そらのそこのくにせかいのおわり(改変版)4.0 < chapter.6 >
午後八時、特務部隊宿舎・二階リビングルームでのこと。
出先で別れたきり顔を見ていない同僚を心配して、ロドニーは落ち着きなく歩き回っていた。
「マルコのやつ、大丈夫かな~。なんかすっげー嫌な予感するんだよ~。やっぱ俺も行ったほうが……」
ソファーの周りをうろつく狼に、読書していた後輩が声を掛ける。
「ロドニー先輩が行ってどうするっていうんですか? 御父上の御容態が急変したんでしょう? このままお別れって可能性もあるんですから、最後くらい親子水入らずで過ごさせてあげましょうよ」
「ん~、そうなんだけどよぉ~……」
今のロドニーは四つ足の獣の姿。情緒不安定のペットの如く、無駄に視線をさ迷わせていた。
マルコは別の現場の応援に出た後、そのまま父親の見舞いに向かったことになっている。先代子爵は以前から意識不明の状態。マルコが忽然と消えてしまったことへの説明として、これ以上はない『もっともらしい理由』だった。
ロドニーの様子を見て、後輩は読みかけの本を閉じ、ソファーに横たわる。
「先輩。ちょっと落ち着きましょう。ウロウロしてても何にもなりませんよ」
「え、ちょ、おい! レイン!?」
レインと呼ばれたその後輩は、狼をひょいと持ち上げ、掛け布団代わりに自分の上に乗せてしまった。
ソファーに仰向けに横たわったまま、両手は頭の下。それでどうやって狼を抱き上げたのかと言えば、彼は腕より器用に動く『触手』を使ったのだ。
レインはシーデビルと呼ばれる不定形生命体。タコやイカなどの頭足類に変化することが多いが、人間の姿でいるときも頭髪は自在に動かせる。
タコの足のようにスルスルと絡みつく髪の毛に押さえつけられ、ロドニーは身動きが取れない。
「おいレイン、放せって。怒るぞ」
「その前に、とりあえず深呼吸しましょう? マルコさんは御父上のお見舞い。それでどうして、先輩がそんなになっちゃってるんです?」
「そりゃあ、だって……」
友達だからだと言おうとして、はたと気付いた。
何が心配なのか分からない。
普通は『友達が気落ちしてしまうのでは』とか、『自分は支えてやれるだろうか』とか、具体的に不安の中身が自覚できるのだが――。
「……あれ? おかしいな。俺、なんでこんなに焦ってんだ……?」
自分から湧き出る感情の、その原因が分からない。
こういうことははじめてではない。任務で謎の精霊だとか、超古代の呪いだとか、そういうものに触れた瞬間、似たような状態に陥ったことがある。しかし、今は違う。自分は安全な宿舎にいて、マルコは父親の見舞いに行っている。それだけだ。怪しいものは何もない。
「ね? 落ち着けば、たいしたことないでしょう?」
「お、おう……悪かったな。なんか、読書の邪魔しちまって……」
「いえいえ、全然。丁度マーメイドの姫君が人狼族の彼氏をハグしてるシーンだったので」
「あ?」
「本当に……人狼のカラダって、温かいんですね……♡ あぁっ♡ 禁断の恋って響き、本当に好き……♡ このまま溶けちゃいそう……♡」
「ちょっ! まっ……待てレイン! 溶けるな! やめろ! 原形を保て! お前陸地で溶けると元に戻るの難しいんじゃねえのか!?」
「なんとかなりますよぉ~♡ えへ……ふぇふぇ……デュヘベデゲデベゲ……」
「ぎゃあああぁぁぁーっ! お前! か、顔! 顔溶けてきてる! ダメ! やめて! マジでやめてそういうの! この絵面完全にホラーだからっ!」
レインは海棲種族の中でも、特に体温の低い深海性の種族である。人間だったら約五十度から火傷を発症するが、シーデビルの場合は四十度で細胞が壊れ始める。
人狼族の平均体温は三十九度。興奮状態では四十度を超える。ロドニーとのハグは、レインにとってデッドラインギリギリの温度なのだ。今、レインの顔面は浜辺に打ち上げられたクラゲの如く、ドロドロに崩壊しつつあった。
「だ、誰かーっ! 誰か助けてーっ! レインが溶けたーっ!」
ロドニーの叫びに、他の隊員らが私室から飛び出してきた。
特務部隊の力仕事担当、キールとハンクが、力ずくでレインの触手を引き剥がす。
「馬鹿! レイン! お前またティーンズノベル読み過ぎて頭おかしくなってるのか!?」
「禁断の恋ごっこは三日以上の連続した有給休暇を取得した場合に限ると言っただろう!? 顔面修復するまで人前に出られなくなるぞ!」
