2.倉橋美智 6/27 15:20
田舎町の車一台も厳しい狭路へと、白いワゴンを進ませる。
この社用車のワゴンでは、対向車に会えば道を譲ることは難しいだろう。私の後ろ、後部座席には青い顔をした「実弾」が乗っている―― この呼び方は好きじゃない。歴とした人間で、うちの顧客だ。
何軒かの一軒家を越えた先、築何十年かもわからない文化住宅に辿り着く。私は後ろからの案内の通りに駐車スペースに入り、その人を降ろした。
「すみませんでした…… 倉橋さん」
「いいんですよ。でも体調の悪い時はご無理をなさらず、早めに連絡をくださいね」
降ろした三十代半ばの女性―― うちの会社の派遣スタッフと挨拶を交わし、私は車を発進させた。狭い民家の間を、国道に向けて再び縫っていく。
「こんなところに住んでちゃ…… 派遣しかないのかなぁ……」
見渡す限り古い民家だらけで、見上げれば環境問題なんて嘘としか思えないくらいに広がる山々。辺鄙な田舎、中途半端な田舎。高い商社ビルなんてただの一つも見えなかった。
でもこんな場所からでも、正規雇用されて仕事に通っている人は当たり前にいる。私は漏らした思慮の浅い発言を、一人心の中で撤回した。
そういえば、私も一応は正規雇用だ。こんな仕事だと空気に呑まれ、つい忘れてしまう。
「ふぅ…… 暑……」
社用車の窓を、くるくるとレバーを回して少し開けた。古いワゴン車、前面には未だにカセットテープを差し込む場所がある。運転していると、まだ二十八歳のはずの自分がひどく老け込んだようにも錯覚する車だった。鈍重なMTのワゴン車を操縦する女、世間的にはどうなんだろうと、たまに思う。
ダルく、熱っぽい頭で運転を続ける。疲労感はすでにどれくらい前からあるのかわからない。業務時間の長さはもとより、ただただ気の滅入る仕事だった。
最近の鏡に映る自分は、ただでさえ痩せているのに顔までコケてきているような気がする。切ろうと思っている長い髪も、そのせいで切る気にはなれずにいた。
大学卒業後、幾つかのアルバイトを経て、この仕事について一年と少し。向いていない、友達に言われたことも、上司にも親にも言われたことがある。
些細な人の言葉をいつまでも抱えてしまう、そんな私にはきっと本当に向いていないのだろう、この仕事は。上司のように図太くなる、色々な現実を抱えて働くスタッフ達を『商品』と割り切れる、そんな日は、私には来そうになかった。
狭路が開け、二車線の国道へとさしかかった。
私は合流のためにウインカーを左に出し、車の途切れを待つ。
「あっ…… あの人……」
反対車線の歩道に、茶髪の百七十センチくらいの青年が歩いているのが見えた。耳からイヤホンのコードを垂らし、陽気に歩く姿には見覚えがある。
「えっとたしか、黒光さん…… だっけ?」
うちの派遣スタッフの一人。担当する派遣先の関係であまり接点は無くとも、珍しい名字で、この仕事には珍しい若さと、珍しい大卒者なので記憶にあった。たしか所長の木下が、管理名簿の備考欄に「無理強いOK、厄介者の引率OK」と、実に彼らしいコメントを記していたはずだ。
人好きのしそうな雰囲気と、人の好さ。そういう人が扱い易いのは、どこの業界も同じだと思う。そう、都合良く、扱い易い。
遠目から失礼なことを考え、勝手に不憫にも思っている私に気づくはずもなく、コンビニを背景に黒光さんが左から右へと歩んで行く。そんな彼の後ろから二トントラックが一台走り、彼の前に停止した。
コンビニの駐車場に入ろうと彼の通過を待つトラック、その影へと、黒光さんの体が隠れる。
「……!?」
隠れたはずの黒光さんの姿が、一瞬にしてトラックの前方を歩いていた。
私は、目を見開く。
のこのこと、ゆっくり坂道を登っていたはずの黒光さん。
トラックの影に隠れて、今同じように少し先をのこのこと歩いている黒光さん。
彼は今、たしかに「ワープ」していた。
「……ってそんなわけないじゃない…… 一瞬寝ちゃったのかしら」
私は独り言を吐き、首を振る。さすがにその勘違いはすぐに直った。
綺麗に隠れる形で、ちょっと走っただけなんだろう。私自身も、歩いている時は自然そうしてしまう。よくある善意、いや、ただの強迫観念かもしれないけれど、それがたまたまそう見えてしまった、それだけだ。
本当に疲れているなと感じながら、私はアクセルを踏み出す。
黒光さんの歩く反対車線は、車が途切れていた。
そんな疲労からの勘違いに気づく間もなく、そこで私は意識を失った――




