月を仰ぎし、祖は銀の狼
夢に見たその人は、綺麗な銀の体毛を帯びた狼の人でした。
―――――お前は、いずれ夜の者と共に草原を歩くだろう。
それは一年ぐらい前でしょうか、お城に来ていた占い師のおばあ様の言葉でした。
おばあ様の占いは本当によく当たり、でも言葉自体はよくわからず、その言葉は【事】が終わって初めてわかるようなことばかりでした。
だから、この言葉もよくわかる。
―――――其れは古き勇者、銀の獣。風の大君。天の竜の翼を得し、黄昏の狼。
きっと、あの人なんだろうって。
綺麗な紅い瞳。
スラッとしていて、でもがっちりとした獣の身体、汗のにおい。
柔らかな尻尾。すらっと大人びた鼻筋。
柔らかな口元、牙を覗かせていても、ちっとも怖くなくてその人は、私のことを撫でてあやして、そして囁いてくれる。
心地いい声。
―――――全ての精霊が彼にひれ伏し、全ての世界が彼に突き従う。
風のような性格。空のように澄んだ心根。
だけど、手はとても熱い。
傍にいるだけで、翼が生えてきそうでした。
夢の中で、私はあの人の背中を見つめる。
―――――大いなる獣、凶獣の化身。名を。
なんでだろう。私はずっと昔からあの人にあっている気がして、昔からあの人のそばにいる気がして。
夢の中の、その人は――――
―――――草むらが揺れる。
「1番……」
「状態変化なし。このまま接敵を続ける」
「続け」
『了解……』
月明かりを遮る丈の長い草葉に身を覆いながら、蠢く影が五つ。草原の真ん中にて立ち上る白煙を目指し、姿勢を低く地面を這うように駆け寄っていた。
その姿はまるで蛇。
地面を四つん這いに身体をよじりながら近づく、彼らを包み込み、月明かりの下、草むらが夜風に揺れていた。
星が瞬く空の下、どこまでも山合野中に広がるそこは、ラナクの大平原。
街道が南北に走るその草原は、かつて旧き精霊が悪魔と戦い、そして山一つがなくなった跡地とまで言われる場所だった。
事実その場所には、砕けた岩が辺り一帯に転がり、森と思しき場所には崩れた木の洞が散乱し、草むらで覆われた地面には、大きな爪痕がいくつも刻まれていた。
精霊戦争と呼ばれた、遥か昔の景色が月明かりの下に広がっていた。
「……接近まであと十五分ほど」
「……止まれ」
「どうした二番……」
「歴戦の勇士と呼ばれた、ガナン・アークフォールがこれほどの距離で気付かぬわけがない」
茂みのどよめきが止まる。
風が静かに丈の長い草原を揺らし、冷たい月明かりが静かに、黒づくめの潜入服を纏った人影を照らして、影を地面に移す。
「……罠か」
「気づかぬままか」
「どれだけ戦歴を重ねようが所詮は年老いた老兵」
「攻めるぞ。ここを逃しては、更に闘いは難しいものとなろう」
夜風のどよめきが、さざ波のように辺り一帯に広がる。
舞い上がる草葉が夜の空へと昇る。
それは翼を広げ舞う鳥のように、空へと駆け上がっていく―――――
「我らに勝利を」
「共和国に栄光を」
夜風を掻きわけ、五つの蛇が再び走り出す。草むらを掻きわけ、風を避けるように傷だらけの地面を這うように、走り出す。
そして、月明かりを横切り、焔を覗かせた白煙立ち上る野営地へ――――
「そこで止まりなよ」
―――――聞こえるのは、甲高い少年の声。
「!」
「接敵ッ」
「後方四時ッ」
「構えろッ」
夜風が強く渦を描くように、辺り一帯に激しく吹き荒れ、草穂が大きくしなり、千切れた葉が月明かりの下へと舞い上がり、視界が開ける。
草葉の隙間から見えるのは、銀色の体毛。
風になびく長い尻尾。
ニィと俯きがちに笑う鋭い牙を覗かせた口元。
手には、岩肌に突き立てた細長い杖。
獲物を見定め細める赤い双眸。
尖った耳を揺らし、ぼろぼろの白い服を宵の闇に靡かせ、突き出た鼻筋に皴を浮かべ、そこには獣人が一人、草原から突き出た大岩の上に片膝を立て座り込んでいた。
「君たちは何者かな?」
―――――ウォルフィアード。
深淵の森にすむとされる、獣人族の中でも希少種とされる一族。
その青年は、伝説と謳われるほどの種族によく似ていた。
「なぜこのような所に……!」
