32:海と夏休み (3)
約150年前…というから江戸時代の終わり頃だろうか。
この海に、人間と妖怪の悲しい物語があったという。
この海には濡れ女という妖怪が住んでいた。
名前を『なみ』といった。
ある日なみは海辺で人間の子を見つける。
赤ん坊といってもいいくらい幼い子だ。
濡れ女は子を亡くした女の哀しみが集まって生まれた妖怪とされている。
なみは赤ん坊が愛おしくてたまらなかった。
だから他の妖怪達が止めるのも聞かず海で見つけたその子を連れ帰って育てることにした。
赤ん坊はすくすくと育っていく。
二人は海辺の洞窟でひっそりとだが幸せに暮らしていた。
数年が過ぎた頃、近くの村に行方不明の我が子を探している夫婦がいるという情報が一匹の妖怪によってもたらされた。
それはおそらくなみが拾ったその子に違いなかった。
子供の幸せを考えるならその子を返すべき。
そう周りの妖怪達に説得されたなみは嫌がるその子を泣く泣く人の親の元に帰らせた。
けれどなみの思いは裏切られる事になる。
人間の夫婦は、最初のうちこそ帰ってきた我が子を可愛がったが、その子が妖怪と暮らしていたらしいと知ると恐ろしくてたまらなくなった。
本当に自分たちの子供なのかと疑いもした。
やがて村に疫病が流行るとその子のせいだと考えだし、ついには崖から海へと子供を投げ捨てた。
なみがその事を知った時にはもう遅く子供を助ける事はできなかった。
なみは嘆き悲しんだ。
子供を返したことを悔いた。
そして悲しみは怒りに変わる。
なみは怒りのあまり海の側へとやってきた人間を海へと引きずり込んだ。
なみはその後も怒りと悲しみは治まらず、その間海は荒れはてた。
船も、人も、村も全て飲み込んでしまうほどに。
なみの悲しい泣き声は長いこと洞窟に響き渡っていたが一人の退魔術師が海を荒らす妖怪を退治してほしいという依頼を受けて現れる。
退魔術師はなみを封じその場所に祠を作った。
そして海は元の穏やかさを取り戻したのだった。
そう話した時雨の胸の奥にはその時の悲しみが甦っているのかもしれない。
なみのことを頼むと頭を下げた。
今また海が荒れているというのはその封印が壊されてしまったということなのだろう。
すでに夕暮れ時とはいえ波に流された海水浴客がいるらしく、ビーチは混乱していた。
「祠のある洞窟はこの先です」
海の家に知らせを持ってきた男は私達を案内して混乱の続く砂浜へと引き返す。
海の中に住む妖怪達と合流し流された人を捜すのだといっていた。
「なみを…止めてやってください」
途中振り返ってそう言う。
「わかっとる!任せとき!」
伊緒里の言葉に男は頭を下げ走り去っていった。
彼もまたその頃のなみを知っているのだろう。
「悲しいお話ですね」
「妖が人の世話を焼く話はよくあるが、たいていはむくわれないものだ」
「それでも放っとかれへん。妖っちゅーのはお人好しなもんなんや。まぁ人間相手に限ったことやない。蒼ちゃん一人ぼっちのウチを拾ってくれたし、な?」
「そう…かもね」
言いながら蒼の意識は別の方に向いている。
目の前には人一人がやっと通れそうな小さな岩の切れ目があった。
「ちょっ、ちゃんと聞いてなかっ…」
伊緒里も何かに弾かれたかのように洞窟の奥の闇を見やる。
暗く口を開ける洞窟の奥は深く、目を凝らしても何も見えはしない。
「犯人との対面が叶うかもしれんな。行くぞ!」
奥に何が待っているのか、叶斗のその言葉に鼓動が急激に速さを増した。




