83:蒼と茜 (13)
冷笑というにはどこか感情が欠落しているような白銀の表情だった。
白い翼の羽ばたきが突風を起こり、本来ならば誰よりも蒼にこそ従属するべきはずの風が彼を襲う。
それは空を統べる一族の王たる者に、より屈辱を与えるための白銀の行動であったのかもしれない。
大木の幹に叩きつけられた蒼に間髪入れず矢が飛来する。
矢は翼と腕を貫いてそのまま後ろの木の幹へと突き刺さった。
「茜様が龍の力を手に入れられた事がよもやこうもあなたに影響を与えようとはな。受け入れてしまえば楽なのに、抗うから苦しむのだ」
「…くそっ」
地面はかなり遠い。
飛べなければ真っ逆様に落ちかねないのに、それでも蒼は矢から体を引き抜こうとしていた。
あざ笑うかのように白銀が放った矢が蒼の胸から背に抜けて木に押しとどめる。
「皮肉なものだ。茜様から長の座を奪っても、今のあなたを長と認める者などおるまい?何にも認められず、私が味わったような惨めさを味わうがいい」
「惨め…だと?迦墨は近くで見守ることは出来なくてもお前の事を思っていた。牡丹はいつだってお前を気にかけていた。東雲はいずれお前を護衛に戻すつもりでいた!」
たぶん肺が傷ついていて、唇からは言葉と共に血が溢れ出した。
「ふっ、今となれば何とでも言える」
彼が初めて浮かべた笑みらしい笑みは嘲笑だ。
憎しみという暗い感情を込めて白銀は蒼の体に突き立つ矢を一本、また一本となぶるように増やしていく。
「私は茜様を人間と妖両方を統べる存在にするのだ。あの方はあなたには手に入れられぬもの全てを手に入れる」
「…かはっ…」
蒼が応じることはもはや出来なかった。
生じた気配に気付いて白銀が飛び去らなければ――それがもう少し遅ければ蒼の命は奪われていたかもしれない。
駆けつけた琥珀が見つけたのは標本のように縫い止められた無残な蒼の姿だった。
「どうしちまったんだ!?」
緊迫した琥珀の声だっだ。
屋敷の奥まった場所にある部屋はただ事ではない空気に包まれている。
床に血が飛んでいた。
侍女達が壁際に集まってへたり込んでいて、一人の腕には鋭い爪で引っかかれた血の滴る傷がある。
彼女らは怯えと戸惑いの色を隠せず、その視線は主の信じがたい姿へと向けられていた。
「放せ!食わせろっ!!」
飢えと狂気。
それは私が目にした冷たい妖気をまとった恐ろしい蒼の姿と重なって見えた。
うつ伏せに押さえつけられて、蒼は口から血をあふれ出させながらももがく。
負った傷は軽くない。
けれど天狗達はそうして彼の動きを止める他無かった。
「蒼…頼むからやめてくれ」
琥珀の表情からは読み取れるのはどうか静まってくれという祈りに近い思い。
蒼を押さえつけていた天狗の一人が急に力が抜けたように倒れた。
また別の者も。
触れただけで生気を奪えるのだと琥珀が気付いたときには蒼は自由を得ていた。
眼前に蒼の残忍な笑みが迫る。
琥珀が素早く振るった扇を避けて蒼は数歩後ろの床に片膝を着いて着地した。
見上げる姿勢で舌なめずりをした蒼の妖艶さ。
頬に黒く濡れたような鱗が光る。
憎悪さえ含んだ表情の侍女達を逃がして、琥珀は悲痛な面持ちで自らの武器である扇を構え直した。
本当はこんな形で二人が戦うなんてあってはならないのに。
風が琥珀に応じて動きを変えた。
「ナウマク・サラバタタギャーテイビヤク・サラバボッケイビヤク」
静寂を破り、彼らの戦いを止めたのは真言だ。
「サラバタタラタ・センダマカロシャダ・ケン・ギャキ・ギャキ・サラバビギナン・ウン・タラタ・カン・マン!!」
それは聞き覚えのある声。
穏やかで、優しげだが力のある声だ。
その声の持ち主は蒼に歩み寄り小刀を取り出した。
傷つけたのは自分の指先。
真言の力に縛られて動けないままの蒼はそれが誰なのか認識できたかどうかはわからないけれど、相手の顔を噛みつきそうな顔で睨んでいた。
指先が蒼の額に当てられ赤い文字を書き付ける。
「オン・ヒラヒラ・ケン・ヒラケンノウ・ソワカ!」
紡がれる真言は私が蒼を止めるためにとっさに唱えたのと同じものだ。
血で書かれた梵字は染み込むように消えて蒼は一瞬体を仰け反らせてから意識を失った。
蒼と琥珀の戦いを止めて里の危機を救った嵩波の額には汗が浮いていて、肩を上下させながらしばらく息を整えていた。
彼は、穏やかな眼差しは昔の面影のままにすっかり壮年といえるほどに年を重ねている。
身なりも良く、都でそれなりの地位を得ているに違いない。
「この里で何が起きたのかおおよそのことはこの一帯に住む妖達に聞いて知ったが、私がこの地を去ってからずいぶん色々とあったようだね」
「お前、あの時の?」
琥珀は過去にほんの数回顔を会わせた程度のその人間に不信感がないわけではない様子だ。
「人間のくせにどうやってここに入って来た!?」
それでなくとも先ほどの真言で蒼と共に呪縛され身動きがとれぬままに嵩波の行動をただ見ているだけだった事に腹を立てている。
「これのおかげでね」
嵩波が琥珀に示したのは濃紺の羽根だった。
「私は空の一族の力を借りたくて都から戻ってきたのだよ。何と言ったかな?あの黒い天狗」
「迦墨ならすでにいないぜ」
