私たち凡人の善とは
前回の「内包による善の定義」で「善、つまり道徳的に正しいことは“私より公を優先すること”、略して公の為である」としましたが、これを「自分のことを置いて、公に尽くすなんて間違っている、まず自分が幸せになって、そのあと公の幸せを考えるのが順序ではないか」という意見もあった。
普通、私より公を優先するなんてことは、我々凡人にはなかなかできないと考えますが、善をあんまり大げさに考えなくてもいいのです。
善は「私より公を優先すること」と言っても、善はピンからキリまであります。マザーテレサのようなノーベル賞クラスの善もあれば、我々凡人のように善かどうか分からないような善もある。それでも、できるだけ私欲を抑えて、少しでも私より公の方を優先しようとするのが我々凡人の善なのです。
例えば、今日は日曜日でゴルフの打ちっぱなしに行きたいが、その私欲を抑えて、たまには町内会の為に清掃奉仕をしようというのが私たちの善である。これも私より公を優先する行為であり、小さいながらも善なのである。また金にもならない町内会長や消防団員を引き受け、自分の大事な時間を町の為に使うというのも、私より公を優先する行為であり、善なる行為なのです。
また、みんなの為にと思いブログを書いているのも一つの善なる行為です、但しその主張が正しければですけどww。
このように“私より公を優先する”と言っても、そんなに大げさに考える必要などないのです。私たちが何気なく行っている小さな親切、思いやりもまた、私より公を優先する行為なのですから。
また善の定義で公の為の公が、なかなか分かりにくいかと思いますが、公とは自分、または自分たち以外ということです。公は問題により変わります。正しいが必要となるのは、何か問題が起きた時です。
例えば、父が失業した場合ならば、これは家族の問題であり、家族一人一人は私であり、公は家族全体になる。いかにしたら家族が生活していけるのか、私欲を抑えて家族の為にとみんなで考えるのです。お母さんはママ友と週一回のお食事会は絶対に止めないとか、お父さんは週一のゴルフはやめないとか、息子は息子で絶対に私立の大学に行きたい、公立は嫌だなどと私欲ばかり主張していたら、生活は成り立ちません。やはり正しい行為とは私欲を抑え、家族、公の為にと皆で考えるのが一番良い結果が出るのです。
またTPPなどがあれば参加するのかどうかが問題となる。要は公の為、つまり日本の為になると思えば参加すればいいのである。ではどのようにすればTPPについて正しい答えが出るのか、それはやはり、私欲を抑え、国の為にと専門家を含めて、みんなで考える事である。
TPP問題のとき市民へのインタビューを聞いていると「私は、貿易が自由になれば自分は儲かるから賛成だ」「いや、自分は農業で大きなダメージを受けるから反対だ」というばかりで、常に私欲であった。「自分はTPPに参加すれば儲かるかもしれないが、やはり日本の主権をなくすことは日本の為にならないから反対である」なんていう意見はほとんどでなかった。まあ、生活が掛かっているから仕方ないかもしれないが、そこは少し私欲を抑え、みんなが公の為、国民の為に、と考えなければ、正しい答えにはなかなか辿り着けないのである。
また今回の加計学園問題の要点は獣医学会と文科省の癒着である。獣医学会はこれ以上、獣医学部を作らせたくない。文科省は作らせないその見返りとして天下りをする。ここでは獣医学会と文科省が私であり、国民が公である。獣医学会と文科省の正しい行為とは私欲を抑え、公、つまり国民の為に、と考えなければならなかったのである。
このように公は問題により決まるのです。自分勝手に公を決めてはならないのです。そして公は小から大まで変化するからこそ、いろんな問題に対応できるのです、普遍性があるのです。
そしてまた、公の為の公の最大は基本的に日本国民、日本民族である、世界は公にはならないと書けば、常に「あなたの言う公の為はナチスやファシスト、民族主義を連想させる」と批判する人たちがいる。次回はそれについて書いてみたいと思います。