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大阪・新世界にて

作者: 得無

 新世界と言ったら、ドヴォルザークであろう。ボヘミア生まれの彼が、異国アメリカの地で聞いた新しい音楽に心を動かされつつ、故郷に思いを寄せて書いた名曲である。しかしここ大阪の新世界ときたら、日本の、古き良き昭和のニオイがぷんぷんしている。この雰囲気、決してキライではないのだが、新世界という名称にはそぐわない。いっそ、「旧世界」に改名したらどうだろう。

 大阪に来るのは初めてではないが、新世界は今日が初めてだ。帰りの夜行バスの時間まで、まだ4時間以上ある。というわけで結局、通天閣の下の串カツ屋に入り込み、カウンターでビールを飲んでいるわけだ。


 1杯目の生ビールが空く頃、隣にひとりのおっちゃんが座った。おしぼりが出され、「とりあえず生」ってことで、突き出しとビールが運ばれてくる。別に不思議はない。アタリマエの光景である。が、次の瞬間、このおっちゃんが席を立ったのだ。トイレではない。いきなり、勘定場へ向かったのだ。もちろん、ビールにも突き出しにも、ほとんど口をつけていない。にもかかわらず、勘定を済ませて店を出ようというのだ。何しに来たんだ?このおっちゃん・・・

 さすがに店員も、何か不都合でもあったのかと、一生懸命事情を聞いている。しかし・・・文句をつけているような様子ではなく、おっちゃんはそのまま逃げるように店を出て行ってしまった。なんとも不思議なおっちゃんである。


 カウンター内に戻った店員に、つい余計なことを聞いてしまう。

「いまのおっちゃん、なんだったの?」

すると意外にも、流暢な東京弁が返ってきた。

「いや、私も聞いたんですけどね、何でもないとしか答えてくれないんですよ。怒ってるというより、なんか慌ててるみたいな感じでしたね。」

聞けばこの店員、大阪生まれだが東京育ちで、調理師の専門学校を出た後、あちこちで修行しているんだそうだ。

「ゆくゆくは、自分の店を持ちたいと思っているんですが、腕もまだまだだし、だいいちお金が貯まりませんよ。」

と屈託無く笑う左の頬に、黒い四角形の大きな傷痕が、ひどく目立っていた。


「あれ?それは・・・」

多少酔っぱらっていたせいもあるが、後先も考えず、その傷痕を指さしてしまった。触れられたくないことだってあるだろう。これまでの人生で、他人から散々、奇異の目で見られてきたのかもしれない。訊いてしまってから後悔したが、後の祭り。一瞬気まずい雰囲気が漂う・・・のかと思ったら、店員は屈託のない笑顔を崩すことはなかった。

「ああ、これね。小さいときに火傷したんですよ。自分でも覚えていないくらいの頃の話なんですけどね。」

まだ立てるか立てないかの頃、親が内職で使っていた電気ゴテに、顔をくっつけてしまったのだそうだ。かの野口英世も、幼い頃に囲炉裏に落ちて手に火傷を負ったということだが、危険を避ける手だてを知らぬ子供にとって、周囲は危険だらけであるわけだ。


 2杯目の生ビールが空く頃には、だいぶ酔いもまわり、皿の上も串だらけになっている。酔っぱらって夜行バスっていうのも無粋だ。勘定を済ませ、しばらく夜風に吹かれて酔いを醒ますか・・・と通天閣を見上げながら歩き出す。すると、目の前に銭湯があった。まさに新世界、いや旧世界っぽい昭和のニオイ・・・。ついフラ〜っと男湯の暖簾をくぐると、下駄箱のカギも古めかしい木造りである。そして中はもう、地元のおっちゃん達の社交場であった。大阪弁は、聞き慣れないと、みんなケンカしているみたいに聞こえるのでドキドキしてしまう。

「そら、あんたの息子のこっちゃ。あんたが好きにしたらええがな。」

大した内容ではないのだが、様子はまるでケンカ腰である。

「けどな、結局あんた、息子から逃げとるだけなんちゃうか?」

待てよ、これホントのケンカなんちゃうやろか・・・と、こちらまで大阪弁になりながら見ていると、

「あほらし。もう心配してやらへん。」

と言い捨てて、ひとりのおっちゃんが湯船から出ていった。残された方のおっちゃんは、黙ったまましばらく天井を見上げていたが、ゆっくりと湯船から出て、そしてこっちに近づいて来た。その顔に私は見覚えがあった。さっきの飲み屋で見たおっちゃんではないか!


