14:榊河家と式神 (5)
目を開ければカーテンの隙間から光が差し込んでいるのが見えた。
ようやく眠ったのは明け方近くだったからほんの三時間ほどしか経っていないがもう一度寝る気にはなれず起きることにした。
ベッドを降りて手早く身支度を整えるとそっと廊下をうかがう。
人の気配はない。
昨夜教えてもらった伊緒里が使っている部屋も蒼の部屋もノックしてみたが返事がなかった。
さらに廊下の奧には叶斗の部屋があるようだがそちらに行く勇気はなく、引き返してキッチンやリビングらしき部屋を覗いてみるがやはり誰もいない。
その時、廊下で物音が聞こえた。
急いでリビングを出る。
廊下の先に人影が見えた。
女の人だ。伊緒里ではない。小柄で、線が細く、Tシャツにジーンズというシンプルな格好、髪は二つに束ねているようだというのが後ろ姿から見て取れた。
「あの…」
声を掛けた瞬間その人は振り返ることもなく廊下を猛ダッシュして角に姿を消してしまった。
「ななな何でしょうか!」
追いかけるべきか迷っていると、声だけが帰ってきた。
「驚かせてしまってごめんなさい!他に住んでいる方がいるって知らなくて。私…」
「ぞぞ存じ上げています。み、水穂さんでいらっしゃいますよね」
声は慌てたように早口で言う。
「こここココに住んでいるなんてめ、滅相もない。わわ私はお、お洗濯物をとりに上がっただけですから」
彼女は掃除と洗濯を請け負っていて、叶斗宅だけでなく他のマンションの住人達の分も要望があれば引き受けているのだという。
彼女自信もこのマンションの住人ではあるらしい。
「蒼くんや伊緒里さんがどこにいるか知りませんか?」
「ああ蒼さんと、い、伊緒里さんは、地下の修練場にいらっしゃると思います。か、叶斗さんは朔良さんのお店かと」
「修練所?」
「そそそうです。え、エレベーターで地下に降りればす、すぐにわかります」
私はその不思議な女性にお礼を言って叶斗宅を出た。
叶斗がいるcafe Sakuraではなく地下に降りてみることに決めた。
エレベーターの表示がB1を示しドアが開く。
目の前には大きな扉。
両側に開く引き戸は学校の体育館を思わせた。
戸の前には何足もの靴が並んでいて、それに習って私も靴を脱いだ。
覗ける程度に戸を開けてみる。
土足厳禁の修練所は磨かれた板張りの床で、かなり広い。
その中央で向かい合う二つの影があった。
「あ、水穂。おはようさん」
不意に脇から声がかかった。
戸が中から開けられ、伊緒里は私を修練所内に招き入れた。
伊緒里だけでなく入り口側の壁を背にあやめと渚が立っていた。
三人に慌ててあいさつをする。
「ようここにおるってわかったなぁ」
「お洗濯を取りに来た方に教えてもらって。何故かすぐ隠れてしまったんですけど」
「ああ!キヨちゃんに会ったんかいな」
どうやら後ろ姿しか見えなかったあの女性はキヨというらしい。
すごく恥ずかしがり屋でめったに人前に現れず、マンションの住人ですら顔を知らない者は多いのだという。
ここには個性豊かな人が多いみたいだ。
いや、彼女も人ではないのかもしれなかった。
「ところであの二人は…」
中央で向かい合う蒼と楓太の事を尋ねる。
二人は刀を構えていた。
刀は本物ではなく木刀。
楓太は剣道着のような紺の袴姿だが、蒼の方は普段着で、昨日の反動か幾分男の子らしい格好だ。
剣術の稽古というにはなんだか違和感があり、それに反して妙に緊張感がある。
二人はにらみ合ったままお互いに少しも動かない。
「楓太が蒼ちゃんに勝負挑んだんや」
「勝負!?」
「いつものことなの。楓太は伊緒里さんに相手にされないのが悔しいのよ」
あやめがため息混じりに教えてくれた。
「だいぶ前の話やけどデートしてくれって言うからな、うちは強い男にしか興味ないから蒼ちゃんに勝てたらてゆうたんや。そっから何回も挑んでは負けとるんやけどあいつ諦めへんねん」
