8:人間(ヒト)と妖(アヤカシ) (3)
蒼の小さな体は崩れた机と椅子の山にすっかり埋もれてしまって見えなくなった。
「蒼くん!」
あれだけ激しく叩きつけられたのだ。平気とは思えない。
駆け寄ろうとする私の腕に笠原の髪が巻き付いた。
「離してっ」
抵抗虚しく引きずられる。
ゆっくりと、獲物を捕らえることを楽しんでいるように徐々に引き寄せられていく。
その時、背後で机と椅子の山がガラガラと音をたてた。
「まだ邪魔をするか」
忌ま忌ましげに吐き捨てた笠原の視線の先にはよろめきながらも立ち上がった蒼の姿。
「動けばこの娘の腕をへし折るぞ」
腕に巻き付いた髪に力が込められる。
「いた…っ…」
笠原に視線を戻した瞬間一束の髪が伸び、まるで鋭い刃のように私の頬をかすめて通り過ぎた。
ザスッ!
嫌な音がして恐る恐る黒い刃の伸びる先を振り返る。
頬を伝うぬるりとした血の感触も痛みも忘れるくらいに衝撃的な光景がそこにはあった。
黒い刃に腹部から背中までを貫かれ、蒼のかわいらしい服にみるみる赤い染みがひろがってゆく。
「いやぁぁっ」
悲鳴は恐怖にかすれる。
更に二本の刃が蒼の体を刺し貫いた。
やめて!という叫びは声にならない。
「……く…っ…」
唇からもポタポタと鮮血をこぼしそのあどけない顔が苦痛に歪む。
何度か咳込んで血の塊を吐き出したあと蒼の体が力を失ってうなだれた。
その体を貫いたままで、笠原はまた私の体を引き寄せ始めた。
必死でもがいてみてもびくともしない。
このピンチに叶斗が颯爽と現れるのではという希望は叶いそうになかった。
もうダメだ。
このまま妖怪に食べられるんだ、そう考えた時ふとあの夢の光景が頭を過ぎった。
夢の中で女の人が言っていたおまじない。
「オン…ビシビン…カラシバリ…ソワカ…」
よかった声が出た。
「オンビシビンカラシバリソワカオンビシビンカラシバリソワカ」
私は必死で何度もその言葉を唱えていた。
「なにっ!?」
笠原が驚愕する。
腕に巻き付いていた髪が何かに弾かれたかのように離れた。
ダメージを受けているようですぐには襲ってこない。
おまじないの効果に驚いている暇はない。今のうちに逃げなければ。
けれどイズミと蒼を放っておくわけにはいかない。
倒れたままのイズミの腕を肩に回して半ば引きずるように抱えた。
意識を失った人間の体は想像以上に重い。
蒼の元にたどり着くより早く笠原の声が轟いた。
「おのれぇ。ただの小娘だと思っていれば小賢しい真似を!」
今度は髪が腕にも足にも首にも絡み付き声も出ない。
今度こそ本当にダメだ。
呼吸ができなくてだんだんと意識が遠くなる。
イズミちゃん…蒼くん…助けられなくてごめん…。
あきらめかけたその時、風を切るような音が数回聞こえて、不意に締め付けていた力から開放された。
巻き付いていた髪がほどけてはらはらと落ちる。
急に空気がなだれ込んできて咳と荒い息を繰り返した。
そうして視線を上げれば袴のような衣の裾と長い髪が翻った。
目の前で鳥のような翼が広がる。
その羽根の色は黒…いや濃紺だ。
一瞬の後には翼は消え失せて長い髪はそのままに黒いスーツの後ろ姿へと転じる。
黒い手袋に包まれたその手には見覚えのある日本刀が握られていた。
「な…なんだ…お前は、いったい…」
笠原も突然現れた人物に混乱している。
それでも獲物に向かって髪をうねらせたのは本能だろうか。
前方を見据えたままで手袋の指がすうっと私との間の空間を凪いだ。
ただそれだけで床に一条の光が走り部屋を分断するように淡く光る防護壁が出来上がった。
その明かりに照らされて長い髪が黒と臙脂に塗り分けられた不思議な色をしていることが見て取れる。
その色に見覚えがあった。
この人は夢に出て来た人だ。
どうしてあの人がここに?
あまりの驚きに頭の中に浮かぶ疑問を声にすることはできなかった。
その人は笠原に向かいゆっくりと歩みを進める。
襲い来る髪の鞭を刃の一振りで薙ぎ払った。
力の差は歴然としていた。
もはや笠原には抵抗する術がない。
「な、なせだ…それほどの力を持ちながらなぜ人間の味方など…」
笠原はすでに刀の届く距離にいるが動けずにいる。
「人間の?おかしなことを言う」
静かだけれどよく通る声だった。
「古来より我らは人と共にあったはずだ。そのために互いの領域を侵してはならぬこと、お前も知っているはずだろう。…もう、開放されるがいい」
どこまでも静かな声。
けれど抗えない力がある。
笠原はその場にへたりこんだ。
その表情に人間らしいものがもどったのがわかる。
恐怖におののく視線は抜き身の刀に注がれていた。
「こ…殺さ…ないで…。わ…私は悪くない…。化け物の口車に乗せられただけ…。私を苦しめた奴らを懲らしめられるって…」
震える声で懇願する。
「あなたの強すぎる念が妖を取り込んだのだ。妖はあなたに同調したにすぎない。言っただろう?復讐は何も生まない。己も他も不幸にするだけだ」
切っ先がわずかに上がる。
「ひっ」
笠原はひきつった悲鳴を上げてその場に倒れ込んだ。切り付けられたわけではない。緊張と恐怖のあまり気を失ったのだと思われた。
それとほぼ同時に入口の鉄製の扉が勢いよく開け放たれた。
飛び込んできた叶斗の形のいい眉がひそめられる。
「どういうことだ…」
何に対しての問いかけなのか理解できないまま私は彼のにらんだ先、長髪の人物と笠原の方に視線を戻した。
笠原から離れた髪の毛の塊のような生き物がかさかさと床を這う。
それはのたうって苦しんでいるようにも見えた。
叶斗がつかつかと私の横を通り過ぎ、懐から一枚の紙切れを取り出してそれに投げ付ける。
「あるべき場所に帰れ」
髪の塊のような妖怪は張り付いたお札とともにすうっと煙になり宙に溶けて消えた。
重苦しかった空気がまがまがしさを失ってゆく。
もはやそんな事に興味はないといった感じで、叶斗は歩みを止めることなくスーツ姿の人物に詰め寄った。
「蒼、その姿…。何故だ!」
叶斗はその人を蒼と呼んだ。
突然現れた長い髪のその人物は…。
信じられないと思う反面やっぱりとも思った。
青年の姿の蒼がこちらを振り返る。
いつの間にか左手に握られていた美しい模様の鞘に刃を納めれば瞬きの間に刀は消えてしまった。
流れるような動作に目を奪われ、次いでその面差しに視線はくぎづけになる。
こちらを向いたその顔には左眼を覆うように髪がかかっていたけれどそれでも十分にわかるほどにあまりに綺麗で、片方だけ見える金の瞳はまるで猛禽類を思わせる鋭さがあった。
研ぎ澄まされた表情はあのにこにこと可愛い少年の印象と繋がらない。
「何が起きたか説明しろ!」
その蒼と私を交互に見やり叶斗が叫んだ。
何故だか怒っている。
聞きたいのはこっちの方、口を開きかけて私は急速に意識が遠のくのを感じた。
「水穂!」
最後に目に入ったのはこちらに駆け寄る蒼と険しい表情の叶斗の姿だった。




