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第五回 官員批判


   1


 父親の三回忌になると、姉はいそいそと牡丹餅を手作りでこしらえて葦男に持たせた。

 指令。

 ━━これを手土産に、どうにかして宮崎さんをかき口説いてきなさいヨ。大学入試について役立つ話を聞いてきなさい。できたら、無料で勉強を教えてもらえるようにお願いしてきなさい。

 あまり気は進まなかったが、葦男は重い足を引きずって、自分達が住む長屋を経営する大家の宮崎の家に向かった。

「御免なさいまし」

「おお、葦男さん、何だい? すぐお通りナ。今日は一郎も家にいますし、斎藤さんも来ておいでだ」

 と言ったのは、本卦がえり(六十歳)の手前の年ごろで、頭は切下げにした、少し小肉のある気さくそうな婆さん。

 この婆さんは、松島姉弟が借りている長屋の大家である宮崎一郎の母親だった。

 宮崎家にあがった葦男は、同じ部屋にいた宮崎と斎藤に挨拶してから、宮崎の婆さんに向かい、持っていた重箱に袱紗ふくさをかけて差し出した。

「あの今日は亡父の三回忌にあたりますので、寸志の牡丹餅をこしらえました。姉の手づくのでございますから、上手くはございませんでしょうが、どうか召し上ってください」

 三回忌。

 そうでございましたか、と葦男の突然の訪問に婆さんは納得する。

「早いものでございます。斎藤さんは確かお宗旨違い(キリスト教)だったネ。一郎、ご覧なさい。秀子さんの牡丹餅のおいしそうなこと」


   2


「葦男くん」

 宮崎は男から見てもゾクリとする美形だ。

「中学校で頑張っているのかい? 君の勉強の進歩がとても早い、才童の評判がある、と斎藤さんが褒めていたよ」

 ━━斎藤さんが褒めていた━━

 サービス精神が旺盛な齋藤は、その場の空気を盛り上げるべく、わりと適当なことを言うことが多い。

 どこまで齋藤の発言を信じてもよいのか読む側が検討する必要があるが、

 ━━才童の評判がある━━

 という話を私は信じる。

 なぜならば、その直前に

 ━━君の勉強の進歩がとても早い━━

 という台詞があるからだ。

 場を盛り上げるためだけならば、根拠を示す必要はない。

 東京府立中学校に転校してきた葦男の成績が、転校時点では酷いものだったが急に伸びたということは納得できる。

 秀子による葦男に対する学習サポートが始まったのは、転校時点(松島姉弟の父親が死んで官舎を引き払った後)と考えられるからだ。

 本当にこの仏様(松島姉弟の父)も、草葉の影でお喜びでございましょう、と婆さんは言う。

「斎藤さん、お聞きなさい。この子の姉さんが実に感心でございます。

 少しはお父さんのお蓄えもあって、今でも公債の利子が月々八円か九円か入るそうですが、それを減らしてはならないと言って、何でも毛糸編みをして、それで、姉さんがご飯まで炊いて、その上、この子の学資を……」

