そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)4.0 < chapter.8 >
副隊長に丸洗いされたロドニーは、再びリビングに戻った。レインから流出した『謎の汁』の後片付けを、と思っていたのだが、ソファーも絨毯も、すべて綺麗に掃除された後だった。
掃除してくれたのはハンクとキールだろう。二人は自室に戻ったのか、それとも外の池で、レインが元に戻るのを待っているのか。二人を探しに行こうとして、ロドニーはまたも不思議な感覚にとらわれる。
藤の花の香りがする。
副隊長から感じた月桂樹の香りと同じく、嗅覚は働いていない。それなのに、脳が直接香りを感じているのだ。
それはつまり、この場に『神』が存在するということで――。
「……隊長?」
いつの間に現れたのだろう。リビングルームの入り口にベイカーが立っていた。しかしベイカーは、ロドニーをじっと見つめたまま、何も言わない。
「あの、えーっと……? 隊長? おかえりなさいませ。いつ戻られたんですか?」
ごく普通の反応を見せるロドニーを、ベイカーは訝しげに眺めまわす。
「……なぜ覚醒している?」
「はい?」
「オオカミナオシの記憶を視たのか?」
「あー……はい、あの、ちょっとだけ……」
「どこまで知っている?」
「どこまで、というと……?」
「完全覚醒したわけではなさそうだが?」
「その……よく分からないんですけど、副隊長と一緒に風呂に入ってたら、いきなりカミサマの記憶が見えて……」
「どんな記憶だ?」
「どんな……?」
「見せてもらおう」
「え?」
唐突に伸ばされたベイカーの手。
成人男性としては小さくて、まるで少女のようなか細い指先。ロドニーはその手で全身を掻き回されるのが大好きだ。ベイカーはいつも、ロドニーの長く分厚い被毛をワシャワシャと豪快に撫で繰り回す。人狼族にとって、親しい仲間とのスキンシップは何よりも幸せで、最も重要な行為である。いつもなら狼耳をピタッと倒し、その手に自分から頭を擦り付けていくところだ。
けれども、今は違う。
ロドニーは本能的にその手を振り払っていた。
これはベイカーではない。
理由は分からないが、ロドニーの脳は、確かにそう判断していた。
「……どうしたんだロドニー。酷いじゃないか。ちょっと頭を撫でようとしただけなのに……」
ベイカーの口で、ベイカーの声で、間違いなくベイカー本人の身体でそう言っている。
けれども違う。
この人物はベイカーではない。
「……お前は、誰だ?」
「誰とはなんだ? 俺はお前の友達の……」
「違う! お前はベイカー隊長じゃない!! 誰だ!?」
「……チッ。面倒なことになったな。誰がこんな中途半端な状態にした?」
ずいっと前へ進み出るベイカー。
本能レベルの恐怖を感じ、ロドニーは後退る。そしてそのまま、じりじりと距離を詰められ、壁際に追い込まれてしまった。
と、そこにあの香りが漂った。
優しげで、それでいて凛とした、清涼な月桂樹の香り。
大和神族の月神、ツクヨミの気配を感じ、ベイカーは大げさに肩をすくめる。
「そんなに睨むな。こいつに何をした?」
たしかにリビングルームの入り口ではグレナシンが腕組みし、仁王立ちでベイカーの背を睨みつけている。しかし、ベイカーからそれは見えていない。『神の器』である彼らには、『神の眼』と呼ばれる第六の感覚器官が備わっている。彼らはそれを使って互いの存在を感知しているのだった。
美少女アイドルでもなかなか着こなせないベビーピンクのふわふわ寝間着を身に着けた成人男性は、そのいでたちに全く似合わない、厳かな口調で神の言葉を口にする。
「私は何もしていない。彼が内なる神に気付くことは、変えがたい運命であろう。余計な手出しは無用」
「余計な手出しだと? それはいったいどちらのことだ? 俺たちのやり方に文句をつけるというのなら、たとえツクヨミでも……」
