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夜、部屋でくつろいでいるときに近田からメールが来た。
高原さんが、私の連絡先を知りたがっているらしい。めんどくさい、と思ったけれど、会社の人だし、まぁいいよ、と承諾した。
数分後、高原さんからメールが届いた。
≪高原諒佑です。登録お願いします≫
それだけのシンプルなメッセージ。私は登録しました、とだけ返事をしておいた。
ごろん、と床に横になって、携帯を閉じる。はぁ、と息を吐いて、時計を見る。
私はどうして彼に連絡できないんだろう。返ってこないのが怖いから?照れくさいから?私は待つだけしか出来ないのだろうか。
携帯がヴヴヴ、と鳴ってメールが届いたことを知らせる。開くと、高原さんからメール。
≪いきなり連絡先聞いてすみません。今度、近田と三人で飲み行きましょうよ。よければ、嶋崎さんも一緒に≫
それを読んで、さてはこの人、美那のことを狙ってるんだな、と分かった。近田はまだ誰にも言ってないのか、それとも高原さんとはそれを言うほどの仲ではないのか、とにかく多分知らないんだろう。
≪そうですね、ぜひ。美那も連れて行きます≫
そう送ったところで、近田から電話が来た。少しめんどくさいな、と思いつつ、電話に出る。
「もしもし何?」
『上村ー!ってなにそれ冷たくない?』
「別に」
無駄にテンションの高い近田に少しイライラする。
『あぁ高原がさ、飲みセッティングしてくれってうるさいんだよ。』
やっぱり用件はそれか。
「いや、でもさぁ、あの人美那のこと狙ってそうじゃない?」
『はぁ?それはねーよ』
焦った様子もなく、近田は言ってのける。なんでそんなにのん気なんだろう?
「なんで言いきれるの?」
近田は少し黙った後、言った。
『あんまり言いたくなかったんだけどさ、あいつ、お前のこ…』
そこまで言ってもごもごしだす近田。
「なによ?」
『…なんかなぁ、俺から話すのもなぁ』
近田は勿体ぶって教えてくれない。気になってもやもやする。
『…俺からは言わないでおくよ。な、飲みに行くだけ行ってみようよ』
「うーん…良いけど」
そう言った時、プププ、と音がして、誰からか着信が来たことを知らせた。…美那だろう、きっと。
「まぁ、詳しくは明日でもいいでしょ。ごめん、切るよ」
半ば強引に通話を切って、画面を見る。美那――ではなく、ヒロくんだった。
私は少し深呼吸して、電話に出た。
「もしもし」
『あぁ、エリ。今何してた?』
「特に、なにもしてなかった。ヒロくんは?」
私たちは昨日から、酔ってなくてもこの呼び名で呼び合っている。それがくすぐったくて嬉しかった。
『仕事長引いて、今帰るとこだけど。…今から行ってもいい?』
「…うん。どれくらいでつく?」
そんな会話を交わして、電話を切った。彼が来る。
前に比べたら、ドキドキはしない。そのかわり、安心する。彼が――帰ってくる、という感じがして。
彼は、「ただいま」と言って、この部屋に入ってきてくれないだろうか。
チャイムが鳴る音で目が覚めた。いつのまにか眠ってしまっていたみたいだ。
時刻は十時半。私は急いで玄関に向かう。
扉を開ける。開けたドアの陰に、彼が隠れるようにしてこちらを見ていた。
「丸見えだよ」
そう言うと彼はつまらなそうな顔をしたあと、よっ、と笑顔で入ってきた。
「おつかれさま。上がって」
「お邪魔~」
さすがにただいま、とは言ってくれないか。彼をリビングに通して、冷たい麦茶を出してあげた。
「つかれた…」
麦茶を一気に飲み干して、あぁーとか言いながらソファに倒れこむ。
「お腹すいてるでしょ。簡単なものでいいなら出せるけど」
「いや、大丈夫。あんま食欲なくて」
「暑いからかな。大丈夫?」
私は冷蔵庫から麦茶をボトルごと持ってきて、コップに注ぐ。
「んー、平気。ちょっとやす、ませて…」
そんなにキツかったなら、無理に来ることなかったのに…そう言いかけて、口をつぐんだ。
彼の会社からは、彼の自宅の方が当然近いのに、わざわざ来てくれた。素直に、嬉しかった。
ソファに仰向けになっている彼のそばに行って、顔を覗き込む。眠ってはいないのだろうけど、目をつぶっている。
「…・・」
私は素早く彼の唇を奪った。そして素早く離れる。キッチンへ向かう。
「そうめんくらいだったら、食べれるでしょ。私もまだ食べてないから食べよう」
キッチンに辿りついたところで彼の方を見ると、何事かと身体を起してこっちをびっくり顔で見ていた。
「…た、食べる」
困惑した彼の様子を見て、なぜだか私は満足して、にんまり笑って、背伸びして、そうめんを棚から出した。
「エリも自分からキスとかするんだ」
そうめんを食べながらふと、彼がさっきの出来事を掘り返してくる。
「…なんのこと」
自分だってあんなに顔を真っ赤にしてたくせに。
「なんか、エリって相手次第って言うか、求められたらするけど、自分からはしないって感じする」
「なにそれ、受け身に見えるんだ、わたし」
聞いててなんだか恥ずかしくなってくる。
食欲がないと言っていた割に、彼はそうめんをばくばく食べて、もう二束目だ。
「そんなに食べて大丈夫?」
「うん、そうめん見たら食欲わいた」
なにそれ、といって笑う。私は自分のそうめんも彼の方に寄せた。
「お腹いっぱい。食べて」
「…・おう」
彼がそう返事してくれたので、ニッコリ笑って、私はお風呂の準備をすることにした。
お風呂の準備を済ませて、私がリビングに戻ると、彼はなんだか浮かない顔をしていた。
「あれ、どうしたの?食べ過ぎちゃった?」
「ううん…」
そう言いながら彼は隣に来た私の身体を引き寄せて、強く抱きしめた。
「…どうしたの」
「…・」
彼は無言で私の唇を塞いだ。
そのキスはなんだかせつなくて、くるしくて、悲しかった。
キスをしながら、あぁ、彼にはまだまだ私の知らない部分がたくさんあるんだな、なんてのんきに考えていた。
それが悔しくて、私も彼の身体に身体をまわして、深く、深く、口付け合った。
ベッドで身体を重ねながら、彼は何度も私の名を呼んだ。事が済んでベッドで横になり、彼がうとうとし始めた時、私は聞いた。彼が名を呼んだ。
「瑠菜…・」
私は身体に電流が走ったみたいに、恐ろしくて動けなくなった。
彼は自分の声に気付いたのか、跳ね起きて、
「っ…・!あ、いかん、寝たら絶対明日仕事いけなくなるわ!エリ、シャワー借りていい?」
「…うん」
私はそれしか言えなくて、慌てた様子の彼が悲しくて、彼がバスルームに向かった後、頭から布団をかぶって、むりやり眠りについた。
――瑠菜、川崎瑠菜。
それは私と彼の高校の同級生で、彼が仲が良かった女の子の一人。知らない人が見たら付き合ってるのかと思うくらい、暇さえあれば一緒で、仲良しだった。
どうしてその名前が、今。 聞きたくなかった。どうして、今なの、どうして。
私は眠りにつこうと必死で目を閉じたけど、瞼の裏にあのころの二人が、川崎瑠菜とヒロくんが浮かんできて、それを邪魔する。
ちがう、ちがう。こんなの、今の彼じゃない。関係ない。嫌だ。嫌だ…・