身体の表面が溶けても死亡することはないのだが、修復するまでに数時間から数日の時間を要する。その間はホラー映画のゾンビのような見た目となるため、任務に支障が出てしまうのだ。
「大丈夫か、犬っころ」
「お、おう。ありがとな。キール」
「あー……お前、よくわからん汁でベトベトだな。あとは俺たちで何とかするから、ひとまず風呂入ってこい」
「いや、でも……」
とろけかけた水棲生物を庭の池に放り込むのなら、自分も手伝ったほうが良いのではないか。そう思ったロドニーだが、ハンクが止める。
「いいから。お前、夕食の時から様子がおかしかったぞ。何があったのか知らないが、熱いシャワーでも浴びてさっぱりしてこい」
「後始末は俺とハンクに任せておけ。な?」
「ん~……それじゃ、お言葉に甘えて……」
年上の二人にこう言われたら、従うしかない。ロドニーは狼の姿のまま、トコトコと浴室へ向かう。
大浴場は宿舎の一階、廊下の一番奥にある。全特務部隊員が共同生活を送るこの宿舎には、二十四時間入浴可能な大浴場が一つあるだけで各個室にはシャワーがない。炊事場や便所などの水回りも一か所に集められているため、朝から晩まで、風呂やトイレの際にも、隊の仲間と必ず顔を合わせる構造になっている。集団生活に何の苦もなくなじめるタイプでなければ、絶対に生きていけない環境である。
(あー……この時間だと、たぶん……)
案の定、大浴場には先客がいた。
「あら、どうしたのよアンタ! なんかすっごく汚いじゃない! 洗ってあげるわ! おいで!」
手招きするグレナシンは頭にタオルを巻き、その上からピンクのヘアキャップをかぶっている。おそらく髪の保湿パック中なのだろう。浴室全体に、甘ったるいバニラ&ストロベリーの香りが充満していた。
言われた通りにおとなしく歩み寄り、女主人に洗われる犬――もとい、オカマ副隊長に洗われる狼は、泡だらけにされながら事情を説明した。
一通り聞き終わったグレナシンは、深い溜息を吐く。
「も~、これだから夢系腐男子は……」
「夢系……なんですか、それ?」
「夢系腐男子。ティーンズラブコミックとか読んで、どっちかっていうと女子キャラのほうに感情移入しちゃうタイプの子よ」
「えっ!? 男キャラじゃなくて!?」
「ボーイズラブって知ってるでしょ? 前にマンガ貸してあげた、男の子同士で恋愛するアレ。ああいう本読んでも、攻めより受けに感情移入するのよ」
「それって、あの、副隊長みたいなニューハーフの人とどう違うんですか?」
「アタシは男の体で、心は乙女なの。腐男子は、心も体も男の子なの。で、別に本物のゲイってわけでもないから、出会いさえあれば女の子にも恋するのよ」
「女にも……って、それ、バイセクシャルじゃないんですか?」
「大まかに言えばそうなんだけど、夢系は『ロマンチックな恋がした~い♡』って願望がやたらと強いのよ~。セックスそのものよりも、そこに至るまでの過程にこだわるタイプかしら?」
「……互いにその気だったら、すぐホテル行けばいいのに……」
「そうなのよねー。人狼族みたいに嗅覚と生殖本能が直結してれば、面倒臭いことにならずに済むのに。……ね、ロドニーちゃん? レインちゃんはね、別に同性愛者でも、異常性癖でもないの。恋愛小説にのめりこみ過ぎた、文学オタクみたいなモンなのよ。だからあの子のこと、嫌わないであげてね?」
「え? あ、はい。それはなんとなくわかるんで、別に……っていうか、もしあいつがゲイでも、本気で迫られてるワケじゃないなら全然気にしませんけど」
「あら、そう? それなら良かった。ほら、ゲイとかニューハーフじゃなくても、仕草がちょっとそれっぽいってだけでも、やたら嫌悪感持つ人っているでしょう? あの子に、アタシみたいになってほしくなくて……」
グレナシンはどこか遠い目をして、語尾を濁した。
彼はベイカーが隊長に就任する以前から、ずっと『副隊長』のまま。先代特務部隊長時代の仲間が他の部署に異動になったときも、彼だけは特務に残されたのだ。それがセクシャリティの問題であったことは周知の事実なのだが、本人がそれを気にしているような素振りは見せていなかった。
今も、すぐにいつもの笑顔を作って隠してしまったが――。
(……やっぱり、気にしてないわけじゃなかったんだ……?)
