決意
次の日、私は会社を休んだ。泣き過ぎて目が腫れてとても外に出れる状態ではなかったけど、そのままホテルに居るわけにもいかず、目は隠せないけどせめてもの顔隠しで、近くの薬局でマスクを買って家まで帰った。高原さんはホテルの代金まで払ってくれていて、私はただただ申し訳なくて、恥ずかしかった。
あのひとは、会社に遅刻していったみたいだった。昨日、あの後私達は何も言わずにただ涙して、彼はまだ薄暗い明け方、自分の家に帰って行った。
私は家で布団にくるまって、ぼぅっと考えていた。私のことを幸せにしたい、と言ってくれた彼。失うのが怖いと言って、でも誰にも渡したくないと言ってくれた。私はとても嬉しかったのに、何も言えなかった。彼に掛ける言葉さえ思いつかなかった。
涙腺がおかしくなってしまったのか、油断するとすぐ涙が出てきそうになる。このままでは明日も会社に行けなくなってしまう。冷たい水で顔を洗って、ごはんを済ませよう。好きなアーティストの曲を掛けて、アロマを焚こう。パソコンでネットショッピングするのもいいな。そうだ、高原さんにお礼のメールをしなくちゃ…
頭ではいろいろ考えるのに、体が重くて動かない。私は布団にもぐったまま、まずは高原さんへメールを送ることにした。
≪昨日はいろいろとご迷惑をおかけしました。まだ少し体調がすぐれないので今日は休んじゃいましたが、ホテル代は今度会ったときかならず返します!いろいろと、ありがとう。≫
いざ打ってから、なんだか可愛げのないメールだなぁ…と思って送信するのを少し迷う。目を閉じて、昨日高原さんとあったことを思い返してみる。
私をおんぶしながら、懐かしい話をした。あの時の女子高生を多分好きになっていた、と言った高原さん。私のことをもっと知りたいと言ってくれた。
ホテルを出る時、私の頭を優しく触って、えりちゃん、と呼んだ、懐かしいお兄ちゃん。
その時のことを思い浮かべると、なんだか少し優しい気持ちになれた。あの後すぐ、こんなに涙を流すなんて思ってなかった。彼、山内くんはいま、どんな気持ちで会社に行っているのだろう。
私は躊躇っていた親指を思い切って強く押し、メールを送信した。それと同時に、がばっと布団を蹴りとばして、立ち上がり、洗面所に向かった。
「なんだ恵利華、元気じゃない」
あの後ご飯を食べて二度寝した私は、インターフォンの音で起こされた。
「美那…どうしたの、てか、もうそんな時間…?」
寝ぼけた顔で言う私に、美那は少しいらいらした様子で言った。
「どうしたのじゃないわよ。メール返ってこないから電話しても出ないし、昨日あれからきちんと帰れたのかもわからなかったし、心配したわよ」
携帯を確認すると、確かに美那からメールも着信も入っていた。その時間、私は二度寝中だったから全く気付かないはずだ。
「ごめんごめん、ずっと寝てて。昨日はきつくて帰れなかったから、一人でホテルに泊まったよ。高原さんにいろいろ迷惑かけちゃった」
美那の買ってきてくれた飲み物などが入った袋を受け取りながら私が言うと、ソファに座った美那がクスクス笑いだした。
「なに?」
「ううん、そんなに一人で、って強調しなくてもいいのにと思って」
「だって…美那がよからぬ期待をしてそうだから」
「ふふっバレたか。だって彼、高校の時から恵利華の事知ってたなんて。運命じゃない」
楽しそうに言う美那。私はそれをスルーすることに決めた。
「わっ、ロールケーキ。美味しそう!ありがとう美那。食べよー!」
ご機嫌でロールケーキを切る私に、美那は苦笑して、やれやれと言った感じだった。
私が二人分のロールケーキとコーヒーをテーブルに運んで、美那の向かいに座った時、美那が口を開いた。
「…恵利華、なにかあったんでしょ?」
「え?だから高原さんとは……」
