3話 穴場宿屋『金のもぐら亭』
クベーロスの宿場通り、知る人ぞ知る穴場宿屋『金のもぐら亭』は夕餉時を迎え、食堂では宿泊客や食事客で賑わいを見せている。
『金のもぐら亭』の客室は二階と三階にあるため、一階がロビーと食堂である。王都にある宿屋の中ではあまり大きくはないが、教育の行き届いた従業員によってすみずみまで磨かれ不自由さを感じさせないサービスと、オーナー自ら食材を調達し腕を奮う美味しい料理が穴場と呼ばれる所以となっている。
泣きっ面にダブルパンチから少々復活した庄助とカイエは一旦客室に手荷物を置くと、埃一つない手すりを伝いながら階段を降り、戸のない入口をくぐって食堂へと足を踏み入れた。
急速に、鮮やかに色づくように、それまで壁越しにあったざわめきが明瞭に耳に届く。
そこでは、旅人が一期一会の出会いを楽しみ、冒険者が一世一代の武勇伝を語り聞かせ、吟遊詩人が歌う。従業員はパワフルな笑顔できびきびとテーブルを周り、調理人は大声で彼らを呼ぶ。賑やかしい日常の姿が広がっていた。
庄助はさっきまでの晴れない気分が嘘のように目を輝かせる。
「すっげえ、すっげえな、カイエ! ホントにこんな光景、初めて見た!」
「ふふ、だろうと思ってね、ショウスケの世界では中々お目にかかれないでしょう?」
「もちろん! こんなのアトラクションでも見れねえよ」
興奮した面持ちできょろきょろと辺りを見回す。ここでは全てが本物だ。魔法も大変興奮したが、どうにも魔法という気がしないのも本心だった。だからこそ、ここにある『想像通りのファンタジー世界』に心が踊るのだ。
「宿屋の名前も面白いしな、金のもぐら亭って。なあ、カイエ、なんでこの名前だか知ってる?」
「さてねぇ、親父さんに聞いてみれば? あ、飲み物は何がいい?」
カイエは庄助にメニューを手渡しながら給仕を呼びつけ、全くのそらで何品か注文する。どうやらここのメニューをある程度覚えるくらいには常連らしい。
「えーっと……」
読めるわけないじゃん、と思いながら渡されたメニューに目を落とす。
「……え!?」
一度目をこすり、確認して、もう一度目をこする。
さっきのはなんだったのだろうか、とまじまじと観察するが、そこに書かれているのは紛れもない日本語であった。
確かに目を落とした時はよく分からない文字だったはずだ。それが、文字だと思った瞬間に奇妙に歪み、日本語になったのだ。目をこすっても変わらないし、体に変調を感じるわけでもない。頭の中を弄られているような感じというよりは、どちらかといえば文字の方が変わったような感じを受けられる。
しかし相変わらずメニューには日本語になっても訳のわからない単語が並び、かろうじて飲み物であろう欄を発見した。
「えーっと、カイエ、オススメとかってある?」
「そうだね……これとかどう?甘めの蜜酒に柑橘果汁がしぼってあって、発泡水で割ってあるよ。甘いのが苦手なら豆と数種類の薬草のお茶とか。こっちは香ばしいね」
カイエの指先に踊る日本語をまじまじと見つめつつ、庄助は前者の飲み物を選び、カイエは後者を選んで給仕に告げる。給仕が去るまでじっとメニューを見続けていた庄助は、給仕が去るやいなや、ひそやかに声をあげる。
「なあ!何か文字が変なんだけど!」
声がざわめきにかき消されたらしく首を傾げたカイエに「文字が変だ」ともう一度告げると、カイエは得心がいったようにとんとん、と指先でメニューをつついて、片方の広角をあげた。
「メニューの文字がニホンゴになった?」
「あ、ああ!まさか……それも巫子の徴?」
「大正解」
視線を感じた時に言われた『巫子の徴』。関係ないと言い切るにはいささか奇妙な現象だ。結び付けない方がおかしい。
カイエは満足そうに頷いて、手を組んだ。
「じゃ、巫子様授業その一。巫子様は大体が見て巫子様だとすぐにわかるし、言葉に困りません。それはどうしてでしょうか」
勉強はゆっくりでいいと言われていたので、まさかそんなものが唐突に始まるとは予想だにしていない。しばし呆気にとられて、カイエに促されてはっと我に返ると、聞かれた内容に頭を捻る。
「えぇ? わかんねえ、そういうモンだからじゃねえの?」
判断材料に乏しいため、どうにも判断がつかない。などと想像を働かす前に適当に答えた庄助にカイエは軽い溜息をこぼした。
「アンタね……。もうちょっとこう、想像とか妄想とか働かせないかな?」
「やだよ恥ずかしい、それに間違ってたらもっと恥ずかしいだろ」
「ショウスケって意外と、ん、まあいいや」
「意外となんだよ」
「いい人生を送ってきたんだねってこと」
含みのある物言いに些かムッときたが、授業の邪魔をすまいと頭の中から記憶をさっさと払う。
