊は四方から群がる今川兵に取り囲まれ、抵抗する間もなく全滅した-