「そうじゃなくて。…なにか無理してるでしょう。大丈夫?」
どうして美那には、こうもなんでもお見通しなんだろう。でも今回のことは…美那にも話せない。美那のことだ、いろいろアドバイスをして、応援してくれるだろう。でも今は、応援されたくなかった。それに、美那を巻き込みたくなかった。
「…ふふ、なんでもないって。ちょっと昨日ので疲れただけ。ありがと。ロールケーキ、いっただきまーす」
私はロールケーキを頬張って、笑顔を作った。美那は、少しだけ、悲しそうに微笑んだ。
その後家にあるもので美那と夕飯をすませ、ゆったりしていた。
「美那は近田とどうなの?」
「私?普通よ。」
「美那、近田と付き合ってからすっかり女王様ね」
私がからかうように言うと、美那は少し照れくさそうに言った。
「なんかね、今までの男はどう貢がせようとか、どれだけ便利に使えるかとかばっかり頭に会ったんだけど、近田とは、そういうの抜きで、自然体でいられるっていうか…一緒に居るだけで満足できるの」
「…幸せそうだね。私もうれしいよ」
近田と付き合いだしてから、美那は、今までのような雰囲気ではなくなった気がする。もちろん相変わらず綺麗だけど、前のような艶やかさとか、男を挑発するような色っぽさは控えめになって、どことなく落ち着いた雰囲気になった。
「恵利華。ありがとうね。なんだかんだ言ってたけど、いま幸せだと思うわ。いつまで続くかわからないけど」
「ふふ。だからといって、あんまり近田をいじめないようにね」
美那はいたずらっぽく舌を出して、二人で笑った。
「恵利華は、あの高校の時の彼と、高原さんと、どっちと幸せになるのかしらね」
ふいに美那が言いだして、私は慌ててしまう。
「…!?なんで、高原さん…」
「近田からあらかたのことは聞いたわよ。素敵じゃない、ずっと好きだったなんて」
「ちょっと、ずっとじゃないわよ…」
ふふっと笑って、携帯をチェックしだす美那。
「ごめん、そろそろ帰るわね。近田が恵利華のこと心配してたから、大丈夫よって言っとくわ」
「うん。本当ありがとう。また明日ね。」
美那を玄関まで送りだして、玄関を閉める。とたん、部屋の中が静かになって、寂しい気持ちになった。
ピカピカ光っている携帯に気付いて、開いてみると、メールが二件。彼、と、高原さんからだった。
まず高原さんからのメールを確認する。
≪残業でいま終わりました。体調はもう大丈夫?≫
私はすぐに返信を打った。美那がわざわざ来てくれて、もう元気になったこと、を。
彼、からのメールは、シンプルなものだった。
昨日はごめん、明日の夜会えないか、といった内容だった。私は迷って、返信はせずにあとで電話を掛けることにした。
すると高原さんから返信が来た。
≪嶋崎さんに先越されちゃったか。でも体調よくなったならよかった。無理はしないようにね≫
高原さんまで、わざわざ来ようとしてくれていたのかな、と、なんだか本当に申し訳なくなった。
≪ありがとう。もう元気です。じゃあ、また会社で≫
そう送信して、彼に電話を掛けることにした。
四度目の呼び出し音で、彼は電話に出た。
『はい』
「…もしもし。会社、遅刻して行って大丈夫だった?」
『あぁ…うん。エリは?』
「私は…大丈夫だよ。会社にもきちんと行った」
会社を休んだなんて言ったら、きっとすごくショックを受けていると思われそうだったから、嘘をついた。
『…そっか。ごめんな。いろいろと。その…これからの、ことだけど。もう…』
「ねえ、今から私の家に来れない?」
彼の声を遮って私は言った。電話なんかで済ましたくない。…済ませない。顔の見えない電話なら、どんな辛い言葉も、きつい言葉だって言えてしまうかもしれないけれど、だからこそ軽い。
彼は少しの間無言になって、わかった、と言って電話を切った。