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第十二回 紅葉館


   1


 芝公園内の小高い丘に位置する紅葉館は、貴顕富豪が祝宴を開くにあたって東京において最高の場所だった。

 建物の普請も料理も非常に素晴らしい。

 今日は祝いの席ということで、四時過ぎ頃からやってきた馬車と人力車が玄関前に所狭しと並んでいる。

 篠原勤と松島秀子の新婚の祝宴。

 もしも、新夫の父親である篠原通方が生きていれば、鹿鳴館で西洋風のパーティーが開かれたことだろう。

 しかし、西洋風の祝宴に対しては、新夫の母親である篠原の女隠居(篠原通方の妻)が拒否反応を示した。

 また、新婦である秀子もまだ洋風の交際に慣れておらず、親戚友人の多くも洋風の立食パーティーといわれてもわけがわからず、伝統的な和風の結婚式に落ち着いた。

 媒酌人となる宮崎一郎が、

「まことにおめでとうござります」

 と挨拶すると、篠原の女隠居は、

「本当にお陰さまで良い嫁をとりまして。まことに安心致しました」

 と応じた。

 しかし、目元には潤みが見える。

 それも当然か、と宮崎は思い、篠原の女隠居の気持ちを考えて祝辞を多く述べることをせず、そっと離れた。


   2


 篠原勤と松島秀子の結婚。

 夢を持つ秀子は当時の女性にとって最高の格を持つ学校である桃夭学校に戻りたかった。

 そのためには、弟の葦男に高級官員になってもらいたい。

 しかし、「官員などになるな」と妙なことを宮崎から吹き込まれて葦男の心が揺れる。

 困ったこと。

 姉の哀しい心を露知らず、葦男はまた宮崎の家に行ってしまう。

 そして、とんでもない話を持ち帰ってくる。

 滝の川における出会いによって、篠原が秀子に恋心を抱いたらしい。

 篠原勤子爵。

 彼は華族だった。

 つまり、彼と結婚すれば、秀子は篠原子爵夫人として大手を振って桃夭学校に戻ることができる。

 学問で大成する夢のためであれば女としての幸せも捨てる覚悟も秀子にはあった。

 しかし、学問で大成する夢も女としての幸せも同時にかなえる機会が訪れた。

 これは逃す手はないだろう。

 人生計画変更。

 そもそも初対面の時点から、篠原勤には秀子もかなり好印象を持っていた。

 若くて風采も立派で学識も高く、和歌の道にも理解がある。

 その上に子爵さまだとか。

 結婚式の日取りも決まると、急に優しい気持ちが湧いてきて、秀子は葦男を官員になるための辛い勉強から解放してやった。


   3


 会場内の人々はめでたいめでたいと騒いでいた。

 酔っ払った齋藤が大きな声で、

「おい、浪子さん、じゃなかった、宮崎夫人。

 あなたとあの浜子さんとは、ずいぶん仲良くしていたようだったが、あんなことになってしまった。

 もしも、篠原くんが浜子さんと結婚していれば、今日なんぞ、あなたは何でも第一の上客と言うはずだったのに、つまらないじゃあないか?」

 と話しかけてきた。

 浪子はまともに応対せず、

「さようでございます」

 と適当に返事して後は口をつぐんだ。

 浜子の母親である篠原の女隠居が悲しそうな顔をしている。

 幼い頃から養子として育ててきた篠原勤の結婚が嬉しくないわけではなかろう。

 それでも、その相手が浜子であれば、と願うのも当然である。

 血の繋がった我が子のことを思わない母親はいない。

 哀れ。

 浪子は内心に篠原の女隠居に同情する。

 しかし、『奥さまの前で浜子さんの話を大声でなさいますな』といった注意を齋藤に与えることはしない。

 ━━その人にあらざれば、これを語れども聞えず━━

 まともに意見してみたところで、酒の入った齋藤はろくに聞きやしないだろうから、時間と労力の無駄というもの。

 宮崎浪子(旧姓・服部)は、結婚によって姓が変わっても、性格は変わっていない。

 真面目で善良な夫である宮崎一郎のことも、浪子は掌の上で好きなように転がしているのに決まっている。


   4


 酔いにまかせて齋藤は暴走した。

 こともあろうに、本日の主役である篠原に絡みだす。

「これ、勤くん、あの山中という奴は、あんな悪いことをする度胸なんぞのある奴ではない。

 ただ一生懸命に故大人(篠原通方)のご機嫌を取ろうと言う所から。それ、浜子さんは御愛嬢だから、かまどに媚びるという主義から、おべっかがあんまり過ぎて。とうとう、それ……」

 よほど酒が入っている。

 篠原家の親戚縁者が浜子の話題を控えていることに気づかない。

 齋藤は続ける。

「だが、それも仕方がない。君(篠原勤)があれまでにしてやったのに。『あいつ(山中)も例の社交上手で結構この上もない華族様の婿がね』ということで。

 山中のことを『大きな顔をしたって、実はこうだ』、と悪く言うものが、僕を初めとして、いるものか。そうすれば、人の噂も七十五日。いつかは消えてしまうのに」

 ━━悪く言うもの━━

 山中が浜子と結婚しても、篠原家の威光によって悪い噂はすぐに収まる、と齋藤は見ていた。

 どうだろう?