 みんな秀子のことを褒める。

 葦男の成績は転校当初に比べて急上昇したのは、秀子の学習サポートのおかげだ。

 華やかな上流社会で学問をする楽しみを知った秀子は、再び上流社会に戻るため、葦男を踏み台にしようとしている。

 毎日しつこく踏まれ続ける葦男からすれば、たまったものではない。

 悲鳴。

「おばさん、嘘でございます。そんなことはございません」

 すると、宮崎一郎が怖い顔になった。

 お説教だ。

「葦男さん。お前は(士族の娘である)姉さんが内職をするなどということを、恥とでも思ってお隠しかしらんが、それは恥じることではない。

 自慢していい話だ。人は自分の力で食わなければならない。姉さんなんぞは本当に偉いものだ。僕のうちでは陰でほめている。ねえ、斎藤さん?」

 ━━陰でほめている━━

 それどころではない。

 うちの長屋に感心な娘が住んでいるヨ、と自慢しまくっているのだ。

「実に感心なわけだ」

 と、斎藤が相槌を入れる。

 気分よく婆さんは続ける。

「そればかりではない。自分(秀子)は学校へ通うことができないからと言って、この子(葦男)が帰ってきて、その授業の帳面ノートだけ写させてもらう。

 すると、姉さん(秀子)は器用なたちで覚えがよいから、今ではこの子が逆に教えてもらうくらいになったそうだよ。ねえ、葦男さん?」

 葦男は認めた。

「それは本当でございます。私の忘れたところはみんな姉さんに……」

 宮崎一郎は言う。

「国語学では葦男さんは年に似合わずよく出来るとのことだが、そうしてみれば、姉さんの力かね?」

 はい、と葦男はうなずく。

「亡父が生きておりました頃には、姉は始終下田歌子さんのところへ通学いたしまして、歌などの稽古をしたり、書を読んだりしましたので、一通りは私も姉から教わりました」

 ━━下田歌子さんのところ━━

 桃夭学校。

 当時の女性の文科系の学校としては最高のブランドである。


   3


 宮崎はたずねた。

「英語はどうだネ?」

「第四リーダーと万国史を読んでおります」

 質問に対して葦男が答える。

 知ったかぶりをして横から斎藤は言う。

「それは偉いことだ。才童と言われるのもそのはず。僕は化学の方ばかりだから、まだ葦男さんにはお近づきにならなかった」

 ━━それは偉いことだ━━

 繰り返して言う。

 この発言は信じてはいけない。

 明治時代の中学校の教科書について調べてみた。

 ロングマンの第四読本とグートリッジの万国史は、当時の郁文館の生徒が葦男と同じ学年で教科書として使用している。

 学校で使用している教科書を読んだぐらいで才童と言われるのならば、学校は才童だらけになってしまう。

 葦男はあきれながら、

「さようでございますか。私の方ではよく先生を存じております」

 と言った。


   4


 齋藤に葦男はペースを狂わされてしまい、なかなか宮崎一郎に勉強を教えてくれと頼むきっかけが掴めない。

 すると、助け舟を出すように、婆さんは言った。

「そんなによく出来たら、今にいい官員さんにおなりだろう」

 ━━官員さん━━

 明らかに、秀子から『葦男のことは官員にする』と吹き込まれている。

 この婆さんは秀子に甘い。

 秀子の泣き落としに引っかかって、婆さんは松島姉弟の家賃も格安にしている。

 しかし、今回ばかりは秀子の思い通りにことは運ばなかった。

 唐突に宮崎一郎は官員批判を始めた。

「お母さん、そんなことを子供に言い聞かせると、とんだ間違いの種になります。

 葦男さん、学問は官員になって月給を取るためではない。この社会に利益を与える人になるためにするのだ。

 斎藤くん、今の大学でも政治や法律で卒業する者は、いずれ官員になるのだが、文学や工学で卒業する者に比べて、みんな学問はできないのが多い。そう言うと我田引水のようだな。

 それだから、葦男さんも、官員なんぞという文字は脳中にないようにして、世のためになることをしようとお心がけなさい」

 これには葦男も呆然とするしかない。

 官員批判を語る宮崎一郎に対して『官員になりたいから勉強を教えて欲しい』とお願いするのは難しい。


   5


 宮崎の官員批判。

 官員である山中と篠原浜子との間に妙な噂が流れている。

 篠原浜子の婚約者である篠原勤とは齋藤も宮崎も学生時代から仲が良い。

 友人思いの宮崎くんは篠原くんの気持ちを考えて山中に怒っているのではないか、と齋藤は推察した。

「官員といえば、山中はどうしたろう?

 この節は役所の羽振りがいいとかで、出世もしたそうだ。仕方のない男だが、あんなのが今の世の中に受け入れられやすい。

 あいつのことを化学分析すれば、ゴマカシュム百分の七十、オペッカリュム百分の三十という人物だ」

 誤魔化し七割、おべっか三割。

 後には何も残らない

 山中への悪口に宮崎は喜んだ。

「あれ(山中)で君(齋藤)の三分の二ぐらい月給をとるのだから、官員は名誉にも何にもならない」

 齋藤は山中の話題を引っ張った。

「山中の奴は、この頃はどんなsociety(社交場)にも顔を出して、高等官の仲間にでも入ったように威張っているそうだ」

「あれは篠原子爵と、ことに例の(浜子)が贔屓ひいきして引っ張り廻すから」

 名前は伏せたが、宮崎は篠原浜子のことを口にした。

 頃合いを見て、齋藤は切り込んだ。

「例のと、何だかおかしな話を聞いたが?」

 ━━おかしな話━━

 浜子と山中との噂

「それは決してあるまい」

 宮崎は否定した。

「あっち(山中)が顔のいい上、あんなに跳ねっ返りで、瓜田李下の嫌疑なんぞにかまわないところ(浜子)に近づく。

 それでもって、こっち(浜子)がおかしくべたべたする性格だから、岡焼き(噂好き)が喧しいのさ」

 浜子は山中とおかしな関係になっているはずがない、と述べながら、宮崎はふと不安になった。

「そういえば、君は東京女学校も兼勤だったね? 浜子さんは退校したとか?」

 篠原浜子の近況について、齋藤は知っていることを教えてやる。

「退校した。

 pianoなんかはよくできたが、後のことは様子ほどにはいかないから、来年の卒業もどうかと思っていたくらいだ。退校もよかろう。英語だけは山中がいつも教えに行って、近頃は少しできてきていたということだが」

