マーガレット
町の明かりが見えた時、言いようの無い安堵感が訪れた。ほっと息を吐くわたしのローブをフロロが引っ張る。
「そういやさあ、リジアの魔法すごかったね。悪魔を縛る魔法って何なの?」
「あれは、……彼自身が動きを止めたのよ」
エディスは始めからアルフレートの呪文やイルヴァやヘクターの攻撃を避けていた。神属に近い存在であるならわたし達の攻撃なんて通用するか怪しいはずだ。それなのに、あくまでも避けていた。フロロは首を傾げた。
エディスの動きを見ていて、違和感を覚えたわたしの脳裏によぎったのがウォンと二回目に対峙した時のことだ。ウォンはわたしの放ったエネルギー・ボルトを腕ではじき、消滅させた。少し気を逸らせる程度になればいいと思って撃ったものだったが、わたしは結構ショックだった。たぶんレッサーデーモンとの融合体だったのだろうが、それで擦り傷にもならないものが遥かに上位種である悪魔に効くわけがない。
「オットーの町で戦ったレッサーデーモンが、倒れた後どうなったか覚えてる?」
レッサーデーモンに始まる魔界の住民は、絶命した瞬間塵と消える。こちらの世界に現れた時に纏ったかりそめの肉体が消えるからだ。わたしもオットーの町で初めて目にしたのだが『その後、どこへ消えたのだろう』という疑問が残った。
「肉体が滅んだ瞬間、元の世界に帰るのよ」
自ら答えるわたし。
「自信ある言い方だな」
アルフレートがややからかうように言ったが、わたしは確信していた。あの自分の名を名乗った悪魔ヴォールドールが言っていたから。『ようやく帰れる』と。
封印から解かれてさっさと帰りたい彼は、あえて肉体を滅ぼすことを選んだ。それに加えて、エディスにも肉体的な戦闘のスキルなど無かったのが幸いして勝てたのだろう。
「エディスは何をしたかったのかしら」
ローザがゆっくり呟くと、後ろからマルコムが答える。
「屋敷に戻ったら、じっくり話そう。君達には全て話しておかなくてはならない」
薄暗い光の談話室、わたし達はソファに身を伸ばしていた。マルコムがお酒の瓶を棚から取り出し、
「……お茶の方がいいか」
わたし達を見渡し、はっとしたように呟いた。
「あたしが煎れてくるわ」
アンナが立ち上がる。メイドのアリョーシャさんはエディスさんの遺体を清めているからだ。彼女は大泣きしながらも、何も聞かなかった。マルコム夫妻と家にずっと一緒にいたのだ。何か感じるものがあったのかもしれない。
「……エディスはずっと、自分の居場所を欲しがっていた」
アンナが部屋を出るのと同時に、マルコムが口を開いた。
「夫婦になってからも一度も、私のことを名前で読んだことがなかった。当たり前だろうな。私の気持ちが中途半端なことに気がついていたからだ」
ふう、と息をつく。
「アンナに初めて会ったのは婚約の話しでレイノルズ家と顔合わせした時だった。婚約の話し自体気乗りのするものじゃなかった私は時間丁度に屋敷に戻ればいいと思って町をうろついていたんだ。結婚を断る気はない。この歳まで好き勝手にさせてもらった恩が父親にあったからだ。今考えると、さっさと屋敷に戻ればよかったんだ。……そうすれば」
「……町中でアンナと会ったんですね?」
わたしが聞くとマルコムは深く頷く。
「父が援助している孤児院の前だった。マザーターニアが植えたマーガレットが咲く庭を眺めている彼女に会ったんだ。正直いってアンナと目が合った瞬間から私の時間は止まっているようなものだ。この人がいれば他に何も要らない、と本気で考えた」
くさい台詞だが、あまり突っ込む気になれない。会った瞬間からお互いを愛してしまった二人が、鮮明に思い浮かべられたからだろうか。
「名前を尋ねたらレイノルズの名前を出すじゃないか。私は今までにない幸せを感じたよ。このお嬢さんが私の婚約者じゃないかとね。二人で時間になるまで色々話した。丁寧な話し方に育ちの良さが現れているのに、奔放なところも見せてくれて、さらによく笑う子だった。短い間だったけど、確かにアンナは私を想っていると感じたんだ。そして屋敷に戻った。そこで初めてアンナは父が決めた婚約者の妹だと知ったんだ」
「顔は同じなんだから良いじゃないか」
アルフレートの台詞にローザが思いきり頭を叩く。アルフレートがうずくまった。
「その日から結婚までは、エディスは幸せそうだったよ。彼女は会った日から私を気に入ってくれていた。私はただ動揺するだけだった。卑怯だが迷っていたんだ。このままいざこざを起こさず結婚をするべきか、それとも本心を告げるべきか。何度かレイノルズ家の人との話し合いの場があったが、アンナは何も言わなかった。私の元へ来ることも、目で何かを訴えることもなかった。それが彼女の答えだと受け取ったよ。……それで諦めたんだ」
回想しているのか、目を瞑るマルコム。わたしは同じ言葉を言う二人を笑う気にはならなかった。
「それからは逆にアンナに会うのが怖くなってしまった。結婚はしてしまった後だ。会って再び気持ちが蘇ってしまったらどうするんだ?そんなことは許されない。そんな気持ちは不幸しか生み出さない。そんな時だった。アンナから手紙が来たんだ」
胸元にあるポケットを探る。中から一枚のくたびれた紙が出てきた。何度も読んだのだと分かる。
「手紙自体はエディスに宛てたもので、姉のいなくなった日々の暮らしの寂しさを綴ったものだった。嬉しそうに読み上げるエディスが最後の一枚を渡してきたんだ。『あなたにも書いてあるわよ』そう言われて、これを渡してきたんだ。その時の顔は、……たぶん自分でも分かりやすい顔をしていたんじゃないか、って思うよ」
