ビーストマスター
わたし達は奥へと歩みを続けるイリヤを見守っていた。彼はゆっくりとだが一歩一歩魔物へと近寄っていく。彼が魔物へと近付く度にわたしは手に力が入ってしまう。
大きな犬の姿の魔物は、またも侵入してきた人間に対して息を荒げ始めた。再び発光する吐息によりチカチカとシルエットが浮かび上がる。すると、奇妙な囀りのような音がイリヤから聞こえ始めた。美しいような面白いリズムの音。楽器のような物を使っているのかと思いきや、イリヤは手ぶらのままだ。暗がりに見える魔物が威嚇は止めていないものの、イリヤに注目しているのがわかる。
「……すごいな、ビーストマスターだ」
アルフレートが彼にしては興奮気味に声を漏らした。
「ビースト……マスター?」
聞いたことはあるが書物等でしか馴染みない言葉にわたしは掠れた声になった。アルフレートが隣で頷いているのがわかる。
「私も本物に会うのは初めてだ」
本で得た知識でなら、言葉の通じない動物達とも意思を疎通し、命令一つで行動させたりするビーストマスター。完全なる生まれつきの才能で、その原理も全くの謎。一説には人間ともまた違う種族なのではないか、という仮説もあるのだ。アルフレートが初めて見るぐらいの力だ。普通なら出会うこともないような珍しい力の持ち主ということだろう。
「でも、あんな魔獣みたいのに通用するんすか?」
ヤッキさんが心配そうにアルフレートの顔を見た。それに答えたのはセリスだった。
「イリヤが言うには、アレは元々は動物なんじゃないか、って。乱れてるけど唸り声から何と無く意味が分かるらしいわよ?」
わたしは発光する不気味な息を吐き出す獣を見た。大きさといい見た目といい、普通の動物には見えない。元々って……、魔法か何かで姿を変えられたりしたんだろうか。
「攻撃はしてこないな」
ヘクターがロングソードを構えつつも上体を起こす。
気付くとイリヤはかなり魔物に近づいていた。わたし達も声を出す者がいなくなり、イリヤの不思議な囀りだけが廃坑内に響き渡る。聞いている内に気持ちのざわつきが消えて行くような音色に、魔物の方も反応したのか発光する吐息が、どんどんと間隔が長くなっているのがわかった。
どのくらい経ったのだろうか。わたしは意味なく手に力が入っていたようで、手のひらに感じた痛みから慌てて手を開く。すると暗がりからイリヤが歩いて向かってくるのが見えた。誰ともつかない大きな溜息。緊張していたのは皆同じだったようだ。イリヤはわたし達に向かって手を振っている。『来い』と言っているようだ。思わずわたしは隣りにいるアルフレートの顔を見た。アルフレートは肩を竦めた後、すたすたと歩き出す。残りのメンバーも少し躊躇した後彼に続いていった。わたしもヘクターに促され彼の上着を掴むとイリヤの方へ恐る恐る足を進める。
「連れて行って欲しい人間がいるそうだ」
イリヤの言葉にわたしはぽかん、となった。
「あいつの寝床にいるそうだから、行ってみよう」
行ってみよう、って……全然意味がわかんないんですけど。
「どういう事?」
セリスが少し苛ついたように聞くとイリヤは頭を掻いた。
「ああ……えっと、あいつはこの先に入り込む奴を追い払う役目なんだけど、危害を加えたいわけじゃないらしいんだ。それなのに少し前に来た人間がここで倒れたから連れていって欲しいらしい。あいつがやったわけじゃなくて……あの音にやられたんじゃないかな?」
「ちゃんと言ってよね、もう」
セリスが口を尖らせるとイリヤは再び頭を掻く。
「こいつ、皆にも話しが通じてると思っちまうんだよなあ」
