80:蒼と茜 (10)
茜はすでに洞窟の奥深くでそこに封じられた邪龍の体を喰らった頃だろうか。
今や水に浸りそうな建物の一つで、蒼はがっくりと膝をついて肩を上下させていた。
左の目を押さえた彼の左手には数個、鱗状の痣がうっすらと浮かんでいる。
呪いはすでに蒼の体をも蝕み始めていた。
とはいえ恐らくまだ何が起こったのか彼自身には想像もつかないだろう。
息を整えて顔をしかめながらも立ち上がり翼を広げた。
空に舞い上がってすぐに琥珀の姿を見つける。
「琥珀!茜はいたか!?」
「いいや!けど、ここに何人か埋まってる!」
そちらに降り立とうとして、けれど蒼はバランスを崩した。
「いって…」
「何やってんだよ、蒼!?」
着地に失敗した蒼に琥珀は心底驚いた表情を浮かべる。
無理もない。
そんなことは今までなかっただろうから。
しかしそれを気にしている暇は今はない。
二人は瓦礫をどかし、そこに埋まっていた天狗達を助け出した。
いや、助けられたのは二人だけ。
間に合わなかった人数の方が多い。
そういった状況が里のそこここで見られる。
蒼は茜がそこに変わり果てた姿で埋まっていなかったことへの安堵と見つからないことへの焦りを感じているだろう。
「あの影みたいなのは里に封じられている邪龍の魂だろうと代理様は言っていた」
甚大なる被害の出ている里の現状から視線を移して琥珀が言った。
今は山頂付近に留まっているその魂へと。
実態のない曖昧な存在だけに、打ち倒す事は空の一族といえど容易ではない。
下手に手出しはできないと天狗の長代理は考えているのだと悠璃が言った。
蒼と琥珀が助け出した天狗は母子だったから、目を閉じたままの母親に子供は不安そうにすがりついている。
「大丈夫。気を失っているだけだ」
安心させようと子供の頭を撫でた蒼だったが、そこに浮かぶ痣を悟られないようにすぐに手を引っ込めた。
おそらくもう、その痣が何なのか蒼自身も気付き始めている。
けれど何故それが自らの体に浮かび上がったのかわかりはしない。
やがて、一つの可能性にたどり着くまでは。
「琥珀…龍の体が封じられているのは確か氷牢の奥だったよな?」
低くつぶやくように言ったと思えば空に舞っている。
「どうするつもりだよ!おい!!」
そのまま蒼は振り返りもせず飛び去った。
琥珀が追うのをためらったのはすがりつく腕があったからだ。
母親共々助かったとはいえ、体験した恐怖に泣くことさえ忘れた子供を彼は放ってはおけずに抱き上げた。
氷の牢獄は見るも無惨に壊されていた。
床に散らばった氷の破片が冷気を漂わせる中、蒼はその奥を目指す。
濃い血の臭いがする。
空気さえ淀んでいるかのようだ。
奥の闇の中で何かが動いた気がして蒼は身構えた。
人と獣が混ざったような姿をしたものが鋭い爪をこちらに向けて恐ろしいスピードで迫ってくる。
投獄されていたらしい妖怪の狂気をはらんだ瞳が闇の中で光っている。
それは魔に心を犯されてしまった者の成れの果て。
蒼は闇の中から刀を取り出して、それと対峙した。
爪と牙とが刃と噛み合う。
相手の怪力に苦戦しながらも蒼はなんとかその妖怪を打ち倒し、更に奥へと身を投じた。
足元には鮮血を撒き散らし氷と同じくらい冷たくなって動かない妖怪達。
魔に魅入られたもの同士で命を奪い合った結果だろうか。
張り詰めた緊張感のためか呪いの影響か徐々に蒼の息が上がる。
けれど奥に茜がいるかもしれないのだから彼は進むしかないのだ。
前方で気配が動いた。
蒼は刀を構えたが、今度はそれを抜く必要はなかった。
「私です!」
迦墨の声だ。
「蒼様、何故このようなところにいるんです!?」
「茜が…」
「茜様は、もうここにはいません。お戻りください」
迦墨が言う。
足元には血だまり。
怪我をしている。
