7.犬養義幸 9/13 14:15
あちこちから配線が雑草のように生える、白いパネル張りの手狭な空間。
手にタブレット端末を持った俺は、体をベルトで椅子に固定した状態で、目の前のアメリカ人の話を聞いていた。上も下も無い世界、話す相手も自らの体を椅子で繋ぎ止めていた。
「――以上だ。手順はかつて、「ディスカバリー」で行われたSTS114と大差ない」
「わかりました」
「時代が時代だ…… 技術はあの頃には比べものにならんが、デブリの数も比べものにならん。全力でサポートするが、安全なポイントでの作業とは言い難い。気をつけてくれ」
「はい」
話を終えた俺は、ミーティング室から、どこへ行っても狭い船内を飛ぶ。
オリオール型宇宙船、『ロンギング号』。スペースシャトル計画が終了した後、研究に研究を重ねられ、ロシア型に対抗する形で作られたアメリカの新造船。その初航海の旅は、始まって二週間になろうとしていた。
オリオール型初のフライトだけに、ミッションのほとんどは船のデータ取りではあるが、その他の細かな宇宙での実験も概ね片付けられた。何か、そう、例えば「何かを持ち帰る」ような大きな功績こそ無いが、ミッションの滞り無い成功は、チームの一人として心から嬉しかった。
地球への帰還は二日後に迫る。
俺と共に、初航海同士。そんなロンギング号も、もうすぐバラバラになって燃え尽きるのだと思うと寂しかった。
船内を移動する俺の前に、船長と同じアメリカ人のクルーが現れ、手を振った。
「よう、大丈夫か?」
国籍も年齢も雑多な総員六名のロンギングクルー。二つ歳下の三十八歳、フィリップはアメリカの空軍出身で、元航空自衛隊員だった俺と経歴が似ていることもあり、軽口も交わせる仲間だった。俺はこいつと一緒に宇宙に行けたことを、嬉しく思う。
「大丈夫って、何が?」
「EVA(船外活動)に決まってんだろ。船体のゴミの除去なんて、やらんでも大丈夫かもしれんのに…… なんで志願するかな……」
やっぱりなと、俺は思った。宇宙飛行士とは思えないくらいにヘラヘラしているやつだが、仲間思いなやつだ。俺の志願を気に掛けているだろうなとは思っていた。
いや、それは多分フィリップだけじゃないだろう。船長も、他のクルーも一緒だ。
「安全に、帰りたいだろ? みんなは家族もいるし」
「その心は嬉しいけどね…… 地上からも通信来てたろ? やらなくても問題は無いだろうって……」
「宇宙じゃ何があるかわからない、万全は期した方がいいだろう」
「オカタイねぇ……」
「オカタイ職業なのはお互い様だろ」
全て予定通り、ずっと準備してきた通りに進んだ今回のミッション。しかしイレギュラーが、たった一つだけあった。
宇宙へと乗り出して一週間をした頃、ロンギング号のカメラから、船体に付着した『ゴミ』が発見されたのだ。それはほんの、手のひらと同じくらいのサイズの薄い金属パネル。そいつは航海を重ねた今も、同じ場所に張り付いている。
ロシア型と同じ使い捨てタイプのロンギング号は、帰還時に船体をバラバラにし、船体中央の帰還船部分のみを地上へと戻す仕組みになっている。それゆえに、この『ゴミ』の除去は発見以来、議論を重ねられてきた。
今俺達がいる船体前部の軌道船。『ゴミ』はこの部分と、ぎりぎり掛かるか掛からないか、帰還船との境目に張り付いている。取り除かなければ危ないという意見と、どうせ分裂する部分だから問題無いという意見に分かれ、それはつい一昨日まで続いていた。
俺が除去に出ると、EVAを申し出るまで――
「なぁハンドラー、わかってんのか? たった数ミリのデブリでも食ってみろ、お前どうなるかわからないぜ?」
ハンドラーは俺の愛称だ。こいつが報道機関に言ったせいで、そろそろ世界的な愛称になりつつある。
「船長にも言われたよ、っていうか、それくらいは知ってるよ。船は問題無く飛べてる、大丈夫だろ。もう明日にはプレブリーズの開始も決まってるんだ、今更やめるなんて出来ない」
「はぁ…… キミってやつは……」
「今までEVAなんて先人がヤマとやってる。それに、ちょっと掴んで引っ張るだけさ」
そう、俺のやることは、『ゴミ』を手で掴んで宇宙に棄てる、それだけだ。
過去、人類の宇宙船からの船外活動は、黎明期の実験からアポロ計画、地上四百キロメートルに浮かぶ宇宙ステーションの建造や維持を乗り越え、既に総計一千時間を超えて行われている。技術はしっかりと確立されており、訓練を受けた宇宙飛行士が大仰に恐れるものでもない。
ただ問題は、予定外のミッションであること。同時、オリオール型初のEVA機能の試行であること。
宇宙は何が起こるかわからない。例や想定の無いことは、全て好奇心と危険に包まれた、『冒険』だ。
