シャボン玉飛んだ
コンビニに売っていた。懐かしさを通り越したレトロな絵柄が、目についた。最近はこんなモノまで売っているのかと、私はその「シャボン玉セット」を手に取った。
子供の頃、格別シャボン玉が好きだったという記憶はない。ただ何となく棚に戻すのも面倒な気がして、私はそのままレジへ向かった。
真夜中過ぎ。二階の部屋の窓を開け、煙草でも喫うように身を乗り出してみた。折角買ったのだから、吹いてみようと思ったのだ。
特段の理由があって、この時間を選んだわけじゃない。ただ、昼間にいい大人が一人でシャボン玉を吹くのは、何となく憚られただけだ。
夜中にシャボン玉を吹くのは、初めてだった。
私は額にひんやりとした夜の空気を感じながら、プラスチックボトルの蓋を外した。おずおずと、餌を掠め取る野良猫のように、私はストローを挿し入れた。
ぽたり、と粘液がストローから零れ落ち、零れ損ねた粘液がストローの先端に絡まる。私はストローに口をつけ、慎重に息を吹き入れた。
ゆっくりと、ぬめりながら大きくなっていく球体は、ほんの少しの弾みでストローから離れ、空へと飛び出していく。ふわり、ふわり、と所在無く漂った後で、シャボン玉はあっさりと割れてしまった。
「あーあ……」
私は、私が驚くほど落胆した。だから落胆を誤魔化すかのように、すぐさまストローをボトルに突っ込んだ。突っ込んでは引き抜き、突っ込んでは引き抜きしていると、ボトルの中が次第に泡立ってきた。
慌ててストローに口をつけると、弾みで飲み込んでしまった。
「う……っ」
苦い。とてつもなく、苦い。
私は涙目になって噎せ返りながら、そういえば食べ物以外のものを口にするのは何年ぶりだろう、などと考えていた。
喉の奥がひりつくのでやめようかとも思ったが、ここでやめるのは何となく悔しくて、私は再びボトルを掴んだ。
ストローを突っ込み、ボトルの中をがしゃがしゃと掻き回してやる。そして次こそ慎重にストローに口をつけ――つん、と洗剤の匂いが鼻をついた――ひと息に長く、吹き入れた。
小さな、飛沫のようなシャボン玉が夜空を一直線に駆け上がっていく。
なんと清清しい。私はまるで快楽じみた到達感を覚えていた。
楽しくなってきた。私はシャボン玉を吹き続けた。ボトルをがしゃがしゃと掻き回しながら、夜空に向かってシャボン玉を吐き出し続けた。
不意に。私は窓の下から視線を感じた。
目を遣ると、そこには女の子がいた。
私は反射的にシャボン玉のボトルを隠した。何も悪いことはしていないはずなのに、言いようのない後ろめたさを感じていた。
五歳にはなっていないだろうか。痩せていて、年齢もよくわからない。髪はざんばらで、服装もみずぼらしいとしか形容できない状態だった。
女の子は憐憫を拒む強い眼差しで、私を見上げていた。正確には私の手の中のシャボン玉のボトルを見つめていた。
何かが変だと、感じ始めていた。声をかけるべきなのに。こんな時間に女の子が一人でいるなんて、保護して警察に通報するべきなのに。
私にはそれが、できなかった。
代わりに、私はおずおずとシャボン玉のボトルを取り出してみせた。女の子が微かに笑ったように見えたのは、気のせいだろうか。
私がストローをくわえると、女の子が期待に満ちた眼差しで、身じろいだ。その時に、はっきりとわかった。
今にも骨が浮き出そうな細い腕は白く、透き通って、後ろの垣根を透かしていた。女の子の足元は暗く、地面に溶け込んでいるようだった。事実、彼女は大地に根付いているのかもしれない。もう、ずっと前から。
不思議と、恐怖は覚えなかった。
私は初めてシャボン玉を吹いた時のように、ためらいがちにストローをボトルに挿し入れた。私の手で散々に蹂躙された薬液は小さく泡立ったまま、優しく私を迎え入れた。
引き抜くのが早すぎたのだろうか。ぼたり、とストローの先から薬液が垂れて、私の指先にかかった。私は、喉の奥の痛みを思い出していた。
私は女の子の方を見ないようにして、まっすぐに夜空を見上げ、ストローに息を吹き入れた。ぬらぬらと輝きを帯びながら、シャボン玉は大きくなっていく。そして突如、私の手を離れて空へと舞い上がっていく。
風のない夜だった。
シャボン玉は緩慢に漂い、パチリと弾けてしまった。
微かな飛沫が落下していったけれど、私はその行く末を見なかった。
私は既にストローを番え、次のシャボン玉を生み出そうとしていた。こんなもの、いくらでも生み出せる。弾けんばかりに膨らんだ先が、ねっとりと濡れていた。
私は何故か悲しい気分で、ストローに息を吹き込んだ。
――「シャボン玉飛んだ」ってさ、間引きの歌なんだって!
嬉しそうに悲鳴を上げながら、話していたのは誰だったか。
記憶は彼方に消え失せて、もう見えない。
私の溜息を閉じ込めたシャボン玉は、踊るように廻りながら、昇りつめていった。高く、高く――私は、シャボン玉を吹き続けた。
どれほど慎重に息を吹き込んだとしても、いずれ弾けて霧散して、跡形もない。おそらくは薄幸であったのだろう、少女の人生を私は知る由もない。
風よ、吹け。
私は知らず、祈っていた。せめて少女の目の届く場所で、シャボン玉が壊れてしまわないように。
風、風、吹けよ。
私はボトルが空になるまで、シャボン玉を吹き続けた。
そして、ようやくうなだれるように窓の下を見下ろすと、そこにはただ何も亡い空間が拡がっていた。それは、確かに何かが在ったことを、教えていた。
生ぬるい風が吹いて、ボトルの底から漂う洗剤の匂いが、鼻をついた。