チサの出産 そして
初めチサは乳母などいらない 自分の乳だけで育てると
言い張ったのだが、当時は高禄を取る武家では必ず
乳母をつけるのが一般常識であった。大名ともなれば
子供一人に付き守り役 乳母は当たり前だった。当時も
今もお産は大変なもので、生母の健康の為という説も
残っている。実際 乳児の死亡率や体力を使い果たして
産後の日立ちが悪いと言われるような妊婦の死亡率も
今に比べると比ではなかった。当時のしきたりが
そうであるならチサとて一概に反対する事も出来ない。
だが 乳母に任せ切りにはしないと心に誓う。
数日後 正子はお万の方に連れられてご生母となる
チサと面会した。「チサ 御子様の乳母になる正子と
申す者じゃ」 「お初にお目にかかります。井原正子に
ございます」 チサは正子と聞いてちよっとびっくり
したような顔をしてから「チサと申す。よろしゅう頼み
ます。でも そなたのお子はどうして来たのじゃ」と
尋ねる。「3月前 次男を産みましたが夫の急死後
里に帰らされました」 「まぁ それではお子と別れて」
チサは涙ぐみそうになる。この世界では女の立場は弱く
婚家から帰らされる妻も少なく無い事は知っていた。
「辛かったでしょうね」と 慰めても正子は平伏したまま
何も答えなかった。その横顔が朱らんで見える。
チサは気を変えるように「正子とはどういう字を書くのか」
「正しい子でございます」 「そうですか」実はチサの姉が
字は違えど真沙子と同じ読みであったから、さっきは少し
驚いたのだった。姉と同じ名を持つ正子に親近感を覚え
チサの印象は悪くなかった。「これからよろしゅう頼みます」
「精魂 込めてお仕え致します」と 乳母との顔合わせを
してから10日後 いよいよその日が来た。その日は
朝から何か気が落ちつかず、椅子に腰かけてボーと庭を
眺めていても何か心が騒ぐ。「およの」 チサはおよのを
呼び寄せ小声で長局にある私の長持ちの中から朱の
風呂敷に包んである物を取って来てくれと頼んだ。
「風呂敷でございますか」 「およのさんにしか頼めないの
私が梅山様のお部屋に来た時 持っていた物よ。
およのさん見たでしょう」 「ああ あの珍しい」
およのはクルッと回って出てくる口紅を思い出した。
「行って参ります」 「お願い」 間もなくおよのは朱色の
風呂敷に包まれたチサの私品をそっと持って来た。
続く。




