親父のこと。続きの続き。
店を出て、鈴木さんと別れた。
電車に揺られながら親父の話を聞いた。
ぼんやり座っているフリをしていても、つい、相槌をうちそうになるので、顔を伏せて寝たフリをきめこんだ。こうしておけば周りの乗客に不信に思われなくて済むだろう。
「鈴木は、いいように使われているんだ。鈴木の知らないところで、黒い取引がすすんでいるかもしれない。まずくなれば捨て駒として、責任をかぶせられて捨てられる。いわばトカゲの尻尾切りだ」
「た」
声がでそうになって、思わず咳払いする。
大変じゃないかよ、と思念で答える。
「そうだ。次長が扱っていたのはSコーポレーションの株取引だ。二流の製薬会社だな。
どうも裏で情報操作して、インサイダー取引をたくらんでいるのではないかと、気になっていたんだ。いつだったか、ホテルのロビーで次長と背広の男性が挨拶を交わしていた。
次長がこっちに気がついたので、わたしは軽く会釈をした。次長はとても気まずそうな顔を一瞬だけ見せた。
でもすぐに笑顔になってわたしに近づいてきて言った。
『珍しいところで会うね。今、学生時代の友人と会食を済ませたところだ。出張で九州から出てきているものでね』
そう言って次長はわたしから離れて行った。
ただそれだけだったけれど、わたしの心の中に不信感が黒いしみのように広がっていった。
あの男性はSコーポレーションの社員だ。ちらりと社章がみえた。Sは九州に支店はない。
なぜ次長は嘘をついたのだろう。そしてあの嫌なものでも見るような一瞬の表情はなんだったのだろう。わたしがいるうちは次長も煙たがって、尻尾を出すような大胆な事はしていなかった。
わたしも会社の管理部に通告するほどの証拠を掴んでいたわけではなかった。
だから仕事の内容をクリーンかつ透明に保つ事を心がけて様子を見ていたんだが。今わたしがこうして突然会社から去る事になって、たぶん仕事が滞り、不透明になっているだろう。
次長がまだ黒い企みを抱いたままでいるとしたら、今がチャンスだ。
わたしの死をチャンスと思うような人間でないことを願うけれど、会社はわたしがいなくても毎日同じようにまわっていくものだ。会社の人間にしたら、転勤となんら変わりない。
ちょっと寂しい気がするな」
親父が沈黙した。
親父の居場所。
毎日ぎゅうぎゅう詰めの電車で通勤して、一日の大半をすごしていたところ。
親父は疲れていたけれど、仕事を楽しんでいたと思う。すくなくとも仕事にプライドを持っていた。
それなのに居なくなっても穴も開かない。
集めて捏ねなおした粘土細工のように、元通り。
ショックだろうな。
もしもぼくが死んだら、学校はどうなるだろうか。
数日はざわついて、全校集会で黙祷があったりして。
でもぼくの影響で定期テストが中止になることはないだろうし、授業のカリキュラムは規定どおり消化されるだろう。
夏休み、体育祭、卒業式。
毎年の行事が去年と同じように繰り返される。
やっぱり粘土細工のように元通りってことになるだろう。ぼくもちょっと寂しくなった。
砂浜を歩いているような不安定な足取りで、駅の改札を通る。
急にスニーカーが重たくなったようだ。
携帯が鳴った。
着信、カズからだ。
「もしもし」
「ケン?いま、どこ?」
「うん、と駅。親父の会社に行ってきた」
「そっか。母ちゃんが、くそ暑いのに鍋をするって言っててさ。ケン、来られねえ?」
ぼくの寂しい電波が届いたのかな。さりげなく誘ってくれるカズ。
事故の前には自分の家族ほったらかしても、カズの家に入り浸っていたのに。
家族がいなくなってはじめて、遠慮がちな気分が芽生えてしまった。
「いいのか?」
「いいに決まってる。オレ、家にいるから。用事が済んだら来てくれや」
カズの家は真四角のコーポの三階。階段をあがって左手のドアだ。
玄関は狭いけれど、カズの母ちゃんはあまり物を増やしたがらないタイプで、こぎれいに片付いている。
ナミエの家は、玄関が広くて、大きな花瓶っていうか、陶製の壷に豪華な生け花がほどこしてある。
ただの花じゃなくて銀色に塗ったグネグネ曲がった枝が、前衛的っていうのかな、芸術的っていうのかな、ぼくの頭のなかでは思いつかないかたちで生けられている。
ちなみにぼくの家の玄関は、四人分の靴が靴箱にぎゅうぎゅう詰めで、棚の上にはお袋が、どっかで習って作ったという小さなプリザーブドフラワーが置いてある。
埃をかぶってしまっているけれど、出来栄えはまあまあだ。