あてがはずれたなと言わんばかりの琥珀の態度だ。
わかったならあきらめて帰れと言いたいところに違いない。
彼にしてみればこの一族の危機的状況に人間にかまっている暇などないということだ。
「…そうか。それは、残念だ」
けれど琥珀には直ちに嵩波を追い出すことが出来ない理由があった。
嵩波の手にある羽根の持ち主の蒼はあどけない寝顔で横たわっている。
意識を失い倒れた次の瞬間には少年の姿へと変わっていたのだ。
ちょうど茜と瓜二つ、十歳ほどの見た目に。
「蒼に何をした?この姿は何なんだ?」
「共食いの刻印――妖の間では呪いと呼ばれるそれを封じ込めたのだ。しかし姿まで変わってしまうとは、どうしたことか」
「どうしたことか、だと?」
琥珀が怪訝を通り越して怒りを声ににじませた。
「自分でやっておいてわからないとでもいうのか?」
「おおよそこの世には、人間風情には理解しきれぬ事が山ほどあるものだね」
恐れもせずさらっと言い放った嵩波に琥珀が詰め寄らなかったのは蒼が目を覚ましたからだ。
「嵩波…なのか?」
「久しいね、蒼。どこか痛むところは?」
蒼は首を横に振る。
狂気はなりを潜め、生気を得たおかげか傷が痛むそぶりもなかった。
けれど代わりにその生気を奪われた天狗は未だ目を覚まさない。
「だが…俺は一族の者を…護るべき者をこの手で…。俺は…俺は、どうすればいい…?」
身を起こし、蒼は苦々しく言葉をはいた。
「俺には長になる資格もここにいる資格もない」
「あれは呪いのせいで――」
「違う。俺がやった」
蒼は琥珀の言葉をきっぱりと遮った。
「冷たく冷えていく自らの血の衝動を抑えられなかった。裂いた皮膚の柔らかさも、生気が流れ込んでくる感覚もはっきりと覚えている。俺はそれを楽しんでいたんだ」
小さくなってしまった自分の手を蒼は見つめる。
その指先がわずかに震えていた。
そんなに自分を責めないでほしいと、たとえ本の中の記憶でしかなくても私は言いたかった。
いや、私はそう叫んでいたと思う。
声が届いたらよかったのに。
蒼はただ視線を落として表情といえる表情を浮かべてはいないのに何故だか泣き出しそうに見えた。
そんな蒼の前に嵩波が膝を着く。
「蒼。共に来ないか?力を借してくれないか?」
「都に、か?それもいいな…だが、お前を助け得るだけの力は今の俺にはないかもしれない…」
「呪いの力は私の血をもって封じたのだ。再び血を介して契約を結び式神となれば、元の姿と力を取り戻せるだろう」
「しき…がみ?」
「先の陰陽師達は霊的存在を式神として用いた。常に側にいて共に戦う者が必要だ。それは私にとっては妖なのだよ。だから霊力を少しずつ分け与えることで強大な妖をも式神とする術を考え付いたんだ」
自分の霊力を餌にして妖を使役する。
式神と主人の関係がそういったものだということを初めて聞いた。
だとしたら私の霊気は知らず知らずのうちに少しずつ蒼に分けられているということになる。
嵩波はどことなく自慢気だった。
「謀ったな!呪いを封じたのは最初からそれが狙いか!?」
琥珀が激昂するのも無理はないのかもしれない。
嵩波には強大な妖を使役できる力があるとはいえ空の一族の、それも長が人間に仕えるなんてそれぐらいありえないことなのだ。
「まさか。空の主たる者を従えようなどと大それた事を考えてはいないよ。一時だけ力を貸して欲しいのだ」
「だったら他の奴を連れていけばいいだろう!?蒼を連れて行く必要がどこにある!?」
「琥珀、よせ。…俺は長になることは出来ない。お前は飛べなくても関係ないと言ったが、茜は風を使えなかった為に長と認められなかった。俺も同じだ。俺は嵩波と共に都へ行く。…琥珀、この里を…」
「…っ…しかたない、頼まれてやるよ」
長いつきあいから蒼の心は簡単には変わらないと悟ったのか、琥珀がやけくそ気味に言った。
「俺が長に代わりここを護る。けどな、それはあくまでお前が不在の間だけだ。俺が堅苦しいのは肌に合わないと知ってるだろ?必ず戻れよ。長になれるのはお前だけだ。俺はお前がこの里を決して見捨てないと信じて待っているからな」
琥珀の真っ直ぐな言葉と瞳から蒼はたまらず目をそらす。
今の蒼にはそれを受け止めきれない。
それは琥珀にもわかっていることで、だからこそ彼は待つと言ったのだ。
「嵩波、頼む」
「心は決まったようだね。では」
淀みなく長い呪が唱えられ。
「蒼、手を」
蒼が差し出した手に小刀で浅い傷が付けられる。
嵩波はそこへ一旦は止まっていた指の傷から血を落とした。
人間の住む外界。
そこと天狗の住む里をつなぐ門を出て少し歩いた所で蒼は振り返った。
周辺の大樹の上では鴉天狗達がその様子を見守っている。
彼らは恐れを抱いているのか、それとも悲しんでいるのか。
ただそうしてじっと見守っている。
「そう思い詰めることはない。都に平穏が戻れば、ここに帰るのは蒼の自由だ」
数歩先から嵩波が言った。
「俺は…」
蒼はこの時すでに二度とは戻らないつもりでいたに違いない。
それから意を決したように歩き出した蒼は一度も振り返りはしなかったのだから。
しんと静まり返っていた深い山中に長が去ったのを嘆くように鴉の鳴き声が響き渡った。