四つの人影の問いかけに、ニィと口の端が歪み、俯いていた瞳が開く。
その目はまるでナイフのように鋭く紅く、月明かりに照らされ、優しく狼男の少年は微笑み、夜風を全身に受け月明かりを背に受け立ち上がる。
スラリと延びた背丈は、どよめく四つの人影を見下ろし、悠然と狼男は囁く。
「なぜ、彼らを襲うの?」
「接敵開始。散開しろッ」
「了解ッ」
「ばれた以上は貴様もろともに……!」
草むらの合い間を縫うように散り散りになっていく四つの影。
少年は表情一つ変えず、眼前に残った一つの蛇のような細長い影を見下ろし、優しく囁いた。
「敵か……まぁそうだろうね」
「帝国は我らの言葉を何も聞かぬ。ただ闘いを広げ、民を苦しめるのみだ」
「それで恩恵をあずかっている人もいるよきっと」
「それは一部の富裕層にすぎない、我らは貧困にあえぐ民の代弁者だ……!」
「そうして振り下ろす刃が正義と語るなら、やがて貴方が立てる信念は、あなたの心臓を貫くだろう」
「戯言を……!」
「貴方はいずれ断罪を執行し、王の冠を戴く。そしてその正義が【方法】も【定義】も正しいと勘違いし、やがて民の上に立ったあなたは、こう考えるだろう。
人を殺して為した正義こそ、正しい。力を以て為した正義こそ正しい。私に従わないものは、殺せ、と。
広がるのは骸の山だ」
「……違う! 我らは貧困を、彼らを助けるために!」
「なら、その正義は王にではなく民に向けるべきだ。なぜ人を助けるために人を殺す。人を助けたいなら人を助ければいい。そうしないのは、貴方は助けたいと願望を持っていないからだ。
憎しみで人を殺そうとしている、貴方の本心に潜むのは、正義ではなく、殺意だ。それを正義と振りかざし、多くの民を殺す。
その殺意はやがて無辜なる人に向けられる。そして自らの心臓を喰らう。
ウロボロス。自らを食み、そして増え続ける其れは憎悪である」
「知ったような口をぉ!」
「心の淵を知らぬものに、魂の慟哭は聞こえない―――――刀を振るうことは魂を垣間見ること」
「撃てぇ!」
草間から飛び出すボウガンのボルト。
鋭い矢が眼前へと迫り、狼の少年はゆっくりと目を開くと、紅き視線を虚空に浮かべ、そして僅かに腰を落として岩肌に爪を立った。
風を切り裂き、矢が狼男の眼前に迫る。
狼は、眼を閉じる―――――
「――――龍が哭する」
風を切り裂く、まるで龍の嘶きのような鋭き金切音。
刹那。
虚空を斬る刃の閃きが走り、次の瞬間には、構えた狼の少年のすぐそばで、矢が微塵へと文字通り砕け散って夜風に舞い上がった。
少年に一切の動きはない。
ただ微動だにせず、杖の先を握りしめ、構える―――――
「何を……!」
「――――精霊展開!」
「だがここでやれば!」
「構わぬ、どの道ガナン・アークフォールにはばれている。ここで奴が出ていないと言うことは、先の龍との戦いで傷を負っている!
ここでこの狼を殺し、皇女を殺す、大義を為すのだ!」
―――――【風】が翼を広げ嘶く。
「龍刃式抜刀術」
消える。
夜風と共に舞い上がる土ぼこり。
岩壁に爪で蹴った跡を残し、叫んだ男たちの視線の先、四つの視線でとらえていたはずの狼男の姿が一瞬で、風に融けて消えた。
「な……!」
尾を引き草葉の穂が舞い上がり、夜風と共に草原を撫でる。
残るのは、草原の音色。
どこに行ったのかもわからない―――――
「くっ……夜の精霊よッ。この卑しき獣に」
「叫ぶな、位置が!」
―――――飛び散る草穂。
虚空に走る一文字。
宙に舞う胴体は、舞い上がる草葉と絡み合うように、宵の闇へと放り投げられ、やがて草むらに吸い込まれ、地面に鈍くぶつかった。
血飛沫は出ない。
浮かぶのは、鋭き刃の傷痕。
まるで表情を統べるかのごとく、それほどに滑らかに断面を覗かせ、やがて力なく男の下半身が崩れ落ちた。
「な……な……!」
男は驚愕に目を見開いて、胴を落とされ崩れる仲間の躯の先、丈の長い草葉の向こうに広がる闇を見つめる。
スゥと闇に閃く紅い瞳。
疾風を纏い靡く長い尻尾。
風を纏い、闇に融けるように、そこには身体を低く構える狼男の少年が、崩れ落ちた下半身の前に立っていた。