うちの玄関は庶民的だ。
チャイムを鳴らすと、奥から
「あがれよ」
とカズが叫ぶ。
おじゃまします、と言っていつものように靴をすみっこのほうに脱いで居間に入る。
低いテーブルの上にキムチ鍋がどっかり陣取っている。
「あー、ケンちゃん、おかえり」
カズの母ちゃんが冷蔵庫からビールとコーラを持ってきた。
おかえり。
カズの母ちゃんはいつでもこの言葉でぼくを迎え入れてくれた。
全然意識していなかったけれど、ぼくをおかえりと言って迎えてくれるひとはカズの母ちゃんだけになってしまった。
「・・・ただいま」
と、言ってみた。
カズの母ちゃんがにっこり笑った。
ぼくはこのひとにずいぶんと救われているなと思った。
よかった、カズと友達で。
「座れよ」
カズが座布団を指差す。ぼくはコーラで喉を潤して、季節外れの鍋を、残暑の中汗だくで食べた。
楽しい夕食だった。ふとすると、今までのつらい一連の出来事が全て夢だったかのように。
頭の中の親父たちも出てくるのを遠慮してくれているみたいだった。探っても気配を殺している。
扉をぴったりしめているようだ。
ぼくが穏やかでいられる時間を尊重してくれているのかもしれない。
ぼくは今日会った鈴木さんの話をしてみた。
独身・高学歴・高収入のところには触手を動かさなかったカズの母ちゃんが、ルックスがちょっとイチハラハヤトっぽいと言ったら、ぴくりと反応した。
どの辺が?と聞かれたけれど、
なんて答えればいいだろう。
「雰囲気かな」
というと、
「ふうん」
と、納得がいかない表情で、豚肉を口に運んでいた。
「ホントに似ているの?ま、タレントの誰それに似ているっていうのは、いつだってだいたいこんな感じという主観だから、ねえ」
と、いいながらも興味はあるようだ。
うまくいけば、カズは鈴木和幸。語呂もいい。
そうしたらカズの母ちゃんもアパレル販売の仕事を辞めてデザインに専念できるし、カズも来年の進路指導で心置きなく、
「東京へ行って一旗あげてきます!」
と言える。
カズは去年、地元で開催されたダンスコンテストで「類まれなる才能」を発掘され、東京の有名なダンスの先生から、是非本格的な指導を受けるように勧められた。
けれど、
「そんな金、ないから」
と、あっさり断ったのだった。
「ダンススクールになんて行かなくても、踊れる広場があれば満足です」
そう言ったカズに、その先生は、
「もったいない」
を繰り返した。
揺れないカズを諦めきれない先生は、結局、高校を卒業する頃にもう一度ダンスを見に来るから、そのとき一定のレベルをクリアしていれば身一つで東京に呼んであげようと約束してくれた。
それほどまでにカズのリズム感はすごい。
カズは、
「あの先生ホモかもしんねえ」
と、腰がひけていたけれど。
世の中にはめちゃめちゃな不幸が降って来ることがある。
どんなことでもおこり得る。
だから、カズがこれから信じられないくらいのハッピーな成功を修める確率だって高いはずだ。
東京制覇して、ニューヨークへ行って、ブロードウェイに名前を連ねて、もしかしたら有名な金髪女優と結婚なんてこともあるかもしれない。
カズが、アホ!と笑う。
「それはありえない。だってオレはガイジン苦手だもん。どうやって口説けばいいかわからねえし。オレが下唇を噛んで、ラ~ヴなんて発音するの、聞きてえか?」
「聞きて~!」
その夜、ぼくたちは笑って食べて、騒いだ。
悲しみのどん底にいる人間でも笑ってみたっていいだろう。
外を歩いていると、ずっと悲しみに浸っていないと気まずいような、喪に服していないと白い目でみられるような、そんな気配がぼくにつきまとう。
家族を突然に亡くしたかわいそうな高校生は毎日毎日泣き暮らしていました。
そしてとうとう自暴自棄になり、人生の道を踏み外しました。
あるいは、それがきっかけで、いままで無気力だった彼に生きるとは何かを考えさせ、立派な大人に成長しました。
めでたし、めでたし。
そんな陳腐な筋書きしか頭に浮かばない世間に感化されそうになる。
でも、カズといるとそんな気持ちがいつのまにか消えていた。
きっとこの部屋を出てひとりになれば、また気付かないうちに、枷を自分ではめてしまうのだろうけれど。
笑ってもいい。
泣いてもいい。
自分の思うとおりに表現すればいい。
その夜の夢の中で、そんな言葉が繰り返し聞こえた。誰の声だったか、覚えていない。
親父?お袋?それともカズか?
もしかしたら、自分自身の深層心理の声だったのかもしれない。