「君って子は、どうしてそう好戦的なのだろうね。私はただ、最悪の結末を回避したいだけなのだが」
「生憎だが、俺は最悪の結末に至るずっと前に、途中経過ごと総取り換えしてやるつもりだ」
「それは非常に難しい。できるかどうかも分からないことにコストをかけるより、確実性の高い方法を模索するべきだと思うがね?」
「却下だ。可能性が低いからと言って、仲間を見捨てることなどできない」
「でもねえ? いくらなんでも『世界征服』なんて、滅茶苦茶だと思うのだけれども……」
「俺は軍神だ。圧倒的軍事力による統治・統制以外に、目的に至る選択肢はない」
「ま、それはそうだろうけどね。まったく、これだから軍神は……」
ツクヨミはしなやかな歩みでベイカーに――ベイカーを『器』として使う神、タケミカヅチに近付く。
「いいから君はおとなしくしていなさい。何のために、私が七千年もの歳月を巻き戻したと思っている?」
無造作にベイカーの肩に手を置くと、その瞬間、ツクヨミは体の制御権をグレナシンに返した。
そこから先の行動は、どうやら軍神の想像を超越していたらしい。
「奥義! 乳首固め!!」
「ファッ!?」
オカマ副隊長グレナシンの必殺技、乳首固めが極まった。
これは王立騎士団特務部隊に代々伝わる禁断の武術、『施苦覇裸拳』九十八手のうちの一つで、背後から抱き着くと同時に正確無比な指捌きで両乳首を摘まみ上げる。もちろん部隊内部でのみ通用するジョークであり、実戦で使用する者はいない。
唐突に乳首を掴まれる予想だにしない攻撃に、タケミカヅチは甚大な精神的ダメージを食らった。反射的に体の制御権を手放してしまう。
「うわっ!? ふ、副隊長!?」
「よかった! サイトちゃん! 元に戻ったのね!」
「あ、ああ、その……戻ったから! もうカミサマ出てったから! 放して!!」
「施苦覇裸拳奥義! 耳たぶに甘~い吐息! ……ダ・イ・ス・キ♡」
「ひいいいぃぃぃあああぁぁぁーっ!?」
九つも年上の副隊長に好き放題いじられるベイカーの姿に、ロドニーはようやく警戒を解いた。『下ネタ防御力』がゼロならば、これは間違いなくベイカー本人である。
「あの、隊長? 副隊長? 今のは、いったい……」
うろたえるロドニーに、グレナシンはいつも通り、暑苦しいオカマ口調で告げる。
「耳の穴かっぽじってよぉ~く聞きなさぁい? 実はアタシたち、世界の危機を救う魔法少女的なアレなのよ。分かる? 魔法少女的なアレ! そんでもって、実はアンタは『ピンク』のポジションよ!」
「ぴんくのぽじしょんっ!?」
青少年でも女性でもない人物が魔法少女を自称した場合、果たしてそれは魔法少女と呼べるのだろうか。いや、それ以上に、これまでの流れのどこに魔法少女要素があっただろうか。
真剣に考えこむ人狼族をソファーに座らせ、向かい側に腰を下ろしたグレナシンはマイペースに話を進める。
「さっきお風呂場でも言ったけど、アタシたちは三人とも『神の器』ってヤツなのよ。四神と違って他のカミサマたちは実体を持たないから、そのままではこの世界のどんな物質にも触れないの。分かりやすく説明すると、人間たちにありがた~いお告げを授けることはできても、転んで痛がっている子供に、手を貸して立ち上がらせることはできない。でも、それじゃあ不便でしょ? 目の前で子供が転んだら、すぐに助けてあげたいでしょ? だからカミサマたちは、自分が中に入って動かせる『器』を用意することにしたの。それがアタシたち」
「はあ……でも、それならどうして、俺はそのカミサマの力が使えないんですか?」
「それよ。そこがこの世界最大の落とし穴なのよ」
「落とし穴」