 明治の時代は役人にも硬骨漢が多い。

 山中の上司が不義密通に厳しければ、浜子との結婚によって官員としての出世の道を完全に閉ざされたと山中が悲観するのも無理はないのである。

 また、高等官員の世界では、篠原家の子爵程度の威光など意味を持たなくなり、醜聞のおかげで出世も頭打ちになる。

 そこまで齋藤の想像は及ばない。

「あの悪い女にそそのかされて。馬鹿な……。とんだことをやらかしたのだ」

 ━━そそのかされて━━

 山中が新居の土地屋敷まで抵当に入れてしまった件について、篠原家の側から齋藤は全く聞かされていない。

 もしも、その件を知っていれば、浜子の財産の横領は山中自身の計画だ、と簡単に気がついたはずだ。

 その計画は芸妓あがりのお貞が思いつける種類のものではない。

 メタな話。

 この小説のタイトルは『藪の鶯』であり、『五郎時致』を下敷きにしている。

 復讐の主体は山中正でなければならない。

 もちろん、作中の登場人物である齋藤には、自分が登場している小説のタイトルを知ることはできない。

「全体にあの仕事はあいつの体にない役だ。一体、色悪というよりは、むしろ突っ転ばしという役の方が適当で。根っから意気地のないのさ」

 ━━突っ転ばしという役━━

 当時のスリには、転んだひとのところに駆け寄って抱き起こしてやるふりをして、相手の懐から財布を抜き取る方法があった。

 いちいち人が転ぶのを待っているのは効率は悪い。待ちぼうけになる可能性がある。

 そこで、手下を使って通行人を後ろから押して転ばせることにする。

 突っ転ばし。

 ━━根っから意気地のない━━

 意気地のない男が、十代で両親に死なれた後、一人で知り合いの商人の家に厄介になり、その商売を手伝いながら、官員になるべく英語の勉強を続ける意思を保ち続けることはできるはずもない。

 また、今回の復讐計画も、敵陣に一人で乗り込んで、その腸を食い破るという大胆不敵なものである。

 山中正が外柔内剛とか沈勇とか評されるべきタイプの男であることを、最後の最後まで齋藤は気がつかない。

「初めから目的も何もなしで、最初は故大人(篠原通方)のご機嫌を取ろうということばかりで、浜子さんをだまそうという気があったのでは決してない。

 あの悪い後家(お貞)についても、旦那に死なれて淋しいとか何とか言われて、以前から世話になっていて、まさかに恥もかかせられないとかいう、ひょんな人情づくもその内の一分子サ。

 だが、ちょっと手を出したからには、もう、あの悪い後家に制せられて、トントン拍子にあれまでの仕事をしたのさ」

 ━━あの悪い後家に制せられて━━

 第九回の山中とお貞の会話を読めば、計画を言い出したのは山中だったとわかる。

 高橋お伝の斬首刑の記憶も生々しい時代のこと、お貞は躊躇していた。

 もちろん、第九回の内容を作中の登場人物である齋藤は読んでいない。

「一体、人間というものは、自分に守るところがなくて、ただ外から言われるままに動くようになると、心にもない大悪事をしでかすもので。

 山中も、まあ、そんなものさ。

 大きくいえば漢の曹操における荀彧が如しとも言おうかね?

 あの西郷も僕に言わせれば、やっぱりそうだ。薩摩の壮士に擁せられ、義理でもない義理にからまれて、心にもなく叛賊の汚名を流したのは、守るところを失ったからと言わざるを得ない」

