1560年 6月11日 19:00 尾張国/善照寺砦
1560年 6月11日 19:00 尾張国/善照寺砦
織田方 3300人 織田信長・池田恒興・川尻秀隆・佐々成政・金森長親・木下藤吉郎・佐久間信盛・佐久間信辰・柴田勝家・菅笠を被った男
信長(本物)が使い番から善照寺砦にて、今川義元が約2万の兵を率いて、尾張国・沓掛城に到着したとの報告を受けている。
(・・・来たか)
織田信長は心の中で呟いた。駿河国主・今川義元が大高城・鳴海城の後詰のために来襲する事は、1ヵ月前に三河国・吉良の地にて示威行為を働いた時点で判っていた。
(2万・・・か)
織田信長は1万5千と見込んでいた。同盟国である武田家や北条家の援軍も想定していたが、今川義元は総動員可能兵力のぎりぎりまで出してきた。今川義元の本気の度合いが判る。
(儂は少し、今川義元と言う男を甘く見ていたかも知れん)
今川義元の軍師であった太原雪斎が死に、今川家の屋台骨が揺らいでいると織田信長は感じていた。ところが意に反し、今川義元は織田方の大高城・鳴海城の包囲に素早く反応し、持ちうる限りの兵を繰り出して来た。
織田信長は今川義元への評価を改め、かつ、今川義元に対し畏怖に近いものを感じ始めていた。
「遂に来ましたな」
織田信長の傍で男の声がした。張り詰めた様子もなく、さりとて浮かれた風もない声だった。織田信長は訝し気に振り向く。見慣れぬ男だった。菅笠を被り、凛としていた。確か、織田信長と乳兄弟である池田恒興が、天候を見るに長けているという触れ込みで同道を許した男だと思い出す。
池田恒興は何食わぬ顔で正面を見つめている。
他の近習が織田信長と親しく声を交わしているを見ても、佐久間信盛の心は落ち着かなかった。
織田信長がこの善照寺砦に来てから二月余・・・清洲城には影武者を立て、謂わば重臣や諸将の目を欺いてこの場に居る。もしバレた場合、善照寺砦の建前上の責任者である佐久間信盛が何も知らなかったでは済まされまい。
全く織田信長の遣る事にはいつも冷や冷やさせられるものだと佐久間信盛は思った。
元々、織田信長が弟であった織田信行と争った時、佐久間一族は織田信行に付く事で決していたのだ。ところが織田信行は反旗を翻したものの、思った以上に版図は浸透せず、佐久間信盛の所領も織田信行の勢力範囲から取り残される事と相成った。一族の中にはすわ織田信長麾下の諸将を倒して版図を広げよと主張する者も居たが、佐久間信盛を含め、年長の佐久間盛重や佐久間信盛の弟・佐久間信辰は織田信長に付いた。織田家の重臣達(林秀貞・林通具・柴田勝家)は織田信長の弟・織田信行を担いだが、家中の者は織田信長様の勢いを肌で感じ取っていたのだ。現に、兵数では織田家の重臣達が付く織田信行方は1700になったが、その版図は末盛城から西の庄内川までの狭い地域にしか及ばなかった。ただ、織田信長は領地を分断された形となり、麾下には700の兵しか集まらなかった。しかし、それで臆する様な織田信長ではない。すぐ様佐久間盛重に命じ、織田信行領内に砦を築き対抗した。織田信長の余りに早い動きに最後までついて行けなかった織田信行方は、劣勢の織田信長方に吶喊され敗れた。柴田勝家は未だにその時の恐怖を引き摺っているように見える。
消極的ながら勝ち馬に乗った形になった佐久間信盛は、今こうして此度の戦の要衝である善照寺砦の守備を任されているが、とても難しい立場に立たされている。
「はあ」
佐久間信盛は溜め息を吐いた。
「(佐久間)信盛、案じるな」
織田信長は佐久間信盛に此度の仕儀の後ろめたさを感じ取り声を掛ける。
「全て儂の一存。そう申し開きすればよい」
「はっ、は!」
佐久間信盛が畏まる。近習達は儂が優しい声を掛けた事に驚いている。
佐久間信盛には幾つか貸しがあると織田信長は思っている。他の家臣と差をつける気はないが、貸しの分、折れざるを得ぬと。
(それにしても・・・)