手紙を開く。
「親愛なるマルコム。きっと姉は幸せに暮らしているものと思います。そしてそれを願っています。教会のマーガレットは今年も咲くのでしょうか。……短い文章だろう?たったこれだけだ。だが、涙が止まらなかったんだ」
静まり返る室内、マルコムの声だけが響く。
「エディスは何も言わなかった。気づいたからだろうな。それから、彼女は驚く程変わった。見た目はあの穏やかな笑みを浮かべたままだった。でも、いつも、どんな時でも、あの顔しかしなくなった」
わたしの脳裏にも、あのエディスさんの微笑んだ顔が思い出される。
「それってきっついな」
フロロが眉間に皺を寄せた。
「一番変わったのが、バクスター家の事情だがね。君らもよく知っていると思うが父が逮捕される。罪には問われなかったが自ら命を断ったことで、悪い噂が後を絶たなかった。私も嵐のような日々を送るはめになったが、エディスの方がやけにがんばっていた。今思えば、必死だったんだと思う。私達夫婦の関係がおかしくなった代わりに、バクスター家というものに固執しているようだった。……次第に情勢が回復して、『あとはあなたの代になれば首都に帰れますよ』とエディスは言ったんだ。私はこれを拒んだ」
マルコムは頭を振った。
「これが一番の後悔だ。これが彼女の分岐点だったんだろうな。……そうとも知らずに私は、首都でのバクスター家の言われようにすっかり表舞台に立つ事が嫌になっていたんだ。このままフェンズリーに残り、町の様子を見届けるだけの人生でいい、と願った。……エディスは一瞬抜け殻のようになった後は、病的に魔術の類いにのめり込んでいく。そのきっかけすらも私にあると、後から知った……。学生時代、私は魔法の才能は無いけれどソーサラーの独特の世界観が好きだったんだ。暗く陰気な世界のようで驚くほど繊細な彼らにも、魔法の歴史にも興味をそそられて拙いレポートを書いたことがあるんだ。それを面白がってくれる人がいてね。本になったことがある。私への当てつけだったのか、それとも私との話の種にしたかったからなのか、それは分からない」
わたしはきっと後者だと思う。でもそれはそう信じたいだけのわたしの願望かもしれないし、それを伝えてもマルコムは喜ばないだろう。
「最初は本を集めるぐらいだったのが……いつからあの地下室で行っていたようなものに移ったのかは分からない。ただそんなタイミングを見計らったかのようにウォンが現れたんだ。父が死んでから、一度も顔を見せなかったというのに!」
「姉様からの定期的な手紙が来なくなったのがその頃からよ」
紅茶の匂いをさせながら、大きなトレーを持ちアンナが戻ってきた。アンナの言葉を聞いて、わたしは爪を噛んだ。エディスはマルコムの気持ちに気づいた後も、アンナに手紙を送ることを止めていなかった。妹を心配する気持ち、家族としての愛は消えていなかったのだ。それがウォンの登場によって消えたということだ。アンナから紅茶を受け取りながらわたしは呟く。
「エディスさんはアンナを連れてどうしたかったんだろう」
室内に答えられる者はいない。ウォンの埋まった研究所を掘り返してどうするつもりだったのか。ただ分かるのは最後までアンナを身近に置き、最後のメッセージを送った相手も彼女だということだ。
再び涙が滲むアンナに尋ねる。
「これからどうするの?」
「……姉様のお葬式をここから出すから、ここに残るわ。明日から忙しくなる」
そっか……。そういう準備もあったっけ……。
「あなた達まで引き止める気はないわ。お父様が来たらうるさいと思うの……。本当は姉様を見送って欲しいけど」
アンナが苦笑する。
「大丈夫?」
ローザが聞くと、「大丈夫よ」と腫れた目で答えた。その瞳には決意が見られる。わたしの予想だけど、アンナはエディスを見送った後もここに残るのかも知れない。マルコムと一緒になりたいのか、はわからない。ただ姉のいたこの町に残りたいのではないか……。なんとなくだが、そんな気がした。
「それじゃ……」
翌朝のフェンズリーの町外れ、マルコムが用意してくれた大型馬車の前でわたし達は挨拶した。マルコムが皆一人一人と握手する。
「気をつけて」
「これから、大変でしょうががんばってください」
わたしは精一杯の応援を送るしかなかった。マルコムは町の人と首都の方に、起こったありのままを説明するつもりだと言う。悪魔の出現があった以上、国に説明しなくてはならないらしい。元領主の子孫の話しを理解する人間は少ないと思うが、それでも良いと語った。そうした後、マルコムの立場がどうなるのか……。わたしには分からない。ただこの青年の幸せを願うだけなのだ。
ヘクターとアンナが握手する。
「……あなた、あたしが本気じゃないって見抜いてたのね」
ヘクターは苦笑するだけだ。
「マルコムより先に出会いたかったわ」
そう言ったアンナの言葉は、本音で言っているように聞こえた。アンナがわたしに手を差し出す。わたしはその手を強く握った。
「元気で」
「あなたと話した時間が一番楽しかったわ」
アンナからの思わぬ言葉に目頭が熱くなるわたし。
「考えてることが分かりやすくて」
続いた言葉に涙が引っ込む。
「彼、意外と頑固そうだからがんばってね」
耳元で囁かれ、わたしは顔を赤くした。何かを言い返そうとするが、やっぱり涙が出てきて上手く話せない。そんなわたしをアンナが強く抱きしめた。