sleeping
『眠り屋 どのような夢でもご相談ください 矢島』
他人の夢へと入ることができる矢島は、『夢』に悩まされている依頼人に寄り添いながら、依頼人がその夢から解放されるように、原因を探り解決に導く。
それはいわゆる『夢』に関する探偵のような仕事。
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眠り姫のゆくえ
私は今、一枚のメモを前にし、ああどうしようと、空を仰いでいる。
学校帰りに買い物をしてきてと、お母さんに頼まれたもの。それはいつも、私を困らせる物ばかりだった。
メモにはカレーライスを作る、定番な材料。
『豚肉 100グラム、ジャガイモ、ニンジン、玉ねぎ、カレールー』
「困ったなあ」
私は深く、ため息をついた。この中で手に入る物は、と。
「……カレールーぐらい、か」
そして、毎回手に入らなかった言い訳を、考える。
お金がないというわけではない。
品薄というわけでもない。
野菜、お肉、乳製品、etc……
それら生鮮食品と呼ばれるものが、もうこの世に存在しないのだ。
かろうじてスーパーに並ぶのは、無機質な缶詰やレトルト食品のみ。賞味期限が過ぎていようが、片っ端から手に入れる。背に腹はかえられない。
「せめてレトルトカレーがスーパーに残っているといいんだけど……ってか、白米はどうすんの⁉︎」
頭の中を真っ白にして、私はメモを握りしめたまま一人、公園のベンチに腰掛けた。そうこうしているうちに、夕焼けが近づいてきて、辺りをオレンジに染め上げていく。
「商店街のスーパーは空っぽだから、駅前の方に行ってみるかな」
そのままそこでぼうっとしていると、私の今までの短い人生が、走馬灯のように、夕焼け空に虚しく浮かんでは消えていく。
「私ってば今、何歳なんだっけ……」
中学校は卒業できなかった。けれど、卒業できていたとしたら、今は高校生なんだとは思う。
高2か、高3くらい。
「受験生だったりして」
そして私は、お母さんを心配させないようにと、毎朝ちゃんと家を出て高校に行くふりをする。
ガッコウの間、借り放題な図書館で本を読んだり、読み放題な本屋で本を読み、適当に時間を潰してから、帰宅するのだ。
もう何ヶ月も何年も、そんな生活を繰り返している。
「はあーあ。レトルト、あるかなあ」
そして今日も一日。
「また、……売り切れだったってことにしよ」
そうやって、生きていく。
根っこが生えてしまったように重い腰を上げ、私はどうにかして立ち上がると、公園から出て駅前のスーパーへの道を、とぼとぼと歩き始めた。
スーパーに到着する。
私は、大通り側へと傾き倒れている、大きなスーパーの看板をよいしょとまたぐと、ガラスがバリバリに割れてそこら中に破片が散っているエントランスへと、慎重に入っていった。
誰もいない店内。レジはいつも素通りで、買い物というよりは、窃盗か。
けれど、それは店員さんとか警察がいれば、の話だ。
あれは私が十五歳になる年のことだった。一年に一度しか咲くことのない満開の桜の花びらの全てを吹き飛ばして、それは落ちた。
巨大な隕石。
その日から、私はお母さんと、この世界で二人きりとなる。
父は、私がまだ幼かった頃にお母さんとは離婚していて、どこで何をしているかわからない。だからこの隕石の落下によって亡くなったとしても、その真実はわからないし、知る手段もない。
けれど、もしそうであっても、父の亡骸は見つけられないだろう。
それがなぜなのか理由は全くわからないが、全ての建物が全壊を免れているというのに(ところどころは壊れている)、他の人間や動物たちは全て、イリュージョンのように消えてしまっているからだ。
ここで、疑問。
では、吹っ飛んでしまった他の人間や動物たちの、屍体はどこへ?
街中のどこを探しても、生命もしくは生命だった痕跡に、まるで巡り合わない。
全てが矛盾に満ちていて、この世界は私が見ている夢か、妄想なのだろうかと思うほどで。
けれど、もっと言うとさらに不思議なことがある。
テレビなどの電化製品が使えるということは、電気設備に異常はないようだし、上下水道も普通に使えていて、なんら問題はないのだ。
なぜ?