「アンタの中にいるオオカミナオシってカミサマ、コンピューターのアンチウィルスソフトみたいな能力で、他のカミサマとは挙動が異なるの。対してツクヨミやタケミカヅチはごく普通のアプリみたいなモンで、必要に応じて起動して、ある特定の動作を行う。人が困っているときにパアッと降臨して、状況に応じた恵みを与えてくれるところを想像してちょうだい? なんとなく分かるでしょ?」
「あ、はい……なんとなく……」
「でも、オオカミナオシは違う。常にどこかで活動していて、いつでも闇を食らい続けている」
「食らう……?」
「世界の不具合を修復、もしくは削除するのがあの神の仕事。直せない場合と、直すメリットが無い場合は、その場で食べて無かったことにしちゃうのよ」
「その不具合って、あれですか? この前の玄武みたいに、変な黒い霧出してるやつ」
「そうそう、あれよ、あれ。あの状態、カミサマ業界じゃ闇堕ちって呼ばれてるんだけどね? 玄武はマルちゃんの説得で元に戻れたけど、どうにも直せない場合はオオカミナオシが食べちゃうの。物理的に」
「……ええと……?」
「ここでさっきの話のおさらい。カミサマに実体は無い。物理的に何かをしたい場合、『器』を使わなければならない。ということは、黒い霧でモンスター化した『物質』をこの世界から『削除』したい場合は?」
「ええと……『器』を使って、それを食べて……って、え? 食べるんですか!? 俺が!?」
「だから世界最大の落とし穴なのよ。カミサマも発狂するような『闇』をモグモグしちゃって、人間のアンタが無事で居られると思う?」
「いえ……なんつーか、メッチャ下痢する気が……」
「下痢くらいで済めばいいんだけどねー……」
はあぁ~、とわざとらしく息を吐き、グレナシンはベイカーを見る。
「ちょっと隊長? そっちのカミサマなんて言ってる?」
「何も。特にこれといった異論は無いようだ」
「あっそ。でね、ロドニー。ここからが重要なポイントよ。アタシと隊長はね、アンタを救いたいの。このままじゃ、いずれアンタは闇に呑まれて死ぬわ。だから、そうなる前に何とかしたいのよ」
「なんとかって、どんな感じに?」
「方策その一、ツクヨミバージョン。アンタが闇に呑まれても元に戻れるように、強いカミサマを大勢味方につけておく。オリヴィエと一緒に戦った時、アンタ瘴気食らって闇堕ち状態になったでしょ? それでも、マルちゃんとオリヴィエの『光』で元に戻れた。ああいう対処ができるように、あらかじめ戦力を増強しておこうって話よ」
「なるほど……それじゃ、二のほうは?」
「方策その二、タケミカヅチバージョン。強い仲間を集めることは同じだけど、その『使い方』が違う。隊長、説明よろしく」
「俺に振るなよ……」
ベイカーはうんざりした顔でガクリと項垂れ、それから気持ちを入れ替えるように背筋を正した。
そして、いつになく厳しい声で告げる。
「俺はすべての神とその信徒を配下に置き、徹底した統治・統制によって闇堕ちが発生しない社会システムを構築する。もちろん、どんな社会でもある一定数は落ちこぼれ、劣等感から闇堕ち状態になってしまうものだが……オオカミナオシがそれを食らう前に、他の神々が救済できる体制を整えたいと思う」
「それってつまり、最終的に目指すのは、落ちこぼれの出ない、みんなハッピーな社会ってことですか?」
「ああ。常識的に考えれば、そんなことは実現不可能だがな。それは嫌というほど分かっているが、やるしかない。人間の力だけでは実現できなくとも、俺たちは『神』という存在が実在することを知っている。可能性が一パーセントでもあるなら、俺はそこに賭けたい」
「あの……なんかスミマセン。俺の胃袋が不甲斐ないばかりに……」
「お前がそういう奴だからこそ、俺はお前に死んでほしくないんだ」
「アタシだっておんなじよ。ロドニーちゃんみたいに素直なイイ子が、なぁんで化け物の踊り食いで死ななきゃならないのよ」
「まあ、そういうことだ。俺と副隊長の最終目標は『お前を救うこと』で一致しているが、そこに至る手段について、まだ話し合いの余地がある」
