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第十回 藪の鶯

  

   1


 華族のお姫様。

 自分以外の人々も、人間として感情を持ち、泣いたり、笑ったり、時には、怒ったりすることがあるとことがわからない。

 他人がおもちゃの人形のように見える。

 だから、人を人と思うことなく、遊び感覚で嘘をつくことができる。

 道楽時代の怪物には弱点がある。

 自分の都合しか考えられないから、他人の敵意に鈍い。

 結婚したばかりの山中が自分のことを愛しているどころか復讐を企んでいることに、浜子は思いよりもしなかった。

 油断。

 結婚してから家の全権を握った後、浜子自身は自家用の馬車を使い、夫である山中には毎朝に官庁に歩いて出勤させた。

 おかげで、山中は、通勤途中に時間をつくり、浜子の財産を密かに処分して現金化して、安全な場所に隠すことが可能になった。

 もしも、浜子に、山中のことを夫として立てる気持ちがあれば、山中にも自家用の馬車を使わせただろう。

 篠原家のお抱えの馬丁がついていれば、山中の行動もかなり制限されたはずだ。

 山中の財産の抜き取りが順調に進んだのは、浜子が山中に自家用の馬車を使用させなかったことも理由の一つに挙げることができる。


   2


 山中は毎日せっせと飽きもせず浜子の財産を抜き取り続けた。

 なかなか終わらない。

 そうこうしている間に山中の抜き取り作業にも期限が迫ってくる。

 箱根の湯治からのお貞の帰京。

 お貞とは約束している。

 約束によれば、お貞が帰京すると同時に、浜子を置き去りにして、一緒に駆け落ちすることになっている。

 駆け落ちをする前に終わらなければならないことが山中にはあった

 復讐。

 浜子に衝撃を与えるためには奪い足りないように思えた。

「抜き取るべき財産が多すぎて、浜子の家を離れることができないから、期限を延ばして欲しい」

 そのようにお貞に正直に言うのは気が引ける。

 下手な説明をすれば、浜子の財産に目が眩んだとお貞から誤解されそうだ。

 お貞の機嫌を損ねないようにしながら、お貞に帰京を延期させるためには、どうすればよいのか?

 山中は金を添えて箱根にいるお貞に手紙を送った。

 お前が東京に戻ってきた後、駆け落ちをする前に知人を集めて祝言を挙げたい、と。

 山中と浜子の結婚が表向きになっていないから、やろうと思えばできないこともない。

 その準備に手間が掛かるから、しばらく大阪に物見遊山に行ってほしい、と山中はお貞に頼み込んだ。


   3


 残暑が厳しい。

 安く踏んでも二等か三等ぐらいの勅任官(月給が現行貨幣価値で四百万円から三百五十万円程度)の住居において、お抱えの車夫が、玄関の馬車まわしの小砂利の上にしきりに水を撒いている。

 水を撒き終わって車夫は夕方の景色をぼんやり見ていた。

 そこに、一輛の人力車がガラガラガラと走ってきて止まった。

「若い衆さん、ここでいいよ」

 と言いながら降りてきた女は、お貞であった。

「あの篠原さんのお嬢さんのお宅はこちらで……。あの宿六やどが上がっておりますそうでござりますが、今日はおりますか?」

 自分の旦那がそちらの家にお邪魔しているはずだと言われても、目の前のお貞が誰なのか、車夫は知らない。

「どっからおいでなすったか? わっちは知りません。勝手口に行ってお聞きなさい」

「勝手口は、この塀に沿って曲りますので?」

「ああ」

「わかりました。ありがとうござります」

 と、お貞。


   4


 来客の声を聞き、下女は勝手口の錠口を開ける。

「どちらから?」

 お貞は少し早口でまくし立てた。

「あの山中から出ましてござりますが、宿六が長々お世話になりましてありがとうございます。今朝、私も帰りまして、宅も開けましてございますから、すぐに帰りますようおっしゃって」