伊緒里は少し楽しそうだ。
「勝負は楓太が蒼ちゃんに一撃でも入れられれば勝ち、ヘトヘトなって立ち上がれんようになった時点で楓太の負けや」
勝てばデート権獲得、負ければ昨日撮った蒼のスカート姿の写真を削除すると楓太は約束したらしい。
「渚の携帯ぃ…」
渚が楓太を凝視したまま唸った。
勝手に勝負のダシにされた携帯は楓太が持っているのだろう。
「携帯壊したら承知しないからね!!」
叫び声は耳に入っているのかいないのか。
楓太の右足がじりっと前に動いた。
蒼は動かない。楓太の出方を待っている。
楓太が木刀を構えたまま走った。
かつんと木の打ち合う音が響く。
力では劣勢に見える蒼が難なく楓太の攻撃を防ぐ。
そのまま二度三度と打ち合い二人は距離をとった。
一呼吸の間を置いて楓太が気合いとともにまた走る。
懇親の一撃は受け止めた蒼を体ごと吹き飛ばした。
が、蒼はひらりと着地を決める。
すかさず追いすがっての楓太の連続的な打ち込みも全て蒼には見切られてしまった。
「負けを認めたら?」
「…まだまだァ」
いつの間にか楓太は肩で息をしている。
一方蒼にはまだ余裕がある。
楓太が呼吸を整えた後に放った横なぎの一撃も蒼はすんでのところでかわしてみせた。
けれど楓太もそれは想定の範囲だったようで、今度は剣撃ではなく一枚の紙切れを蒼めがけて放った。
お札のようだ。
だがそれは蒼に届く事はなく、振るったのが木刀であると思えないほど鮮やかに真っ二つに切られて床に落ちた。
秘策が打ち破られた、そう思った。
けれど次の瞬間、蒼の左右に落ちたお札から光が揺らめき立った。
光の糸は瞬く間に蒼の腕を、足を絡め取り動きを奪う。
蒼の表情から余裕が消えていた。
初勝利を確信したのは私達も楓太本人も同じだったに違いない。
「もらったぁ」
歓喜の雄叫びとともに楓太の刀が蒼に迫った。
どさりと床に転がったのは、しかし楓太の方だった。
尻餅をつく格好で楓太は目の前の、自分よりも長身の人物を呆けたように見上げている。
お札の呪縛を打ち破った青年の姿の蒼は以前見たのと同じく黒いスーツ姿だった。
少年の時と違ってあまり感情を表さない端正な顔立ちも、黒と臙脂色の混ざった長い髪も光の元ではいっそう目を惹く。
「それ…ホントの姿…か」
楓太は誰にともなく呟くように言った。
「あれが」
「カッコイイ…」
楓太もあやめも渚も蒼を子供のように扱っていた。それはきっと蒼が人ではないとわかってはいても本来の姿を見たことがなかったせいだ。
「へっ望むところだ!」
楓太は立ち上がった。
チャンスは逃したが諦めていない。
青年の蒼に勝ってこそ本当の勝利、そう考えたのかもしれない。
「あぁ、あかんわぁ。惜しかったのに。勝てる見込みなくなってしもた。本気になるほどあの写真嫌やったんかいな」
伊緒里が隣で落胆の声を上げだ。
彼女の指摘通り数分後楓太は仰向けに床に転がっていた。
息が上がっている。
体力の限界、そんな感じだ。
楓太の負け確定だった。
勝負に写真が懸かっていなければよかったのにと思ったのは私だけではないだろう。
右だけ見える金の瞳が楓太を見下ろし黒い手袋に包まれた掌がずいっと突きつけられる。
「くそっ!」
悔しげに叫んだ楓太だったがおとなしく懐から携帯を取り出した。
受け取った手は小さな少年のものだった。
子供の姿に戻った蒼は人の携帯を器用に操作して写真を削除し、満足顔でそれを渚に返した。
渚は勝手に携帯をいじられたことに腹を立てるのも忘れてただだまってそれを受け取る。
それでも懐に入れられていたそれを親指と人差し指だけで摘むことは忘れていなかった。
たぶん楓太に後で文句の嵐が降り注ぐのだろう。
「行かなきゃ。暁史が着く頃だよ」
そう言って蒼はニコリとあどけなく笑う。
子供の蒼と大人の蒼、そのギャップにはなかなか慣れられそうにない。
ぶっ倒れたままの楓太を置いて私たちは修練所を後にした。