佐久間信盛を含めた佐久間一族以外の重臣には胸襟を開く気が起きぬと織田信長は感じていた。。弟・織田信行が反逆した件も含め、反復常ならぬ重臣は信頼するに当たらぬと。此度の今川との戦も、重臣には伏せたまま戦略を詰めていた。今川の大軍が尾張国に入った事により、重臣達は戦々恐々としている。中には今川の調略が入っているやも知れぬ。そんな奴らを引き連れようものならば、寝首を掻かれかねんと。まだ、織田軍は完全に兵農分離が出来ている訳ではない。織田信長の直属軍こそ傭兵中心に構成されているが、家臣クラスになると、まだまだ農兵中心の、織田信長に言わせれば、前代的な構成のままになっている。農兵中心では、出兵は農閑期に限定され、活動時期が制約されてしまう。織田信長は家臣にも傭兵中心の兵改革を推し進めた。しかし、兵の核となる農民は稼ぎ時を奪われると反発があり、家臣と農民の対立となり、延いては織田信長と家臣の不和となり、両者の対立は一時険悪なまでに悪化した。織田信長にしてみれば、合理的な観点から推し進めた政策が家臣によって否定されたのだから、不満となって表面化しても仕方のないところであった。
この戦に際し、織田信長は考えうる限りの準備をしてきた。時には、地元の農民や忍びの意見も取り入れ、実現可能な策略は全て施して来た。物理的な事・心理的な事、全て・・・
手始めが、織田信長が尾張国の守護・斯波氏の一奉行・清洲織田家の家老に過ぎなかった織田弾正忠家を世襲した時、今川家に寝返った者達への粛清であった。鳴海城・桜中村城の山口親子、大高城・水野一族、沓掛城・近藤 景春・・・
山口親子は織田信長の謀略により、猜疑心を持った今川義元に切腹を命じられた。いい気味だと織田信長は内心冷笑した。大高城の水野一族は逐電した。沓掛城は三河国境に近い事もあり、手が出せなかった。結局、その後奪還したのは桜中村城のみで、鳴海城は今川方の重臣・岡部元信を、大高城は朝比奈照勝を、今川義元はすぐ様入れた。そして、此度の戦で沓掛城は今川方に接収された。
織田信長は初め、駿河国主・今川義元を公家の類と見なし、太原雪斎の死後、様々な仕掛けを今川方に施したが、思った以上の戦果を挙げられなかったのだ。
一方で織田信長は尾張国内の統一を急いだ。既に前年の1558年の浮野の戦いで弱体化していた岩倉織田家・織田信賢の居城である岩倉城を攻める。数か月の籠城戦の末、織田信賢を降伏に追いやり、儂は尾張国の過半を統一する。統一と言っても、鳴海城・大高城・沓掛城は今川方の傘下であり、3城を除いた桶狭間地域・知多半島は水野家(織田家の同盟者)の勢力範囲であった。尾張国の東部は未だに境界が確定していない、今も・・・
1559年4月1日、かねてからの戦略通り、織田信長は密かに居城である清洲城を出る。池田恒興・川尻秀隆・佐々成政・金森長親・木下藤吉郎といった僅かな近習を連れての事だ。既に各砦には主たる将を配置していた。織田信長の手足となって動く信頼出来る数少ない武将をだ。
清洲城には影武者を立て、1か月病気のため、臥せっている事とした。影武者を立てた事を家臣に知られないためだ。織田信長が向かった先は善照寺砦。善照寺砦の守将であった佐久間信盛・佐久間信辰は、何の前触れもなく訪れた織田信長に驚いたのは言うまでもない。以後、1560年6月12日に中島砦に移動するまで、善照寺砦は織田信長の索敵地となった。
織田信長は佐久間信盛・佐久間信辰兄弟にも戦略を説明し、協力を仰ぐ。2人は快諾してくれた。
1559年4月2日以降、鳴海城を取り囲むように丹下砦、中嶋砦を、さらに大高城と今川方の連絡を絶つべく、大高城の北に鷲津砦、西にに丸根砦、そして南から南東にかけて氷上砦・向山砦・正光寺砦を築き、両城の糧道を断った。鳴海城・大高城という広範囲エリアでの兵糧攻めである。鳴海城は猛将・岡部元信が入っていた事と海に近い事もあり完全に封鎖した訳ではなかったが、小高い丘陵の上にある大高城には効果覿面であった。守将である朝比奈照勝から連日のように救援要請が駿河国にある今川義元の居館・今川館に届けられた。
大高城の救援要請を受け、今川義元は戦の準備を始める。
手始めに、大高城に鵜殿長照を向かわせ、朝比奈照勝と交代させた。織田信長の目論見通りであった。
善照寺砦に移った織田信長は、更に手を打つ。
その一つが鎌倉往還への手当てだった。元々、鎌倉往還は三河国から尾張国へと通じる主要道であった。だが、山合いにあり、峠も幾つか越えなければならかった。当時開拓などによって海岸線が後退し、桶狭間道が整備されてくると、桶狭間地域の狭隘な土地を縫う桶狭間道に交通がシフトし、次第に鎌倉往還が廃れ始め、織田信長の代になる頃には既にと鎌倉往還を通る人は稀になっていた。まして、千単位の兵が通るのは至難の業となっていた。とは言え、全く通れなくなった訳ではない。今川方が強行して鎌倉往還を押し渡れば、織田信長は今川方に二方面で対応せなければならなくなり、清洲城に逼塞するか、善照寺砦で退路を断たれてしまう。背後を突かれれば、大人しくしている鳴海城の岡部元信も動くやも知れぬ。それはどうしても避けねばならなかった。