「やはり茜はここに来たんだな?龍の心臓を喰らったんだな?」
迦墨は目を伏せ、そして頷いた。
「妖を喰らって力を手に入れても正気でいられる者はいません。茜様も…」
迦墨を含め牢に入れらていた妖怪達を解放したのは茜だった。
呪いのせいだと迦墨は言う。
魔に魅入られた存在を解き放てば血が流れ混乱を生む事、わからないはずはないのだ。
この里を守りたいと力を欲したはずの茜の思いは、何よりも一族を思っていたはずのその心は失われてしまった。
奥から幾つもの目がこちらを見据えている。
「これを代理様にお渡しください」
迦墨が取り出したのは闇においてもなお明るい緑色の光を発する魔を封じる石。
「これがあれば、里が救えるかもしれません!早く!!」
迦墨の気迫に蒼は思わずそれを手に取る。
「迦墨も一緒に――!」
迦墨は蒼に微笑んだかと思うと彼を突き飛ばした。
目の前に洞窟を形成していた岩盤が切り刻まれて降り注ぐ。
迦墨は洞窟の奥へと踵を返し、その先から現れた妖怪と刃を交えるのが見えた。
自分一人がここで彼らを食い止めるというのだ。
「迦墨ー!!」
やがて崩れた岩でその姿は見えなくなった。
雨が降り始めていた。
まるで失われた命を悲しんで空が泣いているようだ。
茜と別れたその場所で白銀は立ち尽くしていた。
いや、そこでこの里の行く末を見ているつもりだったのかもしれない。
「白銀」
淡い色を思わせる声音が彼を呼んだ。
振り返った先には雨に濡れる薄紅の翼の天狗。
「牡丹姉さん」
白銀にとっても牡丹は姉同然の存在だった。
「龍の魂を呼び込んだのはあなたなのですか?」
幼い頃から彼を見てきた姉のいきなり核心を突いた質問に白銀は苦笑をする。
「そうだと言ったらどうしますか?」
「今ならまだ引き返すことができます。罪を償いやり直す事ができます」
けれど引き返すつもりなどないというように白銀は弓に矢をつがえる動作をした。
そこに実際に弓矢が出現する。
腕に力がこめられた。
「それで気が済むのなら射なさい」
牡丹は腕を広げ、自ら数歩進み出る。
白銀はまるで痛みに耐えているように表情を歪めた。
牡丹の柔らかだけれど強いその真っ直ぐな眼差しを受け止めきれないという風に。
白銀にとって牡丹はこの場においてもっとも会いたくない人物だったのかもしれない。
矢を放つことなどできないのではないか。
動くものは天上から降り注ぐ水滴だけだった。
雨音だけが支配する静寂。
そこにジュッという小さな音が混じった。
「あああぁぁっ」
響き渡った悲鳴。
突如牡丹がもがき始めた。
まとわりついた無数の水滴が蒸気を上げる。
熱された雨粒は牡丹の肌を焼く。
爛れた手で顔を覆って彼女は倒れ込んだ。
気を失ってしまった牡丹を見下ろしていた白銀が何かの気配に気付く。
「茜…様…」
現れた茜のその行動に白銀は軽い驚きを示した。
牡丹を誰よりも慕っていたのは茜ではなかったか。
茜は変わってしまったのだ。
「行くぞ」
「しかし…」
彼らはまだ望んだものを手に入れてはいなかった。
「私は外を見てみたい。ここは放っておいてもあの龍の魂によって壊滅させられる。それからゆっくりとこちらの物にすればいい」
茜の瞳が白銀を見上げる。
「来ないのか?お前は私の翼なんだろう?だったら…もう離れるな!」
強い、けれど暗い闇を含んだ眼差し。
右の瞳はなお暗い呪われた色。
禍々しい妖気の漂う沼の色を映したような深い緑。
白銀は茜に近寄りその右頬に浮かんだ鱗のような痣に触れた。
ほんの少し不満げに目をそらした茜。
そして白銀はひざまずく。
「仰せのままに」
茜を抱き上げて白銀は闇色の妖気渦巻く空へと舞い上がった。
二人にはもう互いだけしかない。
唯一孤独を理解しあえる存在なのだと、寄り添い飛び去る二人はそんな風に見えた。