「ハンドラーは簡単そうに言うね…… キミのハートがメイド・イン・ジャパンというのは、嫌というほど見てきたが……」
「どういたしまして」
俺は昔から、空に対する恐怖という意識が薄かった。
というよりも、恐怖という感情そのものの前に、一枚の膜が張られているようだった。どこか遠く、自分事では無い感覚。それを人に上手く説明出来た試しは無い。自分でも、よくわかってはいなかった。
オーバーな、呆れたようなため息を吐き、フィリップはごそごそと制服のポケットを探った。
「これ持ってけよ、落ち着くぜ」
「これは?」
「すごくいいものさ」
俺の手の中には、地上では見慣れた、一台のスマートフォンが握られていた。
その日のミッションを終え、狭すぎる個室に戻る。
体を寝袋に収め、固定した俺は、明日のEVAに向けて早々に眠りにつくことにした。
トイレの個室以下の広さの部屋で、立った体勢のままで寝る。未だに妙な違和感があるが、そもそも床というものが無い。どこを向いていても、寝そべっているといえば寝そべっているのだ。考えれば考えるほどに、宇宙とは面白い。
――『安全に、帰りたいだろ? みんなは家族もいるし』
フィリップに向け、何気なく言った一言が俺の頭を掠める。
まだ俺が小さな頃、こうしてなるなんて思ってもいなかった宇宙飛行士は、当時男の子のなりたい職業上位だったように記憶している。
それはもちろん、スポーツ選手や医者のように実現の難しい夢の職業で、憧れるだけで精一杯な狭き門だ。並々ならない自己研磨と、これでもかというくらいの運が必要。なれてしまった俺でも、どうしてなれたのかはよくわからない。
ただ、他の夢の職業はわからないが、この宇宙飛行士という職業は、実際に実現されるまでどうしても年齢が嵩む。
フィリップや俺のような三十代後半から四十代が普通で、たいていは元の家族に加え、新しい家族を得て、それを置いて宇宙に出ることになる。そして帰り、笑顔や涙とともに迎えられる。
俺には、家族はなかった。
世間には公表していないが、俺は孤児だった。養護施設で暮らし、そこを出ていくために必死に勉強を重ね、独り立ちついでに防大から航空自衛隊に入り、その延長線上でここにいる。
自分でも何がきっかけで、どうしてここまで宇宙にのめり込んでしまったのかは、今にしてみればわからない。一つ言えるのは、空が好きだった、それだけだ。その先に何があるのか、人のいない世界はどうなっているのか、それが見たかった。
そしてここに来た俺は、なんとなく、俺がそうやってここを目差してきた理由がわかったような気がする。
危険が過ぎる、EVAミッションへの志願――
俺は、誰もいない場所から生まれ、誰もいない世界へ還ろうとしているのかもしれない――
ふと、目が覚めた。
こんな俺でも、緊張しているのだろうか。喉が無性に乾いていた。
俺は体を身動ぎし、寝袋を下げて腕を出した。まさに立って半畳な個室、目の前にあるPCラックに置いていた、飲料のパックを手に取る。
「ん……?」
ストローを咥えた俺は、PCのキーボードの脇に乗っていた、スマートフォンに目を止めた――
『はぁ!? 新曲のダウンロード……?』
『ああ、こないだナップル社と回線繋げてさ? いけるかなって。ちゃんと購入決済まで通ったぜ?』
『……君のシークレットな実験には恐れ入るよ』
そんなフィリップと交わしたやりとりを、今になって思い出す。
平たい黒の小さな端末、それはスマートフォンではなく、その前身とも言える音楽プレーヤーだった。クルー達は個人の趣味やら国や企業との絡みやらで、わりとなんでも持ち込み、余暇に勝手な実験をやらかすことはあるが、宇宙でクレジット決済を行ったのはフィリップが人類初かもしれない。ちなみに、アメリカでダウンロードするより速かったと言っていた。宇宙は謎が多い。
「はぁ…… ま、悪くないかな」
渡されたプレーヤー、せっかくなので寝ながら聞こうと曲を選ぶ。昔は同じものを自分も使っていた。操作に迷うことはなかった。
「うわっ!」
とんでもないボリュームで、イヤホンから爆撃のようなドラムとギターが鳴り響いた。慌てて音を停止させ、ボリュームを絞る。フィリップの耳を疑いながら曲を変え、数曲選曲してみるも猛烈なロックばかり、プレーヤーはロックのすし詰め状態だった。
「……これ聞いて落ち着くって神経がわからん」
興味を失った俺は、プレーヤーをデスクに戻そうとし、その手を止めた。
「まぁ、礼くらいは言おうか……」
同僚が宇宙で購入したという、日付の一番新しい曲を選ぶ。
わざわざこんな場所で買ったという曲には興味があった。それに、気を遣ってくれた手前、「いい曲だったよ」くらいは言ってやる準備をしてやりたい。
選んだ曲が、イントロを奏でる――
「……?」
ロックばかりの中、その一曲は静かなピアノバラードだった。