「山中からとおっしゃいますが、うちも山中でございますよ。それに、今日はどなたもお客様はおいでにはなりません」

「篠原の嬢様のおうちではござりませんか?」

「こちらでございます」

「お嬢様にお目にかかれば、おわかりでございましょう。山中の貞でございますが。ちょっとお目通りを願いしたくございます。お取り次ぎを願います」


   5


 とりあえず下女は取り次ぐことにした。

「奥様、三十ばかりの待合茶屋の女将さんみたいな人がまいりまして、ちょっとお目通りを願いたいと申します」

 浜子は窓に腕をかけて、女学雑誌を読んでいた。

 この雑誌を女性が手元に置いておくと、西洋文化に関心がある賢い女性のように周囲から思われる効果を期待することができた。

 中身が判らなくても構わない。

「どんな人?」

「通し小紋の羽織を着て、大層に粋な人で、何か色々申していましたが、わかりませんでした」

「先に殿様がお世話になったお貞さんじゃないか?」

「何でも貞とか何とか申しました」

「あの人に違いないよ。ここに通しておくれ」

「お逢い遊ばすの?」

 口には出して止めなかったけれども、内心にやめておいた方がよいのではないかと下女は思った。

 下女が見た感じでは、お貞は危険に思い詰めている様子であった。


   6


 箱物の湯治が終わろうという時にやってきた山中からの手紙にお貞は不審をおぼえた。

 藪から棒に山中は結婚の話を持ち出してきた。

 結婚というのは、今も昔も女を騙すための典型的な道具である。

 眉に唾。

 そもそも、浜子の財産を本気で山中が横領して逃げるつもりならば、お貞を先に逃亡先にやって山中が後から合流するというのが上策である。

 もちろん、お清まで巻き込むわけにはいかないから、お清は東京に戻してやるため、お貞がいったん帰京するのはやむをえない。

 それでも、帰京してから駆け落ちまで余計な時間をかけるべきではない。

 余計な時間をかけないため、結婚式当日の朝にお貞が帰京してきて、昼間に結婚式をやって、夕方の汽車で駆け落ちするのだ、と山中は書いて寄越してきた。

 ますます疑わしい。

 山中正と篠原浜子との夫婦関係は表向きになっていないとしても、知るひとは知っているだろう。

 お貞との結婚式を山中が手配すれば、情報が漏れる可能性がある。

 誰かが浜子に注進に及べば、山中の計画は完全に破綻してしまうことになる。

 そんな危険を冒してよいものだろうか?

 山中の結婚話が本当かどうか、山中が仲人を頼んだという男の下に手紙をやってお貞は確認してみることにした。

 すると、結婚話自体が初耳という返事。

 最初から山中さんは金に目が眩んであたしのことを捨てて篠原のお姫様と添い遂げるつもりだったんだ!

 許せない!

 悲壮な決意を固めて、お貞は大坂から帰京する。


   7


 客間に通されると、いつもの洋装姿の浜子がいた。

「どうも久しぶりで」

 切り口上でお貞は応じた。

「真にご無沙汰を申し上げました。しばらく用事方々、見物に大坂の方へ参っておりましたので」

「さようでござりましたか? いいご保養を遊ばしましたね」

 と、浜子。

 さっそくお貞は本題に入る。

「また宿六が久しゅうお世話になっておりまして、恐れ入りました」

「どなたが?」

「あの宿六がしばらくお世話になっておりまして、私が留守で寂しいと申して、宅を閉め切ってあがっておるそうでございます。まことに有り難うございます」

「私は今のあなたの旦那様は存じませんが、どなたでございますか?」

 浜子にお貞は言葉を叩きつけた。

「ご冗談ばかりおっしゃいます。あのご存じの山中正で」

 浜子は笑い出した。

「何ですって? オホホホホホ、おかしい」

 お貞が山中を自分の夫だと言ったことについて、浜子はまったく衝撃を受けた様子を見せない。

 ああ、そうか。

 最初から山中さんが私の情夫と知っていながら言い寄ったんだね?

 別にわかりたくはないけれども、お貞にはわかってしまう。

「なぜでございます?」

「なぜって?」

 浜子は耳障りな笑いをやめない。

 真面目な口調になってお貞は訊く。

「なぜ、お笑いなさいます?」

「なぜって、山中正は、私の何で、宅の主人ですもの」

 浜子は勝ち誇った表情。

 結婚していなければ魅力のない女は男を盗られても当然だと言う理屈。

 お貞はわざと驚きの声をあげる。

「何でございます? あの、お嬢さんの? それは本当でございますか?」

「嫌ねえ。本当にお訊きなさるの? つい、この間に婚礼をしまして」

 お浜が言いたいことは伝わる。

 過去の関係はどうあれ、結婚してしまえば、こっちのものよ、と。

 お貞は耐える。

「何ですって? 婚礼? おやおや、まあ、どうも、あきれっちまいますネー。あたくしゃ、ちっともそんなことは夢にも……」

「そうでしたか? その婚礼もね、少し取り込みがありまして、まだ表向きには致しませんが、一夫一婦の大礼も挙げ、私の財産でこの家も買いましたし、召使いの者も皆里から連れて参りましたのです」