 ━━荀彧━━

 ━━西郷━━

 荀彧も西郷隆盛も社交上手のおかげで大事をなす英雄となった。

 そして、社交上手であるがゆえに人間関係に縛られるようになり、守るところを失って最後に死を選んだ。

「moneyも大分持ち出したそうだ。この頃はお貞に召し上げられて、いよいよ叩き出されたかもしれない」

 ━━moneyも大分持ち出したそうだ━━

 伝聞形である。

 篠原家の者達が今回のことをできるだけ表沙汰にしようとしないことに努力していることがわかる。

 齋藤は事件の全貌を理解していない。

「そうしてみると浜子さんはいよいよ可哀そうだ」

 人々は目と目を見合わせるのみ。

 表立って注意する者さえいない。

 下手に注意すれば、その人物も浜子の話をせざるを得なくなり、結果として、篠原の女隠居を悲しい思いをさせることになる。

 しまった。

 自分が場の空気を壊していることに齋藤は気がついた。

 社交上手が守るところを失いやすいという意見にも一理ある。

 しかし、場の空気を壊す社交下手も袋叩きにされる。

 第四回を参照。

 誤魔化し方々に、ずいぶん酔ったものだ、と弁解しながら、齋藤はかねて覚えの謡曲の一節を披露しようとした。

 その時、齋藤の耳に宮崎と篠原の会話が飛び込んでくる。

「実に結婚の縁は不思議なもので。浪子などもかねてより妹の友人として近しく致しておりましたが、こうなろうとも思いませんでした。

 また君には秀子さんを紹介したが……、うーん……、あんなこんな、これまで予想していなかった女性をお互いにネ」。

「そのとおりだ。今までのことを考えると随分に小説みたいな展開だ。今夜の祝宴なんぞは『めでたし、めでたし』とやるところだ」

 こいつは良いわい。

 社交上手の悪口を言う齋藤であるが、彼も極端に社交下手というわけでもない。

 自分が祝宴を台無しにかる悪意がなかったことを周囲にアピールするべく、齋藤は叫んだ。

「めでたし、めでたし!」

 

   5


 斉藤の掛け声によって本編は大団円を迎える。

 以下は「附けて言う」と書かれている部分について解説したい。

 今回において、秀子が「まだ」洋風社交に慣れていないという記述がある。

 思うに、篠原家の親戚縁者に対する義理に縛られるまま、篠原勤は官員にならざるを得なかったのだろう。

 レセップスのようになりたいという篠原の夢は、秀子との結婚によって彼の義弟になった松島葦男が代わりに叶えることになる。

 奇妙な廻り合せ。

 篠原子爵夫人となった秀子は、かねてからの念願どおり桃夭学校に戻ると、葦男を勉強から解放してくれた。

 それでも、松島葦男は真面目に勉強を続けて大学に入り、工学を修め、卒業後、レセップスのように一大土木工事を監督して有名になった。

 官員の進路をくだらないとアドバイスした宮崎一郎と良好な関係を保ち、宮崎一郎の妹である福子と葦男は結婚した。


   6


 斎藤松子と相沢品子は、その後に女学士となり、いずれも才学をもって有名になったけれども、結婚できたかどうかわからない、と原作は述べている。

 そこで、松子と品子のような独立独歩の女性に幸せな結婚をさせなかったのは、三宅花圃が女性の社会進出に反対する古い女だったからだ、と批難する研究者もいる。

 少し待って欲しい。

 自分をモデルにしたキャラクターを自作小説に登場させた場合、優遇しすぎるのは外聞がよくない。

 松子や品子が幸せな結婚ができたかどうかわからないとしたのは、女性の社会進出とかいう話に関係がない作者の羞恥心の問題だろう。

 自分をモデルにした登場人物に社会的成功を収めさせた結末だけでも、わりとお腹一杯である。

 さらに幸せな結婚までさせてしまったら、事情を知る関係者たちから冷やかしの声が殺到しただろう。

 そのあたりの状況判断に関して、三宅花圃は賢明だ。

 しかし、松子も品子も幸せな結婚をしたと読者は勝手に想像してもよいのではないか?

 モデルになった三宅花圃も烏丸操子も歴史に名前を残す豪傑たちと結婚をした。

 余談になるが、結婚後に三宅花圃は、能力の高い女性たちには男性と同レベルで職業の門戸を開けと主張する『女性日本』という雑誌を創刊している。


   7


 山中正とお貞の行末はわからないけれども、斎藤の言うような結果に終わるだろう、と人々は噂した。

 これは事件の全貌を知らない部外者たちの思うことに過ぎない。

 最後の読み解き。

 篠原家の者たちからすれば、山中のことを恨めしく思うのは無理もない。

 それでも、やがて山中もお貞から金を奪われて叩き出されるだろう、と思えば心が慰さめられる。

 おかげで、篠原家が積極的に二人を探そうとしないというのであれば、それはそれで二人にとって良い話なのだ。

 この小説『藪の鶯』は、曽我五郎と化粧坂の少将の悲恋物語をモチーフにしている。

 二人を明治時代に生まれ変わらせてハッピーエンドを迎えさせてやれというのが三宅花圃の製作意図の一つなのだから、二人が幸せに暮らしたと信じたい。


 


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