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言の葉~言霊と人間の合間で~  作者: 蒼島光太郎
3/3

第三回 「恩師(前編)」

 夏休みはまだまだ終わらない。既に二週間、学生たちの間では、いよいよ公式戦や大会も始まりが近いとか、色々と言われ始めている。さらに、もう少しで夏の甲子園大会が開幕する。今年も数多くのチームが、現れては消えていくだろう。誰もが涙を流しながら…


 私立愛野が丘高校。実力主義性がとられている、信越の名門校である。ここに、ある一人の少年生徒がいた。

 養母田智。愛野が丘高校に通う二年生だ。校内で天才と呼ばれ、多くの教師、生徒陣に慕われている彼は、夏休みだというのに、全く休みがない。彼は今、校内において勉強で苦しんでいる他の生徒に勉強を指導する、という仕事をしている。学校側からの要請で行っているのだが、お陰さまで彼の夏休みの中で、ここまでどこかに出かけたりすると言った、夏休みらしいことは一切していない。ただ、彼は夏期課題が免除されており、勉強は自分でやるように、ということになっている。と言っても、どのみち予備校の勉強合宿に行ったりしなければならないため、夏休みが忙しいことに変わりはないのだが。

 今や、校内で自分に勝る者はいない養母田。しかし、そんな彼にも、やはりライバルは存在する。しかし、それは宣彦のことでは無い。彼にとってのライバルは、学校の外に居た。

 ある日、彼が生徒たちへの指導を終え、下校している途中の事だった。

「…おやーっ?養母田くんじゃあないかあ」

 チッ…!養母田は小さく舌打ちした。どこかで聞き覚えがある、この声。この嫌味たらしい喋り方…。

 彼はそれを無視して過ぎ去ろうとする。しかし、それを見た少年は、しつこく養母田につきまとう。

「…ちょっとちょっと、せっかく会ったんだからさ、なんか一言くらい言ってよ。せっかく楽しい話をしてあげようと思ったのにーっ」

 これに苛立つ養母田。それでも放っておこうとしたが、その少年はあまりにもしつこく養母田に付きまとってくるので、ついに養母田も口を開いた。

「…さっきからブツブツと…。俺は一日バカ共に指導したので疲れているんだ。鬱陶しいから、一々俺に構ってくるな」

 養母田は力強い口調で少年を突き放す。しかし少年は、まとわりつくかのように養母田に絡んでくる。それも、さっきより罵倒するような口調で。

「はあ…。ホント、キミって冷たいんだよねぇ、そういうトコ。なんか、『養母田くんはホントにすごい!こんな賢い子は世の中にはいないよ!』とか言われているらしいけど、やっぱり人柄、学力、身体能力…。どれを取ってもさ、キミなんかより、すべてが完璧なこのボクの方が圧倒的に上だってことにはかわりはないんだよねぇ…。ボクさ、キミみたいに冷たくないし、周りからも信頼されてるし、それに何と言っても、この世の誰よりも賢いんだから。キミって、ボクに勝ってるところとか、あったっけーっ?」

「人であって、人でないヤツが何を言う。人間性が無い、ただの人形だってのに!」

「…ん?今何て言ったのかなぁ?全然聞こえないからもう一回言ってみなよっ」

「だからっ…」

 すると、少年は突然前に出て、小さい体をぐっと養母田の目の前に差し出した。そして、背伸びして養母田の顔の前に詰め寄り、息を吐いてこう言い放つ。

「キミってさ、ホントつまらないんだよねーっ…。そんなどうでもいいこと、普通は言わないよ。実際さ、ボクの方がスゴイことには変わりないんだしさぁ…」

 養母田は口を固く閉ざし、そのままその場を去ろうとする。だが、少年は、養母田にこれでもか、と言うほど食い下がる。

「あっ!そうやってまた逃げるのかい?キミってさぁ、ホント弱弱しいよねぇ。つまらない男だってのは知ってたけど、まさか臆病者でもあったなんてねえっ…!終わってるよ、キミ。まあ、所詮愛野が丘の天才生徒とか、たかだか底が知れてるんだよね。弱小の中堅校のくせに、何を調子乗ってるのか知らないけどさ…」