デイビスがからかった。彼にしてみれば普通に話しているのと同じ感覚なのだからそういうものなのかも。にしてもあの魔物が侵入を阻んでいるものはどういう場所で、どんな物なのだろう。わたしは暗がりにいる魔物の方を見て息を飲んだ。ヘクターの上着の袖を引っ張る。
「……あ」
ヘクターがわたしの指差す先を見て声を漏らした。先程まで首が痛む程見上げないとならなかった魔物は、一匹の普通の大型犬に姿を変えていたのだ。少し毛足の長いオオカミのような立派な姿だが、先ほどまでの化け物のような雰囲気はない。
「あっちだってさ」
イリヤが指差す方向へアルフレートの操る光の精霊が飛んでいく。かなり広いホール状のこの場所には、随分とこじんまりとしたように見える通路があった。覗いてみると結構きつい坂になっている。イリヤ、アルフレートが躊躇無しに入って行くの見るが、わたしは湿っぽい土質から少し迷う。するとヘクターが手を出してきた。どうぞ、というような仕草にわたしは彼の手を取る。
「僕も転びそうで怖いっす……」
とヤッキさんが呟くと、イルヴァが軽々とヤッキさんを持ち上げた。前から思ってたけど、イルヴァってヘクターに対して変な対抗意識がある気がする……。あわあわとするヤッキさんを見ていると後ろから声がした。
「ちょっと!」
セリスが怒ったようにデイビスに手を出している。デイビスは肩を竦めると「自分から言うんじゃ可愛いげねえなあ」と言いながらセリスの手を取った。
皆して足元を気にしながら坂の小道を下りる。
「どさくさに紛れて変な所触るなですう」
イルヴァの妙に芝居がかった声にヤッキさんが更に慌てる。
「ちょっ、誤解ですよ!」
「……うるさいぞ、お前ら」
アルフレートは振り向くと不機嫌そうに睨みつけた。坂はさほど長いものではなかった。また少し開けた場所に出ると、藁のような匂いがする。先程の犬の寝床ということか?ということは普段はあの大きさなのだろうか。大きいサイズではここに入る前に、通路に詰まってしまう。
何かの植物の乾燥したものが茣蓙のように敷かれていた。その隅、倒れ伏している二つの人影にわたしは息を飲む。
「ローザちゃん!フロロ!」
わたしが駆け寄ろうとした時、フロロの方はのっそりと起き上がった。
「おー……、皆さんお揃いで」
随分と覇気が無い。暗がりで良く見えないとしても顔色が悪い。
「無事……じゃないわね」
わたしが言うとフロロは再びゴロリと寝転ぶ。
「参った……、本当に。……何なんだよ、あの騒音」
やっぱり耳をやられてしまったらしい。可愛いふわふわの耳は垂れ下がり、心なしか毛並みも悪いように見えた。セリス達が少し下がって見守る中、わたしはローザを抱き起こす。
「ローザちゃん!」
揺するわたしをアルフレートが静かに止めると、先程も見せた魔力譲渡の呪文を唱えた。光の粒がローザの胸元に吸い込まれていくとうっすらと目を開ける。
「う……」
なんだか妙に乙女チックな仕草で起き上がった。わたし達を見回すとほっとしたように肩を下ろす。
「あたし……意識失ってたのね」
わたしが声を掛けようとした時、フロロが情けない声を上げる。
「起きたんなら俺の耳治してくれよ」
「いきなり、それ?」
ローザが頬をひくつかせた。
「あいつが匿ってたのも、モロロ族がいたからかも知れないな」
イリヤがローザに耳を治療されるフロロを見ながら言った。あいつとは先程の犬の事だろう。
「危害を加える気は無い、っていっても匿うなんておかしな話だな、と思ったんだ」
モロロ族のような見た目に親近感がある為に助けてくれたのだろうか。わたしは通路を見る。入っては来ないみたいだ。
「なんでこんな事になったんだ?」
