虚脱の対峙
第154回フリーワンライ企画参加作品です。
お題
〇〇が食べたい
フェアリーテール
ルージュ
今度生まれ変わるなら
イミテーション
すべて使用と言っていいものやら……
12分オーバーでした
じめっとしているが、反面季節がらの半袖姿の恰好ではひんやり肌寒い暗い部屋で。
恐らく地下の一室であろうか。私は不快なリズムで明滅している薄ざめた蛍光灯の明るいようで病的に生気を失したような印象を醸している、そのチカチカとうっすら濁ったようなまばゆさのリズムに乗せられながら、向かい合う西洋人の青々とした瞳を一点に凝視するばかりで、その彼の発する、恐らく意想外であろう展開を秘めた未知なる言葉を待ち受けていた。同時に、小一時間ほど経つだろう、ひっきりなしに浴びせ続けられた地獄の質問責めに対して、半ば麻痺してしまった感覚を脳髄へ還元されたような、諦めだとしてしまうのなら綺麗に収まりがついてしまうような……そんな言わば極限の不感症的な被虐的状態に肉体反応は占領されてしまっていて、その透明肉体としての自我の今際の面目躍如を、透きとおるような純白の肌をしている、まるで仮面のような完璧な相貌を湛えた謎の支配人へと向けているたった一点だけが、私自身の残されたアイデンティティだった。
「では質問の角度を少しく違えましょうか……もしも、これは単なる浅薄な可能性の一つであると捉えてほしいのですが……もしもあなたが次の瞬間、この、背筋も凍るような凶器によって、殺されてしまうのだとすれば、あなたは、何が食べたいのでしょう」
私はその質問に、自分自身に不運にもこれでもかと浴びせつけられた、まったく身に覚えのない不遇を、それまでにも増してまざまざと顕現させざるを得なくなってしまう。
「ははははっ……いえいえ。そんなに一目瞭然で恐縮したようにこわばらせないで欲しいものですよ。はははははっ……これはまあ、業務上の任意の質問ですよ。あなたが答えたくないのであれば、無視してもらってもいいくらいですから……」
そう云って西洋人は、わざとらしいくらいに背筋を反り上げてしばらくの高笑いを続けているのだった。
私はそんなあからさまな挑発的態度を示す眼前の悪魔に対して、最後の意地を示すようにこちらもあからさまな完全無視によって拮抗しようかという迷いも渾然と生まれていた……しかし、どういう訳か突如生まれた鰻の蒲焼のイメージに私の全身全霊は霊肉の総体ごと掴まれてしまったようだ。
「鰻重が……食べたいのです……」
無意識の、夢遊病と云ってもおかしくはないほどの、まったくの無力の運びで。
「ほう。あなたの文化にはウナギをわざわざ串刺しにしてちまちまと弱い火で炙り、痛めつけながら殺生を完了するしきたりがあるのでしたね……なんとも、その食われるものからすれば糾弾すら断念せざるを得ないほど高圧的な無惨な所業ですね」
その西洋人の解釈は何ひとつ共感できるものがなかった。しかし、彼の優雅な、まるで音楽のようなそのリズムとメロディを含んだ声によって、完全に無意志な首肯をするだけだった。
「ええ、けっこう。脂の滴る身を焦がすような一匹の苦悶をあなたに捧げようではありませんか……といっても、あなたが敷島敏樹の模造品であるとするなら、それは必要のないことだ」
そう云って西洋人はふふふ、と鼻で笑っていた。
「まあいいでしょう。今度生まれ変わるなら、あなたは敷島敏樹として生まれたいですか? それとも別の人格として生まれたいですか?」
西洋人を見つめながら、しばらく自分自身の内面世界に浸り続けていた。私は生まれながらに敷島敏樹だった。それを疑うことなんてなかった。しかし、それが模造品であることを知った、否、その可能性を知ったのだった。そして不幸にも、私自身の礎であり、そのすべてであった敷島敏樹に、模造品であって欲しい、と不条理な懇願をせねばならなくなったのである。
「あなたが模造品であるか、それとも本当の敷島敏樹であるのか、それを判断するのはたった一つの方法を取らせてもらいます。あなたには、小話を……そうですね、妖精御伽噺を聞かせて欲しいのですよ。これまでの長ったらしい質問責めは無意味でした、それはあなたに謝らないといけません。しかし仕方のないことなんですよ。だってここまでの質問は、あなたを現在の心理状態へと引き込むための誘導尋問だったのですから、だから許してほしいのです。あなたが本物の敷島敏樹でなければいいことですよ。それとも、あなた、なにか後ろめたい思いでも抱えているのですかね、ははははは……」
驚いた。妖精御伽噺と聞いて即座に想起された情景があった、そして私は彼にそれをそのまま伝えるだけでよかった。しかし、その結果次第では、私の眼の前に据えられた、見るも悍ましい、恐らく刃渡り2mを超すほどの、巨大なギロチン装置によって我が首を撥ねられてしまうのだ。
それだけではなかった、その西洋人の云うように、ある、ひとつの後ろめたい、凍るような冷たさの占領している感情が、まるで精神の底へと繋がっているような記憶と結びついていたのだった。しかし、それを躊躇していては仕方ないのだ、もう、言葉を、ありのままに放つしかない。
「ひとつだけ云っておきしょう。あなたがもし、本物の敷島敏樹だったとするなら……赤」
そう云って西洋人はフランス語訛りで我々の自国語を呟いた。
そして、彼は真っ白な床をぐるりと指差していたのだった。
「ええ、ひとつだけ、思い当たる情景があります。私はどうやらひとりの女を殺してしまったようです。その情景こそ、あなたの云う妖精御伽噺そのものなのでしょう。私と彼女は愛しあっていました。しかし、ある日、突然彼女は私に別れを切りだして来ました。彼女はこう云ったのです。『私はあなたが本物だということを知らされました。あなたが本物だということは、あなたがこの先生きていくことができないということなのです。だから、私は、自分の幸せを取ります、あなたを愛しています、でも、もう生きてはいけません』。そう云いました。私はなぜだ、私は本物ではない、そう涙ながらに主張しました。しかし、彼女は云いました。『いいえ。私はある妖精にそう知らされたのです。だから知っています、あなたは本物の敷島敏樹なのです』そういうと彼女のほうも大粒の涙を流していました。そして、『殺してください、やっぱりあなたを裏切ることはできません』彼女はそう云いました』」
「ええ。しかしです。彼女は本当にいたのでしょうか」
私は西洋人の言葉にはっとしてしまった。私は、何者なのだ。偽りの記憶を擦りこまれた、モルモットではないのか……
「ええ。あなたはギロチンにかかることはないでしょう」
そう告げられた私は、敷島敏樹という自己同一性を失ってしまい、以降、精神を消し去られた、もぬけの殻となってしまって、それでもなお、敷島敏樹の模造品として無価値な余生を生きながらえていくこととなった。