 ガシッ…!ついに堪忍袋の緒が切れた養母田は、少年の襟首をつかみ、これまで見たことが無いようなすごい表情で、少年を睨みつけた。

「雨宮光夫…。さすがは名門、埴原大附属高校で最も優れた天才だな。相手に対してそこまで容赦なく罵倒できるとは…。確かに、何においてもナンバーワン…。畏れ入ったな。しかし、お前は自分が人格者だと、本気で思っているのか?人の振りをした人形如きが」

「…さっきからボクの事を人形、人形って…!君だって勉強しかできない人形のくせにっ!」

「…人形ね…。確かにそうかもしれんが、果たしてお前ほど人形か?少なくとも、お前よりは人に近いんじゃないのかと思うがな!」

「こいつッ…!」

 雨宮光夫は、今にも殴りかかりそうな勢いで養母田に迫る。しかし、そんな自分が恥ずかしくなったのだろう。雨宮はすっと身を引いた。

「ああ、ダメダメ…っ。感情的になって手を出してしまうところだったよ。こんな恥ずかしいことできないからね。まあ、またどこかで会おうじゃないか。せいぜい、ちょっとでもボクに追いつけるよう、頑張りたまえっ」

 雨宮は、さっさとその場を去っていった。半ば敗れたも同然だというのに、まるで自分が勝ち誇ったかのようにしている。このプライドの高さは、生れついたものなのか何なのだろうか…。

「アイツ…。一体何なんだ…?」

 養母田は、なぜかその場で呆然としていた。


 帰宅後、私用の電話機に留守電が入っていた。養母田は未だに携帯電話を持っておらず、両親に買ってもらった電話機で普段会話をしている。とはいっても、連絡するのは学校の人間と業務連絡をする程度なので、使用することは少ない。そんな彼に送られたメッセージは、どうやらつい数分前くらいに入っていたようだ。

「珍しいな。誰だ?こんな時間に」

 と言い、留守番のボタンを押し、メッセージを再生する。そこには、彼にとっては懐かしい人物の声が入っていた。

『8ガツ2ニチ、ゴゴ6ジ24フンデス…』ピーッ…

 …やぁ、智。元気にしているか?俺だ。お前と話をしようと思っていたのだが…。ちょっと残念だったな。それにしても、お前と最後に会ったのは、まだお前がチビだった頃だったか。今や、お前も高校生だもんな。時の流れは早いもので、俺も年を取ってしまった。時が過ぎるのは、本当に恐ろしいもんだな。それで、実はお前に親い友人から、お前の家の電話番号を教えてもらって、それで、こうして電話を掛けさせてもらっているわけだ。だが、お前だって忙しいだろうに…。そんな時に突然の事ですまなかったな。で、それなのにこんなことを言うのは難だが、折角の夏休みだ、大きく成長したお前の顔がぜひ見たい。いつか、何とか会うことはできないか?もし、またここに帰ってこられるようなら、ぜひ俺のところにもまた来てくれ。お前の成長したとこが見られるのを、楽しみに待ってるからな。じゃあ、また連絡させてもらう…

 ピーッ…

 それは、養母田の小さい頃の恩師の声だった。これを聞いた養母田は、あの時、雨宮と余計な言い合いをしていたことを強く悔やんだ。

「…先生…。チッ、雨宮め、余計なことを…」

 雨宮に苛立ちながらも、養母田はこの事を喜んだ。小さい頃は、何度もお世話になったという。そんな恩師に会うことができるというので、つい舞い上がっていた養母田。すると、また電話が掛かってきた。最近、やたらと電話になったのだが、相手は大体同級生で、分からない問題を教えてくれ、というものだった。これに、電話上で教えるので、通信講座の先生とよく間違われるのだとか。しかし、恩師との再開を喜び、それ以外は邪魔だと思った養母田は、仕方なく受話器を上げる。彼は、向こうが話してくるまで、基本的に喋らない。…どうやら、今回も向こうから来たようだ。

『…あ、もしもし養母田くん?あのさぁ、分からない問題があるんだけど…』

「…忙しいんだ。問題の一つや二つ、自分で考えて解いてくれ」

 いつもより冷たく、受話器を下ろした。いつもより、喋っている感じは無愛想だった。恩師との再会に比べれば、どうでも良いことなのかもしれない。それから、彼は再び受話器を上げて、恩師に電話を掛ける。…しかし、コール音が鳴るだけで、いつまでも電話に出てくれない。昔から自由奔放で、好き勝手な性格だったというが、電話にはすぐ出てくれた。しかし、どうやら電話までのらりくらりとした態度で臨んでいるように感じてくる。