アルフレートが言うとセリスが割って入る。
「それよりイリヤの話が先よ。あいつ、何物なの?」
わたしはふう、と息をつくと皆の顔を見回した。
「とりあえずここで話し合いましょう。ここは安全みたいなんだし」
「ここまで来るのは割と単純だったのよ。一本道に近かったし」
ローザが簡易食のケーキをバクバクと食べながら言った。隣りで同じくケーキを頬張るフロロが続く。
「……歩いてたら急に変な音が聞こえ始めて、俺は音のでかさと気味悪さにグロッキーになるし、ローザは途中で会った倒れた冒険者に魔力分けてやったら体調悪くするし。そんでここに来たら倒れちゃってさあ、俺にこのでかい人間運ぶのなんて無理だし。困ってたら……あいつがここまで運んでくれた」
「でかいって何よ!失礼ね」
「俺からしたら皆でけーよ!」
顔を合わせて争い始めた二人をわたしがぐいっ、と引き離す。アルフレートが顎に手を当て口を開いた。
「音の発生源から近いから、もろにやられたな」
「近いって……じゃあこの近くにあるの?」
セリスが聞くとアルフレートは頷く。
「たぶんな。あの犬が守っている、とやらも音の発生源へ行く道なんじゃないか?」
そう言ってイリヤを見た。イリヤは大勢に一斉に見られたからか、気まずそうに上目遣いをした後、話しだす。
「あいつはここの門番みたいなもんなんだってさ。門なんかないじゃないか、って聞いたら『ここからが本当の始まり。ここと、あちら側を繋ぐものを門と言っているだけだ』って。なんか難しい話はよくわかんないからさ、俺らは髭もじゃのおじさん探してるだけなんだけど、って言ったら『早々に連れて帰ることを条件に侵入を許そう』だって。フッキさんはこの奥で迷ってるらしい」
「え……!」
ヤッキさんが思わず立ち上がる。セリスがイリヤの頬をつねった。
「なあんでそんな重要な事、すぐに言わないの!」
「いきなり全部話したら混乱すると思ったんだよっ。いてて」
「落ち着け、セリス」
デイビスがイリヤの顔を引っぱり続けるセリスを引きはがす。
「じゃあ、少し休んだら奥に行かなくちゃな」
ヘクターの言葉にデイビスが迷ったように口を開いた。
「そうなんだが、うちは3人とまだ合流出来てないしな……」
あ、とわたしはヘクターの顔を見た。
「……アントンは一人のはずだ。あとの二人は会ってないけど」
「え、そうなの?」
セリスは驚くがわたし達の様子に深くは聞き難い、と思ったのか口を閉ざす。本来ならなぜ一緒にいないのか、など気になるはずだ。
「進むメンバーはローザ、セリス以外。あと戦士が一人残った方がいいか?」
アルフレートの淡々とした口調に、名前を出された二人が噛み付いた。
「ちょっと!」
「なんでよ!」
「燃料切れの魔術師なんていらないといってるんだ。あんた、ファイアーボール一発で倒れるぐらいの力しか残ってないだろ」
アルフレートの言葉が図星だったのか、セリスは唇を噛む。
「にしても、言い方ってもんがあるでしょ!」
わたしが言うとセリスが溜息を付いた。
「あんたのその元気さが羨ましいっていうより怖いわ……」
「同感」
ローザも頷いている。そんなに消耗激しいのか。
「でも、ここにいても同じじゃないか?」
ヘクターが聞くとフロロが首を振った。
「ここは音が遮断されてるみたいよ。俺ぐらい耳が良いと、今も表じゃ鳴ってるのが聞こえてるんだけどね。……俺だって残りてーよ」
「お前は駄目だ」
アルフレートがきっぱり言うとフロロは首を竦める。わたしは試しに耳を澄ましてみるが、あの不気味な音は聞こえない。イメージに残る音が聞こえるような錯覚も起こすが、やっぱり聞こえなかった。