  

   6


 話しながら斎藤は思う。

 ぎりぎりのラインを宮崎くんは踏み越えている。

 山中批判はかまわないけれども官員という職業を否定するのはよくない。

 将来には官員になるものが、僕の教え子からも出てくるはずであるが、別に師弟の縁を切るつもりはないぞ。

 また、もうすぐ留学から帰ってくる篠原くんも、父親である篠原子爵のツテで、官員になるだろう。

 篠原くんと友達の縁を宮崎くん切るつもりかね?

 山中のことが憎いあまりに宮崎くんは少しおかしくなっている。

 大学の助教にまでもなって、この有様では困るだろう。

 いい嫁さんをもらえば落ち着くのではないか?

 よくできた若い女といえば、近年に僕の知っている範囲では、服部浪子が第一等だ。

 浪子と宮崎を結婚させるアイデアを齋藤は突然に思いついた。

 後は話をどう切り出すか、だ。

「浜子さんは、親父のおかげもあるし、無闇に交際に出かけるから、ちょっと有名になったけれども、末頼もしい生徒はうちの学校(東京高等女学校)にはいないね。

 うちの生徒ではないが、あの服部の(浪子)は、温順で怜悧で生意気がないから感心サ」

 服部浪子。

 すると、宮沢が反応した。

「僕の妹(福子)も同塾でよく毎度世話になりますが、年に似合わず親切には感心します」

 しめしめ、脈ありかもしれぬわい。

 齋藤は喜んだ。


   7


 本当に齋藤は喜んでいいのか?

 服部浪子は、まるで男のように兵書や歴史書を読みふけっていた過去を隠し、温順な女性を演じて良縁を求めている。

 標的は、宮崎一郎。

 若くて真面目で大学の助教授で高給取り。

 持ち家もあって長屋もあって家賃収入もある。

 おそろしく美形。

 宮崎一郎は、自覚していないけれども、浪子に狙われる条件は揃っている。

 浪子が宮崎の妹である福子に対して姉のように親切に世話をしているという話も、感心ばかりしていてはいられない。


   8


 バタフライ効果。

 山中に対する宮崎の反感は、官員という職業自体の批判につながり、まわりまわって宮崎と浪子を結婚させるべく齋藤を奔走させることになった。

 そして、もう一つ別の流れを生み出した。

 葦男が官員になるための勉強を宮崎に手伝ってもらうという秀子のアイデアは水泡に帰した。

 姉さんはどれほど嘆くだろう?

 嘆くだけでなく、また、僕に怒るだろう。

 もっと、必死にお願いすれば何とかなるのではないか、と。

 僕は悪くない。

 一郎さんが本当に官員嫌いなのだから。

 場の話題が、よく知らない女学生(服部浪子)のことに移るに至り、これ以上、宮崎家に長居しても無駄だ、と葦男は判断する。

「さようなら」

 葦男の苦しい心のうちを知ることもなく、婆さんはのんびりした声で言う。

「だしぬけにお帰りか?」

 そして、

「姉さんによろしく」

 その声を背に受けて、葦男は宮崎家を後にした。


   9


 今回の宮崎一郎の暴走のおかげで、葦男は姉のマインドコントロールから抜け出していくことになる。

 その流れは第十一回になるまで出てこない。

 次回(第六回)においては、また、服部浪子が登場する。

 服部浪子と宮崎一郎は良縁であると考えた斎藤は、自分の妹である松子(浪子と同じ跡見塾に在籍している)に根掘り葉掘り聞いてみる。

 松子はてっきり斎藤が浪子に恋情を抱いたと勘違いして、

 ━━いやいや、兄さん、お浪はいけませぬヨ。アレは宮崎さんにホの字でして。

 と諌める。

 そいつは丁度いいワイと内心に斎藤は喜びつつ何食わぬ顔をして、

 ━━お前たちの学校(浪子と松子が在籍する跡見塾)でまた何か面白い話があれば教えてくれ。

 と答えるのみ。

 斎藤には行動力がある。

 すぐ宮崎家に行って「宮崎くんは早急に嫁をもらって落ち着く必要がある」と婆さんを説き伏せた。

 さらには服部家に出向いて「お嬢さんにご良縁がありまして」と面談の約束を取りつけた。


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