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共鳴する  作者: はなぶさ
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中編

翌日、私は再び、元の私に戻っていた。

あの満ち足りた感覚はなくなり、私は、いつもの鬱々とした気分で泥のように重い体をベッドから起こした。

花を売らなきゃ。子守をしなきゃ。お金を稼がなきゃ。

修道院はいつだって貧窮している。

親のない子供たちに分けるパンを手に入れる為に、今日の夕食を得る為に働かなくちゃ。

薄汚れたベッドに手を付くとほこりが舞った。


キャサリンはきっと、こんなベッドで眠ったことはないのだろうと思う。


そう思って自嘲する。だから、何だというのだ。

私とあの子は双子だけれど、初めから違っていた。

血を分けたように肉体を分け、心を切り離し、別々の生き物になった。

だから、同じ生き方はできないし、同じ生活もできない。

私は私でしかないのだ。


だけど、

だけど、それまでとは確実に変わってしまった自分に戸惑っていた。


「ステファニー、はい」


手を差し出せば数枚の硬貨が乗せられる。

私という人間の価値は、このたった数枚の硬貨の価値しかない。

それでも、これだけの価値があるだけマシだと思わなければ、呼吸することさえ辛くなりそうだった。


―――――私はもう何年も、自分を売って生計をたてていた。


修道院というところで育ちながら、未だにそこに身を置いているというのに、私はとっくの昔に神を裏切っていた。

神に愛を捧げたところで、神に救いを求めたところで、ご飯は食べられない。

私の下には何人もの親のいない子供がいて、全員が飢えていた。

今年の冬を越えることできるか、というところまで耐えて、そして誰かに耳打ちされた。

どうしてもお金が必要なら、貴女でもできる仕事があるよと。

私はまだ子供で、それがどういうことかはっきりとは分かっていなかった。

だけど、学もなく身分もないに等しい私が稼げる仕事なんて、そうないだろうということは分かっていた。

そして、今すぐにでもお金を得ることができなければ一番下の子から儚くなるだろうことも分かっていた。

だから、売れるものを売ることにした。

決心する必要さえ、なかった。

できることをした。それだけだった。


「ねぇステフ。こんなことが修道院長に知れれば君はどうなるだろうね」


ベッドの上で身支度をしながら男がニヤリと笑う。

私はただ首を傾いだ。


「打ち首でしょうか」

「おいおい、真顔でそんなことを言うんじゃないよ。興が冷めてしまうじゃないか」

「言い出したのは貴方様ですが」

「確かに」


神を裏切る行為は殺人にも匹敵する罪悪だ。

少なくとも修道院というところは、そういう場所だ。


「僕が吹聴するとは思わないのかい?僕だけじゃない。他の人間も」

「そうですね。人の口に戸は立てられない」

「・・随分と冷静じゃないか」


男がコートに腕を通すのを背後から加勢していると、「ああそうか」とぽつりと呟く。


「どうなってもいい、と思ってるんだね」


そしてふとこちらを振り返り、その大きな手で私の頭を優しく撫でた。

「可哀想に」と、ちっとも可哀想だと思っていない顔で笑う。

そんな君にチップをあげようと、また数枚の硬貨を手の平に重ねていく。


「君は、こんなものの為に命をかけているんだね」


とろりとした蜂蜜色の目が、同じ色をした硬貨に注がれている。

これが君の命の重さなんだね、と抑揚のない声で言われて「そうですね」と答える。

彼はそんな私を見て笑っていた。

私の命の重さを硬貨で数えた男が、笑っていた。


心が、どこかに落ちていくような気がして、昨日の自分を思い返す。

完全に失ってしまった高揚感が懐かしい。もう一度、あの感情を思い出したい。

だけど、どれほど想像してみても、どれだけ思い返してみても、あんな気分になることはなかった。

だから結局、今日は一昨日よりもずっと、気分が沈んでいた。


そしてそんな日にこそ、嫌なことというのは重なるもので。




「ステファニー、ごめんなさい」


キャサリンが待ち合わせ場所に連れて来たのは母だった。


「お母様がどうしても、貴女に会いたいって言うの」


涙を湛えてこちらを見ている母は、「ああ、ステフ。こんなに大きくなって」そう呟いた。

戸惑うように感激しているかのように私の方へ手を伸ばしてくる。


嫌だと思った。