「アタシたち以外の『神の器』も、それぞれ違う思惑で動いてるわ。一人一派と言ってもいいくらいの分裂状態でね」
「知り合いにも協力を呼び掛けたが、なにしろ、お前に対して何の思い入れもない赤の他人も大勢いるからな。取り付く島もない」
「だから、もしアタシたち以外の『神の器』を見つけても、味方とは思わないでちょうだいね。オオカミナオシの存在そのものを疑問視しているカミサマもいるから」
「はい。気をつけます」
「よし、納得してもらえたところで、改めて今日の出来事について話そうか。実はマルコは……」
ベイカーは今日、マルコとロドニーが別れてから起こった出来事を詳細に話した。青龍との接触に成功したこと、『神の世界』と呼ばれる特異な亜空間に引きずり込まれたこと、そこから抜け出せずにいること。
それらの説明を聞き、ロドニーは自身が感じていた違和感の正体に気付く。
あの妙な焦燥感は、本能的にマルコの危機を察知していたからだ。
すぐに助けに向かわなくては、と立ち上がりかけたロドニーを、ベイカーは手だけで制す。
「隊長! でも!」
「助けに行きたいのはやまやまだが、どこに行く気だ?」
「え? いや、だから、スフィアシティですよね!?」
「ああ、そこまでは誰でも行けるな」
「そこまでは……って、あ! そうか! 『神の世界』だから……!」
『神の世界』は、ときに『心の世界』とも呼称される。物理的には存在しない、神的存在のみが出入りできる特異な亜空間だ。神と一体化した『器』であれば立ち入ることは可能だが、それはその世界の持ち主が許可した場合か、相手の自我が壊れている場合に限られる。他人の心に土足で踏み入ることは、神であっても許されない事なのだ。
青龍の許可なく、青龍の『心の世界』に踏み込むことはできない。しかしだからといって、ここで手をこまねいていることなどできなかった。
「隊長! たとえ中に入れなかったとしても、俺は行きます! 近くまで行って呼びかければ、マルコに届くかもしれないし……!」
「……そうだな。何もできないことは同じでも、じっとしては居られない……!」
と、ベイカーが立ち上がりかけたときだ。今度はそれをグレナシンが制す。
「ちょっと待ちなさい。アタシが……いいえ。ツクヨミが、何のために七千年前から世界をやり直したと思ってんの? どっかのアホには負けるけど、世界のバグを突いた裏技なら腐るほどストックしてんのよ!」
「まさか……入れるのか?」
「モチのロン!」
「青龍の世界に、生身で?」
「『器』どころか、他にも色々持ち込ませてあげるわよぉ~♪」
「本当に大丈夫なのか?」
「ンフフフフ……百聞は一見に如かずってヤツぅ~?」
オカマ副隊長の重低音含み笑いに、ロドニーとベイカーは揃って震え上がった。このオカマがこういう笑い方をしているときは、決まってろくなことが無い。
そんな予感はわずか二秒後には的中し、ベイカーは唐突に腕を掴まれた。
「と、いうワケでぇ! 今から禊よ!!」
「禊!?」
「さ、隊長? お風呂行くわよ? 他所の神様にご挨拶に行くのに、ばっちいまんまじゃ失礼だものね~♡」
「ちょ、ま、待て、副隊長! 体を洗うだけなら、一人で……」
「これは儀式なのよ、ギ・シ・キ! ツクヨミが洗い清めることではじめて効果が表れるの! アンダスタン?」
「そ、そうだとしても……どこまで洗う気だ!?」
「穴と玉と竿」
「そこは自分で洗うから!」
「だぁ~から儀式だって言ってんでしょこのアンポンタン! いいから来なさい!」
「嫌だあああぁぁぁーっ!!」
「うるっさいわね! 施苦破裸拳奥義! 玉将卍固め!!」
「ぃぎッ!?」
オカマ副隊長に急所攻撃を食らい、白目を剥いたまま強制連行される特務部隊長。
なんて恐ろしい儀式なんだ! とすくみ上がるロドニーの脳内で、オオカミナオシがボソリと呟く。
そのような儀式に心当たりはないのだが、と。