言った相手は僅かに苦笑して脚を組み替える。組んだ指をもぞもぞと動かしながら、一呼吸おいて口を開きなおす。
「まず、これだけは覚えておいて。普通の異世界人は『引き摺られる』けど、巫子様は『引き摺られない』ってこと」
「何それ?」
「いいから。そうだね、街に出る前にここの地理についてざっと説明したよね?国神殿が異世界人の保護をしてるってことも」
「ああうん。あんまり覚えてないけど」
「ま、それは生きてるうちに嫌でも覚えるからいいとして、神殿のショウスケの居た居住区で、神官と兵士以外で同じような人を見た?」
神官と兵士以外、と言われて更に頭を捻る。殆ど誰もがありえない髪色だか目の色だがをしているし、普通にいそうな髪と目の色の人もいるにはいるが、少ない。
「あんまり……いなかったかな」
「うん。そうだね。更に言えば、その人たちは保護された異世界人だよ。ニホン人もいる」
「え?」
聞き返そうとして、素っ頓狂な声しか出なかった。
もう一度よく思い出す。金、群青、赤茶、桃色……どれも日本人ではない。
日本人特有の黒髪黒目は、染めていてもしばらく時間が経って根元を見れば分かる。
そう、日本人、いただろうか?まさか、髪を染めていた?それにしても目の色が日本人ではなかった気がする。カラーコンタクト?でもそんな技術がここにあるのだろうか?
ふと、先程カイエが言った言葉が頭に蘇る。
──異世界人は『引き摺られる』けど、巫子様は『引き摺られない』
「まさか」
「まさかだよ」
「色が変わるのか?」
「あるいは姿かたちも。変わると言うのも語弊がある」
カイエの言葉に、空恐ろしいものを感じる。何故だろう、巫子と呼ばれる存在が、急に現実感を伴ったり、剥離したりする。想像することも恐ろしく感じる。
「異世界から来たと言ってもね、この世の理だとか、真理だとか天則だとか言うものにそって作り替えられるんだよ。体と魂の構造をね。だから『引き摺られる』」
まさか、ともう一度呟いた声は、声にならなかった。
じゃあ巫子って一体なんなんだ?やっぱり恐ろしく特別な存在じゃないか。
「何もしなくていい」なんて嘘じゃないか。何か役割があるんだろう。
「巫子様ってのは『引き摺られない』。そっちの言葉で言う、メタフィクションだとか、第四の壁って分かる? 真理自体に抵触・干渉できるんだ。だからある程度『自分の真理を保てる』。言葉や文字、自分の姿かたちにこの世の真理が及ばないようにできる。だから魔力を持つことが出来ないんだよ」
「そんなのおかしいだろ!それなら俺は言葉を喋れないしわからないはずだろ!」
「それはこの世の真理でしょう。ショウスケが持ってる真理に干渉されてるだけ。ショウスケがそうしたいなら、エイ語にも出来る訳だし」
「そうしたいって、」
「意識すればいいよ。ただこの世の言葉にはできない。それはこの世の真理だから」
訳がわからない。英語と言った。大掛かりな保護体制を敷ける程だからその位知っていても不自然じゃない。それは分かる。とにかく英語、英語と意識すると、周囲のざわめきが何かにダブるように変化した。
「うわ!」
周囲のみんながみんな、英語混じりの、いわゆるルー語をしゃべっている。
逆にこっちの頭がおかしくなったんじゃないかと思う程、妙な空間が広がっている。
ルー語で冒険譚を喋る冒険者、ルー語で朗々と歌いだす吟遊詩人、従業員までルー語だ。
「きちんとイングリッシュにチェンジした?」
カイエまで妙な喋り方になっている。このまま喋らせればいけないと本能的に悟って、庄助はまた日本語を強く意識した。
「うん……」
つまり、自分の知っている物にしかならない。それが真理というものらしい。
確かにメニューを見てもそれが一体なんなのかは分からない。それは、庄助が知らないからだ。試しに先ほどのメニューに目を落として、説明されたことを強く意識してみれば、該当部分が妙な細かい説明に変化し、元の言葉に意識を向けると戻った。
途端にげっそりとした気持ちにおそわれ、視線を落とす。巫子授業は初っ端からだいぶハードだ。これからの授業が恐ろしい。むしろ食事前にされる話だったろうかと恨みたくもなる。
カイエ自身としては余りハードな話しぶりではなさそうだったのが更に拍車をかける。
しかし、余りにもハードすぎる。
からからの喉に唾を流し込むと、ちょうど良く頼んだ飲み物といくつかの食べ物を持った給仕が現れた。
先程までルー語で声を張り上げていた給仕は何事もないような顔で飲み物をテーブルに置く。
「さて、続きは食べ終わってからにしようか」
とりあえず食事中はハードな話が無いと知って、庄助は安堵の息を吐いた。