 そして、11コール目…

『…ツーツー…はい、愛甲だが…』

「…愛甲先生、お久し振りです。あの引っ越しの時以来ですね」

 普段、目上の人間に対しても、突き放すような口調で話す養母田だが、この愛甲先生に対しては、珍しく敬語だった。それだけ、恩師への感謝に溢れているのだろうか。

『おお、智か!さては、メッセージを聞いてくれていたみたいだな。いや、お前も忙しいだろうに、すまなかったな』

「いえ、つまらないことでしたから。こちらこそ、せっかく自分を心配して電話してくださったというのに、申し訳ありません」

『いやいや、お前の大切な時間を潰してしまうような事だからな。むしろ、こっちの方が謝りたい』

「構いませんよ。それにしても、わざわざ、こっちに電話してくれるだなんて」

『いや、うまいこと連絡が取れそうだったのでな。何とか話ができたのでよかったよ』

「いえいえ、とんでもありませんよ。ところで先生。次にそちらに伺わせていただく時期なんですが…明明後日、というのはいかがでしょうか?」

『ふむ…良かろう。5日だな。それで、ちゃんとルートは知ってるか?』 

「ええ。父がよく教えてくれていましたからね」

『なるほど、英樹くんが教えてくれたのか。彼は、昔からそういうのが好きだったからな』

「そうでしたね。昔はよく、父に村々を連れていってもらってましたね」

『ああ。思い出すだけで懐かしいものだ。よく、あの公園に行って、あそこにいる子どもたちに叩かれたり、色々あったな』

「彼らは今何を…」

『社会人で野球を続けているらしい。ただ、最近は伸び悩んでいるとかいないとか。そんなこと言われてたな』

「そうですか…。彼らも、少しは成長したのかもしれませんね…」

 そうして、養母田と愛甲は、互いに昔話に花を咲かせた。それから数十分…

『…おっと。つい、昔話に盛り上がりすぎたか。それで、本当に行き方は大丈夫だな?』

「はい。では、5日のお昼頃にお伺いするということでよろしいですか」

『ああ。それでいいよ。しかし、英樹くんに許可を取らんでも良いのか?あの母親は、お前が別にどこに行こうがどうでも良いのだろうが、彼は心配性だからな。きちんと許可を取った方が良いのではないか?』

「…そうですね。分かりました。では、父から返事が来たらまた連絡しなおします」

『分かった。じゃあ、楽しみに待ってるからな』

 …養母田は、愛甲との会話が終わると、すぐさま父、養母田英樹に連絡した。英樹は大手IT企業に勤めており、社内では重役を務めている。ただ、彼の職場は東京にあるため、家に帰ってくることは滅多に無い。そんな日々に、彼自身はやきもきしているのだが、妻である愛海は、それに関してあまり気に留めていない。何せ、最近は家に居ないことが多いのだ。

「…父さんか?」

『智!お前が電話してくるとは珍しいなっ!』

「まあ、連絡することは少ないだろうね。それで…」

 養母田は、愛甲の実家に出向く用件を伝えようとした。すると、英樹はそれを遮るかのように、別の話題を振った。

『ああ、実はな、今日家に帰れるようになったんだ!まあ、明後日には東京に戻らなきゃならんのだけどな…』

「…本当なのか?父さん、家に帰って来られるんだ…!」

 いつもの無愛想な養母田の顔から、笑顔が生まれた。普段はなかなかお目にかかれるものではない。きっと、父親を尊敬しているからこそなのだろう。自然と、口調が柔らかくなっているのも、その証拠ではないか。

『そうなんだ。まあ、もうすぐ家に帰るから、もうちょっと待っていてくれよな』

「…ああ、うん。準備して待ってるよ」

 子どもは、自分に愛情を注いでくれたものを慕うもの。小さい頃はただ「ありがとう」としか言えないものだが、その子どもはやがて成長し、自分を愛してくれた者に恩を返そうと思うようになる。口調の変化と言うものも、自分にとって信頼できる人物や、腹の内を明かせる者ならば、自然と柔らかくなるもの。養母田智が、愛甲や父の英樹に柔らかい口調に変化するのは、きっとそう言うことなのかもしれない。