隕石によって、破壊された世界であるはずなのに、私たち母娘だけが生き延びる手段を保っているのは、なぜなのだろう?
夢だろうか? こんなおかしなことがあるのだろうか? それは一体どうしてなのだろうか?
どんなに考えても考えてもその理由が分からない。
──二人だけが生き延びるなんて、あり得ないというのに。
ただ。
お母さんはそんな現実を受け入れられなかったのだろう。
「ええ? ジャガイモ売り切れですか? せっかく今夜はシチューにしようと思っていたのにねえ、美夕。それで店員さん、ジャガイモはいつ入荷するんですか?」
ぞっとしてしまった。
「お母さん、誰と話しているの? ねえ、そのレジ、誰もいないよ?」
「なにを言ってるの、美夕。店員さんに失礼じゃない。ごめんなさいね、娘が変なこと言って。ほら、美夕も謝りなさい」
無人のレジに向かって延々と話し続ける、お母さん。
そして。
「こんにちはー、ようやく晴れたわねえ。奥さんのところも、これでやっと布団が干せるわね」
今度は、誰もいない隣近所の門やベランダに、声をかけて回る。
おかしくなってしまったのかもしれない。狂ってしまったのかもしれない。この信じられない狂気の世界で、現実逃避をしたいのかもしれない。
私とお母さん。この世界に二人ぼっち。
正気なのは私だけ。私だけは何があっても正気でいないといけない。
私がお母さんを守らなくては。
お母さんと一緒に生き延びなければ。
誰にも頼れない。だから、私がお母さんを守っていく。
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「……と、このような夢の内容です。矛盾だらけではありますが、これでも彼女なりの筋は通っているんです。ご理解はいただけましたでしょうか?」
白い壁、白い天井、何もかも白一色のこの部屋。
ある病院の一室で、『眠り屋』を営む僕は、いつもの依頼よりも、慎重に言葉を選んでいた。
二週間ほど前のことだった。
僕の営む『眠り屋』のドアを、事前のアポなしで叩いたのは、一人の女性だった。
歳は、四十の後半。ぽつぽつと出始めている白髪はそのままにし、まったく手を入れていないようだ。老けて見えるのは、この憔悴しきった表情が原因であろう。
背中は丸くしなり、唇の口角は下がり、毎日のように泣き腫らしてきたのだろうか、その目蓋は重く、閉じかけている。
何がこの人を。
このような抜け殻にしてしまったのか。
ぽつ。
ぽつ。
外で雨音が始まった。
差し出したアールグレイの紅茶とチョコレート。
女性は紅茶にも手をつけず、訥々と、依頼内容を話し始めた。
それは僕が、その依頼内容に恐れをなし、最初こそは強く強く断った、初めての依頼でもあった。
そして、この真っ白に塗り潰された病室で、僕は、今回の依頼主である女性、水野 明子さんのお嬢さんと対峙している。
美夕さんという。
中学からの帰り道、車の事故に遭い、それ以来、二年。この病院で眠り続けているのだという。
「美夕、」
美夕さんのお母さんは、その生を確かめるように、美夕さんの頬をそっと撫でている。
単なる愛おしさを通り越した、深い慈愛。その揺るぎない愛情に、僕はここへきて、何度も押しつぶされそうになっていた。
「水野さん、」
僕は普段から掛けている丸眼鏡を少しだけ直してから、そっと声をかけた。
「美夕さんは、そんな隕石落下後の誰もいない世界で、必死になって、お母さんを守ろうとしています」
お母さんは、涙をはらはらと零しながら、美夕さんの髪を撫でた。
「私を、守ってくれているの? あなたを、守れなかった私なのに。美夕、美夕……」
涙が次々と溢れ落ちていく。
とめどなく。
梅雨の季節の、雨のように。
僕は心の中で、深くため息をついた。
人生はいつも、衝撃的なまでに、いつかの時点で転換する。
その転換点は、急にその眼前に現れ、人々を翻弄するのだ。
軽い怪我ですむ時もあり、一生の傷を負う時もある。
僕は、『眠り屋』の依頼を受ける時、いつも思うことがある。
その転換点はいったい、誰によって為されるのだろうか?
最愛の娘を見つめる、母親の眼差し。
涙に縁取られてはいるけれど、美しい、という一言に尽きる。