手を触れてほしくないし、また、触れたくもなかった。

水も触ったことのないような白い手が私のひび割れた指先を掴もうと追いかけてくる。

上げられなかった視線の先で、しみ一つないドレスの裾がふわりと風に揺れた。


「私は貴女を手放したりしたくはなかったの」


ほろほろと涙を零しながら、許しを請うように、なぜ私を修道院に預けたのかを語りだす。

まるで、喜劇か何かの一幕ように。大仰な仕草で。

その言葉を聞きながら私は頭の中でその短くはない話を他人事のようにまとめ上げる。


―――――双子はげんが悪い。


誰かに言われたその言葉一つで、大商人の父は双子の内の一人を手放すことに決めたようだ。

事実なのか迷信なのか、そんなものはどちらでも良かったのだろう。

ただ彼が験を担ぐ人間だったという、それだけだ。

だから別にお金に困って売られたわけでも食い扶持を減らす為に捨てられたわけでもない。


結局はそういうことだった。

分かったことと言えば、両親は裕福で、キャサリンも良いところのお嬢様で、つまり私とは住む世界が違うということだ。


私は、キャサリンという姉妹の存在を知っていたけれど、彼女と自分がこんなにも違う立場だなんて知らなかった。


実際に顔を合わせても尚、私は自分とキャサリンを比べるようなことはしなかったし、そんなことに意味などないと分かっていた。

キャサリンが、私の置かれたような立場にいなくて良かったと、そんな風に思っていたくらいだった。

一昨日までは。


「それで一体どうしろと?」


自分でも、どうしてこんな声が出るのと思えるほど冷淡な口調になった。

顔もきっとそれに似つかわしい表情になっているに違いない。

近づかないで、そう言った声が届いたかどうかは分からないけれど、母は確かに傷ついた顔をした。


「ステファニー、お母様なのよ。貴女と私を生んだ人なの」


慌ててキャサリンが私と母の間に入る。

泣きそうな顔をしているキャサリンに「何を言っているの」と首を傾ぐ。

私には母親などいないのよ、と。

そう言うとキャサリンが、それでも、この人がいなければ貴女も私もこの世にはいなかった。だからそんなこと言わないでと泣いた。

お母様はずっと貴女のことを想っていたと。


そうね、一昨日までの私だったら「生んでくれてありがとう」とまでは言えなくても、拒絶することはなかったかもしれないわ。


肩を寄せ合う母親とキャサリンを見つめながら、そんな言葉が胸に落ちる。

だけど声に出すことはできなかった。

口を開けば恨み言を、自分だけ修道院に預けられた嘆きをぶちまけてしまいそうだったから。

そんなこと言ってもどうにもならないと分かっているのに。

だから代わりに、


「キャサリン、私たち、会うのを止めましょう」


決別を口にした。


*

*


キャサリンは悪くない。

私にもそれは分かる。


「キャシーが君に会いたいって泣くんだ」


クライドが私の所に会いに来たのは、当然の流れだと思う。

彼はいつだってキャサリンが一番で、キャサリンの為なら何でもできるという人間だったから。

本当は、キャサリンを傷つけた人間とは顔も合わせたくないだろうに、キャサリンが望んでいるからというそれだけの理由で私の所に来た。

修道院の隅に建てられた寂れた礼拝堂でクライドと肩を並べる。


「君がキャシーのことを恨むのも分かるけど・・」


そんなことを言い出した彼に私はただ嘆息した。


「何?何か違った?」


少しむっとした様子のクライドの目を見る。

「この顔が、キャサリンのことを恨んでいるように見えるのなら、貴方の目は節穴にも程があるわよ」

じっと見ていると、クライドはやがて怯んだように視線を外した。

そして「ごめん」と小さく呟く。


「だけど、時間の問題かもしれないわね」

「・・」

「このままじゃきっと、私はキャサリンのことを憎く思う。いつかきっとそうなるわ」


あんな満ち足りた感情を知ってしまった後では、それを知らずに育った自分があまりにも哀れで。

無意識に助けを求めそうになって、そして、助けてはくれないだろう彼女のことを憎むのだ。

いや、違う。

彼女はきっと、私が望めば、何の躊躇いもなくその手を差し出すだろう。

だけど、私は、その善意で伸ばされた白い指先まで憎むに違いない。


「私はキャサリンを好きでいたい。憎んだり恨んだりしたくない」


だからもう会いたくないの、と言えばクライドは黙り込んだ。


「それにキャサリンには貴方がいるじゃない」


私がいなくても大丈夫でしょ、と笑えば、クライドが俯く。