ほんの一瞬見せた、繕いきれない心の傷。彼が負った傷がどれだけ深いものかは分からないが、これだけは分かった。
彼は、自分が誰からも守られなかった分まで、レインを守ろうとしている。
(……あ、そっか。だからこの人の傍は……)
オカマ言葉で言いたい放題、いつでもギャアギャア喚き散らしている。ひどくやかましくて、お節介で、ボディータッチがかなり過剰で――それなのに、不思議と居心地が良い。この人の傍にいると、どういうわけだかホッとするのだ。
これまでずっと疑問に思っていたことへの解答が、意外な形で提示された。
(なるほどなぁ~……『優しい人』っつっても、色んな種類があるんだ……)
熱めのシャワーで石鹸の泡を洗い流され、ロドニーはぶるりと身震いする。心に引っ掛かっていた靄のようなものが、体の汚れと一緒に、排水口に流れていくようだった。
しかし、タイルの目地に残った泡のように、まだ何か流しきれないものがある。
「あの……副隊長?」
「ん? なぁに?」
「マルコって今、本当に親父さんのお見舞いですか?」
「そのはずだけど? どうしたの?」
「いえ……なんか、うまく説明できないんですけど……マルコの奴、もっとヤバいところに行ってるような気がして……」
「あらやだバカねー、考え過ぎよー? ……って言っても、誤魔化されてくれないわよね、アンタは」
グレナシンは、不意に気配を変えた。
バニラ&ストロベリーの甘い香りに、得体の知れない空気が混ざる。
「副……隊長……?」
はじめて嗅ぐのに、なぜか懐かしいこの香り。その香りを纏う者の名前を思い出した瞬間、ロドニーの意識は、遠い世界に飛んでいた。
時間も空間も超えた遠い世界――はるか古代の、地球の片隅に。
それがいつの時代のどこであったか、詳しいことは分からない。この記憶は、唐突に会話の途中から始まった。
「ツクヨミ、其方、なぜウカを……」
足元に転がる斬首死体。しかし、そこにあるのは体だけ。首はどこにも見当たらない。
死体の首から血は流れていない。これは人でなく、『神の亡骸』なのだ。
「オオカミナオシ、すまない。何も訊かないでおくれ。これは必要なことなのだ」
「必要? なにを馬鹿な。我以外の神が同族を討つなど……」
もう一度死体を見て、オオカミは言葉を止める。
神的存在には違いない。だが、これは――。
「……これは誰だ? ウカは、どこに行った……?」
ツクヨミは答えない。
静かに身を屈め、首なし死体の衣服を剥ぎ取る。
「言っただろう? 何も訊かないででおくれ。私はただ、『全員』に、望み通りの結末を与えてやりたいだけなのだ……」
ツクヨミは、死体の背を優しくさする。するとその肌は色を変え、透けるような白から、やや黄色みがかった色になった。
次にホクロに指を置くと、ホクロは温めた氷のように、スウッと溶けて消えてゆく。体中何か所もあるホクロを、一つずつ、丁寧に消してゆく。
『神的存在』から『本物の神』へ。体に存在するありとあらゆる特徴を、一つ一つ、念入りに書き換えてゆく。
オオカミはそれを、何も言わずにじっと見守る。
「……よし、できた。さあ、オオカミナオシ。私が……月詠が宇迦御霊之神を殺めたと、天地のすべてに触れ回っておくれ。できるだけ速く頼むよ。私の力が及ぶのは夜のうちだけだ。夜明けまでに、このことをアマテラスに……」
「良いのか、ツクヨミ。其方はこれから、永劫の罪を負うこととなる。名が穢れれば、其方は力を失い……」
「構うものか。名が穢れた程度がなんだ。その程度のことで、私は堕ちんよ」
「覚悟あってのことなのだな?」
「ああ……私以上に、『彼女ら』がな……」
「……相分かった。其方らの覚悟、確かに受け取った……」
オオカミは、それ以上は言わなかった。
ツクヨミに背を向け、空気に溶けるように姿を消す。
世界に風が吹き荒れる。
人間や動物には、ただの風としか感じられない。しかし神々の耳には、確かに声が届いていた。
月詠の尊は神殺し。
宇迦御霊は殺された。
月は穢れて光を欠いた。
ハッとして、頭を振る。
ロドニーは目の前のその人を――グレナシンの顔をまじまじと見つめ、その名を問う。
「……月詠の尊……?」
「あら、思い出してくれたみたいね。アタシにしたら超いまさらなんだけど、おひさしぶり。どのくらい自覚できてるのかしら?」
「……ええと、俺は……『神の器』で……?」
「そ。アタシたちは『神の器』。ママのお腹の中にいる間に、カミサマに改造されちゃったのよ。神様が自分の依り代として使うためにね」
「じゃあ、あの……もしかして、俺の意識がぶっ飛んでた時って……」
「あら? オオカミナオシの意識とリンクできてないの? 自分の中にいるカミサマの声、聞こえてない?」
「……聞こえてますけど……声っていうか、唸ってるような……」
「ちょっとやだ! オオカミナオシってば、怒んないでよ! ロドニーちゃんに隠してたって、どうせいつかバレちゃうのよ? 話がこじれる前に話しておいたほうがいいでしょ? 待ってて、今ヘアパック流しちゃうから。話はそれから、ゆっくりしましょ!」
神を待たせて、とりあえずヘアケアを優先するオカマ副隊長。この図太い精神はツクヨミを宿しているからなのか、オカマだからなのか、グレナシン個人の性格によるものなのか。ロドニーにその区別はつかなかった。