 智は、大事なことを伝えることはできなかったが、とりあえずそれは帰って来てから話すことにして、父の帰宅準備を進める。とはいっても、流石に料理はできないので、家の中を整理するぐらいはする。すると…。

「ただいま!智!元気してるか!」

 という、英樹の声が聞こえてきた。勇ましい、大人の男性の声。智は、冷静ではあったが、普段より柔らかい表情で出迎えた。

「…父さん、おかえり。待ってたよ」

 そんな智に、英樹はさっきより落ち着いた口調で返した。

「…ああ。長い間待たせてごめんな。ただいま」


「そう言えば、また母さんはいないな。一体どうしたんだ?」

「いや…、すまない、分からないんだ。『しばらく家には帰れないから』とは言ってたけどね」

「そうか…。せっかく会いたかったのにな…」

 英樹の声が曇った。智との再会への喜びもあったのだが、やはり、愛妻と会えないのは、彼にとって辛いものがあったようだ。それほど愛海の事を愛しているのだろう。

「…じゃあ、仕方ないか。智、お前流石に料理はできないだろう。今日は俺が特製チャーハンをご馳走してやるよ!」

「えっ、父さん、料理できるのか?」

「おいおい、母さんしか料理ができないと思ってたのか?…まあ、今まで俺が料理したところを見たことが無いだろうからしょうがないけど、こう見えて、俺の料理は美味いんだぜ」

 智は半信半疑だった。実際、英樹が料理しているところを、過去に一度も見た事が無い。いつもは母が料理をしているのだが、このように、最近は家に居ないことが多いため、家にある冷凍食品などを温めて食べたりすることが多い。ひょっとすると、今の自分なら、父親の作る料理も美味しいと感じるかもしれない。

「そうなのか。じゃあ、ぜひ食べてみたいな」

「よし、分かった。メシはどうなってる?自炊はさすがにしてないか?」

「いや、してるよ。父さんの事だし、何か買ってくると思ってたから、おかずを美味しく食べられるように、ちゃんと準備しておいたさ」

「さすが、お前も大きくなってきたんだな。よし、待ってろ?」

 いくらなんでも、子ども扱いしすぎだろ、少しそう感じた智。しかし、もう一年以上家に居なかったから仕方がない。逆に言えば、そうした成長した姿を見せられたので、むしろ良かったのかもしれない。

 自分の息子が成長したことに喜んだ英樹。よく考えれば、前に帰ったときはまだ高校に入学したばかり。まだまだあどけなさが残っていたところもあったので、なおの事、智の成長が嬉しかったのだ。そんな智への質問もとどまることを知らない。料理をしながら質問攻めにする。

「どうだ、学校の方は?父さん、なかなか家に帰れなかったからな…、まあ、お前の事だから、うまいことやっていけてるんだろうけどな」

「ああ。ずっと成績トップだったしね。安定してるよ」

「そうか。よく頑張ってるんだな。でも、毎回トップであり続けるのもダメなんだぜ。人間ってのは、時には二番手に甘んじた方が良い時もある。まあ、手を抜けとは言わないけどな。お前に追いついてくるようなヤツがきっといるはずだ。ソイツと競い合う中になれば、自分を常に高め続けることができる。そういうヤツを作るのも大事だからな」

「追いついてくるような奴、か…」

 智は、とっさにある男の事を思い出した。本来、自分にとってそう感じさせてほしい、ある人物の事を。しかし、あの不甲斐なさはもうどうにもならないのだろうか?智は、それを深く疑問に感じていた。


 その人物、間宮宣彦は、相変わらず何の変化もなかった。と言っても、何という声をかけてあげればいいのか、皆目見当が付かなかった。

「はあ…。何にも無いな、ホントに。つまらない。夏休みなんて、別に無くても良いのに。長い間の休みとは言いつつも、結局宿題があるじゃないか。何が夏休みだ、くそっ」

 宣彦は何も変わっていない。常に自分に逃げ続ける。別に、何のために勉強をしているのかも無い。ただただ、やらなきゃならないから惰性でやってるだけ。もしかすると、今までもそんな気持ちでやってきたのかもしれない。そうは信じたくないものだが、彼の場合、そう言うこともあるかもしれない。それで中学時代にあの成績を残せたのだから、流石と言うものだ。