 銭湯には、いくつかの種類の湯船がある。私が浸かっていたのは、入浴剤が入ったようなエメラルド色の湯船であったが、おっちゃんは手前にあった狭い湯船に入った。腰まで湯に浸かり、ムズカシイ顔つきで何かを考えている様子だった。どうしても飲み屋での一件が気にかかっていた私は、さぐりを入れるため、おっちゃんの湯船に移動することにした。こちらの思いを悟られぬよう、出来るだけ自然に、なにげなくおっちゃんの傍らに足を入れる。その瞬間、

「うぅわっ!何だぁコレ???」

私は思わず叫び声を上げてしまった。足に電気が走ったのだ。いや、比喩ではない。本当に足が感電したのである。見ればその湯船には、「電気湯」と書いてある。こんな無防備な濡れた体に電気を流すとは、まさに殺人的な浴槽である。こんなの、見たことも聞いたこともなかった。しかし私の叫びには、おっちゃんのムズカシイ顔つきをいっぺんに吹き飛ばす効果があったようだ。おっちゃんはやさしく私に声をかけてきた。その屈託のない笑顔を見たとき、私の脳裏に別の人の顔が浮かんだ。

「そうか、このおっちゃんの息子って・・・。」


 数分後、私とおっちゃんは、別の浴槽に並んで肩までつかっていた。

「火傷の痕を見つけた時、息子やいうことはすぐにわかったんや。でも、思わず逃げ出してしもたんですわ。」

そう話すおっちゃんは、見るからに寂しそうだった。自分が使っていた電気ゴテで、火傷を負わせてしまったという罪の意識があったのだろう。その後、夫婦仲も悪くなり、女房は息子を連れて東京の実家に戻ってしまったのだという。こんなところで何十年ぶりに出会ったというのは、まさに神の悪戯であろう。

 もちろん私に口を挟める問題でないのだが、ついまた余計な口を出してしまうのが私の悪い癖だ。

「息子さんと話してみればイイじゃないですか。火傷のことだって、そんなに気にしていないと思いますよ。」

しかし、おっちゃんの顔に明るさは戻らない。

「みんなそう言うてくれるんやけどね・・・あの時の泣きわめく息子の顔が、瞼に焼き付いてしまっとる。息子は忘れとるのかもしれん。・・・でも、神様が許してくれへん。」

おっちゃんは、寂しそうにそう言い残し、ゆっくりと湯船から出て行った。


 気付くと、さっきまで大勢いた地元のおっちゃんたちは大方いなくなり、浴場はひっそりとした空気に包まれていた。

「あの人な、自分で息子にコテを押しつけたらしいで。」

傍らにいた地元のお年寄りが、小さな声でつぶやいた。

「若い時分は生活も苦しうて、かなり荒れとったんちゃうやろか・・・」

内職の作業中、そばに這い寄ってくる息子に苛立ち、コテを頬に押しつけたというのだ。おっちゃんの穏やかな笑顔からは想像もつかない話だった。しかしそういうことなら、「神様が許してくれへん。」という言葉の意味もわかる気がする。あれは重いひと言だったのだ。その重い罪の意識を、おっちゃんはずっと背負って生きてきたに違いない。でも、もしその事実を息子が知ったとしたら・・・

「息子には会わん方がええ。」

お年寄りは独り言のように、繰り返しそうつぶやいていた。


 外に出ると、暖まった体にも冬の夜風は冷たかった。ゆっくり歩けば、夜行バスにちょうどいい時間である。

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― 新着の感想 ―
[一言]  サクサク読めました。内容も発展的要素を多分に含んでると思います。また、物語が発展を望んでいるようにも感じました。  息子は本当に知らないのか?知ったら、父親を許せるのか?父親はもう一度…
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