「君がいなければ意味がないんだ。キャシーは、僕じゃなくて君を必要としてる」


そして僕はそんな君に嫉妬してるよ、と罪でも告白するような顔をした。

「でも、それでも君がキャシーに会わないというのなら、僕も君に会うのは止めるよ」と小さく呟く。

思えば、キャサリンと過ごしたのと同じ年月を彼とも過ごしたのだ。

それは決して短い期間ではなかった。

けれど、そんな短くない年月を無為にしてしまえるくらい、彼の世界はキャサリンを中心に回っている。


それとも、無為になったのは時間ではなく、私という存在なのだろうか。




「君の両親は本当に非道だねぇ」


飽きもせず私の所へやってくる高貴な男が事も無げに言った。

その手から幾枚かの硬貨が私の手に渡る。


「君のことを捨てて、捨てなかった子を溺愛して?

捨てた子のことは知らぬ存ぜぬを貫き通すんだもん。君のことを助けられる財力もあるのにね。

ずーっと知らないフリをしてきたんだよ」


なぜそんなことを知っているのだという問いは、無意味だということを知っている。

この男はいつだって大抵のことを知っているのだ。

高貴な身分であればありとあらゆる情報が武器になるらしい。

私なんかのことが何かの役にたつとは思えないが、もしかしたら商人であるらしい両親の弱みを探ろうとしているのかもしれない。



「可哀想にねぇ、ああ、とっても可哀想だ」


男にしては細い指が私の解れた髪をすく。

無造作に抱き上げられて「誰もいなくなったねぇ」と楽しそうに笑った。

誰もいなくなったというのは、キャサリンとクライドのことを差しているのだろうか。

本当に、一体どこまで知っているのだろう。


「それで、君は一体どちらに嫉妬したの?」


どうやら何でも知っているらしい。


「キャサリン?クライド?」


本当に欲しかったのはどちらだい?

にやにやと笑いながら、金色の目を細める。


「何も、」

「何も?」

「何も、欲しくない」


もうとっくに、何かを欲することなんてやめていた。

望んでも、手を伸ばしても、こんな暗くて狭い場所には希望なんてない。


「・・君は本当に難儀な性格をしているねぇ」


這い上がる気力もないなんて予想外だ、と顔から笑みを消して途方に暮れたような顔をして私の額に帰すを落とす。

冷たい感触の唇が心地よかった。


それにしても、この人も変わり者だと思う。

身に着けている物から判断するに、相当に地位の高い人間だと思うのに、私なんて買いに来るのだから。

この男ほどの容姿であればお金など出さなくても言い寄ってくる女性はたくさんいるだろうし、わざわざこんな小汚い場所まで赴くのだから。


「・・なに?」


じっと見つめていれば、男が小さく首を傾ぐ。

そういえば、私は、この男の名前も知らない。


「もうそろそろ時間では?」


帰りを促すように、壁に掛けられた仕立ての良いコートを手に取ると、


「もう一枚硬貨あげるから延長で!」


と軽く言われた。

もらえるものならもらっておこう。そんな気分で手を差し出すと、


「もうちょっと躊躇いなよ」と苦笑する。

一体、何を望んでいるのか分からず、手を引けば、強引に硬貨を握らされた。

そしてその上から彼の手が包むようにして私の手を握り込む。


「このお金が一体どこにいくのか本当は知っているんだろう?」


困ったような顔をしているのに、その目はいつになく真剣だ。

首を傾ぐと男はふうと息を吐く。


「修道院長はどんどん羽振りが良くなっていくよね」


君と子供たちはいつもお腹を空かせているというのにね。

男の声がなぜか遠くで響く。


君の顧客が修道院に多額の寄付をしたのは知ってる?

知らないよね。

それで、君たちは一度でも満足のいく食事をしたことがあるのかな?

おかしいとは思わなかった?


畳み込まれるように続けられる言葉が耳を素通りしていく。

修道院長は私の母であり父であり祖父母であった。

私だけではない。

修道院に預けられた子供たち全員の心の拠り所なのだ。


「受け取った硬貨は全て修道院長に渡しているんだよね?」


問われているのか断言されているのか分からなかった。

肯くことさえできずに、間近で私の顔を見つめる男に視線を返す。


「僕には修道院長を更迭する力があるけど、どうする?」


面白そうに目尻に皺を寄せた男が、子供みたいに無垢な顔をして首を傾ぐ。


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