1560年 6月12日 3:30 尾張国/善照寺砦
1560年 6月12日 3:30 尾張国/善照寺砦
織田方 3600人
善照寺砦への道程は足取りが重かった。正光寺砦を追われるように退去し、共闘を持ち掛けた丸根砦からは矢を射掛けられ、隣接するも鷲津砦も体よく入城を断られた。傍らを見れば、熱田神宮の大宮司でもある千秋季忠が前を向いてしっかりとした足取りだ。
(強いお人だ)
本来、このような血生臭い場所に居なくてもいいお方だと佐々政次は思った。余程織田信長に心酔しておられるのか、自ら最前線の守備を買ったとも噂されている。佐々政次もそこまでの矜持があれば、こんな惨めな思いもしなくて済んだのであろうかと考えた。
「(佐々)政次殿、見えて来ましたぞ」
千秋季忠が前を指差す。目の前には数ヶ月振りに見る善照寺砦が丘の上に見える。今川方の鳴海城と尾根を隔てた同じ段丘上にあるため、砦の入り口には多くの番兵が配されていた。
「誰か?」
番兵の一人が槍を構えて誰何する。
「熱田神宮の大宮司・千秋季忠。故あって氷上砦を退去し、参上仕った」
千秋季忠の毅然たる態度に圧されたのか、番兵の一人が暫し待て言い置き、通路を駆け上がって行った。
佐々政次と千秋季忠はその場で待つ。5分もせぬうちに先程の番兵が戻って来る。
「お会いになられるそうだ。案内仕る」
佐々政次と千秋季忠は顔を見合わせる。確か守将は佐久間信盛殿だったはずと。佐々政次は自分はともかく大宮司の千秋季忠には失礼ではないかと思った。そんな事を思いながら砦に入り、奥の間に案内された。
佐々政次はその顔を見て驚く。
「と、殿?(織田)信長様!」
絵図面を熱心に見ていた尾張国国主・織田信長が顔を上げ、ニヤリと笑った。
信長の間
織田信長・千秋季忠・佐々政次・池田恒興・川尻秀隆・佐々成政・金森長親・木下藤吉郎・佐久間信盛・佐久間信辰・柴田勝家・菅笠を被った男
そう言えば、千秋季忠と佐々政次とには伝えてなかったなと織田信長は思った。しかし、氷上砦と正光寺砦を守っていた二人がどうして此処にいる?織田信長は不安を覚えた。
「何故か?」
織田信長が問う。
千秋季忠と佐々政次が顔を見合わせる。
「何故、ここにおる?」
織田信長が再び問うた。
佐々政次が何か言おうとしたが、千秋季忠が制す。
「敵前逃亡しました。どうかご処分を」
佐々政次は驚いたように千秋季忠を見る。
「・・・・・」
織田信長が千秋季忠と政次をゆっくりと根目回す。政次は生きた心地がしなかった。
「続けろ」
「(織田)信長様。水野信元の裏切りでございます」
「!」
千秋季忠は簡潔に事実を述べる。要であった向山砦の水野信元が突如撤退し、氷上砦と正光寺砦の連携が取りなくなり、砦を撤退した事、鷲津砦に共闘を願い出たが素気無く断られた事。織田信長は千秋季忠が言い終わるまで静かに聞いていた。
「・・・であるか」
聞き終えた織田信長は静かに頷いた。
その場に居合わせたのは、信長が心から信を置く者ばかりだった。それ故、大高城包囲網が崩れた事が、信長の戦略を破綻しかねない事にも気つき、動揺した。それぞれに顔を見合わせ、小声で不安そうに囁き合う。
「静まれ!」
織田信長が一喝すると、誰もが口を閉ざし、次の言葉を待つ。織田信長自身、内心では頭を抱えてのたうち回りたいほどの絶望が頭を巡っていた。だが、ここで弱気になれば織田方は自壊してしまうのも判かっていた。
「大高城の全ての砦が落ちた訳ではない。」
織田信長は顔を上げる。
「我ら目指しているものは変わっておらぬ。唯々、義元本陣への突撃じゃ」
織田信長は自らを鼓舞するように声を上げる。
「そうじゃそうじゃ、(織田)信長様の言う通り」
追随するように木下藤吉郎が濁声を発する。
(全く、調子のよい奴じゃ)
織田信長は思わず破顔していた。
「お願い申し上げるっ!どうか我らに雪辱の場を!!」
場を弁えぬように佐々政次が場を弁えず大声を上げる。千秋季忠が制するように佐々政次の手を掴むが振り解いた。千秋季忠の目は佐々政次を非難していた。折角、敵前逃亡を有耶無耶に出来たものを、と。
しかし佐々政次の心は収まらなかった。今からでも水野家の居城である緒川城に乗り込み、信元のそっ首を掻き落とさなければ、気が済まぬ程に。それに・・・佐々政次は知っていた。織田信長は執念深い。いずれ我らの敵前逃亡を咎める、と。それまでに少しでも名誉挽回しておかねば、織田家で我らの立場はなくなるとの一心だった。
だが、織田信長を佐々政次を一瞥しただけだった。
織田信長は怒りを露わにしていた。彼が何よりも許せぬ事がある。一つが自分の命令を聞かぬ輩、もう一つが場を読めぬ輩・・・佐々政次はどちらにも当てはまると。
(くっ、刀を奥に置いて来たか。持っていればこやつのそっ首を落としていたものを)
「(織田)信長様!」
織田信長は眉間に皺を寄せた。木下藤吉郎が織田信長の逆鱗に気づき、あわあわと目を泳がせている。他の近習達も怖じ気づいていた。織田信長は足蹴にしようともしたが、身を呈するように千秋季忠が立ちはだかる。織田信長は千秋季忠の目を見た。死を覚悟した目だった。佐々政次の激情とは違い、心の中に強い意志を秘めていた。織田信長は自分には出来ない所作だと思った。それを感じ、此処は目を瞑ろうとした。
「・・・別命あるまで待て」
佐々政次が更に言い募ろうとしたが、千秋季忠が制した。
「ありがたき幸せ。お待ちしております」
そう言うなり、佐々政次を引き摺るようにして下がらせた。言い争う二人が遠ざかるのを横目に、織田信長は再び思考に没頭する。その中で気づいてしまった。
(ちっ、熱田神宮の大宮司殿に言質を取られてしまったではないか)
だが織田信長の心には怒りはなく、上手く立ち回った千秋季忠の機転に苦笑するしかなかった。