地を滴らせず月明かりを照り返す碧水晶の刃。
スッと鞘に納めるは、約七十センチの大振りの刀。
闇に目を細め、ゆらりとシャツを靡かせ、再び草むらへと潜るように身体を低く、走り出す銀の影に、残った四人の男は叫んだ。
「集合しろ! 奴は暗殺タイプだ! 背中を見せると」
―――――宵に尾を引く深紅の残光。
純度を増す殺気。
ハッとなり男は後ろを振り返ろうとした。
ダンッ
地面に罅が走り砕かんほどに、強く踏み込む前足。
それだけで衝撃が周囲の空気を震わせ、周りの草葉を大きくしならせ、男は数センチ先に踏み込む爪に僅かにのけぞり、目を見開いた。
そこには、闇から這い出す鋭い影があった。
腰に携えた刀の柄に手を掛け、一寸先と言わんばかりの間合いの先、風を纏い詰め寄る銀のオオカミの姿があった。
その目は刃の如く。
その殺気は、宵闇の月の如く――――
「……ガリエンテ……さ」
―――――虚空に走る【一閃】
バサッと草葉の穂先が一斉に円状に切り裂かれて、衝撃波によって一斉に舞い上がり、夜風が真空の刃となって辺りの草木を切り裂いた。
そして、首に走る冷たき刃の跡。
ツゥ……
斜めに走る刃痕に沿うように、滑らかに崩れ落ちていく男の首。
鮮血一つ流さず、まるで電池が切れたように男の躯がドサリと、地面に転がり、銀の狼は静かに破れた白のワイシャツを靡かせ、静かにその身を闇に潜り込ませた。
「……」
「ば、バカな……一瞬で二人も」
ザザザッ
草葉を掻きわけ、地面を抉るように走る音がどこかしこからも聞こえる。
紅き瞳が月明かりを帯びて闇に尾を引く。
獣が野を駆ける
「ウォァアアアアア!」
「失敗だ逃げるぞ! 早く来い!」
「こいつを殺すこいつを殺すこいつぉおお!」
闇に走る刃の旋律。
「あ……」
僅かな血しぶきの尾を引き宙に舞う両腕。
握りしめていた剣ごと、月明かりの下へと放り投げられ、男は前かがみのまま茫然と、草むらの向こうに見える月明かりに目を見開く。
「あ……ああ……」
―――――闇に尾を引く紅き瞳。
息をひそめ、草むらを掻きわける音を消し、地面を走る足音すら消し、獣が前かがみに潜り込むように、立ちすくむ男の足元へと踏み込む。
そして身体をよじり、腰の刀に手を添え囁く―――――
「円陣抜刀……」
――――――袈裟に走る刃の閃き。
振りぬいた刃の切っ先が円状に走り、次の瞬間、草葉が根元から切り裂かれて、衝撃波に浮き上がって、押し出されるように飛び散った。
立ち向かった男の背中にうっすらと刃の跡が走る。
次の瞬間、悲鳴一つ上げず、皮膚と肉の擦れるような音と共に、男は崩れ落ち、その向こうに振りぬいた碧水晶の刃を宵の月に掲げ狼男の青年が、地面に片膝をつき佇む。
ドサリ……
その断面は綺麗なまま下半身も、大地に沈み、狼男の少年は静かに、刀を鞘に納めて、地面をけり上げた。
「……」
「に、逃げろ。地の利が悪い、こいつは強すぎる!」
「う、うぁあああ!」
悲鳴と断末魔が闇に響く。
そして、その悲鳴と足跡を追いかけるように、夜のオオカミが草原を駆ける。
それはまさしく狩りの如く―――――紅い瞳が闇に尾を引き、銀の体毛を靡かせ、狼が走る。
――――夢の中の、その狼は、白く美しいものでした。
風を纏いたゆたう長いしっぽ銀色の毛、夜を見つめる紅い瞳。牙は鋭く鼻筋はすらっとしていました。
月を見上げ、立ちつくす大きな背中。
碧い水晶を削り出したような鋭い刀を片手に、その人は岩の上に立ち、降り注ぐ星に紅い瞳を細め、立ちつくしていました。
「……美月」
ポタリと黒い滴が刀の切っ先から滴りました。
その狼は泣いているようでした。
たくさんの屍を背に、その狼は月を見上げ、哀しげに――――
「ぼくは……必ずきみの所に」
強く握りしめた拳から血が滴り落ちて、痛そうでした。
その狼は泣いていました。
ウロボロスは本来、完全、完璧を意味するそうですね。主人公が使った意味とはかけ離れていますが、まぁこれも一つのミームということで。このミームが伝染しているのか、或いは私の中から生まれたものかは知りませんが。