織田信長は万一にも備えなければならぬ。そして戦時には、織田信長も鎌倉往還の一部(沓掛峠以西)から桶狭間道に通じる道を使う事を考えていたため、鎌倉往還の通行の確保は必須だった。鎌倉往還の沓掛峠に砦を築き、峠以東の道に細工を施す。即ち、落とし穴を作ったり、道の両端の崖を崩し、道の両側に伏兵を配置した。今川方が鎌倉往還を強行突破しようとすれば、それなりの出血を強い、簡単には通行出来ないようにした。今川方が鎌倉往還を通るのを防げないにしても、一定の時間稼ぎさえ出来ればよしとした。
これから梅雨の真っ只中に入る。この時期は天候が不安定で大雨が降るケースもある。
菅笠を被った男の献策(殆どの場合、[池田]恒興を通してだが)もあり、今川方が陣を張ると想定される場所、即ち、田楽坪とその周辺に連なる大池・地蔵池の土手を破壊し、雨水の流失を促すように施す。
中島砦は強化した。元々手越川と扇川の合流する中州に作られた砦のため、出水の度、砦は流された。そのため、近くの丘陵から木を伐り出し、材木に加工し、砦の壁や柱、床を補強した。中州を土で固め砦を広げ、2500人が入れる程の規模とした。織田信長はこの中島砦が最後の肝になるという予感があった。
この時点では、今川本隊が鎌倉往還を通るのか、桶狭間道もしくは大高道を通るのか、もしくは沓掛城に留まるのかは判からなかった。だが、大兵を通すには鎌倉往還は難所が続き、桶狭間道は深田に面していて足場が悪い。大高道は比較的足場がしっかりしており道幅も広く、他道路との接続もよく、大高城救援には近道であったが、鳴海城や中途の中島砦から一番遠く、戦略的に問題がある。
一番の問題は、今川本隊が鎌倉往還に腰を据えて、前備え・中備えが攻勢に出る事である。これでは織田方は今川本隊に手が出せない。桶狭間の地形を利用するには、どうしても今川本隊を桶狭間に誘き出す必要があった。
少なくとも桶狭間道に今川方は一隊を派遣するのは間違いなく、工兵隊や近隣の農民を使い、桶狭間道に土砂崩れや足場を悪くするため、山肌に抉ったり、道に川から水を引き入れたりした。
1560年5月29日、吉良の地への侵攻は織田信長の最後の総仕上げと言える。
策を施し、大高城・鳴海城を砦で包囲し、今川義元に後詰という大義名分を与えた。
この上で吉良の地(三河国)に形ばかりとは言え侵攻すれば、三河国の領国化を果たした今川義元も黙っていなかった。一週間も経たぬ6月5日には駿府の今川館を出立、遠江国・三河国と西上し、尾張国の沓掛城に至る。この後起こる桶狭間の戦いは、織田信長が仕掛けた戦争だった。
「よいか、(柴田)勝家。この戦いの趨勢をそちに懸かっている」
善照寺砦で織田信長は勝家に声を掛ける。
「はっ!」
首を垂れた男は顔の半分が髭に覆われていた。無骨な面構えだが、織田信長を畏怖している。目線を合わせる事はない。先の尾張国の内乱時に、織田信長の弟・織田信行を担ぎ、一旦は織田信長に反逆したが、織田信長の直属軍との戦いに完敗し、それ以降は織田信長に忠誠を誓っていた。性格に難はあるが、柴田勝家の武力には織田信長も一目置いている。此度も決戦勢力として、桶狭間に柴田勝家隊を埋伏せんとしていた。
「(柴田)勝家、復唱せよ」
全ての準備を整え、出立を待つ柴田勝家に織田信長は命ずる。柴田勝家ははっと織田信長を見る。その表情に緊張が走っている。
元々織田信長は口数が少なく、冗長な物言いを嫌う。それに自分で言うのもあれだが、短気だ。碌な受け答えをせぬ者は容赦なく打擲した。
柴田勝家は頭を巡らし、慎重に答える。
「ひ・・・一つ目は桶狭間道に進み、今川本隊の退き口を塞ぐこと。二つ目は義元本陣への横撃。最期に三つ目・・・・・」
織田信長は口髭をいじりながら柴田勝家の言葉を反芻していた。この問答は柴田勝家と何度も繰り返して来た。それほど重要な事なのだ。此度の戦の趨勢を左右する。
「・・・良かろう」
織田信長がぼそりと言う。
勝家は漸く安堵の息を漏らす。