「…何なんだろうなあ、僕って」

 周りはある程度何かをしたいと思って夏休みを過ごす人は多いだろうが、彼はそう言ったことも無い。結局、自分は何のために今までやってきたのか、そもそも何のために生きているのか…。そんな疑問に駆られていた。


「…ところで、今日珍しくお前から電話をかけてきたけど、何かあったのか?」

「…ああ、そうだった」

 宣彦の事を考えていた智。何だかんだで、彼の事が気がかりなのだ。だが、それを考えすぎて、大事なことを忘れていた。

「実は、愛甲先生から連絡があったんだ。近々、会いたいって」

「えっ、愛甲先生から!?それは本当か!?」

 料理をしていた英樹の手が止まる。英樹にとっても、愛甲は大切な人物だ。それだけ、その名前を聞いた英樹の反応は大きかった。

「それで、いつだ?いつなら会えるって!?」

「…あっ、すまん、実は明々後日にしたんだ。明日明後日は忙しいから…」

「そうか…。久しぶりに先生とお会いできると思っていたのに…。仕事が無ければ…、くそっ」

 その顔を見た智は、大変申し訳ない気持ちになった。彼自身は、英樹が愛甲ともう一度会いたいということを、以前家に帰ってきた時も言っていた。それだけに、智の心の中に、深い罪悪感が芽生えた。

「…ごめんなさい」

 これまでの養母田智からは想像もできない表情。こんな顔を普段見せることはそうないだろう。英樹自身も、そんな顔を見たのは久しぶりだった。しかし、自分が会いたいから、と言うだけの理由で、自分の息子を悲しませることなどできない。英樹は、先ほどの自分を悔やんだ。

「…良いって良いって!まあ、そういう時もあるからさ。こっちこそ、そういう配慮ができなかったんだ。申し訳ない」

 智は黙り込んだ。父に謝らせてしまった。そんな事をさせてしまった自分に、より罪悪感を感じてしまったようだ。そんな息子に、英樹はこう声をかけた。

「そんな顔するなよ。俺だって生きてりゃ、いつでも先生に会えるって。それに、せっかくの夏休みじゃないか。せっかくの先生からのお誘いなんだ、行って来いよっ。先生の下でたくさん学べば、それが、お前のこれからの人生の糧になるハズだから」

「…分かった。すまん、ありがとう…」

「ほら、そんな辛気臭い顔するなって。もうすぐできるから、食事ができるように準備しておいてくれよっ」

 英樹は、常に明るかった。いつもあんなに忙しいのに…。これが、英樹の周りから認められる理由なのかもしれない。会社で重役に就けるのも、ある意味納得だ。

 そんな彼の作るチャーハンは、男らしいというより、まるで母親のような、優しい味だった。


 翌日、英樹は地元の友人からの誘いで、また家を離れることになった。その間、智は愛甲の下へ赴く準備をする。恐らくは宿泊することになるだろうから、寝間着や歯ブラシ等を忘れずカバンに詰める。また父から、「先生に渡してくれ」と言われた直筆の手紙と、近所の和菓子屋にある饅頭も入れる。あとは、交通費と、ノートと…。よし、これで完了。その時の智の心の中に、愛甲と再会するという、青写真がすでに出来上がっていた。


 旅の前夜、尊敬する恩師との出会いの前に、父と再び別れを告げなけばならない。出会いがあれば別れあり。しかし、英樹の顔はすがすがしかった。

「じゃあな。次帰ってくるのはいつか分からないけど、また元気な顔見せてくれよな」

「分かった。母さんにも、父さんが帰ってきたことを伝えとくよ。あと、手紙と饅頭、忘れずに渡しておくから」

「ああ。頼むぜ。じゃあ、養母田英樹、戦場へ行ってくるぜ」

 広い背中。智の尊敬する父のその姿は、これからまた戦場に戻っていくというのに、とても前向きだった。今の智に、悪いことをしてしまったという意識は薄かった。むしろ、そんな父のために、先生に父の思いをしっかり伝えなければ、と言う使命感を抱かせていた。

 翌早朝、智は、恩師との再会を果たすための旅路に着いたのであった。

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