 と、浜子。

 話を聞かないふりをして、お貞は独り言のように、

「どうも実に呆れちまうよ。だから、言わないこっちゃあない。篠原の嬢さんの素振りがおかしいから、騙されちゃいけないと言ったんだもの」

 と言った。

 騙すという言葉に浜子は鋭く反応した。

「何ですって? 私が、いつ、ひとを詐欺するようなことを致しました?」

「サギだかカラスだか知りませんが、人の男をたらしこんで、イケシャアシャアとしたお嬢さんだ」

 いきなりお貞の左頬が熱くなった。

 平手打ち。

 口よりも先に手が出てしまうほどに浜子は怒っていた。

 お貞はますます声を高くした。

「あたしが大坂から帰ってきたら、前の旦那の知っている人に、仲人をしてもらうという話になっているのですよ。

 今さらお嬢さんに寝取られましたからって、あっけらかんとしていられやしません!

 ともかくも山中を出して下さい。当人に聞けば、わかることです。さあ、早く旦那を出して下さい」

「そんなことを言ったって今はここに居やあしません。お前さんがそう罵詈ばりなさると、さも私の悪いようで、人の手前もありますし、みっともないから」

 浜子の言葉をお貞は遮った。

「威張るって? 威張るというのは、金があると思ってしたい放題のことをする奴のことです!」

 涙がこぼれそうになる。

 浜子の前では意地でも泣きたくない。

 お貞は続けた。

「留守のうちに亭主を盗んで、イケシャアシャアとしていられちゃあ、面目なくって口惜しくってたまりゃあしない。早く旦那を出して下さい」

「盗んだとは何です? そう人を讒謗ざんぼうなさっては、法律に触れましょう。仮にも華族の名義もありますから」

「初めてうかがいました。柄杓とか杓子とかのお姫さんは、人の男を泥棒どろぼうしても、御法には触れないのですか?」

「私は泥棒なんてことは存じません。とにかく山中は私の殿様でございます。早く誰か来ておくれ。この女を表へ出しておしまい」

「おしまいにしたいのは、こちらの方だい。わからず屋と話してもらちがあかない。巡査でも誰でも呼んできてください」


   8


 こういう掛け合いは、お貞にとってお手のもの。

 それに対して、深窓育ちの浜子は、親の名前を出し合えば、お互いの上下関係が簡単に決まる世界で生きてきた。

 親の名前が通用しなければ、何もできることがない。

 お貞にさんざん追い詰められて、ついに浜子が泣き出しそうになった頃、執事がやって来た。

「どこのおかみさんだか知らないが失礼な方だ。お姫様、お泣き遊ばしますな。向こうがつけ上がりますから。

 おかみさん、今は殿様も御不在だし。わけがわからんから。また御在宅の時においでなさるがよい。我輩が委細の趣は申し上げる」

 退き時。

 お貞はそう判断した。

 ここまで漕ぎ着けておけば、また山中と会える機会をつくることができる。

 三太夫になだめられたのを幸いに、お貞は引き上げることにした。

  

   9


 浜子の新居にお貞が討ち入りを果たした後、ほどなくして山中がお貞の家にやってきた。

 ━━さあ、山中さん、言いわけを聞かせてもらおうか?

 申し開き。

 ━━お前が帰京すれば結婚する手はずを整えておくというのは嘘だった。誠に申し訳がない。とはいえ、それはお前を危ない目に遭わせたくない一心からのことだった。

 山中の復讐計画の面白い点は、少なくとも形式的には、全て法律の範囲内で収まっているところである。

 明治二十年前後の東京では、家族の借金についても家長に責任が負わされていた。

 その反面として、家長は家族の財産について対外的に完全な処分権が認められ、妻の財産について布切れ一枚でも質入れすれば妻から離婚できるという江戸の御法も失われた。

 法律的な問題を作者の三宅花圃が意識していたのか?

 意識していたと私は思う。

 なぜならば、三宅花圃は元老院議官の娘であり、当時の立法府において家長の家族の財産に対する処分権はホットな話題だったからだ。

 明治十三年、地券や公債証書などに家長以外の公的記名がある財産に家長の家族の財産に対する処分権は及ばないという公的見解が固まった。

 公的記名がある財産。

 秘密結婚のために浜子の新居の地券が山中の単独名義になっていたのだから、山中はその地券を利用して新居を抵当に入れても、合法である。

 戸籍上に妻である浜子は返還請求権を家長である山中に対して原則として行使することはできない。

 ここまで形式的な法律論。

 現実の問題としては、篠原勤子爵が出てくれば、怖いことになる。

 山中とお貞が何者かに殺されても官憲がまともに捜査するかどうか怪しい。

 そんな深い闇も明治の御世には存在していた。

 ━━もはや、これまでよ。お前と二人で一生遊んで暮らせる程度の金はすでに抜いてあるのだ。この足で駆け落ちしよう。

 ━━ちょっと、山中さん、本当なのかい?

 初志貫徹。

 浜子に復讐するべく、山中は真面目に頑張っていた。

 新婚から二ヶ月ほどの間で、目が眩むほどの財産を抜き取っていた。

 身に危険が及ぶ場合に備えて逃亡の準備についてはイの一番に終わらせていた。

 ━━お前さんの気持ちを疑ってすまなかったねえ。

 お貞からすれば、天にも昇る心持ち。

 裏切ったと思った恋人が実は裏切っておらず、二人で暮らすために信じられないくらいの大金を用意していた。

 ━━疑うにも人によりけりと言っただろう? いやいや、東京で祝言を挙げるという話は、まったく嘘であったのだから、こちらも面目ないが。

 ━━いいよ。うるさい。

 照れ隠しにお貞は乱暴な口を叩いた。

 しかし、まだ、何もかもめでたしめでたしというわけにはいかない。

 ━━残念なことに、これだけ金を抜いても、浜子に十分に痛い目に遭わせたと言えないかもしれない。

 当初の山中の復讐計画は、予定外にお貞がしゃしゃり出たおかげで、強制終了した。

 それについては、お貞もすまないと思う。

 お詫びといっては何だが、

 ━━お嬢さんを泣かせてやりたいのなら、いい知恵があるよ。


   10


 ほんの少しの間だけであるが、山中はしばらくお貞の家で暮らし、官員を辞めて東京中の行楽スポットをお貞とともに豪遊した。

 お貞と馬車の相乗りをして、わざと浜子の目に入るように、浜子の新居の前を何度も通行してみせた。

 なまじ浜子の交際範囲が広かったので、醜聞はあっという間に広がり、浜子は口惜しくて日々に涙にくれた。

 金を抜くよりも女のプライドを傷つけてやれというのが、お貞の入れ知恵。

 もちろん、怖い篠原勤が乗り出してくる前に、二人は手に手を取り合って、予定通りに駆け落ちした。


   11


 お貞の帰京をきっかけに山中が心変わりをしたとする解釈に私は与しない。

 山中が浜子と新居に住んでからお貞と駆け落ちするまでの期間は、おそろしく短い。

 篠原通方が死んだのは旧暦の水無月であり、閏月のある年でないかぎり、新暦の七月二十日から八月二十日までぐらいのことである(第八回の描写からすると閏月のある年ではなかったと見るべき)。

 さすがに初七日の間に結婚の話は一切にできないだろう。それから、浜子と勤の話し合いに加えて山中とお貞の話し合いがあって、一夫一婦の大礼も挙げているが、これらにも時間が必要である。

 つまり、山中が浜子と新居に住み始めた時期は、どんなに早くても、新暦の八月以降であったと思われる。

 そして、篠原勤が事件を回想するのが仲秋(九月八日頃から十月七日頃まで)であるから、駆け落ちはそれ以前である。

 山中が浜子の財産を抜き取ることができた期間は一ヵ月ほど?

 その間に山中は新居の土地屋敷を抵当に入れて大金を借り出している。

 自分で山中と同じことをやろうと考えて、具体的に手順を想像してみれば気づく。


 (一)大金を動かせる貸し手を見つける

 (二)買ったばかりの新居を抵当に入れなければならないことを貸し手に納得させるための偽の理由と返済計画を用意する。

 (三)貸し手から調査を受けた場合に備えた偽装工作をする。

 (四)借り入れを申し入れる。

 (五)実際に貸し手から調査を受けて信用を得る。

 (六)金を受け取る。

 (七)安全な場所に金を移動させる。


 この複雑な手順を二十代の若者が官員としての仕事もこなしながら一ヶ月程度で終わらせただけでも凄い。

 お貞が帰京してから篠原勤が乗り出してくるまでのもっと短い期間であれば、物理的に不可能だ。

 とすれば、山中が当初の計画どおり、結婚当初から浜子の財産抜き取り作業を真面目に行っていたと判断するべきだろう。

 繰り返しを恐れず言えば、本作のタイトルは『藪の鶯』である。

 文明開化の明治の御世に生まれ変わった曽我五郎と化粧坂の少将の物語である以上、山中とお貞の二人はどこまでも息の合った恋人同士でなければ格好がつかない。


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